僕のメンズリブ実践として、研究のことを書きながら考えてみた

<もくじ>

 

1 はじめに

ケープラさんと、みなさんへ。

僕のメンズリブの実践として、研究モヤモヤ会をはじめてみました。

研究モヤモヤ会は、研究をしている人、もしくは研究をしたいと思っている人が参加できます。「研究のモヤモヤ」を共に持っている、というピア性を大切にして、それぞれの「研究のモヤモヤ」の形を探るように、あれこれ語り合い、聴き合う場です。「研究のモヤモヤ」はあくまでも入り口、脱線大歓迎。

 

また、研究チヤホヤ会、というのも先日やってみました。研究している(研究したい)人が、その内容をみんなにお伝えして、そこから哲学対話を行う、というものです。「研究チヤホヤ会」って名前だと、なんだか誤解を招くので、会の名前を変えて、後日またやっても良いのかなあ、なんて思っています。

それぞれの会のねらいや開催の仕方等については、随時別のブログ記事で公開していきたいです。関心を持った方が、それぞれの形でカスタマイズして挑戦できるようにするために。共有知として。

そして、この記事では、僕がメンズリブの実践として、研究のことを取り上げるに至った経緯をお伝えしたいと思います。 


…と思って書き始めたのですが、書き上げてみたら「みなさん、僕のことをもっとたくさん知って、チヤホヤして下さい!」って記事になりました笑 最近、新たに出会った方々も増えてきたように思うので、僕の自己紹介のつもりで、この記事をアップしようと思います。
長いですが、お暇なときに、ぜひ読んでやってください!

 

 

2 僕とメンズリブ

僕はメンズリブをやりたい人間です。メンズリブとは、男性性(=メンズ)の解放(=リブ)を指す言葉。杉田俊介さん(https://note.com/sssugita/n/nfb8ff0577874)の本を25歳ぐらいから読み続けて、杉田俊介さんのように生きたくて、それで僕はメンズリブをしたいと思うようになりました。

…といっても大仰なことをしようと思っていたわけではなくて、最初はツイッターで「男性性と暴力を考えます」と自己紹介文に書き、関連するツイートをぶつぶつと呟いているだけでした。ツイッターを始めたのは2014年、僕が34歳で、田舎の短大に勤めていて、ひとり暮らしをしていて寂しかった頃でした。

 

2016年、僕のストーキングツイートが届いたのでしょう…笑 杉田俊介さんから連絡をもらい、『男らしくない男たちの当事者研究』というWeb対談をしました(https://wezz-y.com/archives/authors/makunegao)。

 

…というかその前に、杉田俊介さんに声をかけてもらって、一緒に「べてるの家」に行ったんです! 人生最良の三日間!

しかも、しかもですよ! その後出版された杉田俊介さんの本、『非モテの品格』の最後に、僕の「中の人」の実名が掲載されたんです!!

さーもう恥も外聞もなく、チヤホヤを取りに行こう! ほら皆さん、凄い本に名前が載っている僕のことを、もっとチヤホヤしていいんですよ! 早く全世界に拡散して下さーい!! っていうか、『非モテの品格』を早く買って!!

…憧れの人とやりとりして、取り上げてもらって。あの頃から何かがおかしくなったんや…。杉田俊介さんも、ホントに罪なお人やで…。

…現代の木田金次郎! 狂気の世界の彼岸へと旅立った、チヤホヤされポイント露出狂芸人! それが、まくねがお! ジャスティース!!

