まくねがおのとじまり

すずめの戸締まり、視聴終了。

 

映像は綺麗。音楽はエモく盛り上げようとしていた。

ただ、限界あり。相当序盤からストーリーラインに乗れない。映像と音楽で誤魔化せるのは15分。はっきり言います苦痛でした! 早く終わんねーかなーって思いながら見てました!

 

色々やりたいこと、伝えたいことがあるのはわかる。でも、とにかく世界観・舞台設定、その観客への導入の仕方が致命的にダメ。なんでもありやん、って思いながらずっと見てました。

緊張感がない。背後の意味を深読みすんのが虚しいよ。色んな何かを込めてるんだろうけど、その前に、最低限の没入をくれ。愛にできることがあるかどうかを問う前に、最低限の映画制作技術が要るよ。

 

そして、登場人物の描き方と関係性構築プロセスが超雑。初対面でそうはなんねーよ、って展開、シーンの乱打。ずっと乗れませんでした。

日本各地を周りたかったんすね。日本神話のモチーフ、その追体験。かつ、現代の日本各地の衰退、過疎の状況と、でもそこで暮らす人を描きたかったんすね。

実力不足! あざとい! 見る気が失せます! 誰一人登場人物を好きになれません! カキワリ! ぺらい! 下手!

 

そして声を大にして巨大なミミズをスーパー大放出するかのように言いたかったのが、会話!!

会話劇がド下手クソ!!

まじでブルシット!! 台無し!!

言葉が死んでます!! 

 

おっかしいなあ。秒速、君の名、天気と見てきたけど、ここまで下手な人には思えなかった。

あれか、なんかやろうとしてることがデカいのと、過去作は色んなギミック噛ませて誤魔化したりとか、そういうのが今回できなかったからか。

これまでも会話下手だったけど、でも、今回はなんかさらに高尚なことしようとして、うまーくギミック混ぜ込んだ脚本を組めなくて、会話で説明しちゃう方に逃げちゃって、それでこの醜態が盛大に晒されることになったのかなあ

 

震災の問いは大切だろうよ。このテーマに向き合い、粘り強く作ったんだとは思う。

ただ、これじゃキツイなあ。

映画館は人が埋まってて、隣の人は最後涙ぐんだりしてて。感動した人もいるんだと思う。

でもどうかなー。中盤みんな飽きてたと思うんだよね。なげーって多くのみんなが途中で感じたと思うよ。それをうすっぺらいカタルシス装置が誤魔化していく、みたいな映画じゃなかろうか。いや、震災忘れないようにしようみたいな社会的意義は、もちろんあるんだろうけどもさー。

でも、新海さん、お前なんなん?と。

震災ネタにして君の名はでビックネームになり、搾取してしまったことに対して、浴びている批判をかわしたい、みたいな動機に思えて仕方ないの。

だって、お前の当事者性は搾取した側、加害者の側のはずで、だったらお前が寄り添うべきは様々な被害者の前に、加害者の側じゃねーの? みたいな疑念はずっとあって。

みんな、誤魔化されちゃダメ、騙されちゃダメだぜ。

 

最近、ピクサー映画をずっと時系列で見てきてて。ドライブ・マイ・カーとか、会話も余韻含めうまく作ってる映画も、最近沢山見てきたから、なんか目が肥えちゃってて、厳しく見ちゃってんのかなあ、とも思ったよ。映画全体のリズム、その心地良さ、とかについて、素晴らしい映画を最近連続で見てきたから、それで、なのかなあ

とにかく僕は、けっこう序盤からずっと「下手だなあ」と思って、イライライライラしてて。後半はもうマジで耐え難かったっす

 

天気の子では、社会的養護の問いに真剣に向き合ってない、って批判的に思って。今回は親族里親の話しでもあるわけで、まあいいよ、天気の子よりは向き合ってる、とは思ったよ。

ただ会話がド下手でねえ。サダイジン出てきてズッコケて、自転車の会話シーンも下手だなあって。

まずさあ、ダイジンですでに中盤から滑ってんだよ。あれでしょ? 善も悪も、その感情の清濁混じり合った象徴、神、それがダイジン、サダイジンだ、みたいな話しでしょ。

あとは、ダイジンは虐待受けた子どもの象徴、みたいな意見も、ツイートで見かけたけど

そういう深読みの前に、とにかく、もっとうまくやってくんねーかな。没入できねーよ! そっちの仕掛けで滑ってるから、社会的養護の里親と子どもを巡る大事な問いが、曇っちゃうやんけ! 下手ならやんな! 仕掛け抜きでもっと真正面にやれ!

で、すぐ自転車シーンで回収。つまんねーなー。なんか扱いが軽いんだよね。全然響かない。なんか余裕がないんだよ、展開に。テンポと間と、映画の中で置かれるシーンのリズムが悪くて、気にいらないわー。技術の問題だけなのかなあ。なんだろなー。

 

で、恋愛とメンズリブの話しですよ。気にいらない! 何あの男。草太。全然感情移入できません!

そっち行ってどうすんすか新海さん! 違うでしょ、あなたはキモい恋愛的欲望を、国民的作家になった今だから、ど真ん中に据えて攻めないと! 宮崎駿の見習い方がうすっぺらいんです!! いっそ秒速の方に戻って下さい! すぐウットリしない! ウットリしちゃうあなたのその生皮を剥いで! すぐ! マッパになりなさい!(あのじいさんがハッキリキッパリ言うべき対象は、女子高生じゃねーよ! 新海さん含む、この映画の作り手たち!)

主人公は女子高生にしました、男は脇に置きました、はい、ポリコレクリア、からのー、恋愛ロマンスでみんなの感動、涙、涙でしょ? 泣くでしょ? でしょ?(チラッチラッみたいな感じでしたけど

退屈! 退屈!! 退屈!!!

オイ、こいつ、置きに行ってんぞ!!!! 退場!! みんな、解散ー!!!

 

君の名は、に対する歴史修正主義批判は意識してる気はして。そしてセカイ系とシャカイ系の両立、統合からの高次元へ…みたいなモチーフも狙ってる気もして。ただ、そういうねらいも、恋愛と男の描き方のレベルの低さが致命的に足を引っ張ってる、と思ってて。

なんかツイート見てたら、当初はふたりの女性を主人公にしようとしてたけど、プロデューサーから、日本じゃ早すぎる、言われて、それで、あの男女カップルにした、みたいな経緯があったっぽいんすけど。

まず、女性ふたり主人公にしても、逃げてるよ。お前ら作り手、男やん。男でやれよ。女性主人公にすんならクリエーター変えろよ。あったりまえの話だよ。

で、結局男も出したわけですけども。まあ、無理っすよね。そんな感じなんすから。なんすか、あの男性たちは。メインはあのスカした大学生たちがモデルってこと? あんな非実在青年たちがメイン? お花畑ー。ダメでしょー。作り手たち、お前ら何やってんだよ。魂込めてこいよ。

ホントきもい。あんな若い、非実在的な、うすっぺらい男たちを物語の中心で絡ませてる作り手たちの、中年男性たちがまじでキモ。ここ、猛烈批判して良いでしょう。もう観客たちで止めようぜ、ああいうの。

作り手たちが選択した大人の男キャラクターは、寝たきりじいちゃんですか。「行っちゃイカンのじゃ!ゴホゴホ」ゆうて。あれが成熟した大人な男で、「ま、あとは、若いもんががんばりゃ良いんじゃ」ゆうて昇天するわけですね。作り手たちは。

無責任!!!! やっぱ前作時点で大丈夫じゃなかったの!! あんなもん作る大人の男たちは、信頼できません!!! 退場ーっ!!!

二回もこの映画は見たくありません。マジで二度とドアを開けないで下さい、ガチャン‼︎(しおしおと痩せ衰える新海さん。つか、あのネコ、マジむかつくぜ。なんなんアイツ。挑発か? 観客挑発してんのか? 煽ってんか? わあ、かわいい、でも最後また石になってかわいそうってなるかーっ!!! 不快だし、作り手に都合が良い。あれが神って笑わせんじゃねーよ。神はてめーの都合の良い道具じゃねーぞ!! 要石だった猫がもっかい要石んなって、あの男女が付き合いました、おわり。…って、のろけばなしか!! 質の低いのろけを全国ロードショーでやんなバカヤロウ!!!)

開かれた独白の連鎖、そして、内なる子どもからケアを掴み直すこと② ― アニメ映画『シン・エヴァンゲリオン』感想(後編)

6 逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ…

(①(前編)からの、続きです)

 

以上、僕の一回目の視聴時の印象や感想、感情の動きを、ざっと言葉にしておいた。

『シン・エヴァ』の最初の視聴時に、『シン・エヴァ』を自分と重ねて見ることは、なかなか難しかった。今後、時間をかけて、他の方の『シン・エヴァ』の感想を読んだり聴いたりして、自分のこともゆっくり感じたり、思ったりし直したい。『シン・エヴァ』の初回視聴時はむしろ、僕は自分のことよりも、庵野さん個人のことについて、そして派生して、本田透さんのことを思い出して、あれこれ考えていた。

 

ゲンドウが自身の弱さを独白・告白する部分は、完全に庵野さん自身の経験談や心の声なのだろうな、と思った。

シンジに、「自分にも分かってたんでしょ」と言われるシーンも、要するにそういうことなんだろう、と。庵野さんも、自身で分かってはいたけれど、それをここまであからさまには、作品の中で出せなかった。『シン・エヴァ』を作るまでは、弱さを表現することができなかったんだろうな、と。

庵野さんは、オタクたちの欲望に、散々火をつけてしまった。宮崎駿さんも、アニメ作品を作っている自己に対する嫌悪感が非常に強かったが、庵野さんはさらに実存的で、極私的で、深い深い自己嫌悪があったように感じていた。

時代的なものもあったんだと思う。宮崎さんよりも、さらに消費社会が極度に進行した時代に、青年期・成人期を生きざるを得ず、庵野さんはアニメに青春を燃やし尽くした。庵野さんの個人的な葛藤は押し殺したまま闘わざるを得ず、青年期から成人期をサバイブせざるを得なかった。

 庵野秀明は、戦後日本の厄介な「呪い」を背負った人なのだろう。オタクとして純粋培養された人。その矛盾を強いられた人。そういう感じがする。強いジャンル意識。内輪向けのマニアックなパロディ。メタフィクション。実存的な内向性。陰惨な暴力。あざといまでのエロティシズム。大人になりたいが大人になれない、という成熟の不可能……。
(中略)
 宮崎駿富野由悠季の二人は、庵野の「師」であり、象徴的な「父」ともいえるような存在である。宮崎と富野はともに一九四一年生れであり、戦後的平和の「外」の空気(戦争そのものと敗戦後の焦土と廃墟の空気)を、かろうじて身をもって、皮膚感覚で知っている世代である。一九六〇年生れの庵野は、もちろん、戦後的空間の「外」の空気を知らない。虚構(特撮やアニメ)を通してのみ、戦争の空気にふれていた。そういう人である。
杉田俊介(2020年10月)「庵野秀明についてのノート」) 

note.com


また、比較できるものではないのかもしれないけれど。庵野さんの成育歴が、より宮崎さんよりも苦悩の深いものだったと言えるのかもしれない(父に対する葛藤と、愛着の問題?)。

庵野さんのお父さんは、16歳のときに仕事上でのケガで片足を失い、非常に苦しい中で生きてきた。気持ちがすさんでいたのか、愚痴がとても多く、幼少期の庵野さんに対しても辛く当たることがあった。そんな庵野さんのお父さんのことを、朝日新聞の記事で以前読んだ記憶がある。

その後の庵野さんのお父さんは、すさんだ気持ちをふっ切ったようで、愚痴を言うことも減った。ただ庵野さんは、幼少期のときの父との関わりが、今の作品作りにも、多大な影響を与えている、と、その新聞記事の中で語っていた。


僕はこの辺りで、本田透さんのことも思い出す。

本田さんが庵野さんのことを許せず、「夏への扉」という二次創作を創り上げたのは、庵野さんと本田さんが、共に愛着に関する深い深い苦悩を持っていたからこそなのだろう。

少しだけ触れておけば、本田さんの「夏への扉」は、二者関係の対峙(シンジvsゲンドウ、そして、シンジvsアスカ)によってトラウマを解消し、パートナーシップを結んでいく道を理想化するものだった(だから、「夏への扉」では、シンジとアスカがカップリングする結末だった)。僕も、20代で本田さんの二次創作を読んだ当時は、そうした幻想を美しいと感じていた。

