「男性性と哲学対話」に参加して

昨日、「男性性と哲学対話」という集まりに参加させてもらいました。その後、別会場で性教育について考える哲学対話に参加された二村さんと合流し、西井さん、山本さんとの四人でお疲れ様会ズームも行いました。面白かったです。何より、とても楽しかったです。

 

いくつか、振り返り思ったことをメモ的に。

 

 

「揺らぎでつながる、新たなピア性」について。

僕がいま参加している「ごめんねギャバン@札幌」や「メンズ・ピアカウンセリング」はまさしく、男らしさに違和を感じつつ、それを辛いと口にすることにも躊躇がある、そんな「揺らぎでつながる、新たなピア性」を基点にしている集まりだよなあ、と思いました。

参照URL:ごめんねギャバン@札幌とは? - ごめんねギャバン@札幌 https://gomennegavan.hatenadiary.com/entry/2019/10/25/222033

 

「ぼくらの非モテ研究会」も、まさしく「揺らぎでつながる、新たなピア性」が生起している場のようです。

参照URL:読書感想【ぼくらの非モテ研究会から学ぼう!】:「痛みとダークサイドの狭間で 『非モテ』から始まる男性運動」より - ごめんねギャバン@札幌 https://gomennegavan.hatenadiary.com/entry/2020/07/22/195722

 

杉田俊介さんの書かれた本、『非モテの品格』(2016年)は、本全体で、男性性の揺らぎを表現していました(そして本書の終盤では、「新たな男性性」を紡いでいくプロセスに挑戦していきます。そこでは、哲学対話のような語り合い・聴き合いの場ではなく、ケアと内省の経験がキーになる。このへんについてはまた、後述します)。

参照URL:非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か – 集英社新書 https://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0855-b/ @Shueishashinshoより

 

また、杉田俊介さんの書かれた「ラディカル・メンズリブのために」(2019年)という文章では、やはり揺らぐことと男性性について焦点化して考察を進めていた記憶があります。

参照URL:[青土社現代思想2019年2月号 特集=「男性学」の現在] http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3262 @青土社より

 

杉田さんの上記二つの論考を踏まえ、男性同士の関係性や、男性同士が集う場について、昨日の語り合いを参照にしながら考えると、男性たちが「揺らぎでつながる、新たなピア性」を基点にした場を立ち上げ、その関係の力を借りることが、メンズリブのポイントとなるんじゃないだろうか。男性たちの開かれた内省を助けてくれる要素として、「揺らぎでつながる、新たなピア性」に注目したいと思いました。

 

また、1.「悩み・辛さに気づいて吐露する」ことと、2.「特権・加害に気づいて考える」こと、この二要素は、1を経て2に行く、というプロセスを段階的に踏んでいくものなのか?という問いが、昨日の話し合いの中にありました。

僕は、「その順序を踏む場合もあるけど、その逆もある。基本的には同時並行で混ざり合いながら進行するのではないか」と思いました。

 

上記で述べた「揺らぎ」とは、僕にとってはまさしく「辛いな。でも辛いって言って良いのかな」というような、この二要素が混ざり合ってモヤモヤしている、躊躇のような感覚であって、僕自身の感覚で言っても、自分の中の上記二要素を正確に切り分けることができません。

参照URL:男同士で傷を舐め合ってもいいじゃないか! 「男らしくない男たちの当事者研究」始めます。 https://wezz-y.com/archives/38466 @wezzy_comより

 

自分の中の必然に従って(中動態的に?)、わからなくなっても良いからうねうねと言葉にしてみて、結果的に後から色々と物語化できていく。理性的な整理は後追いにしかできなくて、まずは分からないけどうねうね、ぼちぼちと場に「自分」をさらけ出してみる、そんなイメージのことをしたい。そんな気持ちが、いまの僕にはあります。

参照URL:読書感想【ぼくらの非モテ研究会から学ぼう!】:「痛みとダークサイドの狭間で 『非モテ』から始まる男性運動」より - ごめんねギャバン@札幌 https://gomennegavan.hatenadiary.com/entry/2020/07/22/195722

 

揺らぎの中でうねうね語ること。これはまず、理性ではない気がします。いや、そもそも「理性」とは何か、という僕の言葉の定義がいい加減なんですけど、「冷静に、綺麗に整理して言語化することができない気がするもの」とでも言いましょうか。自身の主観的には、コントロール困難なもの、とでも言うのかな。

 

どこかで知った借り物の言葉ではなく。誰にでも・子どもにも伝わりそうな、シンプルな、自分なりの言葉で。下らない・取るに足らないようなものかもしれないけども。自分にとってはいま、切実に感じる経験や思いを、とりあえず言葉にしてみる。言ってみたら言い過ぎてたな、だとか、ちょっと違っていたな、と思ったら、語り直しても良い。間違っていても良いし、分からなくなっても良い。途中で辞めても良い。

 

こうした姿勢は、まさしく「揺らぎ」そのものだと思うのですね。そんな「揺らぎ」を男性が持っていて良いし、そこでつながる連帯感を、メンズリブとして大事にできないでしょうか。そして、哲学対話という手法を使って、「揺らぎでつながる、新たなピア性」を基点にした場を立ち上げられないかな。

 

 

 

メンズリブと哲学対話について。

僕はメンズリブをやりたい人間で、哲学対話を手段のひとつと考えています。

哲学対話は、いつしか「自分」を離れて、他人事のことや天下国家・社会全体のこと、一般知識、抽象的な理論を語る方向に行くことはあり得る。哲学対話としては、それでも対話できれば良いのでしょう。でも、メンズリブとしては、その方向に行ってしまっておしまいだと、イマイチだなあ、と思いました。

 

ただ、いったん閉塞的な自意識のグルグルから離れる、という意味では、抽象的に考えてみることは大事な要素な気もする。ポイントはそれをもう一度「自分」に返してあげること。「自分」と「抽象」の往復作業が大事で、かつ他人の言葉や思考から触発されて開かれた営為として、それらの行為を行うことに要点がある気はしました

