開かれた独白の連鎖、そして、内なる子どもからケアを掴み直すこと② ― アニメ映画『シン・エヴァンゲリオン』感想(後編)

6 逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ…

(①(前編)からの、続きです)

 

以上、僕の一回目の視聴時の印象や感想、感情の動きを、ざっと言葉にしておいた。

『シン・エヴァ』の最初の視聴時に、『シン・エヴァ』を自分と重ねて見ることは、なかなか難しかった。今後、時間をかけて、他の方の『シン・エヴァ』の感想を読んだり聴いたりして、自分のこともゆっくり感じたり、思ったりし直したい。『シン・エヴァ』の初回視聴時はむしろ、僕は自分のことよりも、庵野さん個人のことについて、そして派生して、本田透さんのことを思い出して、あれこれ考えていた。

 

ゲンドウが自身の弱さを独白・告白する部分は、完全に庵野さん自身の経験談や心の声なのだろうな、と思った。

シンジに、「自分にも分かってたんでしょ」と言われるシーンも、要するにそういうことなんだろう、と。庵野さんも、自身で分かってはいたけれど、それをここまであからさまには、作品の中で出せなかった。『シン・エヴァ』を作るまでは、弱さを表現することができなかったんだろうな、と。

庵野さんは、オタクたちの欲望に、散々火をつけてしまった。宮崎駿さんも、アニメ作品を作っている自己に対する嫌悪感が非常に強かったが、庵野さんはさらに実存的で、極私的で、深い深い自己嫌悪があったように感じていた。

時代的なものもあったんだと思う。宮崎さんよりも、さらに消費社会が極度に進行した時代に、青年期・成人期を生きざるを得ず、庵野さんはアニメに青春を燃やし尽くした。庵野さんの個人的な葛藤は押し殺したまま闘わざるを得ず、青年期から成人期をサバイブせざるを得なかった。

 庵野秀明は、戦後日本の厄介な「呪い」を背負った人なのだろう。オタクとして純粋培養された人。その矛盾を強いられた人。そういう感じがする。強いジャンル意識。内輪向けのマニアックなパロディ。メタフィクション。実存的な内向性。陰惨な暴力。あざといまでのエロティシズム。大人になりたいが大人になれない、という成熟の不可能……。
(中略)
 宮崎駿富野由悠季の二人は、庵野の「師」であり、象徴的な「父」ともいえるような存在である。宮崎と富野はともに一九四一年生れであり、戦後的平和の「外」の空気(戦争そのものと敗戦後の焦土と廃墟の空気)を、かろうじて身をもって、皮膚感覚で知っている世代である。一九六〇年生れの庵野は、もちろん、戦後的空間の「外」の空気を知らない。虚構(特撮やアニメ)を通してのみ、戦争の空気にふれていた。そういう人である。
杉田俊介(2020年10月)「庵野秀明についてのノート」) 

note.com


また、比較できるものではないのかもしれないけれど。庵野さんの成育歴が、より宮崎さんよりも苦悩の深いものだったと言えるのかもしれない(父に対する葛藤と、愛着の問題?)。

庵野さんのお父さんは、16歳のときに仕事上でのケガで片足を失い、非常に苦しい中で生きてきた。気持ちがすさんでいたのか、愚痴がとても多く、幼少期の庵野さんに対しても辛く当たることがあった。そんな庵野さんのお父さんのことを、朝日新聞の記事で以前読んだ記憶がある。

その後の庵野さんのお父さんは、すさんだ気持ちをふっ切ったようで、愚痴を言うことも減った。ただ庵野さんは、幼少期のときの父との関わりが、今の作品作りにも、多大な影響を与えている、と、その新聞記事の中で語っていた。


僕はこの辺りで、本田透さんのことも思い出す。

本田さんが庵野さんのことを許せず、「夏への扉」という二次創作を創り上げたのは、庵野さんと本田さんが、共に愛着に関する深い深い苦悩を持っていたからこそなのだろう。

少しだけ触れておけば、本田さんの「夏への扉」は、二者関係の対峙(シンジvsゲンドウ、そして、シンジvsアスカ)によってトラウマを解消し、パートナーシップを結んでいく道を理想化するものだった(だから、「夏への扉」では、シンジとアスカがカップリングする結末だった)。僕も、20代で本田さんの二次創作を読んだ当時は、そうした幻想を美しいと感じていた。