しかし、今の僕の感性は、やや異なる。本田さんが描いた物語の行く末より、庵野さんの『シン・エヴァ』の物語が示した方向性の方が、いまの僕にとっては、開かれていて美しいと感じられた。

シンジとアスカは、別離を選んだ方が良い。互いに言葉を交わした上で。それも、二者関係で閉じることなく、誰かとの関係にも開かれた中で、互いに言葉を交わし合い、その上で、別々の道を選んだほうが良い。

だから、庵野さんのエヴァの結末は、本田さんの「夏への扉」を超えた部分が、間違いなくあったとは思う。しかし、ここでやはり、マリ問題・ケンスケ問題が浮上する。それはまた、後述。


庵野さんはこれまで、長く深く、トラウマ的な傷を抱えたまま、暴発してしまいそうな衝動を抱えてきたのだろうと思う。

エヴァという作品を通じて、その衝動をぶつけてしまった。それは酷くエモーショナルで、刺激的だった。日本社会に一大ムーブメントを巻き起こした。キャラ萌えが氾濫した。暴力的で、危険で、魅力的なアイコンが、エヴァから次々に生み出されていった。

東浩紀さんが動物化するポストモダン論などで述べていた日本社会の現状は、庵野さんが先導したものだ、と僕は思っている。庵野さんは『エヴァ』という、セカンドインパクトを引き起こした(旧エヴァ)。そこに、どうケリをつけるか。

庵野さんは途中で耐えられず、視聴するオタクたちにトラウマを与えるような放り投げ方をした(旧エヴァ劇場版『Air/まごころを、きみに』。ニア・サードインパクト)。そんなことをしてしまった自分自身が、まるで子どもがパニックになって暴れてしまったかのようで、庵野さんは嫌で嫌でたまらなかったのだろう。新劇場版『エヴァQ』での、アスカによる「ガキシンジ」の連呼はきっとその象徴であるし、新劇場版第三作目以降のシンジ(とアスカとレイ)が、取り残されたかのように子どもであったのも、庵野さんは自身が子どものままであるかのように思えていたので、その象徴なのだろう。

 

7 生きるってことは、変わるってことさ。

とにかく、ケリをつけなければならない。途中で放り出してしまった、レイやアスカ、ミサトやリツコ、カオルたちを、何とか救い得るような物語を構築しなければ。まだ間に合う。ニア・サードインパクトは、サードインパクトではなく、あくまでもニアだったのだから。

シンジとゲンドウ、これはどちらも庵野さん自身であって、そんな自己内親子喧嘩の物語≒独我論的で自閉的な暴力構造に、何とかケリをつけなければ。

そんな、庵野さん自身の深い深い苦悩を伴う物語の決着をつけようとしていたのだ。『シン・エヴァ』が長くなるのは、どうしたって仕方ないよな、と思いながら、僕は見ていたのだった。

先ほどは、長い、とか、油っこいとか、そんなふうに僕は述べたのだけど、確かに僕は『シン・エヴァ』を見ながらそうも感じていたけど、一方で僕は、「仕方ないよな…」とも、本心から、心の底から思っていたのだった。

正直、エンタメ的にはキツイ面があった。不細工だった。冗長だった。でも、とにかく風呂敷を畳むのだ、と。それも、安易な畳み方ではなく、自分が生み出したキャラクターたちとも何とか誠実に向き合った上で、愛を持って畳むのだ、と。そうしないとダメだ、ニアサーを経たからこそ、もう、そこまでいかなきゃダメなんだ、と。そんな庵野さんの決意を、僕は感じたのだった。


シンジとゲンドウの対峙から始まり、ゲンドウ、アスカ、カオル、レイと、それぞれで連鎖していくかのように置かれた、オープン・モノローグ(Ⓒ 西井開さん)。

カウンセリングのようで、不細工ではあった。視聴者によっては、不快に感じた人もいたんじゃないか。なんでこんなん聞かされるんや、と。知らんがな、と。

ただ、エヴァ庵野さんのトラウマによって生み出された物語である以上、こうしたシーンは、どうしても必要だったんだと思う。もはやこれは、エンタメの向こう側だ。従来のエンタメ表現だと、隠されて深くなってしまう傷があるのだ。すっかり深くなってしまった自身の傷と、その傷口から生み出されてしまう暴力・加害に対する応答責任。それを果たすのが大人であるんだ、と。庵野さんは途中から、自分で自分に言い聞かせていたんじゃないかな、と思った。


そもそも、自己開陳が未加工に置かれてしまった物語は、エンタメの物語を今まさに作っている表現者たちにとって、不快に思ったりはしなかったのだろうか。こんな自分語りが作品内でそのまま置かれることが許されるのは、ズルイ、と。エンタメ的な覆いをかぶせ、楽しませる技術がないと、そもそも発表しちゃダメなんじゃない? と。

…と、勝手に脳内で批判者を創り上げてしまったけども(藁人形論法…?)、僕は、「庵野さんは特別だ」と言わざるを得ないとも思う。日本のオタク文化を牽引してしまった、その代表者。そんな彼が率先して、弱さのオープン・モノローグを作品内で行ったのである。

この庵野さんの『シン・エヴァ』の手法を表面的にマネして、後続の表現者たちが馴れ合うようなぬるい自分語りを駄々洩れにして良い、とは、もちろん僕も思ってない。ただ、多少自分語り感が鼻についたとしても、こうした自己開陳風の作品は、今後、より許容されていく空気が作られると良い、と思った。

自分語りは許されない。そんなふうに感じさせる空気こそ、剥奪感に塗れて耐えられず、攻撃性が暴発してしまう暴力的なマジョリティの空気を、さらに膨らませてしまうから。

自他を十分に、多様に、時間をかけてケアしながら、その開かれた過程の中でなされるオープン・モノローグは、今後の様々な表現において、より必要となるのではないだろうか。『シン・エヴァ』について書きながら、そんなことを考えた。

 

8 人間は寂しさを永久になくすことはできない。

ゲンドウは、シンジと対峙し、自身の弱さを認め、「シンジ、そこにいたのか」と言った。

その後、ゲンドウは、「ユイ、お前はシンジの中にいたのか」とも言った。その瞬間、僕は心の中で「ぴーっ!!!!!」とホイッスルを吹きたくなった。

まてまてーっ!!と。そこはユイじゃなくて、シンジを見れや、と。シンジだけを見たれや、と。

…ただ、この後のシーンを見て、庵野さんがゲンドウに先のセリフを言わせた意図に気づいた。だから、いまは先のセリフに関して、批判的には思っていない。


つまり結局、ゲンドウ≒庵野さんの中に、絶対的な母性、優しく何でも包んでくれる絶対的な安心感をどうしても求めてしまう感覚があったのだろう。庵野さんにはきっと、他者からの脅威とその恐怖が常にあったのだ。

だから、絶対的な母性を求めていた。しかし、当たり前だけど、全てを許してくれる存在なんて、現実では絶対に獲得できない。「こんな都合の良い女性、いるわけないじゃない。いたら見てみたいわね」(『電波男』)。

 

一方では妙に生々しくリアルなユイの顔。もう一方では、顔はないが女体だけがある、白いマネキンの大群。この二つは、庵野さんの分裂的な欲望の象徴なのだろう。一方では母性がほしいが、無数にあるそれらに、顔はない。ならば実際の顔は、というと、妙に生々しく、理想的なものからややはみ出す。避けたいと感じている他者、その恐怖が覗いてくる。

こうした自身の欲望の形と、庵野さん≒ゲンドウは対峙し、その欲望の存在を受け入れ、それがあることを認めた上で、前進しようとした。それを庵野さんは、父殺し≒母殺しと表現した。この一連のプロセスが、庵野さんにとって、青年期を経由して大人に「なる」ことである、と、庵野さんは自身の物語の今の到達点として、思ったのだろう。


そして、だから、シンジの中に、ユイがいる、と言いたかった。庵野さんの子ども期の中に、母がいたのだ、と。過去に受けたケアをもう一度思い出し、あることを掴み出し、信じ直そうとした。

その感覚を確かめつつ、前に進もう、と。母のような絶対的な理解者への思慕をただ、「こんな思いを持っていちゃ、オレはガキのまんまだ…」と思って「なかったこと」にしようとし、無理矢理切断しようとしても、結局は「なかったこと」にはならず、再び暴力衝動として回帰して来てしまう。白いマネキンのように女性をモノ化したり、一生辿り着けないだろう絶対的な母性をついつい求めてしまい、それが得られなくて、何度も何度も苦しんだり、暴力を振るったりしてしまう…。

庵野さんの中にある、母性への思慕の気持ち、母性を求める自己を、庵野さんは尊重する必要があったのだろう。それで、シンジ自身にも、自分の中にユイがいる、と言わせ、その上で、シンジを大人にさせたのだろう。

杉田俊介さんの『非モテの品格』(2016年)という本の中では、過去の自分の失敗も含めて、大切に尊重しようとする、「自己尊重」という概念が登場する。僕は『非モテの品格』を読みながら、自身のインナーユースと対峙させてもらっている。過去形じゃない。今でも、そうだ。

エヴァ』は、庵野さんのインナーチャイルドとの格闘から尊重へと至る、そんな物語なのだろう、と思った。

 

9 自分には何もないなんて、言わない。

アスカは、映画終了後、ケンスケをパートナーとして、前に進んでいくのだ、と予感させる物語になっていた。

シンジとアスカとの艦での対峙場面では、マリもその場に立ち合わせ、三人にしていた。シンジとアスカがニコイチになると、傷つけ合いが亢進し、止まらなくなってしまう*1。そして、アスカのパートナーシップの相手は、シンジではなかった。

これらは、トラウマを抱え、愛着障害を抱える者同士をニコイチにするのが、絶対にうまくいかない、と庵野さんが人生の中で確信したからなのかな、と思った。

僕も、その通りだと思う。結局アスカとシンジをカップリングしないことに対して、僕は納得だった。

愛着障害で惹かれ合ったアスカとシンジ。エヴァの物語の中で、あれだけぶつかり合った二人。すでに境界を踏み越えるレベルで深く傷つけ合った二人は、互いに歪んだ部分があったことを互いに受け入れて、最大限互いを尊重した上で、別れていけると良い。リアルでは、ここまで理解し合うこともできず、互いに互いを許すこともできずに、ただ別れていくケースが、きっと沢山あるのだと思う。

シンジとアスカとの物語は、虚構だからこそ、少し、理想的だったと思う。それが良かった。少し言葉を交わし、互いが少し理解し合えた上での別離として、二人の関係性は描かれた。僕は、そんなふうに受け取った。


さらに、シンジとレイとの関係でも、やはりああした別離が必要なのだろう。

レイは作りものである、と庵野さんは最後まではっきり表現していた。

この映画の物語で、レイは、シンジの回復における決定的な役割を果たす存在だった。これは、オタク作品が、オタクたちの回復過程において決定的な役割を果たし得る、そう庵野さんが掴んだ証しのようにも思う。オタク作品で描かれている愛の可能性を信じた、本田透さんのことを思い出す。

ただし、そんなレイは、どこまでも理想的に母性的であり、同時に、どこまでも果てしなく庇護欲求≒支配欲を喚起させるような存在であって、あくまでも作り物だった。レイというキャラクターは、どこまでも都合が良く、あまりにも、虚構だった。だから、レイに主体性≒固有の名前は、与えられなかった(レイは、自分で自分の名前を決めることができなかった。名付け親として請われたシンジも、「綾波」という名前以外、レイにあげることはできなかった)。

主体性を与えられない、という展開も、納得なのだ。オタクたちが生み出した欲望そのもの。虚構そのもの。そこに、物語の想像主たる庵野さんが主体性という魂を与えることは、そのままレイを、さらに奴隷化させることへとつながるような気がする。

シンジとレイとの関係性の行く末や、レイの物語の結末にも、僕は納得である。庵野さんにとってのケリなのだろう。僕はエヴァで、レイのことが一番好きだった。ずっとレイに惹かれてきた僕も、この物語のおかげで、なんとなく、スッと腑に落ちた感じがしている。


