開かれた独白の連鎖、そして、内なる子どもからケアを掴み直すこと① ― アニメ映画『シン・エヴァンゲリオン』感想(前編)

1 書くなら早くしろ。でなければ帰れ。

まず、この記事の感想から始める。

杉田俊介(2021年3月)「『シン・エヴァ』、私たちは「ゲンドウの描かれ方」に感動するだけでいいのか? 根本的な疑問」。

gendai.ismedia.jp

上記記事で言われているように、終盤のシンジは、妙に平板で、それまでの生々しい葛藤が消え去って、速やかに成長したように思え、まるで「キャラ」のようだった。

昨日、西井さんとZOOMで話したのだけど、西井さんも終盤のシンジが、「まるでシャーマンのように感じた」と言っていた。何だか妙に宗教的で、悟っていて、それまでの葛藤ぶりが嘘みたいに変わってしまった、と。

以上の点に、僕は視聴中、気づいていなかった。言われて、「そう言われれば、そうだったかも…」と感じた。


また、『シン・エヴァ』は新たな男性性モデルを提示し得たのか、という論点についても、杉田さんの記事を読むまで、思い至れていなかった。

『シン・エヴァ』では冒頭で、「最近の若い男は…」というセリフを女性キャラクターにネガティブに言わせていた。その後、『シン・エヴァ』の終盤では、同じ女性キャラクターに同じセリフを、しかしポジティブに反転させた意味で言わせていた。この二つのシーンから、庵野さんが以前から抱いていた若者/男性嫌悪を、『シン・エヴァ』を作る時点ではメタ認知して受け入れつつ、受け入れた上で庵野さんは前に進もうとしているのかな、という手応えは感じた。今後もエヴァを見ることになるだろう、男性の子ども・若者たちのことを思い、自己嫌悪をぶつけるような愚を避けよう、再びそうした逆ギレをしないで、嫌悪の再生産を食い止めよう、それが大人の責任だ、と。

だけど、このシーンだけでは、『シン・エヴァ』が新たな大人の男性性モデルを具体的に提示したとは言えないだろう。杉田さんの上記記事では、ゲンドウの姿を読み解き、新たな大人の男性性モデルの提示に、『シン・エヴァ』は失敗したものとして判断されていた。

 

2 目標を「新たな男性性モデル」に入れて、スイッチ。 

果たして、『シン・エヴァ』は、新たな男性性モデルの提示に失敗したと言えるのだろうか。もしもそうではなく、新たな男性性モデルを提示していたとするなら、その新たな男性性モデルとは、いったいどのようなものなのか。この話題で、少し立ち止まってみる。

僕は、この問いに対して、『シン・エヴァ』の物語が終了した後、アスカのパートナーとなっていくことを予感させる、大人になったケンスケの姿も読み解く必要がある、と思った。

ケンスケの大人になったときの姿も、庵野さんなりにオタクのエヴァ・ファンたちへ示そうとした、新たな大人の男性性像なのではないか、と。


『シン・エヴァ』のケンスケは、僕の見間違いでなければ、小学校のようなところで、勉強を教えたりもしていた。子どもへのケア・教育を具体的に担っていた。

その他、『シン・エヴァ』の大人ケンスケは、第三村の周辺にある朽ち果てた様々なものを補修したりする仕事を担っていた。この点でも、ケンスケがケア実践を担っていた、と解釈することが可能だ。

そしてもちろん、ケンスケのシンジへの関わり方は、ケア実践そのものである。

僕は、こうした大人ケンスケの姿や、ケンスケの日常的な振る舞いに、非常にグッときた。ケンスケのシンジへの関わり方は、上から目線での関わりなどでは、全くなかった。トウジもそうだが、ケンスケも、友人としてシンジに関わっていた。しかし、友人としての関わりではあったが、それは同時に、また確実に、シンジへのケア実践でもあったのだった。


大人のトウジは、そのものズバリ、医療というケア実践を担っていた。

ただ、トウジとケンスケが異なるのは、トウジは第三村の中心部に完全に適応した上で、シンジらへもその参加を、どちらかと言うと積極的に促そうとしていた*1。一方のケンスケは、そんなトウジの発言や姿勢に対して、微妙な表情をしていた。

 