しかし、今の僕の感性は、やや異なる。本田さんが描いた物語の行く末より、庵野さんの『シン・エヴァ』の物語が示した方向性の方が、いまの僕にとっては、開かれていて美しいと感じられた。

シンジとアスカは、別離を選んだ方が良い。互いに言葉を交わした上で。それも、二者関係で閉じることなく、誰かとの関係にも開かれた中で、互いに言葉を交わし合い、その上で、別々の道を選んだほうが良い。

だから、庵野さんのエヴァの結末は、本田さんの「夏への扉」を超えた部分が、間違いなくあったとは思う。しかし、ここでやはり、マリ問題・ケンスケ問題が浮上する。それはまた、後述。


庵野さんはこれまで、長く深く、トラウマ的な傷を抱えたまま、暴発してしまいそうな衝動を抱えてきたのだろうと思う。

エヴァという作品を通じて、その衝動をぶつけてしまった。それは酷くエモーショナルで、刺激的だった。日本社会に一大ムーブメントを巻き起こした。キャラ萌えが氾濫した。暴力的で、危険で、魅力的なアイコンが、エヴァから次々に生み出されていった。

東浩紀さんが動物化するポストモダン論などで述べていた日本社会の現状は、庵野さんが先導したものだ、と僕は思っている。庵野さんは『エヴァ』という、セカンドインパクトを引き起こした(旧エヴァ)。そこに、どうケリをつけるか。

庵野さんは途中で耐えられず、視聴するオタクたちにトラウマを与えるような放り投げ方をした(旧エヴァ劇場版『Air/まごころを、きみに』。ニア・サードインパクト)。そんなことをしてしまった自分自身が、まるで子どもがパニックになって暴れてしまったかのようで、庵野さんは嫌で嫌でたまらなかったのだろう。新劇場版『エヴァQ』での、アスカによる「ガキシンジ」の連呼はきっとその象徴であるし、新劇場版第三作目以降のシンジ(とアスカとレイ)が、取り残されたかのように子どもであったのも、庵野さんは自身が子どものままであるかのように思えていたので、その象徴なのだろう。

 

7 生きるってことは、変わるってことさ。

とにかく、ケリをつけなければならない。途中で放り出してしまった、レイやアスカ、ミサトやリツコ、カオルたちを、何とか救い得るような物語を構築しなければ。まだ間に合う。ニア・サードインパクトは、サードインパクトではなく、あくまでもニアだったのだから。

シンジとゲンドウ、これはどちらも庵野さん自身であって、そんな自己内親子喧嘩の物語≒独我論的で自閉的な暴力構造に、何とかケリをつけなければ。

そんな、庵野さん自身の深い深い苦悩を伴う物語の決着をつけようとしていたのだ。『シン・エヴァ』が長くなるのは、どうしたって仕方ないよな、と思いながら、僕は見ていたのだった。

先ほどは、長い、とか、油っこいとか、そんなふうに僕は述べたのだけど、確かに僕は『シン・エヴァ』を見ながらそうも感じていたけど、一方で僕は、「仕方ないよな…」とも、本心から、心の底から思っていたのだった。

正直、エンタメ的にはキツイ面があった。不細工だった。冗長だった。でも、とにかく風呂敷を畳むのだ、と。それも、安易な畳み方ではなく、自分が生み出したキャラクターたちとも何とか誠実に向き合った上で、愛を持って畳むのだ、と。そうしないとダメだ、ニアサーを経たからこそ、もう、そこまでいかなきゃダメなんだ、と。そんな庵野さんの決意を、僕は感じたのだった。