 

なので、哲学対話のみでメンズリブとして万能なのではなく(当たり前ですけども)、メンズリブのひとつの手法として活用するのが良いのかな、と思いました。

哲学対話は言葉を用います。そういう意味では、言語性に優れた特性の人と相性が良い(子どもにも分かるような言葉で行う、というルールが、言語性のハードルを下げる側面はありますが、それでも限界もある、というか、向き不向き、得意不得意、好き嫌いがある、と感じます)。

 

非モテの品格』がケアの経験を取り上げていたのはやはり重要で、言葉を介さない身体的かつ情動的な触れ合いの経験が、男性性の揺らぎを触発する可能性はあるし、そちらの方が、階層や能力の高さを問う程度の低い、広く開かれたメンズリブへの可能性に連なっているような気がします。

 

メンズリブの場で、色んなこと(例えば育児や介護や介助、食事づくりや家事のあれこれ、スポーツやスポーツ観戦、映画観賞、旅行やお泊まり会、様々な表現活動、演劇やジンづくり等)をしてみて、その過程の途中で都度、哲学対話を混ぜてみる。哲学対話で言語的に振り返る機会は、やはり重要な気もします。様々な経験を「自分」に引きつけて、開かれた形でミクロな、固有で繊細な、自分なりの物語を言葉で紡いでみる。様々な経験をし、自由に「自分」に集中して語り・聴き、そして再び、労働や生活の経験の世界へと還っていく。こうした往還作業に、哲学対話は大きな貢献をしてくれるような気がしました。

 

 

権力性について。

メンズリブや哲学対話の場を開く際、声の大きい人が出てきてしまったり、誰かの影響力が大きくなってしまって、誰かの顔色を窺うような力動が生じてしまい、それらによって自由さや安全・安心が損なわれてしまう可能性は、常にあります。

 

権力性・権力勾配は、完全に無くすことはできません。その現実を理解しておくことが、まずは大事なのかな、と思いました。実は権力勾配がそこにあるのに、「なかった」ことにしてしまう。そんな誤認と言動から、その場が閉じてしまって可視化されない、支配や暴力、差別が具体的に生じてしまいます。

 

アレントは、権力(パワー)を、複数性を顕わにする力動、と定義していた、と、岡野八代さんが『フェミニズム政治学』で紹介していた記憶があります(記憶違いかもしれない…。違ってたらスミマセン)。複数性を顕わにする力動を、常に声なき声を尊重する力動を、場に立ち上げたいものです。権力を悪しきものとしてのみイメージするのではなく、自由と責任と応答、安全と安心を保障する原理としても捉えたい。

 

ファシリテーターをふたりにする、男性と女性にする、といったアイデアを、昨日の話し合いで聴くことができました。また、二村さんからは、基本的にファシリテーターを不在にする(攻撃性が発生したときに、それを防止する機能のみ保障する)、という哲学対話のやり方があり得ることを教えてもらいました。

 

僕も今後、色々なやり方を試してみたいな、と思いました。権力性を、個人が所有的に用いるのではなく、非所有的に、その場の一回的なものとして、ルールとして共に紡いで用いていく、そんなイメージが大事なのかな、と思いました。こうした対抗的な権力性を都度紡ごうとする試み自体が、極めてメンズリブ的だな、とも感じます。脱支配、脱所有、脱優越志向への、即興的で絶え間無い共同挑戦として。

繰り返しますが、所有の力動は常に根深くて、権力勾配はどこの場にも常にあるのでしょう。そこにある権力性を、メンズリブ的に善用したいものです。誰のものでもなく、自分自身で、共に。

 

 

このように記事を書いていても、僕は楽しいです。昨日は色んな人に僕の言葉を聴いてもらって、チヤホヤしてもらったような気がして、良い気分になれましたし、今でも良い気分です。

こうして、一方的に知識を披瀝して気持ち良くなる。他の男性よりもチヤホヤしてもらえる幻想に包まれてご満悦の、非常に捻れた、キモいおじさん。そんな僕。…と言ったら言い過ぎか。自虐し過ぎてキモいし、結局分かってる自分を披瀝したい自分が如実に出ていて、やっぱりキモい。

 

結局、人気があるだとか、一目置かれるだとか、そういう世界からは逃れられない。殺伐としていて悲しいなあ、とも思いますが、こういう閉塞的な自意識のグルグルだけに、留まり続けなくても良いのかな、と思ったりもしました。キモい、という言葉は、非常に強烈ですが、そこからしか始められない僕がいる気もする。キモさは終わらない。不登校は終わらない、って本がありましたね。

 

皆さん、自分なりのプロセスを踏んで、自身の苦労を経て、ゆるゆるぼちぼち、社会に開いていっているんだな、なんて感じたりもしました。僕も僕なりにやります。

 

ドラ映画とは何か ー映画『ドラえもんのび太の月面探査記』感想

アニメ日本映画『ドラえもんのび太の月面探査記』を見た。以下、ツイッターで視聴中に都度呟いた感想を、そのまま掲載する。

 

…25分間視聴終了。

新ドラ映画は初めての視聴なのに、なぜか懐かしく、そして凄い。旧ドラ映画の良い要素のモチーフを、しっかりと引き継いでいるから懐かしいと思うのだろうか。例えば、秘密道具を使った、子どもらしい想像力を具現化していくワクワク感。

秘密道具で、月の裏側にある文明の幻想を分かりやすく伝えるくだりは、クレバーでとても分かりやすい。

秘密道具という媒介物・ドラ・のび太の三要素の奇跡コラボ。のび太ADHD気質が物語の生成・発展に寄与し、ドラという未成熟かつ万能な進行役が物語を素晴らしいものへと加速させていく。

 マインクラフト的な、一から文明が生成するプロセスの躍動感を、映画を見ているだけで体験できる感じがして、凄く良い。

テンポはこぎみよく、お約束もサラッとしていて、しかし背景はそれなりに練られている。

映画オリジナルキャラ・映画オリジナル敵役の設定も、お約束的だが嫌味なく、スムーズに物語へと没入させてくれる。

 

これらの要素は、おそらく旧ドラ映画にあったものだ。藤子F不二雄の鬼才・奇才・異才・天才ぶりに、いまさらながら脱帽する。やはり、リメイク作品の新ドラ映画も見たくなっている。

ともあれ、『月面探査期』に今は集中したい。続きを見るのは明後日になりそうだ。とても楽しみだ。楽しみ過ぎる!!

