孤独な男性のヘイト行動と、他者に認められる欲望

kiya2015さんのハテナダイアリーを読み、考えこまされています。

 


kiya2015だけど。

 

 

 

性暴力のことをSNSで話題にする女性や、在日外国人の女性を狙い撃ちにして、いわゆる「クソリプ攻撃」を浴びせる男性たちについて。

 

kiya2015さんは「欲望されない苦しみ」に焦点を当てています。

 


2014-11-28 - kiya2015だけど。

 

 

女性に比べて自分のように男どもの言説が過激になりがちなのは、そうしなければ周囲の気を引けないからだ

 

 

この「欲望されない苦しみ」を、軽視したり、唾棄すべきものとして切り捨てたり、無いものとして扱うべきではない。

この苦しみの存在をしっかり受け止めて、それがいったいどういうものであるのかを、考える必要がある。

kiya2015さんはそのように主張されていると理解しました。

 

 

 

そしてkiya2015さんは、このような「欲望されない苦しみ」の底にルサンチマンがあると指摘します。

 


「非モテ」論が必要な理由 - kiya2015だけど。

 

彼らは「周囲が優秀なのに自分だけ落ちこぼれていた」だとか、

「弟が大スターで誰からも好かれ、自分はそのおこぼれに与るばかりだった」だとか、

出自も家庭環境も最悪で世の中を恨んでいた」だとか、

そういうルサンチマンをこじらせてしまった結果として、排外主義に傾倒していったのだ。

この逃れられないルサンチマンとどう向き合う(あるいはやり過ごす)かというのが「非モテ」論の原点である。

 

このルサンチマンと向き合うこと(もしくはやり過ごすこと)の困難さを、僕も徹底的に考え尽くしたいです。

 

 

上記記事より、sociologbookさんの11月19日のツイート。


sociologbook on Twitter: "「嫌韓嫌中の背後にあるのは、イ デオロギー的なものよりも、身近な人間関係における孤独感であるのかもしれない。」 http://t.co/1ME57Ndn31"

 

 

「また、韓国・中国への親近感は、孤独感とは負の相関、一般的信頼とは正の相関を示している。つまり、身近な人間関係のなかで孤独を感じており、見知らぬ他者を信頼しない者ほど、韓国・中国に対して排外的な態度をとる傾向にあるということだ。」

 

 

 

「韓国・中国への親近感の低い者ほど、親しくつきあっている近所の人の数が少ない(性別・年齢・学歴でコントロールした偏相関係数で、韓 r’=-.09、中 r’=-.11、いずれも 0.1%水準で有意)。 」

 

 

 

「友人数とは無相関だが、『友達であっても、プライベートなことには深入りしたくない』という傾向も強い(韓 r’=-.09、中 r’=-.08、それぞれ 1%, 5%水準で有意)。」

 

 

身近な人間関係での孤独。

 

友人関係の中ではプライベートなことに深入りしたくないとする一方で。

SNSの世界などでは一転して、排外的だったり女性嫌悪的な言葉、すなわち他人の心を抉るような言葉を発信したくなる。

 

生きていく中で、いつしかルサンチマンをこじらせ、気がついたら孤独になっていた。

いつの間にか、「欲望されない苦しみ」から逃れることができなくなり、しかし身近な人間関係の中では、それらを解消させることができない。

かといって、その苦しみを、ひとりでやり過ごすこともできない。

 

 

他者からの承認を求めてしまうこと。それはさもしいことでもなんでもない。

むしろ、人間にとって最も基本的なものであると、三脇康生さんはジャン・ウリの言葉を借りて言っています。

 

 

フロイトは欲望とは性的なものであるとしているが、もっとも「基本的な欲望」とは何なのか、とウリは問う。そしてそれは「人に知られる欲望」であり、「他者に認められる欲望」であるとウリは書く。そこにただ人がいることに気づかれること、これこそがもっとも基本的な欲望ということになる。ウリにおける欲望は性的な範疇を超えている。とすると、欲望の発露である転移も性的な転移を超えるということになる。これは世界への転移ともいえる。この世にいてもよいという気がするという意味での転移になる。

三脇康生2008「治療概念として ウリはなぜガタリの分裂分析を拒否するのか」三脇康生他編『医療環境を変える 「制度を使った精神療法」の実践と思想』京都大学学術出版会、P274)

 

 

