「男性性と哲学対話」に参加して

昨日、「男性性と哲学対話」という集まりに参加させてもらいました。その後、別会場で性教育について考える哲学対話に参加された二村さんと合流し、西井さん、山本さんとの四人でお疲れ様会ズームも行いました。面白かったです。何より、とても楽しかったです。

 

いくつか、振り返り思ったことをメモ的に。

 

 

「揺らぎでつながる、新たなピア性」について。

僕がいま参加している「ごめんねギャバン@札幌」や「メンズ・ピアカウンセリング」はまさしく、男らしさに違和を感じつつ、それを辛いと口にすることにも躊躇がある、そんな「揺らぎでつながる、新たなピア性」を基点にしている集まりだよなあ、と思いました。

参照URL:ごめんねギャバン@札幌とは? - ごめんねギャバン@札幌 https://gomennegavan.hatenadiary.com/entry/2019/10/25/222033

 

「ぼくらの非モテ研究会」も、まさしく「揺らぎでつながる、新たなピア性」が生起している場のようです。

参照URL:読書感想【ぼくらの非モテ研究会から学ぼう!】:「痛みとダークサイドの狭間で 『非モテ』から始まる男性運動」より - ごめんねギャバン@札幌 https://gomennegavan.hatenadiary.com/entry/2020/07/22/195722

 

杉田俊介さんの書かれた本、『非モテの品格』(2016年)は、本全体で、男性性の揺らぎを表現していました(そして本書の終盤では、「新たな男性性」を紡いでいくプロセスに挑戦していきます。そこでは、哲学対話のような語り合い・聴き合いの場ではなく、ケアと内省の経験がキーになる。このへんについてはまた、後述します)。

参照URL:非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か – 集英社新書 https://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0855-b/ @Shueishashinshoより

 

また、杉田俊介さんの書かれた「ラディカル・メンズリブのために」(2019年)という文章では、やはり揺らぐことと男性性について焦点化して考察を進めていた記憶があります。

参照URL:[青土社現代思想2019年2月号 特集=「男性学」の現在] http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3262 @青土社より

 

杉田さんの上記二つの論考を踏まえ、男性同士の関係性や、男性同士が集う場について、昨日の語り合いを参照にしながら考えると、男性たちが「揺らぎでつながる、新たなピア性」を基点にした場を立ち上げ、その関係の力を借りることが、メンズリブのポイントとなるんじゃないだろうか。男性たちの開かれた内省を助けてくれる要素として、「揺らぎでつながる、新たなピア性」に注目したいと思いました。

 

また、1.「悩み・辛さに気づいて吐露する」ことと、2.「特権・加害に気づいて考える」こと、この二要素は、1を経て2に行く、というプロセスを段階的に踏んでいくものなのか?という問いが、昨日の話し合いの中にありました。

僕は、「その順序を踏む場合もあるけど、その逆もある。基本的には同時並行で混ざり合いながら進行するのではないか」と思いました。

 

上記で述べた「揺らぎ」とは、僕にとってはまさしく「辛いな。でも辛いって言って良いのかな」というような、この二要素が混ざり合ってモヤモヤしている、躊躇のような感覚であって、僕自身の感覚で言っても、自分の中の上記二要素を正確に切り分けることができません。

参照URL:男同士で傷を舐め合ってもいいじゃないか! 「男らしくない男たちの当事者研究」始めます。 https://wezz-y.com/archives/38466 @wezzy_comより

 

自分の中の必然に従って(中動態的に?)、わからなくなっても良いからうねうねと言葉にしてみて、結果的に後から色々と物語化できていく。理性的な整理は後追いにしかできなくて、まずは分からないけどうねうね、ぼちぼちと場に「自分」をさらけ出してみる、そんなイメージのことをしたい。そんな気持ちが、いまの僕にはあります。

参照URL:読書感想【ぼくらの非モテ研究会から学ぼう!】:「痛みとダークサイドの狭間で 『非モテ』から始まる男性運動」より - ごめんねギャバン@札幌 https://gomennegavan.hatenadiary.com/entry/2020/07/22/195722

 

揺らぎの中でうねうね語ること。これはまず、理性ではない気がします。いや、そもそも「理性」とは何か、という僕の言葉の定義がいい加減なんですけど、「冷静に、綺麗に整理して言語化することができない気がするもの」とでも言いましょうか。自身の主観的には、コントロール困難なもの、とでも言うのかな。

 

どこかで知った借り物の言葉ではなく。誰にでも・子どもにも伝わりそうな、シンプルな、自分なりの言葉で。下らない・取るに足らないようなものかもしれないけども。自分にとってはいま、切実に感じる経験や思いを、とりあえず言葉にしてみる。言ってみたら言い過ぎてたな、だとか、ちょっと違っていたな、と思ったら、語り直しても良い。間違っていても良いし、分からなくなっても良い。途中で辞めても良い。

 

こうした姿勢は、まさしく「揺らぎ」そのものだと思うのですね。そんな「揺らぎ」を男性が持っていて良いし、そこでつながる連帯感を、メンズリブとして大事にできないでしょうか。そして、哲学対話という手法を使って、「揺らぎでつながる、新たなピア性」を基点にした場を立ち上げられないかな。

 

 

 