 


…1時間11分まで視聴終了。

物語の性急さや、日本的な集団主義が齎す懸念等はある。しかし、それらは許せる。良点が凌駕している。

非常にダイナミックな物語展開。旧ドラの想像力によるワクワクする世界観と、モンスターハンター的な、近年のゲーム的な想像力の世界観が、融合し絡み合う。

のび太ジャイアンの物語への絡み方も、ロマンがあったりユーモアがあったりしてとても好ましいが、スネ夫の物語の絡み方に、僕は喝采。弱虫の勇気。旧ドラ映画版『小宇宙戦争』のスネ夫の葛藤と超克シーンが僕は死ぬほど好きなのだけど、本作でもそうした美点をうまく引き継いでくれている。

ひとり、お酒を飲みながら本作を見て、盛り上がり、楽しんでいる。物語展開に、壮絶な「大人の本気」を感じていて、本当に心地良い。旧ドラ映画の素晴らしい点を継承しながら、新ドラ映画の新たな美点を融合させる試みに挑戦しているのではないか。そんな予感を、本作から感じられてならない。

 

僕は本作が新ドラ映画視聴一作目、おそらく先の予感は的外れなんだろう。新ドラ映画を一通り見た後、旧ドラ映画も一通り見て、「ドラ映画とは何か」という問いに迫りたいと思ったりした。僕の個人史を振り返っても、最初に触れた超絶エンタメ作品とは『ドラえもん』であり、ドラ映画を振り返ることは、僕の子どもらしいワクワク・ドキドキ感を、あらためて味わい直すことなのだろう。それは、とても幸せな営為であり、僕がしてみたいと思える試みだ。

…さあ、いまはともあれ、『宇宙探査期』の続きを見よう。楽しみだー!

 


…全編視聴終了。

AI批判、ファシズム批判にも見えて面白かった。ただ、現代日本社会への同時代的な批判、というよりも、ドラ映画のモチーフ(人間と機械との共生、支配・暴力批判)を再演した結果なのかな、と思ったりした。想像力とは何か、というテーマの深掘りに、感嘆してしまった。

マッドマックス的な荒廃した世界が出てきたり、他作品の映画やゲーム、アニメのイメージが想起されるような設定も、面白かった。浅くパクって不快になるような感じも、あまりなかった。オマージュの仕方としてはサラリとしているが、雑然としすぎないバランス。ある程度の統制が取れていた印象。

 

終盤だけ、ややごちゃごちゃして見えた。近年見たスパイダーマンのアニメ映画版に感じたような、ピクサー的大円団に向けた、ネタの物量作戦というか、凄いシーンの猛烈乱打でごまかす感じが、少しした。映画で終盤まで作り込むことって、きっととても難しいのだろう。

それにしても、楽しい映画視聴体験だった。新ドラ映画は、いまの僕が見ても十分に楽しめる、素晴らしいエンタメ作品だとわかった。今後ゆるゆる、他のドラ映画も見てみたい。ドラ映画とは何か、僕なりの入射角で迫れたらな、と思った。

のび太はメサコンの徹底で救われるのか ー映画『ドラえもんのび太のひみつ道具博物館』感想

新ドラ映画『ドラえもんのび太のひみつ道具博物館』を見た。

まず、面白かった。過去のドラえもんひみつ道具のルーツや物語を再考・再想起させるアイデア。さらに探偵物語という意匠も加わっており、挑戦的に攻めた一作だ。

中盤、物語の接続に失敗しているように感じ、間延びした印象も受けた。が、その後の後半・終盤はメインテーマ(後述)が大々的に全面展開されていき、その勢いは一般的に評価するなら、見てるこちら側を飽きさせない質の高さがあったように思う。

見ての後悔はない。見て良かった。以下、相当に踏み込んだ批判を行う。それは、良作であったことを前提にしての批判であると思ってほしい。

 

 

この映画を見る際、僕の中でテーマがあった。それは、メンズリブである。

ドラえもんのび太の友情物語がメインテーマだ、と各所で聞いていたため、メンズリブ的にそれをどう読み解くか、という関心で見た。

…結論。ダメだ。メンズリブ的に見て、これではいけないと強く思った。

 

この映画のテーマは、メンズリブ的に非常に興味深かった。友情物語であり、かつ、おっちょこちょいで忘れっぽく、ダメなヤツ同士の友愛の物語でもあった。弱さを抱える者同士の連帯の物語。だから興味深くはあった。あったのだが…。

 

ドラえもんのび太に言う。「キミは何もかもダメだが、いいヤツだな」と。

僕はその言葉が、極めて空っぽに思えた。のび太の美点はメサコン的なところにある、と。つまり、のび太の良さとは、誰かに優しくあろうとする、その一点にあり、そこにしかないのだ、と。

誰かに優しくあろうとすることが悪いとは思わない。しかし、のび太の、その自分の無さが気になる。

 

非モテ男性論が撃つべき問いは、「恋愛対象の異性にしかアツくなれない、そんな空っぽな自分、その閉じた世界からいかに解放されるか」にある。

ドラえもんのび太のこの映画の関係は、先の問いにおける「恋愛対象の異性」が、親友へとすり替わっただけであり、空っぽの自分、その閉じた世界は変わらないように思われた。

 

というのも、この映画の物語自体が、非常に閉じていて、マッチポンプ的に思われたのだ。

博士に失敗した過去があり、再び失敗して危機に陥り、それをのび太たちが救う物語。

…いやいやいや、根底は博士の、成功と名声を求めてしまう支配欲や自己顕示欲にあるのではないのか。

その根幹へは最後まで手つかずのままで、ドラえもんのび太の友情関係へと収斂し、それで物語が終わっていく。それで良いのか、と。

 

