キョドるマックス ―『マッドマックスFR』の物語について、書きながら考えたこと 3

第三章 招待

 

3-1 予告編

 『マッドマックス 怒りのデスロード』(原題は『Mad Max : Fury Road」。以下、MMFR)という映画がある。まずは、この映像。

 

<参考>

・「映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード』予告編」『YouTube』2015.4.9  https://www.youtube.com/watch?v=4Krw9BbjzKQ

 

 絶賛された予告編だ。アートディレクター・映画評論家の高橋ヨシキさんは、映画雑誌の企画で、2015年(要確認)の映画ベスト10のトップに、この予告編の映像を選んだという。映画本編の公開前に、本編ではなく、その予告編をベスト映画に選ぶという暴挙。予告編の映像について、高橋さん曰く「こんなものを生きているうちに見れて良いのか」「見ている全コマにエクスタシーを感じる」。

 

<参考>

・「高橋ヨシキのシネマストリップ 映画「マッドマックスシリーズ特集」怒りのデスロードも!【nhkラジオすっぴん】」『YouTube』2015.10.9 https://www.youtube.com/watch?v=un7ABgIkIk8

 

 ただし、高橋さんとやりとりしているラジオ・パーソナリティの方は、予告編を見て「確かに凄そう」とは思ったが、「ヨシキさんほどの感動は得られなかったんですね」とも語っている。

 

 MMFR。日本では2015年6月20日公開。激しいカー・アクション映画。映画「マッドマックス」シリーズの第四作目に当たる。前三作では、迫力あるカーチェイスやアクション・ヴァイオレンスシーンの数々と、車や衣装、世界観全体の過激で強烈なデザインが話題となった。

 監督はジョージ・ミラー。第四作目のMMFRが公開されたときの年齢は、なんと70歳。MMFRの映画公開は、前作から数えて27年後。その実質的な制作期間だけを数えても、10年間以上が費やされて作られた労作。映画公開後は、第88回アカデミー賞の10部門にノミネートされ、最多の6部門(衣装デザイン賞・美術賞 ・メイクアップ&ヘアスタイリング賞・編集賞・音響編集賞・録音賞)を受賞することとなった。そんな超傑作が、MMFRである。

 

 

3-2 町山智弘さんによる紹介

 では、MMFRとはどんな映画なのか。映画評論家の町山智弘さんは、一言で言えば「メチャクチャ」、「映画史に残るデタラメさ」があると言った(以下、まずはTBSラジオ『たまむすび』2015年5月26日の映画紹介コーナーにおける、町山智弘さんの解説を参考に紹介していく。関連URLは以下の通り)。

 

<参考>

・「町山智浩 マッドマックス 怒りのデス・ロード 「2時間ブっ通しでクライマックス!!」たまむすび」『YouTube』2015.5.25 https://www.youtube.com/watch?v=kEJlRvf9D_o

・「町山智浩 マッドマックス 怒りのデス・ロードを語る」『miyearnZZ Labo』2015.5.26 http://miyearnzzlabo.com/archives/25762

 

 MMFRは、どうメチャクチャであり、デタラメか。映画が始まってすぐに始まるアクションシーン。その後もずっと、アクションシーン・カーチェイスシーンが連続する。初めてこの映画を見た人は、言葉での説明がほとんどないまま、次々と顕れるアクションシーンの嵐に圧倒され、まずは何が何だか分からなくなるだろう。この映画には、セリフがほとんどない。聴こえるのは、爆音か、クラッシュする音ばかり。

 

 さらに圧倒されるのは、アクションシーンの数々だけではない。この映画に顕れる、様々なモノ。例えば車。大型の高級車(キャデラック)を上下に二つ重ね、大型エンジン(V8)を二つ積んでいる車や…。 

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 背面に複数のドラムを剥き出しのまま搭載し、運転中に生演奏で、ドラム隊が激しくそれらのドラムを打ち鳴らしながら疾走するトラック。しかも、ドラム隊と背中合わせで、トラックの正面には膨大な数のアンプ類とギター男が控えており、ドラミングのリズムの盛り上がりと共に、ギターソロがかき鳴らされる。

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<参考>

・「『マッドマックス』のイカれた改造車を創造した男に直撃!今回も撮影中に死者が出た?」『日刊アメーバニュース』2015年05月30日 http://news.ameba.jp/20150530-604/

・「映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード』に登場するマッドなクルマを独占紹介!(前編)」『autoblog』2015.05.28 http://jp.autoblog.com/2015/05/27/madmax-cars1/

 

 極めつけは、このギター男のかき鳴らすダブルネックギター。それは火炎放射器にもなっていて、炎を迸らせながら轟音を生み出し、爆音で爆走していく…。

 