ケンスケは、自作のトレインハウス*2を作り、そこに住んでいた。第三村からは、やや外れた場所で。

ケンスケが担う主な仕事(補修)も、第三村の中心からは、やや外れた位置づけにある仕事だった。

そしてケンスケは、旧エヴァから変わらず、「撮る人」でもあった。ケンスケは、第三村≒自身ではどうすることもできない外からの脅威に対して、無力さを受け止めつつも、第三村の内側から外側へとカメラを向け、外からやってくる脅威をありのまま、内側から「撮る」ことを選んでいた。

エヴァの二次創作をいくつも読みふけり、旧エヴァのキャラクター分析を自然にしていた人なら、きっとわかる。「撮る人」という側面から見れば、ケンスケの位置づけは、旧エヴァから『シン・エヴァ』に至るまで、基本的には変わっていない、と。

ただ一方で、次のようなケンスケの変化にも注目したい。少年ケンスケがただ外側から「撮る人」だったのに対して、大人ケンスケは内側から「撮る人」へと変わっていた、この点に。


少年ケンスケは、軍事兵器に憧れていた。

しかし、自分はエヴァには乗れない。大人でもないから自衛隊にも入れない。中学生の時のケンスケは、ただ外側から囃し立てるように、軍事兵器を使った闘いを見ることしかできない、そんなオタクに過ぎなかった。

少年ケンスケは、エヴァ・オタクの似姿であった。学校生活や社会生活に対しては、微妙な馴染めなさを感じていた。しかし一方で、自分の本当に興味のあることに対しても、その内側に入って実践する才能はないと感じていた。ケンスケは、疎外感と虚しさを同時に感じていた中学生であり、ただ外野から「撮る人」にならざるを得ない、そんなキャラクターだったのだ。

そして、少年ケンスケのその後、『シン・エヴァ』における大人ケンスケの姿に目を移そう。彼は大人になり、ケア実践を担っていたのである。ケンスケなりのやり方で。部分的(≒パートタイム)な教師として。周辺的なところにいる補修者として。シンジへの、自分なりの友人としての関わり≒ケアをする存在として。さらに…

ケンスケがアスカと最終的にカップリングしたのは、アスカをエヴァパイロットとしてではない存在として見ることができる、そんな大人にケンスケがなったからだった。アスカはアスカだ。確か、そんなことを、大人ケンスケは言っていた。

少年ケンスケはきっと、ニアサー以降の様々な苦難と苦悩の日々をくぐり抜けたのだろう。少年ケンスケは、おそらく青年期を通じて、自身のアイデンティティの模索と、日々の生活の地道さとの格闘を経ることになったのだろう。結果、ケンスケは、ただ事物を外側から見て憧れていたオタク少年から、目の前にいる人を、自身の内側も経由して、ありのままの人として見ることができ、日々で具体的なケア実践にも身を投じることができるような、そんな大人の男のオタクに「なる」ことができたのだ、と。諦めや達観も経由して、自身の苦悩と目の前にいる誰かとの対峙の時間も経由して、ケンスケはきっと、自らの足元の事実や目の前のものを真っ直ぐ捉え、かつ具体的なケア実践もしながら暮らすことが可能な、そんな大人に「なる」に至ったのだ、と。

これが、『シン・エヴァ』が示す、新たな大人の(オタクの)男性性モデルなのではないだろうか。

後述するように、ゲンドウから始まる開かれた独白の連鎖と、その後のプロセスも、新たな大人像を示すものだったと僕は捉えている。率先して開かれた独白を行い、弱さの開示を行える男性であったゲンドウも、新たな大人の男性性モデルとして、注目されて良いと思う。つまり『シン・エヴァ』は、ケンスケとゲンドウの姿を読み解けば、新たな大人の男性性モデルの提示に成功している、とみなしてよいのではないだろうか。


ただ、そこでネックとなるのは、成長のキーやその依代を、異性パートナーキャラに仮託させ過ぎちゃう問題である。

僕が上記で行った、ケンスケの大人に「なる」プロセス解釈は、僕の想像で埋めてしまった部分が大きい。つまり、『シン・エヴァ』では、ケンスケがどう大人になったのか、具体的に描かれていないのだ。