また、最初に僕が賛美した点ではあったが、さらに踏み込んで考えると、世界がドラえもんひみつ道具に閉じているところも、この物語に閉塞的な印象を与えることへとつながっているように思えた。

イデアとしては、過去のドラえもんひみつ道具のリメイク・再利用であり、それを超える物語へは挑戦できていない。

探偵物もパッチワーク的に継ぎ接ぎでくっつけた感じで、ひみつ道具の歴史と探偵小説のモチーフが融合されて新たな創造がなされるような瞬間は、ついに見られなかった。

 

ひみつ道具は世界を良くしていく。この映画では、それが前提にある。ここにこそ、もっともっと疑義を呈するような物語に到達してほしかった。この映画のような疑義の呈し方ではヌルい。結末の大円団で、疑義が薄らいでしまう。

科学主義・進歩主義への疑義、というだけではない。宮崎駿が挑戦したような、ドラえもんシリーズがこれまで提示してきた、子ども向けファンタジーへの根底的な疑義に連なる、そんな疑義の提出まで見たかった。

 

だって、そうでしょう? 東日本大震災原発事故。底の見えない貧困・格差社会。現在であればコロナ危機。科学主義をそのまま楽観的に信頼することなんて、とてもできない。この日本社会に生きているならば。

ドラえもんの秘密道具を生み出した科学主義の大肯定・大円団的なストーリーには、だから乗れる気がしない。子ども向けファンタジーだからハッピーエンドにしたのであれは、まさにそこにこそ、鋭い疑義の刃を突き立てるべきだ。宮崎駿はそうしていた。

 

終盤、のび太ドラえもんひみつ道具に頼らず、自らの発想で危機を乗り切る。この展開は唐突過ぎた。ここは丁寧にプロセスを踏みたいところだった。

ラスト。のび太ADHDは、あの物語でケリがつくのか。メサコンによって。メサコンの徹底は、世界を、のび太を、全てを救うのか。

…違うと思う。それでは終わらないとも思う。少なくとも、僕は終われない。終わっていない。

 

弱さと連帯の物語を、こんな程度で終わらせてはならない。全く物足りない。

厳しい言葉が並んでしまったけど、愛を持って、このような解釈を置いておきたかった。

以上は一度映画を見た限りでの感想だ。ADHD、メサコン、友情と、僕にとって冷静ではいられないテーマが目白押しの映画だったため、行き過ぎたり間違った解釈があったかもしれない。いや、間違いなくあったと思う。

他の人の感想を読んだり聴いたり、もう一度この映画を見たりするなどして、もう少し考えてみたい。

中動態的に語り/聴き合う技法へ ー社会福祉士に今後求められるコミュニケーション技法としてー

社会福祉士に求められる、基本的なコミュニケーション技術のうち、重要だと思われる技術を具体的に挙げ、僕なりに論じてみたい。

 

僕が取り上げるのは、「中動態的に語り/聴き合う技法」である。中動態とは、國分(2018)が取り上げた概念だ。

中動態とは、「内態」(外態の逆)として捉えた方が、字義の意味は取りやすい。すなわち、どのようなプロセスの中にその行為はあったのか、その内側に留まるような態度である。

一方で中動態(内態)の真逆の態度に当たる外態とは、その行為を自分の過去のプロセスとは切り離し、能動的な「決断」を行って、自らの行為を自らの所有物として、外側の世界に向けて投げ込むような態度だ。

外態的なコミュニケーションとは対照的な「中動態的に語り/聴き合う技法」とは、どのようなプロセスの中にその行為は生じたのか、それが不確かなまま、探るように、確かめるようにして、言葉をそこの場にそっと置いてみる、そっと置き合うような語り合い・聴き合いのことであり、そのような場を立ち上げる技法のことを指す。

 

いくつかポイントがある。

まず、所有・帰属について。中動態的(内態的)な態度では、行為を自らに所有・帰属させようとはしない。自らの、これまでの過去のプロセスには、思いを馳せる。そして、その行為には明確な自分の「意志」が伴っていたと、想定しないような姿勢が、中動態的(内態的)な態度では取られる。

「自立的な個人」という想定は擬制であり幻想であって、実際には人は環境の相互作用の中で生きている(自立=依存先の分散)。現在の社会では、自らがなした行為が、常に自らの所有物であって、結果が自らの責任において裁かれる「自己責任論」が蔓延している。

しかし実際は、人がなす行為とは、自発的な意志に基づいて行われるばかりではない。意志や自発性、主体性などは、事後的に形成される。もしくは行為直前に、これまでの自らのプロセスを消去し、今の自分の感情や躊躇、怯えや不安などを消し去るようにして、「自発的」な行為はなされる。

 

次に、感情等の気持ちについて。「中動態的に語り/聴き合う技法」では、そのようにして「なかったこと」にされた自らの感情・躊躇・怯えや不安などをもう一度取り戻すようにして、過去のプロセスを確かめるようにして、その行為を言葉として置き合うようなものである。

中動態(内態)と真逆の外態では、感情・躊躇・怯えや不安などの気持ちを、「なかったこと」にする。「なかったこと」にすることで、行為を自らの手中に入れ、支配する。中動態(内態)は、気持ちを抹消しようとする暴力に抗い、支配したくなる欲望と闘うものとしてある。

 

最後に、ピアとケアについて。そしてその語り/聴き合う技法とは、語り/聴き合う者同士が、ピア的に共鳴し合い、成立するものでもある。

「中動態的に語り/聴き合う技法」は、技法という表現が誤解を招きやすいかもしれないが、決して個人的なものではない。集団的な技法だ。

自らの、もしくは横にいる他人の気持ちを大切に聴き合うケア的な姿勢によって、いつしか僕らがなした行為は、その人個人の所有物ではなくて、共に見つめ合えるものになる。

所有したくなる欲望や支配したくなる欲望に抗って、誰よりも抜きんでたいと思う自分から解放されるためには、ひとりでは無理だ。ひとりでは、外態的にならざるを得ない。共に闘う仲間が要る。ピア的にケアし合う仲間が要る。