<参考>

・「Mad Max Fury Road Guitar Guy (Full Scenes)」『YouTube』2015.5.26 https://www.youtube.com/watch?v=1DcqnkzGEFQ

 

 この映画は、CGをほとんど使わないようにしている点にも特徴があり、見るものを呆れさせるような突飛なデザインの車の数々は、実際に複数台作られたものであるという。車が大好きな人や、アクション映画やヴァイオレンス映画が大好きな人は、まずこれらの意匠や仕掛けだけで満足するだろう。一見するとバカげているとしか思えないアイデアが、イヤと言うほど盛り込まれ、映像の中で次々に登場し、見ていると思わず笑ってしまう。

 町山さんは、誉め言葉としてこの映画を「バカ映画」と呼び、「見ていると、どんどん知能指数が落ちていく」、「アドレナリンはガンガン出て、知能指数がどんどん落ちて」いく映画だと述べている。強烈な映像とシーンの連続で、見終わった後はクラクラして、もうフラフラになる。

 

 町山さんは、この映画を「ストーリーがないんです。基本的に」とも解説していた。さらに町山さんは、このMMFRの解説後、ラジオパーソナリティの山里良太さんとの間で、この映画のメッセージや物語を深く考え(過ぎ?)るべきか否かをめぐって、やりとりを交わしている(上記サイト参照)。町山さんは、MMFRの登場人物のマックスについて、「主人公のマッドマックスって、物語の本筋とあんまり関係ない」と述べ、「ラスボスであるイモータン・ジョーとマックスは、互いに相手を知らないまま終わってしまう」点を指摘して、「この映画は深く考えると変な映画だ」と述べている。

 

 …そうなのだろうか。この映画は、基本的に「物語」がないのだろうか。もしくは、この映画におけるマックスは、物語の本筋とあまり関係がないのだろうか。この映画は、深く考えると本当に変な映画なのだろうか。そもそも、マックスはこの映画で主人公なのだろうか。

 

 ライムスター・宇多丸さんがTBSラジオで行っている「映画評論コーナー シネマハスラー」(当時の名称。コーナーは現在も継続中で、現在の名称は「週刊映画時評 ムービーウォッチマン」)では、MMFRを見た一般の視聴者からの感想として、MMFRに対する批判的な意見が以下のように紹介されていた。「マックスの脇役感が半端なく、物語に一向に入り込めず、感情移入できなかった」…(下記動画の3:32~)。

 

<参考>

・「【大絶賛】宇多丸 マッドマックス 怒りのデス・ロード シネマハスラー」『YouTube』2015.6.27 https://www.youtube.com/watch?v=mw4jwEIf5n4

 

 …まず、僕自身の視聴経験として、この映画を見て「物語に一向に入り込めない」とは、全く感じなかった。そして僕は、この映画の物語のことを、ずっと考え(過ぎ?)ている。この映画には、物語がないと僕は全く思わないし、そう捉えない方が良いと思っている。

 そもそも、全三作までのマッドマックス・シリーズは、極めてマッチョで、男のロマンがいっぱいに詰まったような映画だった*1。そこでは、小難しいことを考えず、ただバカになって、そこにあるヴァイオレンスやアクションや車等の意匠の過激さを「すげえ!」と言いながら楽しめる。無言がちで、強く、逞しく、そしてかっこいいマックス。そんな従来の「男らしさ」=マッチョの権化のようなマックスに、感情移入をし、ただ心惹かれて。そんな遊び場としても、マッドマックス・シリーズはあったのだと思う。

 しかし最新作であるMMFRは、その物語についてじっくり考えてみると、「マッチョに憧れる男の遊び場」に留まることを、決して許さないような部分が含まれている。まずは、そういうことだと思う。

 

 …従来の、「マッチョに憧れる男たちの遊び場」を超えて、新たな「男たちの遊び場」として、この映画を読み解くことはあり得るのだろうか。少なくとも僕は、この映画について好きなように書き/読みながら、楽しく遊んでいる。いま、まさに。僕のこの行為は、いったいどんな遊びとしてあり得るのだろう?