シンジとゲンドウの対峙から始まり、ゲンドウ、アスカ、カオル、レイと、それぞれで連鎖していくかのように置かれた、オープン・モノローグ(Ⓒ 西井開さん)。

カウンセリングのようで、不細工ではあった。視聴者によっては、不快に感じた人もいたんじゃないか。なんでこんなん聞かされるんや、と。知らんがな、と。

ただ、エヴァ庵野さんのトラウマによって生み出された物語である以上、こうしたシーンは、どうしても必要だったんだと思う。もはやこれは、エンタメの向こう側だ。従来のエンタメ表現だと、隠されて深くなってしまう傷があるのだ。すっかり深くなってしまった自身の傷と、その傷口から生み出されてしまう暴力・加害に対する応答責任。それを果たすのが大人であるんだ、と。庵野さんは途中から、自分で自分に言い聞かせていたんじゃないかな、と思った。


そもそも、自己開陳が未加工に置かれてしまった物語は、エンタメの物語を今まさに作っている表現者たちにとって、不快に思ったりはしなかったのだろうか。こんな自分語りが作品内でそのまま置かれることが許されるのは、ズルイ、と。エンタメ的な覆いをかぶせ、楽しませる技術がないと、そもそも発表しちゃダメなんじゃない? と。

…と、勝手に脳内で批判者を創り上げてしまったけども(藁人形論法…?)、僕は、「庵野さんは特別だ」と言わざるを得ないとも思う。日本のオタク文化を牽引してしまった、その代表者。そんな彼が率先して、弱さのオープン・モノローグを作品内で行ったのである。

この庵野さんの『シン・エヴァ』の手法を表面的にマネして、後続の表現者たちが馴れ合うようなぬるい自分語りを駄々洩れにして良い、とは、もちろん僕も思ってない。ただ、多少自分語り感が鼻についたとしても、こうした自己開陳風の作品は、今後、より許容されていく空気が作られると良い、と思った。

自分語りは許されない。そんなふうに感じさせる空気こそ、剥奪感に塗れて耐えられず、攻撃性が暴発してしまう暴力的なマジョリティの空気を、さらに膨らませてしまうから。

自他を十分に、多様に、時間をかけてケアしながら、その開かれた過程の中でなされるオープン・モノローグは、今後の様々な表現において、より必要となるのではないだろうか。『シン・エヴァ』について書きながら、そんなことを考えた。

 

8 人間は寂しさを永久になくすことはできない。

ゲンドウは、シンジと対峙し、自身の弱さを認め、「シンジ、そこにいたのか」と言った。

その後、ゲンドウは、「ユイ、お前はシンジの中にいたのか」とも言った。その瞬間、僕は心の中で「ぴーっ!!!!!」とホイッスルを吹きたくなった。

まてまてーっ!!と。そこはユイじゃなくて、シンジを見れや、と。シンジだけを見たれや、と。

…ただ、この後のシーンを見て、庵野さんがゲンドウに先のセリフを言わせた意図に気づいた。だから、いまは先のセリフに関して、批判的には思っていない。


つまり結局、ゲンドウ≒庵野さんの中に、絶対的な母性、優しく何でも包んでくれる絶対的な安心感をどうしても求めてしまう感覚があったのだろう。庵野さんにはきっと、他者からの脅威とその恐怖が常にあったのだ。

だから、絶対的な母性を求めていた。しかし、当たり前だけど、全てを許してくれる存在なんて、現実では絶対に獲得できない。「こんな都合の良い女性、いるわけないじゃない。いたら見てみたいわね」(『電波男』)。

 

一方では妙に生々しくリアルなユイの顔。もう一方では、顔はないが女体だけがある、白いマネキンの大群。この二つは、庵野さんの分裂的な欲望の象徴なのだろう。一方では母性がほしいが、無数にあるそれらに、顔はない。ならば実際の顔は、というと、妙に生々しく、理想的なものからややはみ出す。避けたいと感じている他者、その恐怖が覗いてくる。

こうした自身の欲望の形と、庵野さん≒ゲンドウは対峙し、その欲望の存在を受け入れ、それがあることを認めた上で、前進しようとした。それを庵野さんは、父殺し≒母殺しと表現した。この一連のプロセスが、庵野さんにとって、青年期を経由して大人に「なる」ことである、と、庵野さんは自身の物語の今の到達点として、思ったのだろう。


そして、だから、シンジの中に、ユイがいる、と言いたかった。庵野さんの子ども期の中に、母がいたのだ、と。過去に受けたケアをもう一度思い出し、あることを掴み出し、信じ直そうとした。