 

社会福祉士の支援・援助の現場へと、具体的に結びつけてみる。

中動態の議論に興味を示す熊谷晋一朗は、熊谷+杉田(2017)で、虐待防止研修に関する議論を展開している。

すなわち、「虐待は、当然してはいけない」というような頭ごなしの研修ではなんの意味もない。規範的な議論は括弧に入れて、まずはありのままの現実を話すところから始める。「あのとき虐待してしまったかもしれない」という自らの語りを、みんながその場に陳列していくような場を用意する。

その後、そこにある仕組み・パターン・繰り返しの構造を出し合い、仮説を立てる。そして、ならばどの仕組みをどう変えれば、虐待的・暴力的な状況が現場から減じるのかを、その研修に参加するみんなで共に考える。さらに、その場には管理職も入ってもらい、シフトや体制の提案もしていく。

思うに、虐待やハラスメントは暴力の連鎖であり、それが生み出される環境の問題である。現場の最前線にいる支援者、その上司役、そしてその上の管理職、この関係の中で、ケアし合う運動を作り出す他、虐待やハラスメント≒暴力の連鎖を防止する道はない。そこで求められる具体的な技法論こそが、上記で述べた「中動態的に語り/聴き合う技法」であるのだと思う。

 

アサーションなどの技法は重要であるが、なぜアサーティブにできないのか、そういう自分を自己覚知し、アサーティブにはできない自分の本質に迫って、そこへ変化を促す力動が、アサーションの技法論の中には存在していない。

また、アサーティブに振る舞えないことによって虐待やハラスメントが発生した場合に、その環境的な要因を分析するためには、アサーションの技法論だけでは不十分である。アサーションの技法論では、アサーティブにできない自身の「弱さ」へと迫れないから、そこで交わされる人々の言葉は、どうしても空疎なものになってしまう。アサーティブであるというパフォーマンスに、「表面的な『アサーション』」(語義矛盾なので、括弧付きにした)にならざるを得ない。

もっと端的に言ってしまえば、アサーションも個人モデルを想定した技法であり、最終的には自立的≒切断的に自らの力量を向上させようとする、閉じた知に過ぎない。「中動態的に語り/聴き合う技法」は、ミクロな社会モデルを想定した技法、言い換えると「当事者研究の要素が含み込まれた、場へと開かれた技法」であって、個人モデルの限界を超えるものである。

 

必要なのは、個人化されていく自己を支援者・援助者が超える力動であり、その力動に向かう態度や姿勢を身につけることである。大切なのは、その態度や姿勢を個人的にではなく、自らが足を置いている場に参加する全ての人々が集団的に、いつのまにか共有していることにある。

社会福祉士が目指すことはケアの社会化であって、それを実践者たち自身が体感し得るか否かが問われている。そしてそれは、実際に中動態的な態度・姿勢を模索し合う仲間と、ピア的に交流し、互いに体感することでしか、身につけて行くことは難しい。

「中動態的語り/聴き合う技法」をさらに精緻に言葉にし、それをそれぞれの現場で学んで実践できる知が、切に求められている。

 

<参考文献>

國分功一郎(2017)『中動態の世界』医学書院.

熊谷晋一朗+杉田俊介(2017)「「障害者+健常者運動」最前線 あいだをつなぐ「言葉」」『現代思想』2017年5月号、青土社.

男の「死の美学」を撃て② -映画『レスラー』感想中編

(①からの続き)

以下、2回目の視聴(2016年)で気づいたことや感じたことを、3点に分けて言葉にしていく。

 

1点目。パムはやはり、打算だけではなかった。一線は越えられない、と言っていたが、ダンスの途中で気づき、ランディのもとに向かうパム。そこで、店から芸名・キャシディではなく、本名・パムと呼ばれ、パム自身も自分の本名の「パム」を自分で呟き、復唱する。客とは一線を越えられないと繰り返し言っていたパムが、本名の、店側の者ではない、ひとりの人間として、ランディと人生を歩もうと決めた瞬間に思えた。しかし、そのパムも、ファイトが始まった時点でランディに愛想をつかし、会場を立ち去ったように見えた。なぜか。ランディの試合前の演説では、パムもランディを理解しようとする眼差しを向けているように見えたのに。

 

2点目。ランディの最後は、単純な「自殺」ではなかった。客を巻き込み、客に自分を殺させる、巧妙な自分への殺人≒「自殺」だった。ランディは、「俺には誰もいない」とパムに言う。パムは「私がいる」とランディに応答する。幸せそうな表情を見せるランディ。そこで、リングインの呼び出しが入る。一瞬の間の後、ランディはパムに言う。「あそこが俺の居場所だ」と。その後、リング上で観客にランディはこう呼びかける。「俺を止めることができるのは、ファンだけだ」と。試合が進む。壮絶で迫力のあるファイト。終盤、ランディは心臓の異常に見舞われる。足がもつれて倒れる。対戦相手のアヤットラーも、審判も、ランディの異常に気づき、大丈夫かと声をかけ、試合を終わらそうとする。何度も、何度も。しかし、ランディは試合を続行する。最後のラム・ジャムの寸前。客の熱狂は止まらない。ランディを止める客は、ひとりもいない。ラム・ジャムラム・ジャムと、連呼する観客たち。客は、ランディに、死ね、死ね、と言っている。そう言わせたのは、ランディだ。ランディが、自分で招いた事態。「ツケは、自分で払わなければならない」。ランディは、自分が死ぬために、客の熱狂を煽り、自分に死のダイブをさせるよう仕向けたのだ。トップロープに登る直前、入場前の待合の幕間、パムがいたところを、ランディは見やる。そして、パムがいないことを確認したランディの顔は、泣き出しそうに、僕には見えた。「俺を止められるヤツは、ファンしかいない」。しかしランディは、一縷の望みをかけて、パムがあそこにいることを願い、目を向けたのかもしれない。もしあそこにパムがいたら、ランディはラム・ジャムを止め、穏やかにピンフォールで試合を終えていたのか。それとも、もう少し穏やかな顔をトップロープで見せた後に、その穏やかな心境のままでラム・ジャムを敢行できたのか。僕には、あのラム・ジャムのときのランディの顔も、泣き出しそうな弱々しい顔に見えた。死にたくないが死ぬしかない、徹底的に絶望し、勇気なんかかけらもないのに、なけなしの勇気を振り絞って「自殺」する、哀しく弱々しい、泣き虫の少年の顔に。