 

…えー、2019年には西井開さん(後述)に声をかけてもらい、月に一回のツイキャス企画『さまよう男たちの映画夜話』を続けております(https://twitcasting.tv/makunegao/show/)。夜話は僕にとって本当に大切な、持続的な対話の機会になっていて、先日ツイッターアカウントのヘッダーまで変えてしまいました笑
また、2019年にはメンズリブ・グループ『うちゅうリブ』(https://uchu-lib.hatenablog.com/)の環さんとうちゅうじんさん、そして西井開さんとのツイキャス企画『メンズリブ対談』へ参加したりしています(https://twitcasting.tv/fuyu77/movie/553540818)。
そして2019年からは、呼びかけ人のひとりとして地元で『ごめんねギャバン@札幌』というメンズリブ・グループを立ち上げ、ぼちぼちやっております(https://gomennegavan.hatenadiary.com/)。

 

…と、途中で頭がおかしくなりながらも、とりあえずやってきたことを並べたりはしてみましたが。僕がひとりで独自にやってきたのは基本的に、ツイッターで呟くばかりでして。僕がメンズリブをする主体性って、振り返ると実は、あんまり感じられないのです…。
誰かに声をかけられたら、「わーいチヤホヤされそう!」って思って出て行くのですが、一方で地元のメンズリブ・グループの活動には、あんまりコツコツとは取り組めてない…。

杉田俊介さんの文章を読むことにかけては、依存症のように15年近くずっと読み継いできていて(これを『夜話』語録では、杉田俊介中毒、略して「スギ中」と呼びます)、唯一「これは続けてやってきました!」と自信を持って言えるのですが…。それ以外のことについては本当に飽き性で、「メンズリブやってきました!」と言える期間だって、別にそんなに長々とあるわけじゃないし、僕自身がひとりでしてきた活動の内容なんて、なんもないなあ…って感じです。
…うーむ、上で「僕はメンズリブをやりたい人間だ」って書いちゃいましたが。それは果たして本当なんだろうか…。

…チヤホヤされたいことだけは、確かだ。

 

 

3 僕と研究

並行して、僕の研究上の個人史もお伝えします。

僕は大学卒業後に公務員として就職しましたが、そこを二年半で離職して、メンタルの調子も崩して、その後で大学院に入学します。26歳ぐらいから、大学院生として研究したり、保育者養成校の教師をしながら研究したりして来ました。

が、この間に大分回り道をしてきました。研究の仕事の世界で生きることを諦めて、福祉系の仕事に就職したり。また研究の仕事の世界に挑戦したり。そしてまた、諦めたり…。
僕はいま、40歳。半年前に、運よく非常勤の研究職に就くことができ、研究の仕事の世界で生きることに、再チャレンジすることを決めました。

 

研究職以外の社会人経験をしていた期間を除くと、僕が研究に取り組んでいた期間は、大学院生の頃から数えて、約9年間になります。

ところが、最初の6年間は定時制高校の研究をしていて、6年のうちの終盤1、2年は生活困窮者支援の研究に少しだけ浮気をしつつ、今は結局、それらの研究をあんまりやっていません…(研究室のつながりで、いまでもほんの少しだけ、チョコチョコとはやってます…。あと、今の僕が全力で取り組んでる研究内容にも、過去の研究成果が、そこはかとなく、つながってはいるんですけども…)。

 

 僕の研究期間の直近3年間ほどは、保育職志望の若者たちの進路の研究に取り組んでいます。特に最近は、そのサブテーマとして、新人保育者の早期離職研究に取りかかっています。

直近の3年間、というところを、もう少し正確に言うと…。保育者養成校に勤務し始めた年である2014年に、この分野での研究を開始して、2年半ほど研究した後で諦めてしまって、2017年からは研究職を離れてしまいました。

2017年から福祉系の仕事で3年間働き、研究期間としては3年間のブランクを空けてしまった後で、半年前の2020年4月から、過去諦めた研究に再び取り組み始めた、という感じなのです。

そんな経緯で今の僕は、まずは新人保育者の早期離職研究という分野で、職業的研究者の道に再挑戦しようとしています。

 

…正直、ひとつのことに長く取り組み続けることができていなくて、そのことに劣等感を持っています。研究者として、胸を張れるような研究の蓄積や厚みがなくて、今はそのことが特にツライです…。つらいつらい、ぴえん、ぱおん、ぽんぽんペイン…。