その感覚を確かめつつ、前に進もう、と。母のような絶対的な理解者への思慕をただ、「こんな思いを持っていちゃ、オレはガキのまんまだ…」と思って「なかったこと」にしようとし、無理矢理切断しようとしても、結局は「なかったこと」にはならず、再び暴力衝動として回帰して来てしまう。白いマネキンのように女性をモノ化したり、一生辿り着けないだろう絶対的な母性をついつい求めてしまい、それが得られなくて、何度も何度も苦しんだり、暴力を振るったりしてしまう…。

庵野さんの中にある、母性への思慕の気持ち、母性を求める自己を、庵野さんは尊重する必要があったのだろう。それで、シンジ自身にも、自分の中にユイがいる、と言わせ、その上で、シンジを大人にさせたのだろう。

杉田俊介さんの『非モテの品格』(2016年)という本の中では、過去の自分の失敗も含めて、大切に尊重しようとする、「自己尊重」という概念が登場する。僕は『非モテの品格』を読みながら、自身のインナーユースと対峙させてもらっている。過去形じゃない。今でも、そうだ。

エヴァ』は、庵野さんのインナーチャイルドとの格闘から尊重へと至る、そんな物語なのだろう、と思った。

 

9 自分には何もないなんて、言わない。

アスカは、映画終了後、ケンスケをパートナーとして、前に進んでいくのだ、と予感させる物語になっていた。

シンジとアスカとの艦での対峙場面では、マリもその場に立ち合わせ、三人にしていた。シンジとアスカがニコイチになると、傷つけ合いが亢進し、止まらなくなってしまう*1。そして、アスカのパートナーシップの相手は、シンジではなかった。

これらは、トラウマを抱え、愛着障害を抱える者同士をニコイチにするのが、絶対にうまくいかない、と庵野さんが人生の中で確信したからなのかな、と思った。

僕も、その通りだと思う。結局アスカとシンジをカップリングしないことに対して、僕は納得だった。

愛着障害で惹かれ合ったアスカとシンジ。エヴァの物語の中で、あれだけぶつかり合った二人。すでに境界を踏み越えるレベルで深く傷つけ合った二人は、互いに歪んだ部分があったことを互いに受け入れて、最大限互いを尊重した上で、別れていけると良い。リアルでは、ここまで理解し合うこともできず、互いに互いを許すこともできずに、ただ別れていくケースが、きっと沢山あるのだと思う。

シンジとアスカとの物語は、虚構だからこそ、少し、理想的だったと思う。それが良かった。少し言葉を交わし、互いが少し理解し合えた上での別離として、二人の関係性は描かれた。僕は、そんなふうに受け取った。


さらに、シンジとレイとの関係でも、やはりああした別離が必要なのだろう。

レイは作りものである、と庵野さんは最後まではっきり表現していた。

この映画の物語で、レイは、シンジの回復における決定的な役割を果たす存在だった。これは、オタク作品が、オタクたちの回復過程において決定的な役割を果たし得る、そう庵野さんが掴んだ証しのようにも思う。オタク作品で描かれている愛の可能性を信じた、本田透さんのことを思い出す。

ただし、そんなレイは、どこまでも理想的に母性的であり、同時に、どこまでも果てしなく庇護欲求≒支配欲を喚起させるような存在であって、あくまでも作り物だった。レイというキャラクターは、どこまでも都合が良く、あまりにも、虚構だった。だから、レイに主体性≒固有の名前は、与えられなかった(レイは、自分で自分の名前を決めることができなかった。名付け親として請われたシンジも、「綾波」という名前以外、レイにあげることはできなかった)。

主体性を与えられない、という展開も、納得なのだ。オタクたちが生み出した欲望そのもの。虚構そのもの。そこに、物語の想像主たる庵野さんが主体性という魂を与えることは、そのままレイを、さらに奴隷化させることへとつながるような気がする。

シンジとレイとの関係性の行く末や、レイの物語の結末にも、僕は納得である。庵野さんにとってのケリなのだろう。僕はエヴァで、レイのことが一番好きだった。ずっとレイに惹かれてきた僕も、この物語のおかげで、なんとなく、スッと腑に落ちた感じがしている。