 

 そんな問いを考えるためには、最新作MMFRが「マッチョに憧れる男の遊び場」に留まらない作品となった、その理由を読み解くことがヒントになるように思う。この読み解きは、第四章以降で書きながら考えることになるだろう。

 

 いずれにせよ、上記の町山さんの紹介では、アクション・ヴァイオレンス映画を好まない人が、MMFRのことを敬遠してしまうかもしれない。それは、非常にもったいない。MMFRは、例えば次のような人たちにとっても、とても面白い素材だと僕は感じている。映像や音楽の芸術的表現に関心を持っている人。ジェンダーに関心を持っている人。現代社会の構造から生じる理不尽さに憤りを感じつつ、日々の生活と労働の場で闘っている人。そして、男らしくない男たち。こんな人たちにも、MMFRの面白さを感じ取ってもらうためには、宇多丸さんの時評と高橋ヨシキさんのコメントを参考にすることが、まずは最も良いと思う。

 

 

3-3 宇多丸さんの時評と高橋ヨシキさんのコメント

 

「期待を遥かに超えて、ぶっとばされました」

「大袈裟じゃなく、映画史更新レベルの一作に、マジでなっている」

「少なく見積もっても、ま、5千億点。(中略)みなさん、5千億点の映画やってんすよ。5千億点の映画、そんなあります? お前の塩梅だろうがって話だけど(笑) 俺の塩梅はとにかくいいんだよ。だまされたと思って…、とにかく今行かないヤツはバカだ! 『マッドマックス 怒りのデスロード』、ぜひ劇場でウォッチしてください!」…。

 

 ラッパーであり、TBSラジオで映画時評を担当するライムスターの宇多丸さんは、MMFRを見て、こう言っていた(以下、TBSラジオ『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』2015年6月27日の内容を参考にしていく。関連URLは以下の通り)。

 

<参考>

・「【大絶賛】宇多丸 マッドマックス 怒りのデス・ロード シネマハスラー」『YouTube』2015.6.27 https://www.youtube.com/watch?v=mw4jwEIf5n4

・「宇多丸 高橋ヨシキジョージ・ミラー監督独占インタビュー シネマハスラー」『YouTube』2015.6.27 https://www.youtube.com/watch?v=fPc68kVkrnw

・「「宇多丸 語り足りない!「マッドマックス 怒りのデスロード」高橋ヨシキ シネマハスラー」『YouTube』2015.6.27 https://www.youtube.com/watch?v=FIRSURD7CxY

 

 宇多丸さんは、この映画を最初に見た時、「あまりにぶっとばされすぎて、感想が言葉にならなかった」という。高橋ヨシキさんも、「この映画の前では、言葉は無意味なのではないか、とまで思った」と語っている。

 そして宇多丸さんは、何度かこの映画を見る中で、「…これは、凄いんじゃないすか」「…あそこって、どういうこと?」等々の言葉が、やっと出てくるようになった。毎週映画時評を担当し、映画のことを言葉にし続けてきた宇多丸さんをして、そこまで言わしめるような、そんな映画。

 

 まず、宇多丸さんが次のように言っていることに、注目したい。

 この映画は確かにド派手なアクションシーンが沢山盛り込まれている。登場人物や登場するモノ、世界観も過激で、強烈に見える。

 しかし、この映画には、直接的な残虐描写・残酷描写が、ほぼない。また、派手な展開になればなるほど物語の意味が分からなくなっていく、といったような映画でもない。アクション・シーンの間にストーリーが止まってしまうような、「アクションを魅せるためだけのアクション・シーン」も、この映画の中にはない。さらにMMFRには、ゆったりとした時間や静寂のシーンもしっかりと含まれていて、ただひたすらに小うるさくてやかましく感じるようなガチャガチャした映画とも、一線を画している。

 だから、激しいアクション・ヴァイオレンス映画に苦手意識を持っている人も、スルーせずにちょっと足を止めて、MMFRに注目してみてほしい。

 MMFRは、アクション・シーンと物語の進行を常に絡めて、物語を駆動させている。これは、どういうことなのか。ここは先に触れた、「MMFRの物語とは何か」という問いにも関わるところでもあるので、じっくりと宇多丸さんの解説を追ってみよう。

 

 まず、MMFRは開始30分、言葉での説明がほとんどないまま、登場人物であるマックスの独白と、その身に突然起きた「出来事」から開始される。マックスは、何が何だか分からない状況へと巻き込まれていくが、映画を見ている視聴者もマックスと同じ心境に立たされる。そんな状況が、開始30分間はノンストップでいきなり続く。そのため、この映画の一度目の視聴時では、「なんなんだこの世界は…」と圧倒されてしまう。だから、はじめて映画を見た直後だと、感想を言葉にし難い。

 しかし、その後に何度もこの映画を見ていくと、その舞台がどのような世界観で描かれているのか、そして各登場人物がどのような背景を持っているのかが、ビジュアル等でしっかり描かれていることを理解できていく。

 