そしてそれは、マリに対しても言える。マリは、シンジ(は後述するように、ゲンドウと統合される、という意味で、ゲンドウでもある)が大人に「なる」上で、重要なキーとなる存在だった。しかし、そのマリの描写が、『シン・エヴァ』では不十分である。マリは、どんな葛藤を抱え、どんなプロセスを経て、あの物語に登場したのだろうか。

僕の『シン・エヴァ』に対するひっかかりの多くの部分は、要するに、マリ/ケンスケ問題である。マリとケンスケ、シンジとアスカのことを、もう少し考えてみたい。

 

3 誰も『シン・エヴァ』を解釈できないんだ。だから僕が解釈するしかないんだ。

庵野さんのインナーチャイルドがシンジであり、現在の庵野さんがゲンドウである。

『シン・エヴァ』で、ゲンドウ≒庵野さんは現在の自身の弱さを認めて表現し、自身の中に、絶対的な母性を求めてしまう、そんな思慕があることを認め、受け入れ、表現した。

そしてさらに、シンジ≒庵野さんのインナーチャイルド(=子ども期の庵野さん)の中に、母性によるケアが過去にあったことを思い出し、そのケアを信じ直し、掴み直した。

その上で、大人に「なる」道へと、一歩踏み出した。結果、どうしても獲得し得ない、虚構の絶対的な母性を求めてしまうゲンドウは消滅し、一方で子どもだったシンジも消滅し、シンジは大人となって、現実へと踏み出した。つまり、ゲンドウとシンジは統合され、庵野さんもエヴァ・ファンたちも大人に「なる」。そんな結末だった。


女性キャラの成長を描写して、そこに救済や解放を仮託するのでなく(『式日』)、ゲンドウ≒庵野さん(シンジ)の成長を描き、自身が誰かと共に、大人に「なる」過程を示した。つまり、エヴァの物語を構成してきた登場人物たちの開かれた独白の力も借りつつ、自身の開かれた独白も試みて、ファンと共にマイナー性へ生成変化する過程を辿ることを狙った。『シン・エヴァ』の物語を、僕はそう解釈した。

庵野さんは、成長の主体を自身で引き受けた。それが、庵野さんにとっての、大人としての応答責任の果たし方だった。


しかし、マリ問題である。とにかく、マリ。マリだ。あのキャラに問いがある。映画を見終わった後で、もうひたすらに、そう思った。あれはなんなんだ、と。

成長のキーや依代を、異性パートナーキャラに仮託させ過ぎちゃう問題。マリ/ケンスケという理解ある彼女さん/彼くん問題と言い換えても良い。問いはそこ。マリ・ケンスケにシンジ・アスカの成長を仮託させ過ぎてる、と捉えて良いかどうかが、いまの僕の、最もホットな論点である。

『だまされ屋さん』の未彩人・夕海と、マリ・ケンスケとの違いが気になる。とにかく、『シン・エヴァ』はせっかくオープン・モノローグ(Ⓒ 西井開さん)の連鎖を表現したのに、最後は異性愛対幻想に閉じてしまったことが、僕にはどうしても引っかかるのだ…。

異性愛対幻想からの解放がさらに必要で、そのためには、もう一歩、いるのではないか。マリ問題を考えたい。そんな感想を、僕は『シン・エヴァ』に抱いたのだった。


ただ、僕はゲンドウ≒庵野さんの弱さの開示を、やっぱり高く評価したいな、とも思っている。ゲンドウ≒庵野さんが、あれをやったことには、大きな大きな意義を感じた。

不器用なつくりではあったけど、ゲンドウ含め、みんなが連鎖的にオープン・モノローグを繰り返しながら解放されていく展開には、振り返ると胸が熱くなる思いがする。

日本に萌え文化を花開かせた、記念碑的な作品であるエヴァ。その最終作。そこで、庵野さん自らがオープン・モノローグをやってくれたことは、物凄い勇気だと思うし、そこに大きな大きな可能性を見たいな、という気持ちになっている。映画を見て三日間が経過して、いまはそんなふうに思ったりしている。

 

4 …知らない。私はADHDだから。

これから、初めて『シン・エヴァ』を見た直後の感覚の記憶を、何とか遡ってみる。放っておくと、どんどん忘れていきそうな気がしている。とにかく、見ながら感情的にもなったし、グチャグチャした気持ちにもなった。