カオルは、シンジにとっての、もっとも大切な存在だった。

庵野さんは、異性愛・性愛を超えた、存在同士をそのまま愛し合えるような関係性に、エヴァという物語の解放を賭けようとした時期もあったのかもしれない。それで、カオルと言うキャラクターは生み出されたのかもしれない。

ただ、カオルのようなキャラとその振る舞いは、救世主願望(メサイア・コンプレックス)と演技性(パフォーマンス)の檻から抜け出すことはできなかった。

カオルとシンジとの関係性の行方は結局、相手に対する滅私奉公的な関わりと、その果てにある、トラウマを植え付けるような結末でしか、あり得なかった。そう、庵野さんは、思ったのかもしれない。だから、ああしたケリの付け方をした。

僕が唯一、現在の自分を重ねられそうに思えたのは、このカオルとシンジとの物語だった。ただ、このへんは、もうこれ以上、書かないでおく。


そして。どうしても引っかかるのは、マリの存在だ。彼女がマリアであった。

そもそも、新劇場版でマリが登場したあたりで、僕にとっては違和感もあり、異物感もあり、急に出てきた感があった。この最終作『シン・エヴァ』でも、その印象は変わらない。

ここまで述べてきたように、エヴァ庵野さんのトラウマ作品である。庵野さんは、大人として、それぞれのキャラクターや、互いの関係性にケリをつけたかった。不細工でも。それが大人の責任だ、と。

ただ、これまでのエヴァの物語の登場人物だけでは、どうしても解放までの理路を描けなかった。それで導入されたのが、マリだったのだ。最終作『シン・エヴァ』を見て、僕ははっきりそう思った。

昨日、西井さんから聴いたのだけど、マリは庵野さんが考え出したキャラではなく、他の人に作ってもらったキャラクターなのだという。なるほど。庵野さんが創り出してしまった独我論的な暴力構造の密室、その檻を抜け出すために、キャラクター創造という段階から、他者の力を借りる必要があった、というわけね…。すべては、ゼーレのシナリオどおりに…。

『シン・エヴァ』の尺的に、マリを深く描くことは不可能だったろう。すでに長すぎる。冗長だ。そもそも、旧エヴァからのキャラクターとそれらの関係性に、大人としてのケリをつけるためには、膨大な時間が必要でもある。それを、第四作『シン・エヴァ』の中で、何とかまとめあげた。マリを描く余裕は、十分にない。あるはずもない。

 

10 終劇? あんたバカァ!?

しかし、これで良いのか。

シンジは、マリと共に現実世界へと還っていく。大人となったシンジは、マリとパートナーシップを結ぶ。そのマリとは、いったい何者であり、シンジとマリは、どこへ向かうのか。

わからない。

第三村における多様なケア・コミュニティによる回復過程を体感し、オープンモノローグの連鎖によって大人になった、シンジとアスカ。すでに成長して、大人になったシンジ・アスカは、マリ・ケンスケとのパートナーシップにおいても、開かれた大人同士の関係を紡ぎ、やっていくことができていくのだ、と。『シン・エヴァ』は、そのように解釈すべき物語だったのだろうか。


エヴァのみんなは、本当によく、がんばった。ケア実践にコミットし、相互の多様なケア関係の中で生活に根ざして暮らす。それぞれがそれぞれに対峙しつつ、オープン・モノローグによって過去のケアの記憶を掴み直す。そうして解放されていくプロセスを、僕らに見せてくれた。

『シン・エヴァ』のみんなの格闘とケアは、決定的に重要だった。エヴァという物語に惹かれてきた僕や、今後惹かれていくだろう若い世代へも、暴力的で刺激的な物語から、脱暴力的で解放的な物語へと変わっていくプロセスを、描写として提供してくれたのだ。

そんな大人としての責任を、庵野さんに果たしていただけたのだと思う。何という、凄い仕事だろう。大人に「なる」物語を、エヴァのキャラクターとの関係の中で、庵野さんは身体で示してくれたのだ。庵野さんとエヴァに対しては、いまの僕には、もう感謝しかない。本当に、ありがとうございました。


マリ/ケンスケ、という存在との関係性に収束したこと。それが、現実に還る、という表現になったこと。

対幻想で閉じていくこと。

様々なケアの関係性の中で、自身の中の父性や母性との葛藤・対峙を経て、自身の欲望の形に気づき、受け入れ、そして、足を前に踏み出す。その先には、やはり別の誰かとの対幻想による家族形成という、そんな道しかないのか。


そうなのかもしれない。僕のリアルもそうであり、実存的にはそんな感覚しかない。

ならば、虚構と現実の狭間へ、ギリギリの物語を投げ込もうとする作家である誰かが、異性愛対幻想をさらにずらしてくれるような、そんな新たな幻想を、物語として提示してもらえないだろうか。

今回は、ムリでマリだった。ならば、この次は。


小説『だまされ屋さん』との手触りの違いがポイントだと思っている。

小説『だまされ屋さん』の方が、よりラディカルな解放感があった。散々に苦しめられてきた/いる既存の保守的で暴力的で支配的な構造や関係性から解き放たれ、別の光景へと開かれていく、そんな解放の手触りが、より濃厚に。


庵野さんは現在、『シン・ウルトラマン』や、『シン・仮面ライダー』の制作に取り組んでいるようだ。

庵野さんが、さらに制作過程における協働作業を成立させて、制作スタッフたちと共に心身と感性をケアし合いながら、新たな物語を作り上げていく、そんなプロセスが実現することを、僕は心から祈っている。次の作品の公開が、本当に楽しみだ。


というのも、今回の『シン・エヴァ』では、ある予兆を感じたりしたのだ。

終盤、ギリギリのところで、物語が再び破綻し、終わりそうになり、絵コンテになろうとするところに、「よろしくお願いします」(…?うろ覚え?「ありがとうございます」だったかもしれない…)という手書きの文章が一瞬映った。庵野さん以外の他のスタッフたちが、仕事を受け渡しながら、エヴァを作ってきた。そのことへの信頼と感謝の気持ちを味合わせてくれる、そんなワンカットが。

個人的な力に依って物語創造を図ろうとしてしまうなら、閉じていて抑圧的な、異性愛主義による対幻想もいつしか根深く維持されて、最終的に物語は、その方向へと収斂してしまう。僕は、そんな気がしている。

でも、あのワンカットは、今後の庵野作品が、さらに統合困難な形で開かれた集合的表現を成し遂げていく、そんな複数的な審級の顕れを予感させた。


『シン・エヴァ』は、弱さの雄叫びだった。さらなる多声的な産声が、きっともう少しで聴こえてくると思った。

 

※ 僕は2016年に『シン・ゴジラ』を見てから、ぶつぶつとツイートで庵野さんのことを呟いてきたのですが、その連ツイの最初のツイートを置いておきます。

まくねがお on Twitter: "映画『シン・ゴジラ』視聴終了。以下、感想をつらつら呟いて垂れ流す。壮絶なネタバレはしないと思うけど、ネタバレを気にせずやりたいとも思っているので、これから見ようと思っている方は、薄目で通り過ぎていただければ。→"

 

※ 本田透さんと僕とのこと、その中でちょこっとだけエヴァのこと(っていうか、本田さんの二次創作「夏への扉」のこと)を、僕がオープン・モノローグで語っているツイキャスもありますので、それもここに置いておきます。

twitcasting.tv

twitcasting.tv

 

引き続き、ゆるゆるぼちぼち、色んな人たちと共に感じたり、思ったり、考えていきたいです。

 

 

杉田ゲンドウ「メンズリブするなら早くしろ。でなければ帰れ」

まくねシンジ「誰もメンズリブできないんだ。だから、僕がやるしかないんだ…」

西井カオル「愛してますよ、まくさん」

 

はぁ!? 『シン・エヴァ』パンフレット売り切れ!? ぱおぉおおオオオオーーーーーーーーン! 痛気持ぢいぃいいいイイイイイイーーーーーーーーーーーーー!*2

 

…はっ。

知らない、夏空だ。

続劇。

*1:エヴァの惨劇…。第三村でも若干の惨劇がありましたが、旧エヴァに比べれば、ね…。

*2:註:暴走です。

開かれた独白の連鎖、そして、内なる子どもからケアを掴み直すこと① ― アニメ映画『シン・エヴァンゲリオン』感想(前編)

1 書くなら早くしろ。でなければ帰れ。

まず、この記事の感想から始める。

杉田俊介(2021年3月)「『シン・エヴァ』、私たちは「ゲンドウの描かれ方」に感動するだけでいいのか? 根本的な疑問」。

gendai.ismedia.jp

上記記事で言われているように、終盤のシンジは、妙に平板で、それまでの生々しい葛藤が消え去って、速やかに成長したように思え、まるで「キャラ」のようだった。

昨日、西井さんとZOOMで話したのだけど、西井さんも終盤のシンジが、「まるでシャーマンのように感じた」と言っていた。何だか妙に宗教的で、悟っていて、それまでの葛藤ぶりが嘘みたいに変わってしまった、と。

以上の点に、僕は視聴中、気づいていなかった。言われて、「そう言われれば、そうだったかも…」と感じた。


また、『シン・エヴァ』は新たな男性性モデルを提示し得たのか、という論点についても、杉田さんの記事を読むまで、思い至れていなかった。

『シン・エヴァ』では冒頭で、「最近の若い男は…」というセリフを女性キャラクターにネガティブに言わせていた。その後、『シン・エヴァ』の終盤では、同じ女性キャラクターに同じセリフを、しかしポジティブに反転させた意味で言わせていた。この二つのシーンから、庵野さんが以前から抱いていた若者/男性嫌悪を、『シン・エヴァ』を作る時点ではメタ認知して受け入れつつ、受け入れた上で庵野さんは前に進もうとしているのかな、という手応えは感じた。今後もエヴァを見ることになるだろう、男性の子ども・若者たちのことを思い、自己嫌悪をぶつけるような愚を避けよう、再びそうした逆ギレをしないで、嫌悪の再生産を食い止めよう、それが大人の責任だ、と。

だけど、このシーンだけでは、『シン・エヴァ』が新たな大人の男性性モデルを具体的に提示したとは言えないだろう。杉田さんの上記記事では、ゲンドウの姿を読み解き、新たな大人の男性性モデルの提示に、『シン・エヴァ』は失敗したものとして判断されていた。

 

2 目標を「新たな男性性モデル」に入れて、スイッチ。 

果たして、『シン・エヴァ』は、新たな男性性モデルの提示に失敗したと言えるのだろうか。もしもそうではなく、新たな男性性モデルを提示していたとするなら、その新たな男性性モデルとは、いったいどのようなものなのか。この話題で、少し立ち止まってみる。

僕は、この問いに対して、『シン・エヴァ』の物語が終了した後、アスカのパートナーとなっていくことを予感させる、大人になったケンスケの姿も読み解く必要がある、と思った。

ケンスケの大人になったときの姿も、庵野さんなりにオタクのエヴァ・ファンたちへ示そうとした、新たな大人の男性性像なのではないか、と。


『シン・エヴァ』のケンスケは、僕の見間違いでなければ、小学校のようなところで、勉強を教えたりもしていた。子どもへのケア・教育を具体的に担っていた。

その他、『シン・エヴァ』の大人ケンスケは、第三村の周辺にある朽ち果てた様々なものを補修したりする仕事を担っていた。この点でも、ケンスケがケア実践を担っていた、と解釈することが可能だ。

そしてもちろん、ケンスケのシンジへの関わり方は、ケア実践そのものである。

僕は、こうした大人ケンスケの姿や、ケンスケの日常的な振る舞いに、非常にグッときた。ケンスケのシンジへの関わり方は、上から目線での関わりなどでは、全くなかった。トウジもそうだが、ケンスケも、友人としてシンジに関わっていた。しかし、友人としての関わりではあったが、それは同時に、また確実に、シンジへのケア実践でもあったのだった。


大人のトウジは、そのものズバリ、医療というケア実践を担っていた。

ただ、トウジとケンスケが異なるのは、トウジは第三村の中心部に完全に適応した上で、シンジらへもその参加を、どちらかと言うと積極的に促そうとしていた*1。一方のケンスケは、そんなトウジの発言や姿勢に対して、微妙な表情をしていた。

 

