中動態的に語り/聴き合う技法へ ー社会福祉士に今後求められるコミュニケーション技法としてー

社会福祉士に求められる、基本的なコミュニケーション技術のうち、重要だと思われる技術を具体的に挙げ、僕なりに論じてみたい。

 

僕が取り上げるのは、「中動態的に語り/聴き合う技法」である。中動態とは、國分(2018)が取り上げた概念だ。

中動態とは、「内態」(外態の逆)として捉えた方が、字義の意味は取りやすい。すなわち、どのようなプロセスの中にその行為はあったのか、その内側に留まるような態度である。

一方で中動態(内態)の真逆の態度に当たる外態とは、その行為を自分の過去のプロセスとは切り離し、能動的な「決断」を行って、自らの行為を自らの所有物として、外側の世界に向けて投げ込むような態度だ。

外態的なコミュニケーションとは対照的な「中動態的に語り/聴き合う技法」とは、どのようなプロセスの中にその行為は生じたのか、それが不確かなまま、探るように、確かめるようにして、言葉をそこの場にそっと置いてみる、そっと置き合うような語り合い・聴き合いのことであり、そのような場を立ち上げる技法のことを指す。

 

いくつかポイントがある。

まず、所有・帰属について。中動態的(内態的)な態度では、行為を自らに所有・帰属させようとはしない。自らの、これまでの過去のプロセスには、思いを馳せる。そして、その行為には明確な自分の「意志」が伴っていたと、想定しないような姿勢が、中動態的(内態的)な態度では取られる。

「自立的な個人」という想定は擬制であり幻想であって、実際には人は環境の相互作用の中で生きている(自立=依存先の分散)。現在の社会では、自らがなした行為が、常に自らの所有物であって、結果が自らの責任において裁かれる「自己責任論」が蔓延している。

しかし実際は、人がなす行為とは、自発的な意志に基づいて行われるばかりではない。意志や自発性、主体性などは、事後的に形成される。もしくは行為直前に、これまでの自らのプロセスを消去し、今の自分の感情や躊躇、怯えや不安などを消し去るようにして、「自発的」な行為はなされる。

 

次に、感情等の気持ちについて。「中動態的に語り/聴き合う技法」では、そのようにして「なかったこと」にされた自らの感情・躊躇・怯えや不安などをもう一度取り戻すようにして、過去のプロセスを確かめるようにして、その行為を言葉として置き合うようなものである。

中動態(内態)と真逆の外態では、感情・躊躇・怯えや不安などの気持ちを、「なかったこと」にする。「なかったこと」にすることで、行為を自らの手中に入れ、支配する。中動態(内態)は、気持ちを抹消しようとする暴力に抗い、支配したくなる欲望と闘うものとしてある。

 

最後に、ピアとケアについて。そしてその語り/聴き合う技法とは、語り/聴き合う者同士が、ピア的に共鳴し合い、成立するものでもある。

「中動態的に語り/聴き合う技法」は、技法という表現が誤解を招きやすいかもしれないが、決して個人的なものではない。集団的な技法だ。

自らの、もしくは横にいる他人の気持ちを大切に聴き合うケア的な姿勢によって、いつしか僕らがなした行為は、その人個人の所有物ではなくて、共に見つめ合えるものになる。

所有したくなる欲望や支配したくなる欲望に抗って、誰よりも抜きんでたいと思う自分から解放されるためには、ひとりでは無理だ。ひとりでは、外態的にならざるを得ない。共に闘う仲間が要る。ピア的にケアし合う仲間が要る。

 

社会福祉士の支援・援助の現場へと、具体的に結びつけてみる。

中動態の議論に興味を示す熊谷晋一朗は、熊谷+杉田(2017)で、虐待防止研修に関する議論を展開している。

すなわち、「虐待は、当然してはいけない」というような頭ごなしの研修ではなんの意味もない。規範的な議論は括弧に入れて、まずはありのままの現実を話すところから始める。「あのとき虐待してしまったかもしれない」という自らの語りを、みんながその場に陳列していくような場を用意する。

その後、そこにある仕組み・パターン・繰り返しの構造を出し合い、仮説を立てる。そして、ならばどの仕組みをどう変えれば、虐待的・暴力的な状況が現場から減じるのかを、その研修に参加するみんなで共に考える。さらに、その場には管理職も入ってもらい、シフトや体制の提案もしていく。

思うに、虐待やハラスメントは暴力の連鎖であり、それが生み出される環境の問題である。現場の最前線にいる支援者、その上司役、そしてその上の管理職、この関係の中で、ケアし合う運動を作り出す他、虐待やハラスメント≒暴力の連鎖を防止する道はない。そこで求められる具体的な技法論こそが、上記で述べた「中動態的に語り/聴き合う技法」であるのだと思う。

 

アサーションなどの技法は重要であるが、なぜアサーティブにできないのか、そういう自分を自己覚知し、アサーティブにはできない自分の本質に迫って、そこへ変化を促す力動が、アサーションの技法論の中には存在していない。

また、アサーティブに振る舞えないことによって虐待やハラスメントが発生した場合に、その環境的な要因を分析するためには、アサーションの技法論だけでは不十分である。アサーションの技法論では、アサーティブにできない自身の「弱さ」へと迫れないから、そこで交わされる人々の言葉は、どうしても空疎なものになってしまう。アサーティブであるというパフォーマンスに、「表面的な『アサーション』」(語義矛盾なので、括弧付きにした)にならざるを得ない。

もっと端的に言ってしまえば、アサーションも個人モデルを想定した技法であり、最終的には自立的≒切断的に自らの力量を向上させようとする、閉じた知に過ぎない。「中動態的に語り/聴き合う技法」は、ミクロな社会モデルを想定した技法、言い換えると「当事者研究の要素が含み込まれた、場へと開かれた技法」であって、個人モデルの限界を超えるものである。

 

必要なのは、個人化されていく自己を支援者・援助者が超える力動であり、その力動に向かう態度や姿勢を身につけることである。大切なのは、その態度や姿勢を個人的にではなく、自らが足を置いている場に参加する全ての人々が集団的に、いつのまにか共有していることにある。

社会福祉士が目指すことはケアの社会化であって、それを実践者たち自身が体感し得るか否かが問われている。そしてそれは、実際に中動態的な態度・姿勢を模索し合う仲間と、ピア的に交流し、互いに体感することでしか、身につけて行くことは難しい。

「中動態的語り/聴き合う技法」をさらに精緻に言葉にし、それをそれぞれの現場で学んで実践できる知が、切に求められている。

 

<参考文献>

國分功一郎(2017)『中動態の世界』医学書院.

熊谷晋一朗+杉田俊介(2017)「「障害者+健常者運動」最前線 あいだをつなぐ「言葉」」『現代思想』2017年5月号、青土社.