まず、批判的な感覚を、シンプルに。

長い。盛り込み過ぎである。

カウンセリングでの語りを、途中から、特に編集なく聞かされているような気分になったりした。かなり不細工だった*3

戦闘シーンを丸々カットして見たかった*4

後半は疲れてしまった。それだけに、「もう暴力は要らないよ」と述べるシーンで、「…うん、大分前から知ってる」「もっと早くそうして…」って気持ちになったりして、若干の苦笑が漏れた。


次に、シンプルな絶賛と敬意の感覚を。

よくぞ、やりきったなあ、と思った。

僕は、新劇場版第三作『エヴァQ』を見た直後、「これは、エヴァの新劇場版をキレイに終わらせるのはムリだ」と思っていたのだ。だから、『シン・エヴァ』でエヴァを完結させたことに対して、本当に、本当に、スゴイと思った。

キレイに、とまでは言い切れない。でも、やり切った、とは、間違いなく言える。

庵野さん、ホントにホントに、おつかれさま、と思った。ありがとうございました、と思った。

「決着」という言葉が、まさしくふさわしい一作だった*5

 

5 時計の針は元には戻らない。だが、自らの手で書くことはできる。

映画を見た、最初の視聴時の僕の気持ちの流れや感想を記しておく。


『シン・エヴァ』では最初に、新劇場版第一作から第三作までのダイジェスト映像が流れるのだけど、そこで「やっぱりひでーな」と思った。

新劇場版第一作『エヴァ序』は、ダイジェストで見ても、やっぱり面白い。

第二作『エヴァ破』では、やや「ん?」となる部分もあるが、まあ、わかる。なんか面白い。

そして、第三作『エヴァQ』は、ダイジェストを見返しても、あまりにも悲惨。全く訳が分からない。


「いやー、あらためて、ヤバいよな」と最初に思った。「この後の第四作『シン・エヴァ』、どうなんの? 壮大な爆死を見せられるのかしら…」と不安になった。

本編が始まる直前は、「とにかく、全然穏やかなもので良いから、物語として他人に見せて成立するレベルのところまで、なんとか持っててくれてたら良いな。でも、無理かもな…」みたいに思っていた。

「つか、庵野さんの精神状態が心配だ、『シン・ゴジラ』は良かったけど、『シン・ゴジラ』の制作過程もめっちゃ個人作業で支配的だったっぽいし、ましてやこんな破綻した物語の途中の続編で、しかも個人的なトラウマが乗りまくったテーマでもある『エヴァ』の物語に取り組んで、庵野さん大丈夫かしら?」と…。


ダイジェストシーンが終わり、最初に、マリやリツコ・マヤ、その他新キャラの戦闘シーンが始まる。そこで早速、没頭させられた。

サービスシーンを出し続ける言い訳ゼリフが置いてあったりして、「あ、これはメタっぽく統制が取れていきそうな気がする」と思って、ちょっと不安が減じたり。

かと思えば、「これだから若い男は…」イジリあたりで、「おい庵野さんやっぱ大丈夫か。男性嫌悪と若者嫌悪、全然治ってなくて引きずってて、このまんま行って、最後はオタクどもへの説教再び、的な展開になるんじゃなかろか…」と、やっぱり不安にもなった*6

そして、戦闘シーンに本格的に入った後は、「さすがだ…!」と思った。息を飲むように、戦闘シーンを没頭して見た。


次に、第三村のシーン。このへんで僕はまず、かなり満足した。

ああ、庵野さんは、依存症やトラウマ治療等、多様な関係の中で回復していく近年の知にアクセスして、その上で『シン・エヴァ』を作ったんだな、と思った。

第三村は、もちろん震災後の日本やコロナ禍の日本を想起させるし、今後はさらに過疎化・衰退していく日本社会も想起させ、そんな社会的状況に向き合おうとする意志みたいなものも感じて、これは素晴らしい、と思った。それはある種、新海作品のセカイ系・「社会性」不在の作品群に対する応答になってるな、とも。

杉田俊介さんの 庵野秀明についてのノート|杉田俊介|note (2020年10月)では、「庵野さんの作品には、個人と世界を繋ぎ合わせるための中間的な「社会」(ソーシャルなもの)の厚みが、きわめて希薄なものになっている」と評していたが、今回の『シン・エヴァ』では、その部分がアップデートされているように、僕には感じた。