僕が2016年3月にがんばって書いた、今の研究に直接連なる論文がWeb上でも読めますので、URLをご紹介します。このブログ記事のように長くて読みづらいと思いますが、僕にとっては大切な論文なので、お暇なときに読んでやって、チヤホヤしてやってください…。そのチヤホヤは、皆さんの心の中でしていただければ良いので…(https://www.jstage.jst.go.jp/article/oojc/53/0/53_KJ00010134339/_pdf)。

 

ということで、僕にとってのいまの切実な悩みは、研究の仕事の世界で今後生きていけるかどうか、なのです。なので、メンズリブをするなら、僕はこのことでしたいなあ、と思いました。

それが、研究モヤモヤ会を始めた理由のひとつめ。

 

 

4 『モテないけど生きてます』と『さまよう男たちの映画夜話』

研究モヤモヤ会をはじめることになった、もうひとつの理由があります。

西井開さんとのオンライン上での対話を持続的に行なってきたことと、『モテないけど生きてます 苦悩する男たちの当事者研究』を読んだこと。それらが決定的でした。

 

僕のメンズリブ思想との出会いは、非モテ男性としての悩みが入り口だったのですが、30歳になって、いまのパートナーに出会いました。僕の中では、「パートナーと出会ったことで、非モテ男性としての悩みが解消された!」と言い切ることにも、非常に抵抗はあったのですが、一方でやっぱり、どこか割り切れないところも残りました。

非モテ男性のことでメンズリブを考えるのは、どこか他人事でやってるような気もする…。

 

そうした思いを決定的にしたのが、『モテないけど生きてます』の読書体験でした(https://www.seikyusha.co.jp/bd/isbn/9784787234766/)。

登場する若い男性の方々はみな、いま悩んでいる切実な苦労を基に集まっている。だからこんな、いきいきとした当事者研究ができるんだ…。
 

研究者でもあり、メンズリブ実践にも具体的に取り組まれている西井開さん(https://gendai.ismedia.jp/list/author/kainishii)と毎月、ツイキャス企画『さまよう男たちの映画夜話』で対話し続けたことも、とても大きかったです。

例えば、映画【桐島、部活やめるってよ】で語り合った時、僕が自分の高校時代の経験をあんまり思い出せなくて(…忘れっぽいだけ?)、そのときの感情も全く振り返れなかったことを思い出します。それは、僕が過去、自分の感情を大切に感じ切ることを、放棄してきたからではなかったか…。

 

引き続き、様々な対話の機会を見つけて、僕自身の過去のことを語りながら、自身の過去の経験と過去の感情を振り返る作業は続けていきたいと思っています。

しかし僕がいま、メンズリブとして必要なのは、いま直面している、研究の仕事の世界での経験とその感情を言語化することじゃないのか。それこそ、いましたらいいんじゃないか。

経験を振り返ったり、そこで生じている感情を探ってみたりすることは、過去のことでするだけじゃなく、いまのことでもやったらいいし、いまやればいいんじゃないか…。


それまでは、どこか自分の中で切り分けをしていたのですね。

メンズリブはプライベートでの、真剣な遊び。仕事の世界とは切り離す。

特に僕の中での、研究職としての格闘部分、もしくは研究職を目指して格闘してきた部分は、メンズリブとしての発信と、直接の関係を持たせないようにしてきました。

アカデミックな場での研究は、ストイックに黙ってがんばるべき。研究は中身のみが問われる実力勝負の世界。淡々と論文を発表し、成果を出す。発表されている論文のみで表現する。ツイッターもブログ記事も邪道。

 

あとは、メンズリブをアカデミズムでの出世の道具にすることに対して、嫌悪感や罪悪感も持っていました。それこそが、メンズリブ思想を裏切る行為なんじゃないのか。メンズリブだと銘打ってあれこれ経験してきたことを、私的所有的に自分の資本へと変えて競争に打ち勝ち、誰かを押しのける独占的な力を獲得して、ある学問領域での社会的地位を確保し、周囲の人々を制圧して支配する。メンズリブをアカデミズムの場で利用することは、脱所有、脱競争、脱支配の発想にそのまま反するんじゃないか…。