メンズリブと哲学対話について。

僕はメンズリブをやりたい人間で、哲学対話を手段のひとつと考えています。

哲学対話は、いつしか「自分」を離れて、他人事のことや天下国家・社会全体のこと、一般知識、抽象的な理論を語る方向に行くことはあり得る。哲学対話としては、それでも対話できれば良いのでしょう。でも、メンズリブとしては、その方向に行ってしまっておしまいだと、イマイチだなあ、と思いました。

 

ただ、いったん閉塞的な自意識のグルグルから離れる、という意味では、抽象的に考えてみることは大事な要素な気もする。ポイントはそれをもう一度「自分」に返してあげること。「自分」と「抽象」の往復作業が大事で、かつ他人の言葉や思考から触発されて開かれた営為として、それらの行為を行うことに要点がある気はしました

 

なので、哲学対話のみでメンズリブとして万能なのではなく(当たり前ですけども)、メンズリブのひとつの手法として活用するのが良いのかな、と思いました。

哲学対話は言葉を用います。そういう意味では、言語性に優れた特性の人と相性が良い(子どもにも分かるような言葉で行う、というルールが、言語性のハードルを下げる側面はありますが、それでも限界もある、というか、向き不向き、得意不得意、好き嫌いがある、と感じます)。

 

非モテの品格』がケアの経験を取り上げていたのはやはり重要で、言葉を介さない身体的かつ情動的な触れ合いの経験が、男性性の揺らぎを触発する可能性はあるし、そちらの方が、階層や能力の高さを問う程度の低い、広く開かれたメンズリブへの可能性に連なっているような気がします。

 

メンズリブの場で、色んなこと(例えば育児や介護や介助、食事づくりや家事のあれこれ、スポーツやスポーツ観戦、映画観賞、旅行やお泊まり会、様々な表現活動、演劇やジンづくり等)をしてみて、その過程の途中で都度、哲学対話を混ぜてみる。哲学対話で言語的に振り返る機会は、やはり重要な気もします。様々な経験を「自分」に引きつけて、開かれた形でミクロな、固有で繊細な、自分なりの物語を言葉で紡いでみる。様々な経験をし、自由に「自分」に集中して語り・聴き、そして再び、労働や生活の経験の世界へと還っていく。こうした往還作業に、哲学対話は大きな貢献をしてくれるような気がしました。

 

 

権力性について。

メンズリブや哲学対話の場を開く際、声の大きい人が出てきてしまったり、誰かの影響力が大きくなってしまって、誰かの顔色を窺うような力動が生じてしまい、それらによって自由さや安全・安心が損なわれてしまう可能性は、常にあります。

 

権力性・権力勾配は、完全に無くすことはできません。その現実を理解しておくことが、まずは大事なのかな、と思いました。実は権力勾配がそこにあるのに、「なかった」ことにしてしまう。そんな誤認と言動から、その場が閉じてしまって可視化されない、支配や暴力、差別が具体的に生じてしまいます。

 

アレントは、権力(パワー)を、複数性を顕わにする力動、と定義していた、と、岡野八代さんが『フェミニズム政治学』で紹介していた記憶があります(記憶違いかもしれない…。違ってたらスミマセン)。複数性を顕わにする力動を、常に声なき声を尊重する力動を、場に立ち上げたいものです。権力を悪しきものとしてのみイメージするのではなく、自由と責任と応答、安全と安心を保障する原理としても捉えたい。

 

ファシリテーターをふたりにする、男性と女性にする、といったアイデアを、昨日の話し合いで聴くことができました。また、二村さんからは、基本的にファシリテーターを不在にする(攻撃性が発生したときに、それを防止する機能のみ保障する)、という哲学対話のやり方があり得ることを教えてもらいました。

 

僕も今後、色々なやり方を試してみたいな、と思いました。権力性を、個人が所有的に用いるのではなく、非所有的に、その場の一回的なものとして、ルールとして共に紡いで用いていく、そんなイメージが大事なのかな、と思いました。こうした対抗的な権力性を都度紡ごうとする試み自体が、極めてメンズリブ的だな、とも感じます。脱支配、脱所有、脱優越志向への、即興的で絶え間無い共同挑戦として。

繰り返しますが、所有の力動は常に根深くて、権力勾配はどこの場にも常にあるのでしょう。そこにある権力性を、メンズリブ的に善用したいものです。誰のものでもなく、自分自身で、共に。

 

 

このように記事を書いていても、僕は楽しいです。昨日は色んな人に僕の言葉を聴いてもらって、チヤホヤしてもらったような気がして、良い気分になれましたし、今でも良い気分です。

こうして、一方的に知識を披瀝して気持ち良くなる。他の男性よりもチヤホヤしてもらえる幻想に包まれてご満悦の、非常に捻れた、キモいおじさん。そんな僕。…と言ったら言い過ぎか。自虐し過ぎてキモいし、結局分かってる自分を披瀝したい自分が如実に出ていて、やっぱりキモい。

 

結局、人気があるだとか、一目置かれるだとか、そういう世界からは逃れられない。殺伐としていて悲しいなあ、とも思いますが、こういう閉塞的な自意識のグルグルだけに、留まり続けなくても良いのかな、と思ったりもしました。キモい、という言葉は、非常に強烈ですが、そこからしか始められない僕がいる気もする。キモさは終わらない。不登校は終わらない、って本がありましたね。

 

皆さん、自分なりのプロセスを踏んで、自身の苦労を経て、ゆるゆるぼちぼち、社会に開いていっているんだな、なんて感じたりもしました。僕も僕なりにやります。