ケンスケは、自作のトレインハウス*2を作り、そこに住んでいた。第三村からは、やや外れた場所で。

ケンスケが担う主な仕事(補修)も、第三村の中心からは、やや外れた位置づけにある仕事だった。

そしてケンスケは、旧エヴァから変わらず、「撮る人」でもあった。ケンスケは、第三村≒自身ではどうすることもできない外からの脅威に対して、無力さを受け止めつつも、第三村の内側から外側へとカメラを向け、外からやってくる脅威をありのまま、内側から「撮る」ことを選んでいた。

エヴァの二次創作をいくつも読みふけり、旧エヴァのキャラクター分析を自然にしていた人なら、きっとわかる。「撮る人」という側面から見れば、ケンスケの位置づけは、旧エヴァから『シン・エヴァ』に至るまで、基本的には変わっていない、と。

ただ一方で、次のようなケンスケの変化にも注目したい。少年ケンスケがただ外側から「撮る人」だったのに対して、大人ケンスケは内側から「撮る人」へと変わっていた、この点に。


少年ケンスケは、軍事兵器に憧れていた。

しかし、自分はエヴァには乗れない。大人でもないから自衛隊にも入れない。中学生の時のケンスケは、ただ外側から囃し立てるように、軍事兵器を使った闘いを見ることしかできない、そんなオタクに過ぎなかった。

少年ケンスケは、エヴァ・オタクの似姿であった。学校生活や社会生活に対しては、微妙な馴染めなさを感じていた。しかし一方で、自分の本当に興味のあることに対しても、その内側に入って実践する才能はないと感じていた。ケンスケは、疎外感と虚しさを同時に感じていた中学生であり、ただ外野から「撮る人」にならざるを得ない、そんなキャラクターだったのだ。

そして、少年ケンスケのその後、『シン・エヴァ』における大人ケンスケの姿に目を移そう。彼は大人になり、ケア実践を担っていたのである。ケンスケなりのやり方で。部分的(≒パートタイム)な教師として。周辺的なところにいる補修者として。シンジへの、自分なりの友人としての関わり≒ケアをする存在として。さらに…

ケンスケがアスカと最終的にカップリングしたのは、アスカをエヴァパイロットとしてではない存在として見ることができる、そんな大人にケンスケがなったからだった。アスカはアスカだ。確か、そんなことを、大人ケンスケは言っていた。

少年ケンスケはきっと、ニアサー以降の様々な苦難と苦悩の日々をくぐり抜けたのだろう。少年ケンスケは、おそらく青年期を通じて、自身のアイデンティティの模索と、日々の生活の地道さとの格闘を経ることになったのだろう。結果、ケンスケは、ただ事物を外側から見て憧れていたオタク少年から、目の前にいる人を、自身の内側も経由して、ありのままの人として見ることができ、日々で具体的なケア実践にも身を投じることができるような、そんな大人の男のオタクに「なる」ことができたのだ、と。諦めや達観も経由して、自身の苦悩と目の前にいる誰かとの対峙の時間も経由して、ケンスケはきっと、自らの足元の事実や目の前のものを真っ直ぐ捉え、かつ具体的なケア実践もしながら暮らすことが可能な、そんな大人に「なる」に至ったのだ、と。

これが、『シン・エヴァ』が示す、新たな大人の(オタクの)男性性モデルなのではないだろうか。

後述するように、ゲンドウから始まる開かれた独白の連鎖と、その後のプロセスも、新たな大人像を示すものだったと僕は捉えている。率先して開かれた独白を行い、弱さの開示を行える男性であったゲンドウも、新たな大人の男性性モデルとして、注目されて良いと思う。つまり『シン・エヴァ』は、ケンスケとゲンドウの姿を読み解けば、新たな大人の男性性モデルの提示に成功している、とみなしてよいのではないだろうか。


ただ、そこでネックとなるのは、成長のキーやその依代を、異性パートナーキャラに仮託させ過ぎちゃう問題である。

僕が上記で行った、ケンスケの大人に「なる」プロセス解釈は、僕の想像で埋めてしまった部分が大きい。つまり、『シン・エヴァ』では、ケンスケがどう大人になったのか、具体的に描かれていないのだ。

そしてそれは、マリに対しても言える。マリは、シンジ(は後述するように、ゲンドウと統合される、という意味で、ゲンドウでもある)が大人に「なる」上で、重要なキーとなる存在だった。しかし、そのマリの描写が、『シン・エヴァ』では不十分である。マリは、どんな葛藤を抱え、どんなプロセスを経て、あの物語に登場したのだろうか。

僕の『シン・エヴァ』に対するひっかかりの多くの部分は、要するに、マリ/ケンスケ問題である。マリとケンスケ、シンジとアスカのことを、もう少し考えてみたい。

 

3 誰も『シン・エヴァ』を解釈できないんだ。だから僕が解釈するしかないんだ。

庵野さんのインナーチャイルドがシンジであり、現在の庵野さんがゲンドウである。

『シン・エヴァ』で、ゲンドウ≒庵野さんは現在の自身の弱さを認めて表現し、自身の中に、絶対的な母性を求めてしまう、そんな思慕があることを認め、受け入れ、表現した。

そしてさらに、シンジ≒庵野さんのインナーチャイルド(=子ども期の庵野さん)の中に、母性によるケアが過去にあったことを思い出し、そのケアを信じ直し、掴み直した。

その上で、大人に「なる」道へと、一歩踏み出した。結果、どうしても獲得し得ない、虚構の絶対的な母性を求めてしまうゲンドウは消滅し、一方で子どもだったシンジも消滅し、シンジは大人となって、現実へと踏み出した。つまり、ゲンドウとシンジは統合され、庵野さんもエヴァ・ファンたちも大人に「なる」。そんな結末だった。


女性キャラの成長を描写して、そこに救済や解放を仮託するのでなく(『式日』)、ゲンドウ≒庵野さん(シンジ)の成長を描き、自身が誰かと共に、大人に「なる」過程を示した。つまり、エヴァの物語を構成してきた登場人物たちの開かれた独白の力も借りつつ、自身の開かれた独白も試みて、ファンと共にマイナー性へ生成変化する過程を辿ることを狙った。『シン・エヴァ』の物語を、僕はそう解釈した。

庵野さんは、成長の主体を自身で引き受けた。それが、庵野さんにとっての、大人としての応答責任の果たし方だった。


しかし、マリ問題である。とにかく、マリ。マリだ。あのキャラに問いがある。映画を見終わった後で、もうひたすらに、そう思った。あれはなんなんだ、と。

成長のキーや依代を、異性パートナーキャラに仮託させ過ぎちゃう問題。マリ/ケンスケという理解ある彼女さん/彼くん問題と言い換えても良い。問いはそこ。マリ・ケンスケにシンジ・アスカの成長を仮託させ過ぎてる、と捉えて良いかどうかが、いまの僕の、最もホットな論点である。

『だまされ屋さん』の未彩人・夕海と、マリ・ケンスケとの違いが気になる。とにかく、『シン・エヴァ』はせっかくオープン・モノローグ(Ⓒ 西井開さん)の連鎖を表現したのに、最後は異性愛対幻想に閉じてしまったことが、僕にはどうしても引っかかるのだ…。

異性愛対幻想からの解放がさらに必要で、そのためには、もう一歩、いるのではないか。マリ問題を考えたい。そんな感想を、僕は『シン・エヴァ』に抱いたのだった。


ただ、僕はゲンドウ≒庵野さんの弱さの開示を、やっぱり高く評価したいな、とも思っている。ゲンドウ≒庵野さんが、あれをやったことには、大きな大きな意義を感じた。

不器用なつくりではあったけど、ゲンドウ含め、みんなが連鎖的にオープン・モノローグを繰り返しながら解放されていく展開には、振り返ると胸が熱くなる思いがする。

日本に萌え文化を花開かせた、記念碑的な作品であるエヴァ。その最終作。そこで、庵野さん自らがオープン・モノローグをやってくれたことは、物凄い勇気だと思うし、そこに大きな大きな可能性を見たいな、という気持ちになっている。映画を見て三日間が経過して、いまはそんなふうに思ったりしている。

 

4 …知らない。私はADHDだから。

これから、初めて『シン・エヴァ』を見た直後の感覚の記憶を、何とか遡ってみる。放っておくと、どんどん忘れていきそうな気がしている。とにかく、見ながら感情的にもなったし、グチャグチャした気持ちにもなった。


まず、批判的な感覚を、シンプルに。

長い。盛り込み過ぎである。

カウンセリングでの語りを、途中から、特に編集なく聞かされているような気分になったりした。かなり不細工だった*3

戦闘シーンを丸々カットして見たかった*4

後半は疲れてしまった。それだけに、「もう暴力は要らないよ」と述べるシーンで、「…うん、大分前から知ってる」「もっと早くそうして…」って気持ちになったりして、若干の苦笑が漏れた。


次に、シンプルな絶賛と敬意の感覚を。

よくぞ、やりきったなあ、と思った。

僕は、新劇場版第三作『エヴァQ』を見た直後、「これは、エヴァの新劇場版をキレイに終わらせるのはムリだ」と思っていたのだ。だから、『シン・エヴァ』でエヴァを完結させたことに対して、本当に、本当に、スゴイと思った。

キレイに、とまでは言い切れない。でも、やり切った、とは、間違いなく言える。

庵野さん、ホントにホントに、おつかれさま、と思った。ありがとうございました、と思った。

「決着」という言葉が、まさしくふさわしい一作だった*5

 

5 時計の針は元には戻らない。だが、自らの手で書くことはできる。

映画を見た、最初の視聴時の僕の気持ちの流れや感想を記しておく。


『シン・エヴァ』では最初に、新劇場版第一作から第三作までのダイジェスト映像が流れるのだけど、そこで「やっぱりひでーな」と思った。

新劇場版第一作『エヴァ序』は、ダイジェストで見ても、やっぱり面白い。

第二作『エヴァ破』では、やや「ん?」となる部分もあるが、まあ、わかる。なんか面白い。

そして、第三作『エヴァQ』は、ダイジェストを見返しても、あまりにも悲惨。全く訳が分からない。


「いやー、あらためて、ヤバいよな」と最初に思った。「この後の第四作『シン・エヴァ』、どうなんの? 壮大な爆死を見せられるのかしら…」と不安になった。

本編が始まる直前は、「とにかく、全然穏やかなもので良いから、物語として他人に見せて成立するレベルのところまで、なんとか持っててくれてたら良いな。でも、無理かもな…」みたいに思っていた。

「つか、庵野さんの精神状態が心配だ、『シン・ゴジラ』は良かったけど、『シン・ゴジラ』の制作過程もめっちゃ個人作業で支配的だったっぽいし、ましてやこんな破綻した物語の途中の続編で、しかも個人的なトラウマが乗りまくったテーマでもある『エヴァ』の物語に取り組んで、庵野さん大丈夫かしら?」と…。


ダイジェストシーンが終わり、最初に、マリやリツコ・マヤ、その他新キャラの戦闘シーンが始まる。そこで早速、没頭させられた。

サービスシーンを出し続ける言い訳ゼリフが置いてあったりして、「あ、これはメタっぽく統制が取れていきそうな気がする」と思って、ちょっと不安が減じたり。

かと思えば、「これだから若い男は…」イジリあたりで、「おい庵野さんやっぱ大丈夫か。男性嫌悪と若者嫌悪、全然治ってなくて引きずってて、このまんま行って、最後はオタクどもへの説教再び、的な展開になるんじゃなかろか…」と、やっぱり不安にもなった*6

そして、戦闘シーンに本格的に入った後は、「さすがだ…!」と思った。息を飲むように、戦闘シーンを没頭して見た。


次に、第三村のシーン。このへんで僕はまず、かなり満足した。

ああ、庵野さんは、依存症やトラウマ治療等、多様な関係の中で回復していく近年の知にアクセスして、その上で『シン・エヴァ』を作ったんだな、と思った。

第三村は、もちろん震災後の日本やコロナ禍の日本を想起させるし、今後はさらに過疎化・衰退していく日本社会も想起させ、そんな社会的状況に向き合おうとする意志みたいなものも感じて、これは素晴らしい、と思った。それはある種、新海作品のセカイ系・「社会性」不在の作品群に対する応答になってるな、とも。

杉田俊介さんの 庵野秀明についてのノート|杉田俊介|note (2020年10月)では、「庵野さんの作品には、個人と世界を繋ぎ合わせるための中間的な「社会」(ソーシャルなもの)の厚みが、きわめて希薄なものになっている」と評していたが、今回の『シン・エヴァ』では、その部分がアップデートされているように、僕には感じた。