 

先日話題になったヘイトスピーカーのヨーゲンさんのことを、kiya2015さんは上記記事でも少しだけ触れています。


ネットでヘイトスピーチを垂れ流し続ける 中年ネトウヨ「ヨーゲン」(57歳)の哀しすぎる正体【前編】 | 現代ノンフィクション | 現代ビジネス [講談社]


ネットでヘイトスピーチを垂れ流し続ける 中年ネトウヨ「ヨーゲン」(57歳)の哀しすぎる正体【後編】 | 現代ノンフィクション | 現代ビジネス [講談社]

 

それまで自分が浴びせかけてきた匿名による暴力が、身元がバレたことで、今度は自らの身にも降りかかるかもしれない。

そう気づいてからの、ヨーゲンさんの恐怖に怯える様子。

 

プライベートでは、妻にDVをしていたこと。

 


それらの事実も重く突き刺さりましたが、僕が心の底からやるせなく思ったのは…。

裁判になり、執行猶予付きの判決を受け、帰宅を許された後…。

ヨーゲンさんが、すぐにSNSを再開したことでした。

 


暴力を振るえば振るうほど、きっと恐怖心は増していくのでしょう。でも、自分では止めることができない…。

 

この暴力の無間地獄を止めるには、いったいどうしたら良いんだろうかと、本当に考え込まされました。

ヨーゲンさんを異化して捉えずに*1、ヨーゲンさんが自らのルサンチマンと向き合う(もしくはやり過ごす)方法を見出していくためには、いったい何があれば良いのでしょう?

 

 

 

結論など出ません。ただ、もう少し考えるために、次の記事を紹介し、その感想を書き留めて終わりにしたいと思います。


中村淳彦 ネット右翼と中年童貞<ルポ中年童貞> - 幻冬舎plus

 

この記事を書いた中村淳彦さんのスタンスですが、僕には少し違和感があります。

 

「中年童貞」を見下し、嘲り面白がって消費する読者のことを意識して書いてはいないか。少し、そのように感じました(僕がちょっとナイーブすぎなのかもしれませんが)。

 

それが少し鼻につくのですが、しかしこの記事で登場する宮田氏の言葉からは、様々な示唆をもらいました。

 


特に、この記事の中で紹介されている「自分が三人の女性に同時に好きになられた」と妄想してしまったエピソードが、とても印象的でした。

 

僕にはその心理が、凄く良く分かると思いました。

 

それまで異性と話す経験が極めて乏しかった。話してみたら、とても楽しかった。気持ちが高ぶった。その気持ちが、つい行き過ぎた。まずは、それだけのことだと思います。

 

ただ、宮田氏はこのエピソードをサラリと自虐的に語っていますが、自分が「異常な妄想」状態に陥っていたと分かったときには、酷く落ち込んだろうと思います。

そんな挫折感を乗り越えて、次のように内省の言葉を述べることができる宮田氏に、僕は敬意を覚えています。

 

 

三十九歳まで本当に誰ともしゃべらないで生きてきたけど、百八十度意識が変わってしまった。人と話すのって面白いし、女性と話すのは超面白いって。参加した当初は一方的に喋って知識をひけらかすみたいな人間だったけど、だんだん人とはこうやって話せばいいんだって覚えたというか。

 

 

 


宮田氏はこの記事の最後で、他の中年童貞のことを「どうにもならない」と切り捨て、ネガティブな評価を容赦なく下しています。

僕には正直、その言葉の刃が、同族嫌悪(≒自己否定感)から来るものに感じました。


僕には、この記事の最後で宮田氏が提案する「隔離」という手法に、賛同することはできません(「ベーシックインカム」については、宮田氏と違う文脈でもう少し考える余地がありそうですから、保留します)。

 

 

僕は、まず宮田氏がここまで赤裸々に語る姿勢に、強い敬意を感じます*2

高学歴ヘテロ男性の、性に対する劣等感と、プライド。

それらを抱えた上で、他者と向き合い、自分と向き合われている。

それはきっと過酷な作業だったろうと思います。


しかし、宮田氏にはまだ、環境上の幸運があったと思うのです。

勉強会という、自分の良さが出せ、かつ他人とつながれる場所があったこと。

楽しく会話をすることのできるスキル、器用さ。

そんな条件に恵まれた宮田氏よりも、さらに困難な状況に置かれているヘテロ男性の方々は、確実にいるはずです。

 