…いや、こうした書きぶりは、「わかってる自分」としてカッコつけすぎている。こういうことを書くときの僕のタイピングは、踊るようにグングン進んでいくのですが、多分僕は内心、シンプルにこうも思っていたのです。そもそもツイッターなんかでリアルの研究のことも絡めて発信していたら、研究のアイデアを盗まれるかもしれない。誰かから騙されたり、足をすくわれたりするんじゃないか。他の研究職の人たちから、軽蔑されるんじゃないか…。

 

…それが最近は、「仕事で研究/プライベートでメンズリブ」という自分の中での線引きが、なんだか息苦しいな、というか、ムリをしているな、というような気がしてきたのです。
もっとハッキリ言っちゃうと、研究職を目指してストイックにがんばるの、僕にはムリだな、と笑

自分や誰かを傷つけないために、場所ややり方にこそ気をつけますが、基本的には自分のモヤモヤを外に出していこう、と。こういうモヤモヤをこそ、メンズリブ的に外に出して、自分と問題を分けて、じっくり見つめ、考えていこう、と。そんなふうに思うようになりました。

 

もっとまっすぐ振り返ってみると、2020年9月15日に研究職復帰後初めて論文を一本書き上げて、その時に「さー今後はガンガン論文を書いてガンガン研究進めるぜ! メンズリブは後まわしだぜ!」みたいな気持ちになりそうになったんですね。

「いやいやいや、それちゃうやん」と。「そういうワーホリ(ワーカホリック、仕事依存症)になりそうな男性こそ、メンズリブは必要、ってあんた自身ずっと言ってきたんちゃうのん?」と。ツイキャスで話すことによって気づかされて、以降はそんな声が脳内でガンガン響いてきてですね…。

…そして結局、別にそんな声とは全く無関係に、ガンガン研究を進めることもできなくなって。それは単に、飽き性の自分の問題で。

ひとり孤立して研究して、チヤホヤされないことに対してもツライ、あ、つらいつらいっ! ぴえんぴえん、ぱおん、ぱおーん!…って気持ちになったから、このブログ記事も書いておるわけです…。

 

 

5 僕の苦労

なんで僕が職業的研究者の世界へ再挑戦しようと思ったか。

福祉系の仕事が過酷で、また低賃金だから。福祉系の仕事、僕は好きなんです。できればやり続けたいと思った。

でも、三年前にフルタイムで働いていたら、キツくて二年ぐらいでバーンアウトしてしまいました。それで昨年の一年間はパートを組み合わせて働いていたら、身体も楽でいきいき暮らせたけど、年収が100万に満たなかった。

年収が安くても暮らせる、シンプルライフを目指して試行錯誤していましたが、一年前に非常勤の研究職のポストに挑戦できる機会が来た(←ここが僕の下駄・貴族ポイント…)ので、ついつい「もう一度…」と思ってしまったのです。

あと、「研究職の仕事、やっぱりオレに向いてんじゃね?」とも思ってしまったんですよね、一年前ぐらいに。んで最近は、その気持ちに揺らぎが生じてます…。「向いてねーなー、オレ…」って。

…んもー、健忘症の僕は、いつまでこうした「向いている/向いてない」の行きつ戻りつを繰り返すのか。早期離職、これが僕の「心の穴」か…。


なんとか正規雇用の研究職の席を得たい。将来の金銭的な不安から解放され、安定して安心できる暮らしをしたい。そんな気持ちが、僕にはある…?