レイが社会化されていくシーン、シンジが回復していくシーンには、強く魅力を感じて、惹きつけられた。シンジはカオルの死のシーンを目撃しており、PTSDにも苦しんでいた。そんなシンジの回復過程を、多様なケア・コミュニティの中での、丁寧で重層的なケア関係と、ゆったりとした時間の経過によって表現していて、素晴らしいな、と思った。

途中、トウジが社会適応を強いる保守性を垣間見せ、ケンスケがそこからもややズレる実存を表情で表現しているあたりとか。トウジとケンスケとがそれぞれに固有で多様な形でシンジへアプローチして、つまり男性の友だち同士の多様なケア関係の中で、シンジが寄り添われ、そうしてシンジの自然な回復が導かれていくところとか。僕には非常にグッと来た。


エヴァ・ファンからすると、ケンスケの描写が、何と言っても魅力的である。

元々、ケンスケは学校社会から微妙にずれる実存を表現するキャラクターだった。エヴァの二次創作で、社会適応からややズレた視点で世界を眺め、その中での日常生活で格闘するケンスケに寄り添い、丁寧に描写していた名作群のことを思い出したりした。


そこから、艦のシーン、最終決戦シーンへ。その前までの第三村のシーンでは、守るべきものを表現したんだな、と思った。この第三村のようなリアルな、虚構ではない、地道で着実な、自然と動物と人間たちの生存に根ざした生活こそを大切にしなくてはならない。こんな感覚をシンジもアスカも獲得した上で、最後の闘いに向かうのだ、と。虚構の世界で閉じて、グルグルと自閉的にならないように。キャラ萌えでストレス発散して、結局は閉じこもって苦しまないように。リアルな、現実にある日常を、苦しくも楽しくも生きていくのが、大人の生き方であり、大人たちの生活なんだ。そんな感覚を、シンジたちは獲得した上で、艦へと戻っていく。

そして、そこからの物語を、僕は、やや冗長に感じた。戦闘シーンは前記の通り、非常に質の高いものだろうとも思ったし、渾身の熱量を感じてグッと来る瞬間ももちろん沢山あったが、だからこそ「油っこすぎるな…」と思ってしまった。

僕が、年を取ったのかもなあ、とも思った。若い世代で、体力も実存的なパワーももっとある人々は、別に長くは感じなかったのかもしれない。他の方の感想を、もっともっと聴いてみたいと思った*7。少なくとも僕はこのへんから、「長いな…」と思い始めてしまった。戦闘シーンを全カットして、作品をもっかい見たい、と思ってしまった。

そうそう、艦における、シンジとアスカと(、そしてマリが絶妙に「居る」形で)の対話シーンなどは、グッと来た。それは後ほど軽く触れる。


一気に飛ばさせてもらう。

基本的には、長さで体力的にしんどくなりながら見ていた。特に、シンジがゲンドウとの対峙の戦闘に向かう直前に置かれた、トウジの妹だとか新キャラ女性との絡みのシーンや、ミサトが撃たれるシーンなどは、妙に説明的でセリフも多く、テンポも冗長に感じて、不細工でうざいな、とかなり強く思った。

ミサトの描き方と結末には、やや不満を感じた*8


最終盤。シンジとゲンドウとの対峙のシーンからの、オープン・モノローグの連鎖が、この作品最大のポイントだと思う。

本田透さんは、エヴァの物語はシンジとゲンドウとの関係がポイントである、と喝破していて、「夏への扉」でもその対峙のシーンが描かれていた。

杉田俊介さんも、以下のように述べていた。

 庵野秀明は、本音を隠した人、本当に向き合うべきものに向き合えない人だと僕は思ってきた。今もそう思っている。ただ、時々、庵野氏の作品から滲み出る強烈な悪意が、気になった。その毒気に当てられた。その正体を確認したくて、三〇歳を過ぎてからも、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』を毎回、映画館に観に行った。

 だがやはり、庵野については、そもそもどこか論じ難いというか、何を言ってもこちらの言葉が空転してしまう。そんな感じがしている。なぜだろうか。それは、単純化した言い方になってしまうが、『新世紀エヴァンゲリオン』でいえば、主人公シンジ君の父親であるゲンドウの問題に、庵野が十分に向き合っていないからではないか。息子であるシンジの苦悩や不能をいくら描いても、あるいはシンジ・レイ・アスカ・カヲルたち少年少女の葛藤や愛憎をどんなに描いても、子どもたちはいわば、「父親」としてのゲンドウの代理戦争を戦わされてしまっている。だから、そこにはつねに、虚しい空転の感じがつきまとう。
杉田俊介(2020年10月)「庵野秀明についてのノート」 )

note.com

 

こうしたふたりのエヴァ評・庵野さん評を聴いていた僕は、当然ここに注目して見ていたので、『シン・エヴァ』でのシンジとゲンドウとの対話から始まるオープン・モノローグの連鎖、そして物語の締め方には見応えがあった。

冒頭で触れられた、若い男性たちへの嫌悪的な発言は、ポジティブなものへと終盤で変換されて語られていた。正直、そこで、かなりホッとした。


感動があったか、と言われれば、部分的にはあったが、正直それほどでもなかった。Font-daさんの2021年3月のブログ記事「さよなら、エヴァンゲリオン」を読み、そう言えば映画視聴中に感極まりそうな自分もいたのに、泣くのを我慢してしまったときがあったことを思い出した。そんな自分がいま、かなり気になっている。

font-da.hatenablog.jp


自分を重ねられそうなシーンも、あんまりなかった(カオルがメサコンと演技性の人物だったんだ、と語られていったあたりは、へー、と思って、自分を重ねたくなったりもした。この点も、下記で軽く触れ直す)。

 

(②(後編)へ、続劇)

*1:なお、トウジの描き方を、単純ではない形にしているところが、非常に面白いな、とも思った。トウジの父(ヒカリの父?)がシンジの非礼さを怒った際、トウジはそれを止めようとし、まずはケンスケにシンジを預け、過度過ぎる介入を避けようとしていた。その点を想起すると、トウジは保守的過ぎる男だ、とは言えない。ただ、その後で物語が大分進行していき、それでもシンジが第三村に適応していかないことに対しては、トウジは「そろそろ馴染んだ方が良い」的な物言いをしていた。トウジの思想は、基本的に保守であることを窺わせる。

*2:…だったっけ?トレーラーハウスならぬ、トレインハウスだったような記憶が…

*3:ただ、それは不細工であっても、庵野さんのエヴァの最終作だったからこそ、した方が良いものだったようにも思っていた。上記でも少し触れたが、また後述したい。

*4:…というと、ちょっと作り手への敬意を欠く言い方になってしまうかもしれない。途中までは、「すげー、これが庵野アニメのメカ・戦闘シーンの真骨頂か…」と楽しんでみていたし、戦闘シーンを作り上げた制作陣と庵野さんに対しては、敬意はもちろん感じている。

*5:最終盤で、繰り返し繰り返し、様々な意匠に槍をぶっ刺して終わらせるシーンは、かなりニヤニヤしてしまった。何回やんねん(笑)って。おわりっ! もうホントにホントにおわりっ!って感じで、槍を刺すシーンひとつひとつが、庵野さんの心境を表現しているような気がして、とても面白かった。

*6:つか、情緒不安定はお前だよ、まくねがお…。

*7:今、このブログ記事を書いている時点では、二名の方の批評記事を読んだのと、西井さんともう一人の方の感想を、少し聴いたに過ぎない。西井さんは、戦闘シーンを見ていても、疲れを全く感じなかったそうだ。

*8:やり切ってはいたと思う。僕もミサトのことは、あまり細かくは振り返れていないのだけど、とにかく最後に、滅私奉公的に死んじゃう展開がイヤだった。…不満と言っても、せいぜいそんな程度の印象で。杉田さんの『シン・エヴァ』記事を読んで、僕は全然ミサトのことが視界に入らんかったなあ、と思った。正直、庵野さん(ゲンドウ+シンジ)と自分のこと、そしてレイやアスカたちのことで、もう頭がいっぱいで、ミサトにまで注目できんかったんや…。札幌の劇場公開最終日に見たので、もう劇場では見返すことができず、DVDが出たら、見直してみたい。

まくこくち@20210331

『対抗言論 反ヘイトのための交差路 2号』へ、エッセイ「僕が誰かの声を聴くことはできるか」を寄稿しております〜。

https://twitter.com/makunegao/status/1361305890511446016?s=21

 

西井開さん( @kaikaidev )とのツイキャス共同企画『さまよう男たちの映画夜話』、次回は第22話、ブック朝話として、書籍【マスキュリニティで読む21世紀アメリカ映画】を取り上げます! 日時は4/17(土)朝10時からです〜。

https://twitter.com/makunegao/status/1376157072694288400?s=21

 

ボイトレ評論家のケープラさん(@maoukpp)とのツイキャス共同企画『ミュージック・トークジャムセッション!(ミュージャム!)』を始めます〜。Sesh.1(セッション・ワン)の日時は、4/19(月)夜8時半から。取り上げるのは【うっせえわ】( youtu.be/Qp3b-RXtz4w )です!

https://twitter.com/makunegao/status/1377250404413542400?s=21

 

…詳細は、リンク先のツイートをご覧下さいませ! よろしくお願いします〜。

 

 

僕のメンズリブ実践として、研究のことを書きながら考えてみた

<もくじ>

 

1 はじめに

ケープラさんと、みなさんへ。

僕のメンズリブの実践として、研究モヤモヤ会をはじめてみました。

研究モヤモヤ会は、研究をしている人、もしくは研究をしたいと思っている人が参加できます。「研究のモヤモヤ」を共に持っている、というピア性を大切にして、それぞれの「研究のモヤモヤ」の形を探るように、あれこれ語り合い、聴き合う場です。「研究のモヤモヤ」はあくまでも入り口、脱線大歓迎。

 

また、研究チヤホヤ会、というのも先日やってみました。研究している(研究したい)人が、その内容をみんなにお伝えして、そこから哲学対話を行う、というものです。「研究チヤホヤ会」って名前だと、なんだか誤解を招くので、会の名前を変えて、後日またやっても良いのかなあ、なんて思っています。

それぞれの会のねらいや開催の仕方等については、随時別のブログ記事で公開していきたいです。関心を持った方が、それぞれの形でカスタマイズして挑戦できるようにするために。共有知として。

そして、この記事では、僕がメンズリブの実践として、研究のことを取り上げるに至った経緯をお伝えしたいと思います。 


…と思って書き始めたのですが、書き上げてみたら「みなさん、僕のことをもっとたくさん知って、チヤホヤして下さい!」って記事になりました笑 最近、新たに出会った方々も増えてきたように思うので、僕の自己紹介のつもりで、この記事をアップしようと思います。
長いですが、お暇なときに、ぜひ読んでやってください!

 

 

2 僕とメンズリブ

僕はメンズリブをやりたい人間です。メンズリブとは、男性性(=メンズ)の解放(=リブ)を指す言葉。杉田俊介さん(https://note.com/sssugita/n/nfb8ff0577874)の本を25歳ぐらいから読み続けて、杉田俊介さんのように生きたくて、それで僕はメンズリブをしたいと思うようになりました。

…といっても大仰なことをしようと思っていたわけではなくて、最初はツイッターで「男性性と暴力を考えます」と自己紹介文に書き、関連するツイートをぶつぶつと呟いているだけでした。ツイッターを始めたのは2014年、僕が34歳で、田舎の短大に勤めていて、ひとり暮らしをしていて寂しかった頃でした。

 

2016年、僕のストーキングツイートが届いたのでしょう…笑 杉田俊介さんから連絡をもらい、『男らしくない男たちの当事者研究』というWeb対談をしました(https://wezz-y.com/archives/authors/makunegao)。

 

…というかその前に、杉田俊介さんに声をかけてもらって、一緒に「べてるの家」に行ったんです! 人生最良の三日間!

しかも、しかもですよ! その後出版された杉田俊介さんの本、『非モテの品格』の最後に、僕の「中の人」の実名が掲載されたんです!!

さーもう恥も外聞もなく、チヤホヤを取りに行こう! ほら皆さん、凄い本に名前が載っている僕のことを、もっとチヤホヤしていいんですよ! 早く全世界に拡散して下さーい!! っていうか、『非モテの品格』を早く買って!!