 

3点目。ラストシーンでパムと会う直前、ランディは何度か胸の辺りを撫でるようにし、「ジーザス」と小さく呟く。そのとき、眼からは一筋の涙が流れる。胸の前で十字を切った後に、ランディは肘打ちの素振りを行う。いつもの試合前の肩慣らしの動き。恐らく、試合前に行える最後の素振り。ランディは、死への恐怖を強く感じていた。それでも自分は死ぬしかないと、追い詰められた心境になったからこそ、彼は客に自らを殺させるよう、客を煽ったのではなかったか。

 

この映画に描かれているのは、男の悲劇だ。僕らは観客になってはならない。ランディにもなってはならない。何がランディを追い詰め、何が観客たちを殺人者にしたのか。その何かを見定め、分析し、撃ち抜かなければ。

 

 

…以上は、2016年にこの映画を二回見たときの、僕の感想である。

2020年1月、ツイッターで映画『レスラー』を評したツイートが流れてきて、それを面白く読み、僕もブログの下書きを残していたことを思い出した。この機会に、記事として公開しておくことにした。

いつか3度目の視聴をして、この映画の物語を支配していた、男の「死の美学」を撃ちたいと思う。弱々しく震えている、泣き虫のランディと僕たちは、確かにあそこにいたし、いまもここにいる。殺されたくないし、殺したくもない。そんな僕らの新たな物語へ。そこに向かって、言葉を紡ぎたいと思う。

男の「死の美学」を撃て① -映画『レスラー』感想前編

映画『レスラー』を見た。考えたいことがあった。あらすじ等は、下記のウィキペディアを参照してほしい。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/レスラー_(映画)

 

以下、1回目の視聴(2016年)で感じたことを、書きながら考えていきたい。

 

僕が最も書きながら考えたいと思うのは、ラストシーンだ。

ストリッパーであり、シングルマザーの女性、パム(芸名はキャシディ)。彼女は、この映画の主人公であるレスラー・ランディの、最後の試合がはじまる直前で、ランディの前に現れて、ランディへ、人生を共にしたい、と告げる。パムに関しては、その前に気になるシーンがある。

 

それは、パムの息子が、ランディを模したレスラーフィギュアで夢中になって遊んでいるシーンだ。あのフィギュアを、息子へのプレゼントとしてランディからもらったときのパムの様子は、鼻で笑っていたようにも見えた。こんな人形に、息子が喜ぶはずない、と。しかしパムの予想は外れ、息子はランディのレスラーフィギュアに夢中になった。息子のその姿を見て、パムはランディの元へ謝りに行く。

 

パムには、ランディへの恋心があっただけでなく、したたかな計算もあったのではないか。パムは、もう年齢を重ね、ストリッパーとしては確実に下り坂に入っていて、仕事を続けられる猶予も残り少ない。これまでは息子をシッターに預けて子育てしてきたが、今後は稼ぎにも陰りが出てくる。これまでは父親がいないまま息子を育ててきたが、今後は息子が慕っているレスラーを父親に迎えて(きっと息子も喜ぶだろう)、三人で家族をやっていく方が、きっとうまく生活が回るのではないか…。

 

(この一連のシーンを、パムの打算として解釈することは、野暮だと非難されるかもしれない。パムの息子がランディの人形で遊んでいるところを見て、パムはランディのことを思い出した、ないしはランディのレスラーとしての偉大さに改めて気づいた、というように、男のロマン的・感傷的に解釈することも可能だ。でも僕には、パムが最後は会場を去ったことが気になる。パムは、確かにランディに惹かれていたが、同時にパムは、息子への責任も決して手放さない、そんな女性だったのではないか。ランディが娘を想いたくても、ついつい忘れてしまうのとは対照的な、そんな人物だったのではないか…)

 

しかし、ランディはすでに、絶望的な気持ちを抱き、「自殺」を決意していた。リングに上がることを止めようとするパムの提案を退け、「ファンが待っている」と言いながら、ランディはリングに上がる。パムは、ランディが対戦相手と闘い始めた様子を見て、顔をしかめ、会場から立ち去っていく。

 

ラストシーン、ランディは「最後のラム・ジャム=死へのダイブ」の直前、幕間の方を見やる。そしてそこに、パムの姿がないことを確認して、自嘲的に哀しく笑う。そのままランディは、震えながら「自殺」していく…。

 

僕は、この映画のこの部分を、書きながら考えないではいられない。

 

ランディが「自殺」へと至る、その絶望の過程が、この映画ではしっかりと描かれている。特に、娘と信頼回復していくかもしれない希望が覗いた後、ランディがコカインセックスに耽って娘との約束をすっぽかし、娘から完璧な絶縁を言い渡されるシーン。もうあれでランディは、全てが終わった、と思ったのだ。見る人によっては、ランディのことを自業自得の愚かな男のようにしか思えない人もいるだろう。でも僕は、ああなってしまうランディのことを、全否定する気には、どうしてもなれない。それまで長年してきた生活のツケ、依存的に快楽を求めてしまう惰性。それに抗うことなど、一朝一夕にできるはずがない。もちろん、ランディのあの行動は酷い。娘には責められても仕方がない。しかし、失敗を、スリップを繰り返しながら、ランディが生きていく道はあって良いはずだ。娘との生活はダメになったとしても、家族以外の人や、新たな家族となる人と、失敗の繰り返しに付き合ってもらいながら、一緒に生きる道があって良いはずだ。