 MMFRは、セリフが非常に少なく、その物語の構成も、極限までシンプルなものとなっている。しかし宇多丸さん曰く、それは「映画の中で語られていることが少ないことを意味しない」。むしろ逆だ。MMFRは、映画の中で語られているものが、非常に多い。ただしMMFRはセリフ、ないしは言葉で語るのではない。ならば何で語るのかと言えば…。

 

 「ビジュアルとアクションで語るんですよ。それが映画じゃないんですか」。

 

 MMFRには宇多丸さん曰く、「普通の超面白い映画の五本分ぐらいの、映画的アクション、ないしは映画的ビジュアルのアイデアが、存分にぶち込まれている」。しかもそれらが絶え間なく、常に複数で、数珠つなぎに同時進行していくようなかたちで表現されていく。そのためアクション映画として、まずはとても面白い。素晴らしいエンターテイメントであり、誰が見ても面白いと感じられる。しかもそれらは、ほとんどCGを使わないリアル・アクションであり、その点でも誰もが驚愕できる。

 さらに特筆すべきは、それらアクション・シーンがそのまま登場人物の造形の繊細な描写につながっていて、同時にそれらアクション・シーンは全体の物語を推進する力にもなっているところだ。ひとつひとつのアクションによって、ひとりひとりの登場人物に潜んでいる個性の豊かさや、物語全体の深みが増していく。ビジュアルとアクションがロジカルに組み立てられていて、個々の/全体のストーリーテリングに直結している。このような作りを指して宇多丸さんは、MMFRが「完全に、純映画的なストーリーテリングというところに、特化して機能している」映画だと評価している。MMFRは、「映画の基本、映画の根幹、映画というものの本質、その純度を、現状可能な限りまで突き詰めた」一作である、と。

 MMFRでは、撮影・美術・衣装・メイクアップ等のビジュアルや、役者陣の演技、そのひとつひとつのセリフやそれらの配置、そして音響・音楽に至るまで、全セクションのレベルが異常に高い。それら全てが、非常にロジカルに、考え抜かれて組み合わされて置かれている。そのため、セリフや言葉での説明が少なくても、映画全体のビジュアルとアクション、それらの流れによって、ストーリーや設定を視聴者にしっかり伝えている。そのため、最終的にはセリフや出番が少ない登場人物にも、そのそれぞれに、しっかりとした厚みのある物語がちゃんと見えてくる。映画を見ているだけで、寓意があり、深みのあるテーマが、その物語全体から自然に浮かび上がってくる…。

 

 まとめよう。MMFRにおける物語は、軽く振り返ってみると、非常にシンプルなものに(…もしくは、町山さんがそう言ったように、「ストーリーが基本的にない」ように)思える。しかし、実はMMFRの物語は、登場人物それぞれに用意されていて、そのひとつひとつに味わい深く、多様で数多くの意味を含んだ、複雑なものとしてあるのだ。特徴は、その物語の表現方法にある。基本的に、言葉では表現していない。ビジュアルとアクションによって。ビジュアルとアクションを徹底的に洗練し、これらの組み合わせと折り重なりによって、複雑な物語を描いている*2

 MMFRで描かれている、この複雑な物語をどう読み解くか。具体的には第四章以降で、その作業を行っていく。先にも述べた通り、ジェンダーに関心を持っている人や、現代の社会構造の理不尽さに抗いながら日々の生活と労働の場で闘っている人、そして男らしくない男たちにとって、MMFRの物語は重要なメッセージを放っていると、僕は感じている。第四章以降で、MMFRの物語が伝えてくれているメッセージとは何かを考え、言葉にしてみたいと思う。次の記事の更新には二週間以上かかるため、気になる方は、先に上記URL、特にジョージ・ミラー監督のインタビュー動画をチェックしてほしい。ジェンダーに関心を持っている人は、上記URLをチェックすれば、MMFRへの興味が十分にそそられると思う。

 

 さて、アート的な表現に関心のある人は、次のような宇多丸さんの評に、あらためて目を向けてみてほしい。MMFRは、アート映画的である。「芸術性とかでも、ちゃんと評価した方が良い」「エンターテイメントなのに、超アート的なルックもある」。

 色彩等含め、ルックは非常に斬新で、宇多丸さん曰く「バッキバッキ」(MMFRの映像を撮ったジョン・シール(撮影監督)も、なんと年齢は70歳代…!)*3。そして、音。全編通じて、サウンドデザインが非常に精密に行われている。音楽や効果音、さらにはセリフの響き等まで含めて。シーンとシーンをつなぐ役目として、次のシーンを呼び込むような音づくりが、ほとんどミュージカル的なかたちで行われている*4。音の強弱や、それぞれの音が紡ぎ出しているリズムに対しても、ぜひ注目したい。