…憧れの人とやりとりして、取り上げてもらって。あの頃から何かがおかしくなったんや…。杉田俊介さんも、ホントに罪なお人やで…。

…現代の木田金次郎! 狂気の世界の彼岸へと旅立った、チヤホヤされポイント露出狂芸人! それが、まくねがお! ジャスティース!!

 

…えー、2019年には西井開さん(後述)に声をかけてもらい、月に一回のツイキャス企画『さまよう男たちの映画夜話』を続けております(https://twitcasting.tv/makunegao/show/)。夜話は僕にとって本当に大切な、持続的な対話の機会になっていて、先日ツイッターアカウントのヘッダーまで変えてしまいました笑
また、2019年にはメンズリブ・グループ『うちゅうリブ』(https://uchu-lib.hatenablog.com/)の環さんとうちゅうじんさん、そして西井開さんとのツイキャス企画『メンズリブ対談』へ参加したりしています(https://twitcasting.tv/fuyu77/movie/553540818)。
そして2019年からは、呼びかけ人のひとりとして地元で『ごめんねギャバン@札幌』というメンズリブ・グループを立ち上げ、ぼちぼちやっております(https://gomennegavan.hatenadiary.com/)。

 

…と、途中で頭がおかしくなりながらも、とりあえずやってきたことを並べたりはしてみましたが。僕がひとりで独自にやってきたのは基本的に、ツイッターで呟くばかりでして。僕がメンズリブをする主体性って、振り返ると実は、あんまり感じられないのです…。
誰かに声をかけられたら、「わーいチヤホヤされそう!」って思って出て行くのですが、一方で地元のメンズリブ・グループの活動には、あんまりコツコツとは取り組めてない…。

杉田俊介さんの文章を読むことにかけては、依存症のように15年近くずっと読み継いできていて(これを『夜話』語録では、杉田俊介中毒、略して「スギ中」と呼びます)、唯一「これは続けてやってきました!」と自信を持って言えるのですが…。それ以外のことについては本当に飽き性で、「メンズリブやってきました!」と言える期間だって、別にそんなに長々とあるわけじゃないし、僕自身がひとりでしてきた活動の内容なんて、なんもないなあ…って感じです。
…うーむ、上で「僕はメンズリブをやりたい人間だ」って書いちゃいましたが。それは果たして本当なんだろうか…。

…チヤホヤされたいことだけは、確かだ。

 

 

3 僕と研究

並行して、僕の研究上の個人史もお伝えします。

僕は大学卒業後に公務員として就職しましたが、そこを二年半で離職して、メンタルの調子も崩して、その後で大学院に入学します。26歳ぐらいから、大学院生として研究したり、保育者養成校の教師をしながら研究したりして来ました。

が、この間に大分回り道をしてきました。研究の仕事の世界で生きることを諦めて、福祉系の仕事に就職したり。また研究の仕事の世界に挑戦したり。そしてまた、諦めたり…。
僕はいま、40歳。半年前に、運よく非常勤の研究職に就くことができ、研究の仕事の世界で生きることに、再チャレンジすることを決めました。

 

研究職以外の社会人経験をしていた期間を除くと、僕が研究に取り組んでいた期間は、大学院生の頃から数えて、約9年間になります。

ところが、最初の6年間は定時制高校の研究をしていて、6年のうちの終盤1、2年は生活困窮者支援の研究に少しだけ浮気をしつつ、今は結局、それらの研究をあんまりやっていません…(研究室のつながりで、いまでもほんの少しだけ、チョコチョコとはやってます…。あと、今の僕が全力で取り組んでる研究内容にも、過去の研究成果が、そこはかとなく、つながってはいるんですけども…)。

 

 僕の研究期間の直近3年間ほどは、保育職志望の若者たちの進路の研究に取り組んでいます。特に最近は、そのサブテーマとして、新人保育者の早期離職研究に取りかかっています。

直近の3年間、というところを、もう少し正確に言うと…。保育者養成校に勤務し始めた年である2014年に、この分野での研究を開始して、2年半ほど研究した後で諦めてしまって、2017年からは研究職を離れてしまいました。

2017年から福祉系の仕事で3年間働き、研究期間としては3年間のブランクを空けてしまった後で、半年前の2020年4月から、過去諦めた研究に再び取り組み始めた、という感じなのです。

そんな経緯で今の僕は、まずは新人保育者の早期離職研究という分野で、職業的研究者の道に再挑戦しようとしています。

 

…正直、ひとつのことに長く取り組み続けることができていなくて、そのことに劣等感を持っています。研究者として、胸を張れるような研究の蓄積や厚みがなくて、今はそのことが特にツライです…。つらいつらい、ぴえん、ぱおん、ぽんぽんペイン…。

僕が2016年3月にがんばって書いた、今の研究に直接連なる論文がWeb上でも読めますので、URLをご紹介します。このブログ記事のように長くて読みづらいと思いますが、僕にとっては大切な論文なので、お暇なときに読んでやって、チヤホヤしてやってください…。そのチヤホヤは、皆さんの心の中でしていただければ良いので…(https://www.jstage.jst.go.jp/article/oojc/53/0/53_KJ00010134339/_pdf)。

 

ということで、僕にとってのいまの切実な悩みは、研究の仕事の世界で今後生きていけるかどうか、なのです。なので、メンズリブをするなら、僕はこのことでしたいなあ、と思いました。

それが、研究モヤモヤ会を始めた理由のひとつめ。

 

 

4 『モテないけど生きてます』と『さまよう男たちの映画夜話』

研究モヤモヤ会をはじめることになった、もうひとつの理由があります。

西井開さんとのオンライン上での対話を持続的に行なってきたことと、『モテないけど生きてます 苦悩する男たちの当事者研究』を読んだこと。それらが決定的でした。

 

僕のメンズリブ思想との出会いは、非モテ男性としての悩みが入り口だったのですが、30歳になって、いまのパートナーに出会いました。僕の中では、「パートナーと出会ったことで、非モテ男性としての悩みが解消された!」と言い切ることにも、非常に抵抗はあったのですが、一方でやっぱり、どこか割り切れないところも残りました。

非モテ男性のことでメンズリブを考えるのは、どこか他人事でやってるような気もする…。

 

そうした思いを決定的にしたのが、『モテないけど生きてます』の読書体験でした(https://www.seikyusha.co.jp/bd/isbn/9784787234766/)。

登場する若い男性の方々はみな、いま悩んでいる切実な苦労を基に集まっている。だからこんな、いきいきとした当事者研究ができるんだ…。
 

研究者でもあり、メンズリブ実践にも具体的に取り組まれている西井開さん(https://gendai.ismedia.jp/list/author/kainishii)と毎月、ツイキャス企画『さまよう男たちの映画夜話』で対話し続けたことも、とても大きかったです。

例えば、映画【桐島、部活やめるってよ】で語り合った時、僕が自分の高校時代の経験をあんまり思い出せなくて(…忘れっぽいだけ?)、そのときの感情も全く振り返れなかったことを思い出します。それは、僕が過去、自分の感情を大切に感じ切ることを、放棄してきたからではなかったか…。

 

引き続き、様々な対話の機会を見つけて、僕自身の過去のことを語りながら、自身の過去の経験と過去の感情を振り返る作業は続けていきたいと思っています。

しかし僕がいま、メンズリブとして必要なのは、いま直面している、研究の仕事の世界での経験とその感情を言語化することじゃないのか。それこそ、いましたらいいんじゃないか。

経験を振り返ったり、そこで生じている感情を探ってみたりすることは、過去のことでするだけじゃなく、いまのことでもやったらいいし、いまやればいいんじゃないか…。


それまでは、どこか自分の中で切り分けをしていたのですね。

メンズリブはプライベートでの、真剣な遊び。仕事の世界とは切り離す。

特に僕の中での、研究職としての格闘部分、もしくは研究職を目指して格闘してきた部分は、メンズリブとしての発信と、直接の関係を持たせないようにしてきました。

アカデミックな場での研究は、ストイックに黙ってがんばるべき。研究は中身のみが問われる実力勝負の世界。淡々と論文を発表し、成果を出す。発表されている論文のみで表現する。ツイッターもブログ記事も邪道。

 

あとは、メンズリブをアカデミズムでの出世の道具にすることに対して、嫌悪感や罪悪感も持っていました。それこそが、メンズリブ思想を裏切る行為なんじゃないのか。メンズリブだと銘打ってあれこれ経験してきたことを、私的所有的に自分の資本へと変えて競争に打ち勝ち、誰かを押しのける独占的な力を獲得して、ある学問領域での社会的地位を確保し、周囲の人々を制圧して支配する。メンズリブをアカデミズムの場で利用することは、脱所有、脱競争、脱支配の発想にそのまま反するんじゃないか…。

…いや、こうした書きぶりは、「わかってる自分」としてカッコつけすぎている。こういうことを書くときの僕のタイピングは、踊るようにグングン進んでいくのですが、多分僕は内心、シンプルにこうも思っていたのです。そもそもツイッターなんかでリアルの研究のことも絡めて発信していたら、研究のアイデアを盗まれるかもしれない。誰かから騙されたり、足をすくわれたりするんじゃないか。他の研究職の人たちから、軽蔑されるんじゃないか…。

 

…それが最近は、「仕事で研究/プライベートでメンズリブ」という自分の中での線引きが、なんだか息苦しいな、というか、ムリをしているな、というような気がしてきたのです。
もっとハッキリ言っちゃうと、研究職を目指してストイックにがんばるの、僕にはムリだな、と笑

自分や誰かを傷つけないために、場所ややり方にこそ気をつけますが、基本的には自分のモヤモヤを外に出していこう、と。こういうモヤモヤをこそ、メンズリブ的に外に出して、自分と問題を分けて、じっくり見つめ、考えていこう、と。そんなふうに思うようになりました。

 

もっとまっすぐ振り返ってみると、2020年9月15日に研究職復帰後初めて論文を一本書き上げて、その時に「さー今後はガンガン論文を書いてガンガン研究進めるぜ! メンズリブは後まわしだぜ!」みたいな気持ちになりそうになったんですね。

「いやいやいや、それちゃうやん」と。「そういうワーホリ(ワーカホリック、仕事依存症)になりそうな男性こそ、メンズリブは必要、ってあんた自身ずっと言ってきたんちゃうのん?」と。ツイキャスで話すことによって気づかされて、以降はそんな声が脳内でガンガン響いてきてですね…。

…そして結局、別にそんな声とは全く無関係に、ガンガン研究を進めることもできなくなって。それは単に、飽き性の自分の問題で。

ひとり孤立して研究して、チヤホヤされないことに対してもツライ、あ、つらいつらいっ! ぴえんぴえん、ぱおん、ぱおーん!…って気持ちになったから、このブログ記事も書いておるわけです…。

 

 

5 僕の苦労

なんで僕が職業的研究者の世界へ再挑戦しようと思ったか。

福祉系の仕事が過酷で、また低賃金だから。福祉系の仕事、僕は好きなんです。できればやり続けたいと思った。

でも、三年前にフルタイムで働いていたら、キツくて二年ぐらいでバーンアウトしてしまいました。それで昨年の一年間はパートを組み合わせて働いていたら、身体も楽でいきいき暮らせたけど、年収が100万に満たなかった。

年収が安くても暮らせる、シンプルライフを目指して試行錯誤していましたが、一年前に非常勤の研究職のポストに挑戦できる機会が来た(←ここが僕の下駄・貴族ポイント…)ので、ついつい「もう一度…」と思ってしまったのです。

あと、「研究職の仕事、やっぱりオレに向いてんじゃね?」とも思ってしまったんですよね、一年前ぐらいに。んで最近は、その気持ちに揺らぎが生じてます…。「向いてねーなー、オレ…」って。

…んもー、健忘症の僕は、いつまでこうした「向いている/向いてない」の行きつ戻りつを繰り返すのか。早期離職、これが僕の「心の穴」か…。


なんとか正規雇用の研究職の席を得たい。将来の金銭的な不安から解放され、安定して安心できる暮らしをしたい。そんな気持ちが、僕にはある…?