 

ランディは最後の試合の直前、ひとり涙を流していた。死ぬのが嫌なのだと思った。怖いし、寂しいし、哀しいのだろうと思った。でもランディの絶望の気持ちは、今後生きていくことの方がさらに、より苦しいと思わせてしまったのだろう。

 

この映画のネット上の批評文を、幾つか読んだ。そのほとんどを、男が書いている、と思った。熱い男の生き様、とか書いてる批評文に、激しい怒りを感じた。そのようなアングルで、この物語を閉じて良いのか? ランディの哀しみに寄り添おうとするなら、むしろランディの絶望にこそ踏み込み、その先を考えないではいられない。男が、少年のように夢やロマンへ憧れる気持ち。その気持ちが、最終的にあんな悲劇を生むのならば、それを賛美できるはずはない。ランディの苦しみを、本気で汲み取る気はあるのか? あの物語を賞賛する男は、ランディの「自殺」を幇助した観客たちと同じだと思う。

 

再び、パムについて。ランディのラストファイトを見て、パムは、ランディを見限ったのだと思う。観客に煽られる快感に依存してしまった、あの男には、マトモな生活を共に送ることが、できるはずもない、と。ランディが幕間を見て自嘲気味に笑ったのは、そのようにパムから棄てられたことを知り、またそれが予想外でもなんでもなく、予想通りだと思ったからではないか。もう、ランディは自分に期待もできなくなっていたし、他人から棄てられても当然だと、そう思っていたのではないか。

 

ラストの試合で、興奮した観客の歓声が聴こえる。僕にはそれが酷く空虚で、刹那的で、薄っぺらな熱狂の声に聴こえた。一方でランディたちのファイトは、その逆だった。魂が込められていた。その魂が、薄っぺらに消費されていく。哀しい。あまりにも哀しい。日々の生活の労苦は、一見熱狂的ではない。でも、ランディはその魂を、日々の生活の労苦との闘いへと、ぶつければ良かった。過去の栄光の影に抗うための闘い、日常の惨めさとの闘いへと。

 

ランディのように、投げ遣り、捨て鉢になってしまい、夢やロマンに逃げる男たちは、きっと数多くいる。この映画は、そんな男たちの心の琴線に触れるような、非情とも言えるリアルさがあると思った。僕は、ランディの哀しみに共感するが、この生き様を美しいとか、カッコ良いとか潔いとか、素晴らしいとは言いたくない。ズタボロになり、自分のプライドもメチャクチャになり、それでも地を這いながら生きていく、そういう生き方にこそ、美しさを見出したい。そう思った。ランディのように生きてしまう男はいる。それを哀れだとも言いたくない。ランディのように生きてしまう男の哀しみに寄り添い、しかしランディのように「自殺」的に闘うのではなく。ランディが飲み込まれた自殺衝動に抗うように闘う男を讃えたい。僕は、ランディほどの絶望を生きていない。その意味で、僕の言葉はどこまでもいい加減だ。知りもしないのに、簡単に言うな、と言われそうだ。だけど僕は、なんと言われようと、自殺衝動に抗う男たちと共に生きたい。生きる道を探したい。

 

(②へ続く)

狂気の自助へ③ -映画『サウルの息子』感想後編

(②からの続き)

 

サウルはやはり、狂っていた。

でも、当たり前だ。人が、同朋が、目の前でゴミのように「処理」される。あまりにも無残に、そこにある感情も人格も無視されて、殺され消されていく。

しかも、その「処理」の手伝いを、サウルはさせられている。そして、自分もこの先、同じ様に確実に殺され、「処理」されるのだ。狂って当然である。

 

大澤信亮さんは、大人が子どもを見たときに、大人の心の中にユーモアと生きる勇気が湧いてくる理由を、確かこう述べていた。

「こんなに弱い生き物のくせに、まるで生きようとすることを疑わない、生きていることの真剣さが、生の否定に傾きがちな大人たちの疲れた心を、強く蹴るからではないだろうか。まだいける、と」。

(大澤信亮「出日本記」『新世紀神曲』新潮社、2013年、p.98)

 

サウルの場合は、最初に見たのは「かろうじて生き残っていた子ども」だった。その後、その子が殺されて以降にサウルが見たのは、自分で自分を助けようとして作り出された、空想上の「息子」だ。

すでに死んでしまった子どもの遺体に、狂気の中で幻想の「息子」を見ること。それはきっと、極限状態がなせる業だったのだろう。状況はあまりにも絶望的。現実は、とても見れたものではない。狂気によって、自分が現実とつながっている、そのこと自体に眼を背けなければならなくなったのだろう。

 

ここで、サウルがある女性と遭遇する、例のシーンについても触れておく。

サウルが、収容所内で女性と出会うシーンがある。あの女性とサウルは、かつて非常に人間的で、暖かい関係性があったのだろう。あの女性の、そしてサウルの、燃えるような眼差し。女性は、サウルの手を求めるように握ろうとする。そして、最後に女性が呼びかける、「サウル」という言葉。そのときの声の、切れば血が出るような音色、残響。

しかしサウルは、その女性の接触や声に、結局は応えなかった。

その女性と見つめ合っていたとき、サウルの表情は一瞬色づいたように見えたが、しかしそれはすぐに閉じてしまった。女性が握ろうとした手も振り解き、女性の声にも応答しようとしなかった。

きっと、サウルは現実にとことん絶望していたんだろう(そしてその直観は、「事実」として正しかった)。

現実にいる女性との一瞬のつながり、それが喚起するかもしれない現実感を、拒絶したかった。自分と現実がつながっている、その感覚自体が耐え難くなる。あの極限状態とは、きっと、そういうものだったのだろう。

 

サウルの息子』の作り手が、物語を描いて伝えたかったのは、「あまりにも苦しい世界に置かれているときに、自分自身を助けようとすること」だった。僕は、そう思う。

サウルは狂っていたが、しかし、狂うことが助けとなることは、確実にある。

強制収容所内の生活という極限状態に置かれたとき、それでも正気であろうとするならば、言い換えると、それでも理性的で人間的な行動を取ろうとするならば、おそらく以下のような行動を取ることになるだろう。