…いやいや。現在の正規雇用の研究職のポストも、決して安心できる世界ではないようにも見えるんだけども。あと、すっげー過酷そう…。

 

…うーん、正規雇用の研究職のポストが得たい、って言葉も、僕の気持ち的にはちょっと違うかなあ。

ぶっちゃけ僕は、保育者養成校の教師として再就職し、僕自身のワークライフバランスも守れるような働き方がしたいんすよね。授業期間は学生さんへの教育に集中して。授業の長期休み期間を使って、年一二本ぐらいのペースで論文を書きたいな。その論文も、あくまでも学生さんへの教育に資するような研究として書きたい。一応、いまもそのつもりで書いてるんすよね…。

僕は非常勤講師とかで大学や短大で教えて五年ぐらいになるんですけど、学生さんへの授業、めっちゃ楽しいんですよね。学生さんへの教育の方が、僕は向いてるんじゃないかしら(←あっ)。学生さんからの評判も良いしー。毎年学生さんから「授業面白かったです!」「まく先生めっちゃイイ人!」ってチヤホヤされるしー。…お世辞?

 

とにかくですね、研究者として一流になるのは、40歳なのでもう無理で、ただそれなりに学生さん思いのマジメな(しかしやりがい搾取には呑み込まれない!)大学・短大教師として、そこそこ苦しく、そこそこ楽しく、息長く暮らしていきたいんですよね。

60歳までは後20年、まあ僕がおじいちゃんになった頃は完全に死ぬまで現役人生だろうから、後30年間ぐらいはあるかしら。残りの人生は、そんな仕事の世界で生きていきたいなあ、と。

 

…あーあ、若い人のポストを奪うようなこともしたくないんだよなあ。いやいや、もちろんそんなこと言ってられないんだけども。
でも言わせてもらえれば、僕もロスジェネ世代で、奪われた感、あるんだよね。
…いや、ないか。僕のケースだけは、自己責任か…。
…いや、わかんないな。その言い方は明らかに自虐し過ぎか…。
…でも、わかんないな。過去の自分の経験も大切に尊重したいけど、とにかく、うーん、わかんない。

だいたい、僕は男性で。保育者養成校の教師兼研究職のポストって、女性たちにこそ開かれるべきな気もする…。それを「男」という下駄を履いて奪いにいこうとしている、そんな僕…。うー、つらいつらい…。

 

そんなわけで(?)、僕よりかなり年配の男性の正規雇用の研究職の人で、余裕があるような感じがちょっとでも見えると、滅茶苦茶殺意が湧くんですよね、ぶっちゃけ。

テメーの椅子を早くよこせ、と。席を空けろ、と。何十年間いくらの給与もらってんだ、安定した位置にいるクセにちんたらちんたらくだらん研究と教育してんじゃねーぞ、給与付きデイサービスかここは!と。テメーらの研究の結果、この社会が、オレら以下の若い世代がどうなったのか、ちょっとでも考えて責任感じたことあんのかよ! この事実だけで即刻退場だテメーらは! 無能な老害貴族どもはとっととこの世界から消えて、現場の邪魔にならないように努力しながらちょっとでもエッセンシャルワークして社会に貢献して、空いた時間のプライベートで葉巻でも燻らせながらしこたま貯めた金使って自称「研究」の自己満オナニーでもしてろよオラァ!!

…って気持ちになるの。

…あのう、男性で僕よりも年上の正規雇用の研究職の方がここまで読んでくれていて、こんなクソみたいな言葉が目に飛び込んできて、それで悲しい気持ちになってたら、本当にスンマセン。僕は皆さんとも、語り合い聴き合う場で出会いたいのです、本当は。僕の中に、モンスターがいるんです。対話が、モンスターを人へと変えるんだと思うのです。


…こんな狂気の脳内会話を繰り返したりしながら、色々迷いつつ、しかし思い定めた道なので、中途半端にまた投げ出すんじゃなくて、やれるだけやってみよう、と。葛藤しながら、社会に対して何ができるかなんだよなあ、と自分に言い聞かせながら。