カオルは、シンジにとっての、もっとも大切な存在だった。

庵野さんは、異性愛・性愛を超えた、存在同士をそのまま愛し合えるような関係性に、エヴァという物語の解放を賭けようとした時期もあったのかもしれない。それで、カオルと言うキャラクターは生み出されたのかもしれない。

ただ、カオルのようなキャラとその振る舞いは、救世主願望(メサイア・コンプレックス)と演技性(パフォーマンス)の檻から抜け出すことはできなかった。

カオルとシンジとの関係性の行方は結局、相手に対する滅私奉公的な関わりと、その果てにある、トラウマを植え付けるような結末でしか、あり得なかった。そう、庵野さんは、思ったのかもしれない。だから、ああしたケリの付け方をした。

僕が唯一、現在の自分を重ねられそうに思えたのは、このカオルとシンジとの物語だった。ただ、このへんは、もうこれ以上、書かないでおく。


そして。どうしても引っかかるのは、マリの存在だ。彼女がマリアであった。

そもそも、新劇場版でマリが登場したあたりで、僕にとっては違和感もあり、異物感もあり、急に出てきた感があった。この最終作『シン・エヴァ』でも、その印象は変わらない。

ここまで述べてきたように、エヴァ庵野さんのトラウマ作品である。庵野さんは、大人として、それぞれのキャラクターや、互いの関係性にケリをつけたかった。不細工でも。それが大人の責任だ、と。

ただ、これまでのエヴァの物語の登場人物だけでは、どうしても解放までの理路を描けなかった。それで導入されたのが、マリだったのだ。最終作『シン・エヴァ』を見て、僕ははっきりそう思った。

昨日、西井さんから聴いたのだけど、マリは庵野さんが考え出したキャラではなく、他の人に作ってもらったキャラクターなのだという。なるほど。庵野さんが創り出してしまった独我論的な暴力構造の密室、その檻を抜け出すために、キャラクター創造という段階から、他者の力を借りる必要があった、というわけね…。すべては、ゼーレのシナリオどおりに…。

『シン・エヴァ』の尺的に、マリを深く描くことは不可能だったろう。すでに長すぎる。冗長だ。そもそも、旧エヴァからのキャラクターとそれらの関係性に、大人としてのケリをつけるためには、膨大な時間が必要でもある。それを、第四作『シン・エヴァ』の中で、何とかまとめあげた。マリを描く余裕は、十分にない。あるはずもない。

 

10 終劇? あんたバカァ!?

しかし、これで良いのか。

シンジは、マリと共に現実世界へと還っていく。大人となったシンジは、マリとパートナーシップを結ぶ。そのマリとは、いったい何者であり、シンジとマリは、どこへ向かうのか。

わからない。

第三村における多様なケア・コミュニティによる回復過程を体感し、オープンモノローグの連鎖によって大人になった、シンジとアスカ。すでに成長して、大人になったシンジ・アスカは、マリ・ケンスケとのパートナーシップにおいても、開かれた大人同士の関係を紡ぎ、やっていくことができていくのだ、と。『シン・エヴァ』は、そのように解釈すべき物語だったのだろうか。


エヴァのみんなは、本当によく、がんばった。ケア実践にコミットし、相互の多様なケア関係の中で生活に根ざして暮らす。それぞれがそれぞれに対峙しつつ、オープン・モノローグによって過去のケアの記憶を掴み直す。そうして解放されていくプロセスを、僕らに見せてくれた。

『シン・エヴァ』のみんなの格闘とケアは、決定的に重要だった。エヴァという物語に惹かれてきた僕や、今後惹かれていくだろう若い世代へも、暴力的で刺激的な物語から、脱暴力的で解放的な物語へと変わっていくプロセスを、描写として提供してくれたのだ。

そんな大人としての責任を、庵野さんに果たしていただけたのだと思う。何という、凄い仕事だろう。大人に「なる」物語を、エヴァのキャラクターとの関係の中で、庵野さんは身体で示してくれたのだ。庵野さんとエヴァに対しては、いまの僕には、もう感謝しかない。本当に、ありがとうございました。