…いやいや。現在の正規雇用の研究職のポストも、決して安心できる世界ではないようにも見えるんだけども。あと、すっげー過酷そう…。

 

…うーん、正規雇用の研究職のポストが得たい、って言葉も、僕の気持ち的にはちょっと違うかなあ。

ぶっちゃけ僕は、保育者養成校の教師として再就職し、僕自身のワークライフバランスも守れるような働き方がしたいんすよね。授業期間は学生さんへの教育に集中して。授業の長期休み期間を使って、年一二本ぐらいのペースで論文を書きたいな。その論文も、あくまでも学生さんへの教育に資するような研究として書きたい。一応、いまもそのつもりで書いてるんすよね…。

僕は非常勤講師とかで大学や短大で教えて五年ぐらいになるんですけど、学生さんへの授業、めっちゃ楽しいんですよね。学生さんへの教育の方が、僕は向いてるんじゃないかしら(←あっ)。学生さんからの評判も良いしー。毎年学生さんから「授業面白かったです!」「まく先生めっちゃイイ人!」ってチヤホヤされるしー。…お世辞?

 

とにかくですね、研究者として一流になるのは、40歳なのでもう無理で、ただそれなりに学生さん思いのマジメな(しかしやりがい搾取には呑み込まれない!)大学・短大教師として、そこそこ苦しく、そこそこ楽しく、息長く暮らしていきたいんですよね。

60歳までは後20年、まあ僕がおじいちゃんになった頃は完全に死ぬまで現役人生だろうから、後30年間ぐらいはあるかしら。残りの人生は、そんな仕事の世界で生きていきたいなあ、と。

 

…あーあ、若い人のポストを奪うようなこともしたくないんだよなあ。いやいや、もちろんそんなこと言ってられないんだけども。
でも言わせてもらえれば、僕もロスジェネ世代で、奪われた感、あるんだよね。
…いや、ないか。僕のケースだけは、自己責任か…。
…いや、わかんないな。その言い方は明らかに自虐し過ぎか…。
…でも、わかんないな。過去の自分の経験も大切に尊重したいけど、とにかく、うーん、わかんない。

だいたい、僕は男性で。保育者養成校の教師兼研究職のポストって、女性たちにこそ開かれるべきな気もする…。それを「男」という下駄を履いて奪いにいこうとしている、そんな僕…。うー、つらいつらい…。

 

そんなわけで(?)、僕よりかなり年配の男性の正規雇用の研究職の人で、余裕があるような感じがちょっとでも見えると、滅茶苦茶殺意が湧くんですよね、ぶっちゃけ。

テメーの椅子を早くよこせ、と。席を空けろ、と。何十年間いくらの給与もらってんだ、安定した位置にいるクセにちんたらちんたらくだらん研究と教育してんじゃねーぞ、給与付きデイサービスかここは!と。テメーらの研究の結果、この社会が、オレら以下の若い世代がどうなったのか、ちょっとでも考えて責任感じたことあんのかよ! この事実だけで即刻退場だテメーらは! 無能な老害貴族どもはとっととこの世界から消えて、現場の邪魔にならないように努力しながらちょっとでもエッセンシャルワークして社会に貢献して、空いた時間のプライベートで葉巻でも燻らせながらしこたま貯めた金使って自称「研究」の自己満オナニーでもしてろよオラァ!!

…って気持ちになるの。

…あのう、男性で僕よりも年上の正規雇用の研究職の方がここまで読んでくれていて、こんなクソみたいな言葉が目に飛び込んできて、それで悲しい気持ちになってたら、本当にスンマセン。僕は皆さんとも、語り合い聴き合う場で出会いたいのです、本当は。僕の中に、モンスターがいるんです。対話が、モンスターを人へと変えるんだと思うのです。


…こんな狂気の脳内会話を繰り返したりしながら、色々迷いつつ、しかし思い定めた道なので、中途半端にまた投げ出すんじゃなくて、やれるだけやってみよう、と。葛藤しながら、社会に対して何ができるかなんだよなあ、と自分に言い聞かせながら。

とにかく今は保育者養成校の正規雇用のポストを目指そう、そのために論文書いて研究を進めよう、と今の僕は思っておるわけですよ。今もぶっちゃけ、どうせ研究業績が足りなくて落ちるだろう科研費の基盤研究Cの申請書を作りながら、「つらいつらい…、ぱおーん!」と思ってはこのブログ記事の下書きに戻って来て、呪詛の気持ちを抱えつつそれを制御しながら書いて、また申請書づくりに戻って…、てのを繰り返してるんですよね。

何がつらいって、アカデミックな研究を進める過程で、どうしても気持ちを割り切ったり、感情を押し殺したりしなきゃいけない、そんな気がしてしまうのですよ。論文書かなきゃ、競争的研究資金を獲得しなくちゃ、就職できないですから。揺らぎと、そして怯えを打ち消そうとしてしまうんですよね。

無駄を排せ! 絞って調べろ! 脇道逸れんな!  論文書け! 足りないぞ! 競争的資金取れんぞ! こんなブログ書いてる暇ねえぞ! つか単なるADHDだろ! 同業者はみんなオマエを見てバカにしてるぞ! ってかこんな文章をブログ記事で全世界に公開して就職できると思ってんのか、底抜けのバカかオマエは!!

…ぱおおおおーーん!!!

…ま、まだ研究職に復帰して半年ですけど、こんなヤンデル文章をついつい書いてしまうぐらい、もうツライツライと思い始めているのです。弱い僕には、これまでもなかなか耐えられませんでしたし、いまでも間違いなくそうなのです。つらいつらいぴえんぱおんぽんぽんペインまくねがおなんですよう。

 

 

6 僕の研究

もう、何かにしがみつくようにいま、必死に思っていることを言葉にすると、いまの僕が豊かに生きるためには、この権力獲得の階段をかけ上がろうとする過程で、その世界で思ったり感じたりしていることを、外に開かないと、耐えらんないっ! もうたまんないっ! って感じなんです。

年配男性の正規雇用の研究職の方々に対する嫉妬と暴言からのつらいつらいぱおーんで、僕のいまはもう正直、魂が抜けてしまっておるのですが…。なのでしょうがない、急ですが、飛躍もしてますが、とにかくそう思ったんですね。よくわかんないですけども。

 

ただ、ここまで書いた気持ちも真に本当なんですけど(たぶん…)、一方で、野心的な僕がいることも確かで…。

研究の仕事の世界で生きていくことを目指して、右往左往している自分の感情を外に出すこと、もしかしたらそれは結果的に、メンズリブの共有知をさらに豊かにすることにもつながるんじゃね?と。

過去のメンズリブの実践も、研究職の方が参加して、そうじゃない男性たちとの分断が生じ、それもあって第一期が終わった、みたいなことを、どっかで読んだ記憶があって。

研究職の方としてがっつり、その内側をメンズリブ的に言語化した唯一の人って、森岡正博さんだと思うんですね。ただ、森岡さんは正規雇用の研究職についた後、メンズリブ的な言語化に挑戦されてましたが、まだ安定したポストを得ていない、しかし研究をしている(研究をしたいと思っている)人が、メンズリブ的な言語化をしてみると良いのかなあって。それに、森岡さんは自らの性的欲望にターゲットを絞ってメンズリブ的に言語化してましたが、「研究職としての自分」を真正面からメンズリブ的に言語化することって、まだ誰もやってなくて、しかも必要な気がするんだよなあ。

…っていうか、僕にとっての切実な苦労が、「研究職としての自分」なので。あくまでも僕から始めることにして、メンズリブの共有知をさらに豊かにすることについては、あんまり考えないようにしておきます。…って思ったことは、だいたい後でメチャクチャ考えちゃうんですけどね。まあ、なんとなく、なるべく外には開いておこうと思ってるんですよ。そうした方が良い気がする、直観として。

…いや、とにかくチヤホヤされたい野心があるだけか。これだけは、確かだ。チヤホヤを求める僕、それでパフォーマティブになりがちな自分に対して、僕自身が強く警戒しています! フゥー(裏声)、僕の足場としての「チヤホヤ」~!

 

…野心が僕の中にあることは認めて、その形を確かめつつ。しかしその野心で政治的にしか言葉を語れなくなったら、きっと僕はおかしくなるような気もするのです。僕は、ただ、いま、つらい、と言いたい。

非モテ意識に苦しめられながらも、僕は、モテるようになればこの苦しみがすべて解消されるとはとても思えなかった。モテたいという気持ち以上に、誰にも話せないこのつらさを話したいという気持ちのほうが大きかった。そして何よりも、非モテのつらさをひとしきり吐き出して楽になることで、自分の課題に向き合えるようになりたかった。だから、非モテ研のワークシートを見たときに、「ここでなら、つらいことを吐き出してもバカにされずに聞いてもらえる」と感じられたのだと思う。

 何回も非モテ研に通うなかで、少しずつつらい思いを吐き出していった。一人でいるときに、SNSで知り合いが幸せそうにしているのを見るのがつらいこと。「女性は性的に勝ち組の男ばかり選ぶ」という考えに共感してしまうこと。自分は負け組男性で、そんな自分を選ぶ女性などいないと思っていること。自分だけが置いてけぼりにされているように感じていること。好きな人とあんなことやこんなことする妄想がやめられないこと。ときにはグロテスクな偏見を開陳することもあったけど、西井さんをはじめとする非モテ研の仲間は、それらを否定することなく聞いてくれた。おかげで僕も、安心して徐々に思いを吐き出せるようになっていった。

 つらい思いを吐き出すことで、自分のなかに巣食う幽霊も同時に吐き出すことができる。完全に吐ききることはできなくても、いつの間にか自分の手で扱えるほどには幽霊が軽くなっていることに気づく。幽霊が軽くなったことで、少しずつ、現実と向き合うだけの余裕が自分のなかに生まれてきた。」

(歌男〔2020〕「非モテ幽霊の研究」ぼくらの非モテ研究会編『モテないけど生きてます 苦悩する男たちの当事者研究』、pp.184-185)

 

…そして「ただ、いま、つらい、と言いたい」気持ちは、研究や学問の世界と矛盾するものでもないはずです。むしろ研究や学問に惹かれた誰もがみな、底に持っている固有の何か(≒特異性?)と、関わっているとも思うのです。

「教師になろうと思い定めたわたしは、人の学業の成否は、自分の生を証しする作業と緊密に結びついていると考えていた。そのことを明らかにしたいと熱望していたので、しばしば当然のことと考えられている心とからだの分離を、わたしはたえず疑問に付すようになった。

 心身の分離を認めず、心・からだ・魂の統一を重視する哲学に立脚して学習論を展開すると、たいていの教師たちは、つよく反対する側にまわるか、露骨に軽蔑的な反応を示すのだ。いまわたしが教えている学生たちのほとんどが経験しているように、かつてのわたしも、有力な大学教授たちから、そんな考えにこだわっていると大学という世界では通用しないと言われてきたのである。

 学生時代を通して、わたしは密かに悩んでいた。心晴れやかに生きていきたいと思い、非合理な行動、脅迫的な出世競争への同調を避けていると学者としての将来が危うくなるのではないかと、そんな不安を打ち明ける学生たちに接すると、わたしの当時の痛みがぶり返してくる。あのころのわたしがそうであったように、そんなことを口にする学生たちは、しばしば疑心暗鬼の心境なのである。自分と向き合う意欲が肯定される空間なんて、大学制度のどこを探したって見当たらないのではないか、と。

 こうした疑心暗鬼は、いまも学生たちの間に蔓延している。多くの大学教師たちが、知ることへの意志を、なることへの意志と結合する開放的な教育のヴィジョンにひどく敵対的な態度をとっているからだ。教師たちが何人か集まると、苦々しげな愚痴や不満がよく交わされるものだ。学生たちは授業を『エンカウンター・グループ』のようなものにしたがっているというのだ。学生達が授業をセラピーの集まりと心得ているとしたら、それはまったくの見当違いだが、学生たちが、教室で教えられた知識が自分を高めたり、豊かにしてくれることを希求するのは当然のことだ。

(中略)わたしがいま出会っている学生たち(は、中略)絶望はしているけれど、教育は解放的なものであるべきだという思いに揺らぎはない。かつてのわたしの世代よりも、もっと多くを教師たちに求め、要求している。わたし自身、心に傷を負った学生たちで溢れかえる教室に足を踏み入れることが少なくないが(その中の多くの者は、実際にセラピーに通っている)、だが、そうした学生たちがわたしにセラピーを求めているとは思わない。学生たちが求めているのは、癒しとしての教育、ただし、未知なる精神に光を投じるという意味での癒しの教育なのだ。学生たちは、意味ある知識を求めている。いま学びつつあることと、自分たち自身の生活体験との結びつきをなんら示唆することなしに、ただ情報だけを提供するような授業を、わたしやわたしの同僚にやって欲しくないと、正当にも求めているのである。」

(ベル・フックス〔1994〕『とびこえよ、その囲いを ― 自由の実践としてのフェミニズム教育』pp.24-25)

 

…なので、僕も「ただ、いま、つらい、と言いたい」気持ちをまっすぐに語り、他の人の言葉も、まっすぐに聞ければなあ、と思います。いや、まっすぐには語れないこともあるので、ときにはただ、モヤモヤとありたいです。野心があることを認めつつ、野心で口や耳を歪ませることなくまっすぐに、ときにはただモヤモヤと、誰かと共にいることができれば、こんなハッピーなことはないんですよね。

 

 

7 おわりに

どんどん長くなってきて止まらないんで、そろそろ止めます。言葉の出方が自由な感じになってきて、書いていて爽快です。僕は本田透さんの、ユーモアも用いてのびのび書いていく姿が大好きだったんですよね。途中から気がつくと、僕の中の本田さんも取り戻すつもりで書いていました。

しかし、僕の文章を読んでくれた側は、果たしてどう感じているんだろう…?