とにかく今は保育者養成校の正規雇用のポストを目指そう、そのために論文書いて研究を進めよう、と今の僕は思っておるわけですよ。今もぶっちゃけ、どうせ研究業績が足りなくて落ちるだろう科研費の基盤研究Cの申請書を作りながら、「つらいつらい…、ぱおーん!」と思ってはこのブログ記事の下書きに戻って来て、呪詛の気持ちを抱えつつそれを制御しながら書いて、また申請書づくりに戻って…、てのを繰り返してるんですよね。

何がつらいって、アカデミックな研究を進める過程で、どうしても気持ちを割り切ったり、感情を押し殺したりしなきゃいけない、そんな気がしてしまうのですよ。論文書かなきゃ、競争的研究資金を獲得しなくちゃ、就職できないですから。揺らぎと、そして怯えを打ち消そうとしてしまうんですよね。

無駄を排せ! 絞って調べろ! 脇道逸れんな!  論文書け! 足りないぞ! 競争的資金取れんぞ! こんなブログ書いてる暇ねえぞ! つか単なるADHDだろ! 同業者はみんなオマエを見てバカにしてるぞ! ってかこんな文章をブログ記事で全世界に公開して就職できると思ってんのか、底抜けのバカかオマエは!!

…ぱおおおおーーん!!!

…ま、まだ研究職に復帰して半年ですけど、こんなヤンデル文章をついつい書いてしまうぐらい、もうツライツライと思い始めているのです。弱い僕には、これまでもなかなか耐えられませんでしたし、いまでも間違いなくそうなのです。つらいつらいぴえんぱおんぽんぽんペインまくねがおなんですよう。

 

 

6 僕の研究

もう、何かにしがみつくようにいま、必死に思っていることを言葉にすると、いまの僕が豊かに生きるためには、この権力獲得の階段をかけ上がろうとする過程で、その世界で思ったり感じたりしていることを、外に開かないと、耐えらんないっ! もうたまんないっ! って感じなんです。

年配男性の正規雇用の研究職の方々に対する嫉妬と暴言からのつらいつらいぱおーんで、僕のいまはもう正直、魂が抜けてしまっておるのですが…。なのでしょうがない、急ですが、飛躍もしてますが、とにかくそう思ったんですね。よくわかんないですけども。

 

ただ、ここまで書いた気持ちも真に本当なんですけど(たぶん…)、一方で、野心的な僕がいることも確かで…。

研究の仕事の世界で生きていくことを目指して、右往左往している自分の感情を外に出すこと、もしかしたらそれは結果的に、メンズリブの共有知をさらに豊かにすることにもつながるんじゃね?と。

過去のメンズリブの実践も、研究職の方が参加して、そうじゃない男性たちとの分断が生じ、それもあって第一期が終わった、みたいなことを、どっかで読んだ記憶があって。

研究職の方としてがっつり、その内側をメンズリブ的に言語化した唯一の人って、森岡正博さんだと思うんですね。ただ、森岡さんは正規雇用の研究職についた後、メンズリブ的な言語化に挑戦されてましたが、まだ安定したポストを得ていない、しかし研究をしている(研究をしたいと思っている)人が、メンズリブ的な言語化をしてみると良いのかなあって。それに、森岡さんは自らの性的欲望にターゲットを絞ってメンズリブ的に言語化してましたが、「研究職としての自分」を真正面からメンズリブ的に言語化することって、まだ誰もやってなくて、しかも必要な気がするんだよなあ。

…っていうか、僕にとっての切実な苦労が、「研究職としての自分」なので。あくまでも僕から始めることにして、メンズリブの共有知をさらに豊かにすることについては、あんまり考えないようにしておきます。…って思ったことは、だいたい後でメチャクチャ考えちゃうんですけどね。まあ、なんとなく、なるべく外には開いておこうと思ってるんですよ。そうした方が良い気がする、直観として。

…いや、とにかくチヤホヤされたい野心があるだけか。これだけは、確かだ。チヤホヤを求める僕、それでパフォーマティブになりがちな自分に対して、僕自身が強く警戒しています! フゥー(裏声)、僕の足場としての「チヤホヤ」~!