レイが社会化されていくシーン、シンジが回復していくシーンには、強く魅力を感じて、惹きつけられた。シンジはカオルの死のシーンを目撃しており、PTSDにも苦しんでいた。そんなシンジの回復過程を、多様なケア・コミュニティの中での、丁寧で重層的なケア関係と、ゆったりとした時間の経過によって表現していて、素晴らしいな、と思った。

途中、トウジが社会適応を強いる保守性を垣間見せ、ケンスケがそこからもややズレる実存を表情で表現しているあたりとか。トウジとケンスケとがそれぞれに固有で多様な形でシンジへアプローチして、つまり男性の友だち同士の多様なケア関係の中で、シンジが寄り添われ、そうしてシンジの自然な回復が導かれていくところとか。僕には非常にグッと来た。


エヴァ・ファンからすると、ケンスケの描写が、何と言っても魅力的である。

元々、ケンスケは学校社会から微妙にずれる実存を表現するキャラクターだった。エヴァの二次創作で、社会適応からややズレた視点で世界を眺め、その中での日常生活で格闘するケンスケに寄り添い、丁寧に描写していた名作群のことを思い出したりした。


そこから、艦のシーン、最終決戦シーンへ。その前までの第三村のシーンでは、守るべきものを表現したんだな、と思った。この第三村のようなリアルな、虚構ではない、地道で着実な、自然と動物と人間たちの生存に根ざした生活こそを大切にしなくてはならない。こんな感覚をシンジもアスカも獲得した上で、最後の闘いに向かうのだ、と。虚構の世界で閉じて、グルグルと自閉的にならないように。キャラ萌えでストレス発散して、結局は閉じこもって苦しまないように。リアルな、現実にある日常を、苦しくも楽しくも生きていくのが、大人の生き方であり、大人たちの生活なんだ。そんな感覚を、シンジたちは獲得した上で、艦へと戻っていく。

そして、そこからの物語を、僕は、やや冗長に感じた。戦闘シーンは前記の通り、非常に質の高いものだろうとも思ったし、渾身の熱量を感じてグッと来る瞬間ももちろん沢山あったが、だからこそ「油っこすぎるな…」と思ってしまった。

僕が、年を取ったのかもなあ、とも思った。若い世代で、体力も実存的なパワーももっとある人々は、別に長くは感じなかったのかもしれない。他の方の感想を、もっともっと聴いてみたいと思った*7。少なくとも僕はこのへんから、「長いな…」と思い始めてしまった。戦闘シーンを全カットして、作品をもっかい見たい、と思ってしまった。

そうそう、艦における、シンジとアスカと(、そしてマリが絶妙に「居る」形で)の対話シーンなどは、グッと来た。それは後ほど軽く触れる。


一気に飛ばさせてもらう。

基本的には、長さで体力的にしんどくなりながら見ていた。特に、シンジがゲンドウとの対峙の戦闘に向かう直前に置かれた、トウジの妹だとか新キャラ女性との絡みのシーンや、ミサトが撃たれるシーンなどは、妙に説明的でセリフも多く、テンポも冗長に感じて、不細工でうざいな、とかなり強く思った。

ミサトの描き方と結末には、やや不満を感じた*8


最終盤。シンジとゲンドウとの対峙のシーンからの、オープン・モノローグの連鎖が、この作品最大のポイントだと思う。

本田透さんは、エヴァの物語はシンジとゲンドウとの関係がポイントである、と喝破していて、「夏への扉」でもその対峙のシーンが描かれていた。

杉田俊介さんも、以下のように述べていた。

 庵野秀明は、本音を隠した人、本当に向き合うべきものに向き合えない人だと僕は思ってきた。今もそう思っている。ただ、時々、庵野氏の作品から滲み出る強烈な悪意が、気になった。その毒気に当てられた。その正体を確認したくて、三〇歳を過ぎてからも、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』を毎回、映画館に観に行った。