 

自分から始めるのがメンズリブ

原点に立ち戻り、なんだかスッキリしました。これまではツイッターやブログで色々とつまみ食い的に発信してきましたが、ひとつの軸を持ちながら、僕の僕自身に対する責任へ応答していくような道が、なんとなく見えたような気もする。

ずっとしたかったのは、こういうことではなかったか。自身の欲望を認め、その形を探りつつ、ありのまま尊重しようとする勇気を、色んな方々の姿勢から学んだ気がしています。

…まー、油断はできなくて。環さんからは「まくさんはすぐに、オレが考えた最強のメンズリブを言いたがる(が、実践はしない)」と批判を受け続けておりまして…笑 …ありうる!!笑
 
でも、それでも良いんじゃないかな。モヤモヤを外に出せて、チヤホヤしてもらえる(≒関心を持ってもらい、存在を承認してもらえて、世界は優しいと確認できる)と、僕は安心していきいきできる気がしています。弱さをオープンにして、助けてもらえる、そんな世界であってほしい。こんな自分の欲望がわかっただけで、きっと良いのです。

実践の形式など、きっと問題ではないのですし、やり続けることが正義であるとも限らないはずですから。…正直、あんまり僕にはそう思えないんだけどね。ADHDの自分がキライすぎる…。まあとにかく、このブログ記事を書くことだって、きっと僕にとってのメンズリブ実践なんだよね。

こんな感じで、ぼちぼちやっていきますので、ぜひ皆さん、今後ともモヤモヤしている「まくねがお」を、チヤホヤして下さい!!


あ…、ごめんねギャバン@札幌も、きっとまたやると思いますので、そんときは皆さんよろしくお願いします…。

研究モヤモヤ会、はじめました!

研究モヤモヤ会は、研究のモヤモヤを語る場です。


参加資格は、研究していて、もしくは研究したいと思っていて、モヤモヤすることがある人です。

 

おひとりが語り手さんになり、最後まで語ります。
語り終えたら聴き手さんたちは、質問や感じたことを語ります。それを聴いて語り手さんが応答したければ、応答をします。
それを、繰り返していきます。語り手さんを順番に回していきますが、パスもありです。

 

それぞれ、自分のモヤモヤの形を探るように語り、聴いてみましょう。自分の経験や気持ちから語り、また、自分の経験や気持ちを探るようにして、聴いてみましょう。
「研究のモヤモヤ」が入り口ですが、語りながらの脱線はもちろんありです。脱線のできなさが、「研究のモヤモヤ」のひとつのような気もするので…。

 

語り手のときも、聴き手として質問や感想を言うときも、語るときは途中で語るのをやめても良いし、わからなくなっても良いです。語るときは、自分に集中しながら語ってみましょう。

 

語り手さんの最初のひとり語りは、一応、15分立ったら一声おかけします。最後まで語る、と言っても、どこが最後かわからなくなったり、時間が気になってしまうことがありえますので。
15分経ったら一声かけますが、あくまでもそれは一区切りで、もう少しモヤモヤを語れそうだな、という感じがしたら、遠慮なく「もう少し語ります」とおっしゃってください。
語り手さんには、最後まで語る自由があります。安心して、語ってみてください。

 

ひとり語りを終えたら、その後は質問や感想出し、その応答をする時間となります。
そのときのルールは二つ。参加者の人格を否定したり、責めたり、マウントしたりはしないこと。そして会の終了後、ここで聴いた内容を個人特定される形で外には漏らさないこと。
安全で安心に語り合い、聴き合うためのルールとなります。

 

なお、会はZoom で行いますが、会の間の顔出しは自由、声のみ参加ありです。

 

形は違うかもしれませんが、皆さんが研究のモヤモヤを持っています。
聴いているときは、互いに関心を持ち合い、その声に耳を傾けてみましょう。

 

以上です。
安全で安心な環境にして、暴力を防止するための配慮と、互いへの敬意と尊重を大切にする、そんな研究モヤモヤ会を皆さんと一緒に作っていけたらな、と思っています。

 

★ 第1回は、以下のような形で実施。
・ 最大5名。まくねがおのツイート※に反応をくれた方3名、まくねがおの友人で研究するかどうか検討中の方1名、まくねがおで開催。

← 結局3名参加となったが、それでも時間が足りない感じ…。最大5名ではなく、最大4名募集がテキトウか?

 

・ 2時間程度、オンライン・Zoomで行い、クローズドで開催。


・ 10/7(水)午後6時~午後8時まで(本編)

 

 

※まくねがおのツイート(2020年9月30日)

今週の土日に某学会のお手伝いがあり。分科会のタイムキーパー係なんだけども。とりあえずその準備を終えた。明日と明後日は福祉現場のパートがあるから、今日の午後は色々やらなくちゃなあ。→

→某学会のお手伝い、僕なんかはどうってことなくて、昨日の夜にちょろっとリハーサルに参加して、さっき小一時間準備する程度で負担はおしまいだったんだけども。運営を中心に担っている方々の心労等を想像すると、くらーい気持ちになったりするんだよね…

→秋は学会のシーズンで、今年はオンライン開催。まー慣れないことが多くて、色々と調整に時間がかかるんだな、ということがよく分かり。後期も始まるタイミングだから、オンライン授業の準備諸々も同時に降りかかって。その他大学運営の仕事もあり、詳しく聴いてないけど酷い労働時間なんだと思う…。

→僕は非常勤研究員で非常勤講師もしていて、学会運営とか大学運営の仕事はタッチしないで済む立場なんだけど、僕は僕で科研申請と論文投稿とをして、何とか競争的資金を獲得したり業績積んだりしないと、先がない立場だから…。でも、正規の研究職の方に相談したり弱音を吐くのも気が引けてね…。

→立場は違うんだけど、多分みんな追い詰められた気持ちになりながら仕事してると思うんだよなあ。研究職の仕事って、締め切りが設定されて、自分を追い詰めながらどんどんインプットしてアウトプットして…、みたいなメンタル管理のお仕事って感じがする。

→同時に、研究職の仕事の根幹って、これまでのアカデミズムで発表されたものを踏まえて新たな成果を発表する、って要素があって。それが、競争的な気持ちだとか、攻撃的な気持ちだとか、あとは秘密主義的な気持ちにもつながりがちな気がするのね。

→そのせいで、益々愚痴や弱音は吐けないような気がしてさ…。誰かに足下をすくわれるんじゃないか、とか、アイデアを盗まれるんじゃないか、とか。自身がそんな葛藤を抱えて仕事をしているので、他の研究職の人たちもみんなそんな心性がある気がしてきて、余計に弱さを出せない気もして…。

→…まあね、ひとりでいるときは、ホントにそんなことがよく頭をよぎったりするんだけど、用事で対面で研究職の同僚とかと話すときは、そこまで他者への不信感に塗れて話さずに、相手を信頼しながら会話できるんだけどね。今もひとりで研究室にいるけど、孤立して作業することが苦悩を深めるんだよな。

→アカデミズムの場で新しい成果を生み出すってことも、当事者研究の発想のように、本来は共有財産として、非所有的にその成果を扱ってアカデミズム全体として豊かな知を生み出すのが本来なはずなんだよな。それが個人のサバイブと結びつくから、「盗まれちゃいけない」感とかが出てきちゃう…。

→昨日もダベルの哲学対話に参加したけど、楽しいなって思った。安心してあれこれ語るって、やっぱり必要なんだよな。それに、できるんだよ。きっと研究職だってできる。

たかまつななさんが、芸能人の自助グループにつながってあれこれ語ることの重要性を発信しはじめたけど、安心して語るコミュニティづくり、研究職でもできないかしら。

→…個人的には、もう科研の申請が迫って来ていて、締め切りの一週間前ぐらいに完成させ、それを誰かに説明する機会を作りたいんだよね。もう完全に自己利益っていうか、僕の仕事の都合なんだけども。

→二週間前に投稿論文を何とか書き上げたんだけど、そのときも多動の僕の悪い癖で、人に読めるようなレベルの出来になったのが締め切り前日。せめて一週間前には仕上げて寝かせて見直さないと、みたいな気持ちが超あるんだけど、それができなくてね…。

→…まあなあ、それを助けを借りずに自己管理ができる人が研究職になれるし、多分なっているのであって、多動な僕にはやっぱり難しいのかしら、と思う気持ちが正直強いんだけんども。多分様々な語り合いのグループの手法で行くなら、こういう僕みたいな気持ちについて語り合うと良いのだろうな。

→シンプルにサバイブ的な自己利益で助けを求めると、「締め切り一週間前に仕上げるから、だれか読んで!」ってことなんだけど。あとはまた別の場として、ここまで散々うねうね呟いていたことに共鳴して、自分もうねうね語りたいって方がもしいたら、語り合いませんか。

→「科研の申請書を締め切り一週間前に仕上げるから、誰か読んで!」に関しては、心優しい人がいたらマジで誰でも良いです。科研って、専門分野以外の人が審査するので、申請書はできるだけわかりやすく書かなくてはならんのです。なので、研究したことない人でも可。どなたでも…。

→研究職としてのモヤモヤする気持ちを語る場については、僕は40歳の男性の非常勤研究員で、できれば僕と同じような境遇だとありがたいのだけど、なかなかそんな人もいないと思うので…。ちょっと迷うけど、正規の研究職でも大学院生やODの方でも、若い方でも年配の方でも、どんな方でも…。

→…関心ある方は、気軽にお声がけください。うねうね呟いてたら途中で相談になって最後はお願いになった不思議! さー、ぼちぼちやるぞう…。


以上。

 

ツイキャス【男性性と哲学対話、おかわり!】のご案内

みなさん、どうもこんにちは! まくねがおです〜。ブログ記事にて、ツイキャスライブのご案内です!

 

9/23(水)夜9時から、ツイキャス【男性性と哲学対話、おかわり!】(https://twitcasting.tv/makunegao)を行います。

9/5の哲学プラクティス連絡会「男性性と哲学対話」に参加した西井開さん(@kaikaidev)、山本和則さん(@sangpong25)の三人で、あの日のあの時間を振り返ります〜。

 

あの日のあの時間は、「男」「女」といった代表性が前に出過ぎてしまい、ひとりひとりの小さな物語が埋もれてしまって、あまり豊かな対話の場になっていなかったのではないか…。

聴いてくれていて、しかし声をあげられなかった方の中に、傷つきが生じてしまった可能性はなかっただろうか…。

 

こうした事態に陥ったとき、どうしたら良いのでしょうか? 

そもそもぼくらが当日に男性としての代表性を帯びながら語り、聴くことになった、その意味や課題とは、いったい何なのでしょうか?

また、 哲学対話は、互いの細かな差異を語り合い、理解し合うことに、どんな貢献をしてくれるのでしょうか?

 

以上のような問いを念頭に、当日は男性特権について、より深く考えてみたいです。

マジョリティとマイノリティの不均衡の中での哲学対話は、いかに可能なのか。そんな問いなどについて、少しでも思考を深められる対話ができれば嬉しいです〜。

 

9/23(水)夜9時は、まくねがおのツイキャス(https://twitcasting.tv/makunegao)まで、ぜひお越しくださいませ~。