 MMFRは、いわば「総合芸術」と言っても良いのかもしれない。文学的な意味での物語の深みと共に、視覚的・音楽的表現の美しさも同時に、異常なまでに追い求めている。映画の細部のひとつひとつから、その全体に至るまで。高橋ヨシキさんは、MMFRを「宗教芸術に近い」と述べている。宗教芸術とは、ありとあらゆるディテールにこだわるものである。その理由は、それらのこだわりが総体として、「神を讃える」という一つの目的のために、真っ直ぐ向かっているからであるという。MMFRが狂ったように一個一個のディテールや背景を考え抜き、作り込もうとしているのは、もはや宗教的情熱だと、高橋ヨシキさんは言っている。

 

 

 

 前編(第一章~第三章)は、ここまで。現時点ではまだ、僕が考えたい問いの、その外堀をほんの少しだけ埋めたに過ぎない。徐々に徐々に、問いの中心へと向かっていく。次はいよいよ、男性性とMMFRとの関係を考えることへ、本格的に取りかかっていく。まずは、ジョージ・ミラー監督のインタビューを聴くところから。そしてWeb上には、MMFRに関する沢山の言葉たちがある。それらを読むところから。書きながら考え、次回で外堀を完全に埋めて、僕の問いの中心を見定めたい。

 

 

<上記以外の引用・参考>

・「マッドマックス 怒りのデスロード」『Wikipedia』2017.6.20アクセス https://ja.wikipedia.org/wiki/マッドマックス_怒りのデス・ロード

・「MAD MAX FURY ROAD」(映画パンフレット)2015年6月19日、発行承認:ワーナー・ブラザーズ映画、松竹株式会社

 

 

 

*1:マッドマックス・シリーズの第一作目では、物語の前半で女性の強姦されるシーンが象徴的に置かれたり、マックスの妻の人物像の描き方が極めて平板な上、最終的には後のマックスの復讐劇のために殺されてしまう。その物語では、女性がモノとして扱われ、その暴力的なシーンの刺激性が利用されて、結局は男のロマンカタルシスへと回収する描写が目立った。第二作目以降では、強い女戦士が登場して男戦士と互角に戦う場面があったり、女性の登場人物が物語を推進する重要な役割を担うようになる等、強い男を描くだけの物語とは異なる側面も見せ始める。しかし、MMFR以前のマッドマックス・シリーズの物語の主軸は、強い男であるマックスが主人公となって、理不尽な暴力に対し、その復讐として対抗的に暴力を振るう、もしくは弱いものを救うための行動を主導的に取っていく。そんなモチーフが一貫していたと僕は思う。視聴者は、そんなマックスの強さに、カタルシスを得ることができてきた。

 では、第四作目のMMFRでは、それらのモチーフがどう変わったのか。もしくは、MMFRでも基本的にはこのモチーフが変わっていないと見るべきなのか。男が自らの力によって何かを実現すること。それを男のロマンと呼んでよいならば、この男のロマンをMMFRではどう取り扱っているのだろうか。それが、これから書きながら考える上での焦点となる。

*2:監督ジョージ・ミラーは、MMFRをセリフがほとんどない作りにしたことについて、インタビューでこう答えている。「私がアクションを愛してやまないのは、映画言語のもっともピュアな形だからだ。アクションは無声映画時代に作られた。(中略。ヒッチコックが、「日本人にも字幕なしで理解できる映画を目指している」といった言葉を引用して)それこそ、私がこの映画で目指したことになった。ストーリーを練る時も、脚本のブレンダン・マッカーシーと一緒に、ストーリーボード作りから始めた。台詞がほとんどないからね。ストーリーボードは全部で3,500枚ほどになって、そのほとんどが映画に採用されているよ」(映画パンフレット、p.24)。このように、MMFRに複雑な物語が埋め込まれていることは、以上の映画制作過程からも明らかである。

*3:なお、MMFRの様々な意匠・造形は、単に斬新さや過激さを追い求めているだけでなく、その世界観における合理性も追求している。このロジックについては、例えば映画パンフレット、p.29の、コリン・ギブソン美術監督)インタビューを参照のこと。

*4:MMFRの音作りとストーリーとの関係について、監督のジョージ・ミラーはインタビューでこう答えている。「私はアクション映画を一種の視覚的な音楽として捉えていて、この映画は、熱狂的なロック・コンサートとオペラの中間あたりのものなんだ。座席から観客をかっさらって、強烈でハチャメチャな旅の中に放り込みたい。そしてその過程で、観客はキャラクターたちがどんな人物なのか、そしてこのストーリーんに至るまでの出来事を知ることになる」(映画パンフレット、p.33)。