 だがやはり、庵野については、そもそもどこか論じ難いというか、何を言ってもこちらの言葉が空転してしまう。そんな感じがしている。なぜだろうか。それは、単純化した言い方になってしまうが、『新世紀エヴァンゲリオン』でいえば、主人公シンジ君の父親であるゲンドウの問題に、庵野が十分に向き合っていないからではないか。息子であるシンジの苦悩や不能をいくら描いても、あるいはシンジ・レイ・アスカ・カヲルたち少年少女の葛藤や愛憎をどんなに描いても、子どもたちはいわば、「父親」としてのゲンドウの代理戦争を戦わされてしまっている。だから、そこにはつねに、虚しい空転の感じがつきまとう。
杉田俊介(2020年10月)「庵野秀明についてのノート」 )

note.com

 

こうしたふたりのエヴァ評・庵野さん評を聴いていた僕は、当然ここに注目して見ていたので、『シン・エヴァ』でのシンジとゲンドウとの対話から始まるオープン・モノローグの連鎖、そして物語の締め方には見応えがあった。

冒頭で触れられた、若い男性たちへの嫌悪的な発言は、ポジティブなものへと終盤で変換されて語られていた。正直、そこで、かなりホッとした。


感動があったか、と言われれば、部分的にはあったが、正直それほどでもなかった。Font-daさんの2021年3月のブログ記事「さよなら、エヴァンゲリオン」を読み、そう言えば映画視聴中に感極まりそうな自分もいたのに、泣くのを我慢してしまったときがあったことを思い出した。そんな自分がいま、かなり気になっている。

font-da.hatenablog.jp


自分を重ねられそうなシーンも、あんまりなかった(カオルがメサコンと演技性の人物だったんだ、と語られていったあたりは、へー、と思って、自分を重ねたくなったりもした。この点も、下記で軽く触れ直す)。

 

(②(後編)へ、続劇)

*1:なお、トウジの描き方を、単純ではない形にしているところが、非常に面白いな、とも思った。トウジの父(ヒカリの父?)がシンジの非礼さを怒った際、トウジはそれを止めようとし、まずはケンスケにシンジを預け、過度過ぎる介入を避けようとしていた。その点を想起すると、トウジは保守的過ぎる男だ、とは言えない。ただ、その後で物語が大分進行していき、それでもシンジが第三村に適応していかないことに対しては、トウジは「そろそろ馴染んだ方が良い」的な物言いをしていた。トウジの思想は、基本的に保守であることを窺わせる。

*2:…だったっけ?トレーラーハウスならぬ、トレインハウスだったような記憶が…

*3:ただ、それは不細工であっても、庵野さんのエヴァの最終作だったからこそ、した方が良いものだったようにも思っていた。上記でも少し触れたが、また後述したい。

*4:…というと、ちょっと作り手への敬意を欠く言い方になってしまうかもしれない。途中までは、「すげー、これが庵野アニメのメカ・戦闘シーンの真骨頂か…」と楽しんでみていたし、戦闘シーンを作り上げた制作陣と庵野さんに対しては、敬意はもちろん感じている。

*5:最終盤で、繰り返し繰り返し、様々な意匠に槍をぶっ刺して終わらせるシーンは、かなりニヤニヤしてしまった。何回やんねん(笑)って。おわりっ! もうホントにホントにおわりっ!って感じで、槍を刺すシーンひとつひとつが、庵野さんの心境を表現しているような気がして、とても面白かった。

*6:つか、情緒不安定はお前だよ、まくねがお…。

*7:今、このブログ記事を書いている時点では、二名の方の批評記事を読んだのと、西井さんともう一人の方の感想を、少し聴いたに過ぎない。西井さんは、戦闘シーンを見ていても、疲れを全く感じなかったそうだ。

*8:やり切ってはいたと思う。僕もミサトのことは、あまり細かくは振り返れていないのだけど、とにかく最後に、滅私奉公的に死んじゃう展開がイヤだった。…不満と言っても、せいぜいそんな程度の印象で。杉田さんの『シン・エヴァ』記事を読んで、僕は全然ミサトのことが視界に入らんかったなあ、と思った。正直、庵野さん(ゲンドウ+シンジ)と自分のこと、そしてレイやアスカたちのことで、もう頭がいっぱいで、ミサトにまで注目できんかったんや…。札幌の劇場公開最終日に見たので、もう劇場では見返すことができず、DVDが出たら、見直してみたい。