 

…野心が僕の中にあることは認めて、その形を確かめつつ。しかしその野心で政治的にしか言葉を語れなくなったら、きっと僕はおかしくなるような気もするのです。僕は、ただ、いま、つらい、と言いたい。

非モテ意識に苦しめられながらも、僕は、モテるようになればこの苦しみがすべて解消されるとはとても思えなかった。モテたいという気持ち以上に、誰にも話せないこのつらさを話したいという気持ちのほうが大きかった。そして何よりも、非モテのつらさをひとしきり吐き出して楽になることで、自分の課題に向き合えるようになりたかった。だから、非モテ研のワークシートを見たときに、「ここでなら、つらいことを吐き出してもバカにされずに聞いてもらえる」と感じられたのだと思う。

 何回も非モテ研に通うなかで、少しずつつらい思いを吐き出していった。一人でいるときに、SNSで知り合いが幸せそうにしているのを見るのがつらいこと。「女性は性的に勝ち組の男ばかり選ぶ」という考えに共感してしまうこと。自分は負け組男性で、そんな自分を選ぶ女性などいないと思っていること。自分だけが置いてけぼりにされているように感じていること。好きな人とあんなことやこんなことする妄想がやめられないこと。ときにはグロテスクな偏見を開陳することもあったけど、西井さんをはじめとする非モテ研の仲間は、それらを否定することなく聞いてくれた。おかげで僕も、安心して徐々に思いを吐き出せるようになっていった。

 つらい思いを吐き出すことで、自分のなかに巣食う幽霊も同時に吐き出すことができる。完全に吐ききることはできなくても、いつの間にか自分の手で扱えるほどには幽霊が軽くなっていることに気づく。幽霊が軽くなったことで、少しずつ、現実と向き合うだけの余裕が自分のなかに生まれてきた。」

(歌男〔2020〕「非モテ幽霊の研究」ぼくらの非モテ研究会編『モテないけど生きてます 苦悩する男たちの当事者研究』、pp.184-185)

 

…そして「ただ、いま、つらい、と言いたい」気持ちは、研究や学問の世界と矛盾するものでもないはずです。むしろ研究や学問に惹かれた誰もがみな、底に持っている固有の何か(≒特異性?)と、関わっているとも思うのです。

「教師になろうと思い定めたわたしは、人の学業の成否は、自分の生を証しする作業と緊密に結びついていると考えていた。そのことを明らかにしたいと熱望していたので、しばしば当然のことと考えられている心とからだの分離を、わたしはたえず疑問に付すようになった。

 心身の分離を認めず、心・からだ・魂の統一を重視する哲学に立脚して学習論を展開すると、たいていの教師たちは、つよく反対する側にまわるか、露骨に軽蔑的な反応を示すのだ。いまわたしが教えている学生たちのほとんどが経験しているように、かつてのわたしも、有力な大学教授たちから、そんな考えにこだわっていると大学という世界では通用しないと言われてきたのである。

 学生時代を通して、わたしは密かに悩んでいた。心晴れやかに生きていきたいと思い、非合理な行動、脅迫的な出世競争への同調を避けていると学者としての将来が危うくなるのではないかと、そんな不安を打ち明ける学生たちに接すると、わたしの当時の痛みがぶり返してくる。あのころのわたしがそうであったように、そんなことを口にする学生たちは、しばしば疑心暗鬼の心境なのである。自分と向き合う意欲が肯定される空間なんて、大学制度のどこを探したって見当たらないのではないか、と。