マリ/ケンスケ、という存在との関係性に収束したこと。それが、現実に還る、という表現になったこと。

対幻想で閉じていくこと。

様々なケアの関係性の中で、自身の中の父性や母性との葛藤・対峙を経て、自身の欲望の形に気づき、受け入れ、そして、足を前に踏み出す。その先には、やはり別の誰かとの対幻想による家族形成という、そんな道しかないのか。


そうなのかもしれない。僕のリアルもそうであり、実存的にはそんな感覚しかない。

ならば、虚構と現実の狭間へ、ギリギリの物語を投げ込もうとする作家である誰かが、異性愛対幻想をさらにずらしてくれるような、そんな新たな幻想を、物語として提示してもらえないだろうか。

今回は、ムリでマリだった。ならば、この次は。


小説『だまされ屋さん』との手触りの違いがポイントだと思っている。

小説『だまされ屋さん』の方が、よりラディカルな解放感があった。散々に苦しめられてきた/いる既存の保守的で暴力的で支配的な構造や関係性から解き放たれ、別の光景へと開かれていく、そんな解放の手触りが、より濃厚に。


庵野さんは現在、『シン・ウルトラマン』や、『シン・仮面ライダー』の制作に取り組んでいるようだ。

庵野さんが、さらに制作過程における協働作業を成立させて、制作スタッフたちと共に心身と感性をケアし合いながら、新たな物語を作り上げていく、そんなプロセスが実現することを、僕は心から祈っている。次の作品の公開が、本当に楽しみだ。


というのも、今回の『シン・エヴァ』では、ある予兆を感じたりしたのだ。

終盤、ギリギリのところで、物語が再び破綻し、終わりそうになり、絵コンテになろうとするところに、「よろしくお願いします」(…?うろ覚え?「ありがとうございます」だったかもしれない…)という手書きの文章が一瞬映った。庵野さん以外の他のスタッフたちが、仕事を受け渡しながら、エヴァを作ってきた。そのことへの信頼と感謝の気持ちを味合わせてくれる、そんなワンカットが。

個人的な力に依って物語創造を図ろうとしてしまうなら、閉じていて抑圧的な、異性愛主義による対幻想もいつしか根深く維持されて、最終的に物語は、その方向へと収斂してしまう。僕は、そんな気がしている。

でも、あのワンカットは、今後の庵野作品が、さらに統合困難な形で開かれた集合的表現を成し遂げていく、そんな複数的な審級の顕れを予感させた。


『シン・エヴァ』は、弱さの雄叫びだった。さらなる多声的な産声が、きっともう少しで聴こえてくると思った。

 

※ 僕は2016年に『シン・ゴジラ』を見てから、ぶつぶつとツイートで庵野さんのことを呟いてきたのですが、その連ツイの最初のツイートを置いておきます。

まくねがお on Twitter: "映画『シン・ゴジラ』視聴終了。以下、感想をつらつら呟いて垂れ流す。壮絶なネタバレはしないと思うけど、ネタバレを気にせずやりたいとも思っているので、これから見ようと思っている方は、薄目で通り過ぎていただければ。→"

 

※ 本田透さんと僕とのこと、その中でちょこっとだけエヴァのこと(っていうか、本田さんの二次創作「夏への扉」のこと)を、僕がオープン・モノローグで語っているツイキャスもありますので、それもここに置いておきます。

twitcasting.tv

twitcasting.tv

 

引き続き、ゆるゆるぼちぼち、色んな人たちと共に感じたり、思ったり、考えていきたいです。

 

 

杉田ゲンドウ「メンズリブするなら早くしろ。でなければ帰れ」

まくねシンジ「誰もメンズリブできないんだ。だから、僕がやるしかないんだ…」

西井カオル「愛してますよ、まくさん」

 

はぁ!? 『シン・エヴァ』パンフレット売り切れ!? ぱおぉおおオオオオーーーーーーーーン! 痛気持ぢいぃいいいイイイイイイーーーーーーーーーーーーー!*2

 

…はっ。

知らない、夏空だ。

続劇。

*1:エヴァの惨劇…。第三村でも若干の惨劇がありましたが、旧エヴァに比べれば、ね…。

*2:註:暴走です。