 

僕は、僕もひとりのヘテロ男性として言いたい。

ルサンチマンをこじらせたヘテロ男性が、他者と出会っていくことの苦しさ。その途方もない困難、恐怖心。

自分のプライドやルサンチマン、自己否定感と向き合わされ、打ちのめされ、そのちっぽけさにこそ、絶望すること。

それは男性固有のもので、ひどく重く、厳しいものであると。

そんな苦しさ、困難に少しでも立ち向かい、叩き伏せられてでも生きていこうとするヘテロ男性の勇気は、称えられるべきであると。

 

ただしその賞賛を、ヘテロ男性以外の方々へ、安易に求めるわけにはいきません。許しを求めてもいけない。それは甘えになるでしょう。

ヘテロ男性以外の方々には、それぞれ固有の困難があり、とりわけ懸念しなければならないのは、僕たちがその方々の加害者となることが、往々にして(常に?)あるからです。

留意すべきは、ヘテロ男性がそのカテゴリーを自然に引き受けることができるだけで、この社会においては不当に優位な権力性を付与されてしまうということ*3

それに伴って、油断していると気がつかないうちに僕らは、ヘテロ男性以外の方々を抑圧する動きに直接的/間接的に加担することになります。

 

その点に十分自覚的でありながら、その上でなお、もし僕らが、僕らの固有の困難を他者に理解してもらいたいと願うなら。
理解してもらいたいと思う他者の、その固有の困難を、僕らがまず先に、徹底的に理解しようとする姿勢を示さなくてはならないでしょう。
そうすることでもしかしたら、僕らの固有の困難とは何かを知りたいと欲する内発的な動機が、ヘテロ男性以外の方々の内面にも生まれてくるかもしれません。

 

…ということで、僕らは他者の理解を当てにすることが、まずはできない立場にあると覚悟した方が良い。

だからこそ、僕たちは、せめて自分たちで励まし合わなければいけません。

この励まし合いは、暴力や加害の事実をずるずるべったりと許し合うような、そんな慣れ合いの関係ではありません。

むしろそれとは真逆のものです。

暴力や加害の事実を、各自自分でチェックすること。

無意識に目隠ししている自らのそれに気づこうと、みんな自分で自らへと目を凝らすこと。

ときには、僕らが互いに互いを批評し合い、その姿勢を維持し続けられるように、律し合うこと。

そして、この苦しく辛い作業を行いながらも何とか生きていく、そんなお互いの姿を、根底的に励まし合うこと。

 

 

加害や暴力は僕らの身体に絡みついて離れない。そんな中で、でき得る限りその加害の事実を受けとめ、暴力を自覚し、その加害と暴力に精一杯抗うことができるか。

 

そのように抗えたものとして、僕らは僕らの自己を、本当に受容することができるのか(到底僕には、できそうにない気がしています…)。

 

少なくとも僕は、僕の弱さを、嗤うべきではないと、嘲るべきではないと、強く思いました。

僕らの最大の敵は、内なるプライドです。高みを目指すプライドではなく、弱さを正面から受け止める勇気を。そのような勇気が、僕らの間を駆け巡りますように。

 

*1:異化して捉えないとは、彼の暴力や加害をなし崩しに許すということではありません。むしろ逆に思っています。彼の行った加害行為に対しては、彼自身が責任を取らなければなりません。ヨーゲンさん自身が、暴力の無間地獄から逃れ、「この世にいてもよい」と真に思えるようになっていくためにも、きっと自らの加害と向き合う過程が必要です

*2:右派の思想を持たれているようですので、考えは異なるかもしれません。ただ、宮田氏とは一度お会いして、ゆっくり対話してみたいなあって思います。議論は平行線になる部分があるかもしれませんが、面白い議論ができそうな方だなあと感じました。

*3:もしも仮に、その権力性による優位を、個人的には全く実感できなく、むしろ自分は権力を持っていない被害者だと、感じていたとしても…。僕たちには固有の困難があり、その重さからついつい被害者意識を感じてしまうけど…。しかしその被害者意識を、ヘテロ男性以外の方々に苛立ちとともにぶつけることは、きっと大きな誤りなのです。「弱いものがさらに弱いものを叩く」構造に巻き込まれてしまう、そんな惰性にこそ抗いたいと僕は思います