 こうした疑心暗鬼は、いまも学生たちの間に蔓延している。多くの大学教師たちが、知ることへの意志を、なることへの意志と結合する開放的な教育のヴィジョンにひどく敵対的な態度をとっているからだ。教師たちが何人か集まると、苦々しげな愚痴や不満がよく交わされるものだ。学生たちは授業を『エンカウンター・グループ』のようなものにしたがっているというのだ。学生達が授業をセラピーの集まりと心得ているとしたら、それはまったくの見当違いだが、学生たちが、教室で教えられた知識が自分を高めたり、豊かにしてくれることを希求するのは当然のことだ。

(中略)わたしがいま出会っている学生たち(は、中略)絶望はしているけれど、教育は解放的なものであるべきだという思いに揺らぎはない。かつてのわたしの世代よりも、もっと多くを教師たちに求め、要求している。わたし自身、心に傷を負った学生たちで溢れかえる教室に足を踏み入れることが少なくないが(その中の多くの者は、実際にセラピーに通っている)、だが、そうした学生たちがわたしにセラピーを求めているとは思わない。学生たちが求めているのは、癒しとしての教育、ただし、未知なる精神に光を投じるという意味での癒しの教育なのだ。学生たちは、意味ある知識を求めている。いま学びつつあることと、自分たち自身の生活体験との結びつきをなんら示唆することなしに、ただ情報だけを提供するような授業を、わたしやわたしの同僚にやって欲しくないと、正当にも求めているのである。」

(ベル・フックス〔1994〕『とびこえよ、その囲いを ― 自由の実践としてのフェミニズム教育』pp.24-25)

 

…なので、僕も「ただ、いま、つらい、と言いたい」気持ちをまっすぐに語り、他の人の言葉も、まっすぐに聞ければなあ、と思います。いや、まっすぐには語れないこともあるので、ときにはただ、モヤモヤとありたいです。野心があることを認めつつ、野心で口や耳を歪ませることなくまっすぐに、ときにはただモヤモヤと、誰かと共にいることができれば、こんなハッピーなことはないんですよね。

 

 

7 おわりに

どんどん長くなってきて止まらないんで、そろそろ止めます。言葉の出方が自由な感じになってきて、書いていて爽快です。僕は本田透さんの、ユーモアも用いてのびのび書いていく姿が大好きだったんですよね。途中から気がつくと、僕の中の本田さんも取り戻すつもりで書いていました。

しかし、僕の文章を読んでくれた側は、果たしてどう感じているんだろう…?

 

自分から始めるのがメンズリブ

原点に立ち戻り、なんだかスッキリしました。これまではツイッターやブログで色々とつまみ食い的に発信してきましたが、ひとつの軸を持ちながら、僕の僕自身に対する責任へ応答していくような道が、なんとなく見えたような気もする。

ずっとしたかったのは、こういうことではなかったか。自身の欲望を認め、その形を探りつつ、ありのまま尊重しようとする勇気を、色んな方々の姿勢から学んだ気がしています。

…まー、油断はできなくて。環さんからは「まくさんはすぐに、オレが考えた最強のメンズリブを言いたがる(が、実践はしない)」と批判を受け続けておりまして…笑 …ありうる!!笑
 
でも、それでも良いんじゃないかな。モヤモヤを外に出せて、チヤホヤしてもらえる(≒関心を持ってもらい、存在を承認してもらえて、世界は優しいと確認できる)と、僕は安心していきいきできる気がしています。弱さをオープンにして、助けてもらえる、そんな世界であってほしい。こんな自分の欲望がわかっただけで、きっと良いのです。

実践の形式など、きっと問題ではないのですし、やり続けることが正義であるとも限らないはずですから。…正直、あんまり僕にはそう思えないんだけどね。ADHDの自分がキライすぎる…。まあとにかく、このブログ記事を書くことだって、きっと僕にとってのメンズリブ実践なんだよね。

こんな感じで、ぼちぼちやっていきますので、ぜひ皆さん、今後ともモヤモヤしている「まくねがお」を、チヤホヤして下さい!!


あ…、ごめんねギャバン@札幌も、きっとまたやると思いますので、そんときは皆さんよろしくお願いします…。