理不尽な支配に対する抵抗・反乱の運動に加わること。暴力に対して闘うこと。置かれている状況の中で、せめて何とか自分や仲間の命が奪われないように行動すること。

でも、強制収容所であった「事実」は、あまりにも悲惨だった。それらの、理性的で人間的で利他的な言動は、どれもが無為に終わったのだ。それが強制収容所であった「事実」。

その「事実」を描き、そんな渦中に置かれた人たちの境遇をできる限り想像し、その人たちの心境の深層に少しでも迫りたい。もう決して救うことができない、あの人たちへ。『サウルの息子』という物語は、そうして産まれたもののように思えた。

 

 

さらに考えたい。サウルの「狂気の自助」は、映画の中の物語で次第に生成変化していったものではないか。

サウルは、埋葬失敗前までは、正気と狂気の分裂状態にいた。それが埋葬失敗後、あのラストシーンにおいては、サウルの内的世界が狂気の領域の方へと、さらなる生成変化を遂げたのではないか。

 

埋葬失敗前の、正気と狂気の狭間にいる状況については、②の記事ですでに述べた通りである。反乱の動きに加わりつつも(正気)、「息子」埋葬にも駆り立てられ、止まれない(狂気)。サウルの中には正気も残っていて、正気と狂気の分裂状態に、サウルは置かれていた。

それが埋葬失敗後、あのラストシーンでは、サウルは「息子」を作り出して微笑むことで、結果的に自分も仲間も殺されてしまう。正気の領域は消え去り、狂気の彼岸へと行ってしまった。そんなふうに、僕には見えた。

 

生成変化のプロセスは、サウルが遺体の子どもを見るときの表情の変化にも表れているように思える。

最初に遺体の子どもを見たときのサウルは、表情を動かす描写がほとんどない。微かな予兆を見て取れなくもないが、すぐにカットが変わり、遺体の子どもを見ているサウルの背中を映す描写へと切り替わってしまって、表情が見えなくなる。

物語中盤で、サウルが遺体の子どもを見るときは、サウルの表情をカメラがある程度長く捉えている。そのときは、微かにサウルの頰が緩んでいるように見える。

そしてラストシーンの、金髪・白人の子どもを見たときは、誰の眼にも明らかなぐらい、サウルはハッキリと微笑みを浮かべていた。

このサウルの表情・微笑みが、サウルの狂気の度合いを表していたのではないだろうか。微笑みが深まるほど、狂気も深まっていた。そう見るべきではないか。

 

 

そして最後は、以下のような解釈の言葉を置いてみたい。

 

ラストシーン、サウルは金髪の男の子を見て、狂気によって「 あのとき埋葬しようとしていた息子は、実は生きていたんだ」と思えて、それでサウルは微笑みを浮かべた。そう解釈することもできる。

しかしこの想像力は、メロドラマ的である。サウルは死ぬ直前、希望を感じていたのだ、と。「自分は死んでも、息子は生きている、ああ、良かった」、と。サウルは最後に、そのような希望を感じて死ぬことができたのだ、と…。

 

もしくは、こう解釈することも可能だ。サウルは狂気の中にいるのだから、その心境は正気の僕たちに想像できるものではない。ただ少なくとも、サウルの微笑みはあの金髪の男の子を救ったのだ。あそこでサウルが声を上げていれば、あの金髪の男の子はナチス親衛隊の銃撃やユダヤ人たちの逃走劇へと巻き込まれることになったのかもしれない。

しかしこのような想像力は、今度は非常にヒロイックなものである。サウルの微笑みは、結果的にあの無垢な男の子を救うことになったのだ、と…。

 

涙腺を刺激する、もしくはサウルを英雄視する、上記のようなカタルシスを伴う解釈を、突き放していく想像力もあり得る。それは、(生者の側からは、こうとしか捉えられないような、)ただの無意味で無名の「狂気の自助」として、あのサウルの微笑みを想像してみることだ。

僕らのような外側の立場からは、無意味で無名の狂気としか把握できないが、しかし内側からは、言い換えると強制収容所で過ごし結局は「死」に至ったサウルの側からは、そのときその瞬間、自分を助けようとして自然に浮かんできた微笑みだったのだ、と。少なくともサウル自身にとっては、そんなものでしかなかった、と。それだけは言えるし、それだけしか言えない、そんな微笑みだったのだと、そう想像することもあり得るのではないか。

しかしこれでもなお、あの「事実」と真に向き合おうとするならば、倫理的に許される一線を踏み越えた想像になってしまっているのかもしれない。

 

あの「事実」に向き合いながら、その渦中の「死」と「狂気」に接近しようとするとき、必要な想像力とは、いったいどのようなものなのか…。

…とりあえず僕は、ここまでの想像と解釈の言葉を、統合しないままに置いておくことにする。統合困難な解釈は、当然さらに開かれているだろう。この映画を見た人たちによる、上記以外の想像力による解釈も、僕はぜひ聞いてみたり読んでみたりしてみたいと思う。

ブログ記事として書きながら考えるという手法では、僕自身が独我論的に複数の解釈を想像することしかできない。現時点では、これが僕の限界だ。あとは、他の人の声を聴いたり、その文章を読んで、さらに開いていければ、と思う。

 

 

 

狂気の自助へ。この物語も僕の上記の解釈も、ファンタジーに過ぎない。この映画は、エンターテイメント≒消費することを拒絶して、しかしそれでも物語を創作することによって、「事実」に迫ろうとした。

この映画の物語を読み解こうとして書かれた、僕のここまでの文章は、「事実」へ肉迫する力動を持ち得ているだろうか。

暴力は、僕らの身近にある。それは人を、狂気の自助へと駆り立てるのかもしれない。狂気の自助を統合困難な形で治療/支援/批評する装置を、僕らの周囲に作り出すこと。僕ら自身で、共に。そんなバトンを、この映画の物語から受け取りたい。