シスへテロ男性固有の困難は、どう名指せば良いのか?(もしくは、名指すべきではないのか?)

らくさんからコメントをいただき、考えこみました。

 

らくさんは、「これははてな非モテ論に触れてから、ずっと疑問に思っていたこと」だとして、次のような問いを提示してくれました。

 

 

それは「欲望されない苦しみ」が、なぜヘテロ男性固有のものとされているのかという点なのです。

 

 

 

  • 「存在そのものが世界から無視されてる感覚」

 

ここで言う「欲望されない苦しみ」とは、僕が前記事で紹介させていただいた、kiya2015さんの言葉を引用したものを指しています。

 


2014-11-28 - kiya2015だけど。

 

kiya2015さんは、「欲望されない苦しみ」のことを、例えば「何書いてもスルーされる」辛さと表現していますが。

 

これは別に、SNS上に限った話しをしているわけではないのだと、僕は思います。

 

kiya2015さんは「欲望されない苦しみ」のことを、「存在そのものが世界から無視されてる感覚」とも表現されています。

 

この「存在そのものが世界から無視されてる感覚」が、SNS以外の生活世界全般で感じられること。

 

時にその感覚は、忘れられる程度に薄れていることだって、日常の中で、もしかしたらあるのかもしれませんが…。しかしそれは一時的なものに過ぎず…。

 

環境上の複合的な要因によって、時にはその感覚が自分ひとりでは耐えられなくなるぐらい、辛く思えること。

 

ずっと自分の底にこの「存在そのものが世界から無視されてる感覚」があるような気がして、それから逃れたり、その感覚をやりすごすことができないこと。

 

このような状況に陥ってしまっていることを、kiya2015さんは「欲望されない苦しみ」の問題として捉えているのだと、僕は勝手に想像しています。

 

 

 

さらに、孤独な男性がヘイト行動へと導かれていくプロセスを、僕は「もしかしたら…」と次のようにも想像してしまいます。

 

この「存在そのものが世界から無視されてる感覚」に、意識的/無意識的にずっと苛まれていたシスへテロ男性が…。

 

何かのきっかけで、SNSというツールに出会い…。

 

ヘテロ行動が蔓延する空間へと、辿りついてしまった。

 

あとは依存症のようなもので、「存在そのものが世界から無視されてる感覚」を忘れさせてくれる、このツールを用いて、用いて、用い続け、その加害行動から逃れられなくなってしまう。

 

…ヨーゲンさんの例を想起すると、僕はこんな想像をしてしまいます。

 

 

 

  • なぜ、シスへテロ男性は「特別」苦しむのか?

 

さて。

 

らくさんは、次のような疑問を提示してくださいました。

 

 

 

「欲望されない」という苦しみは、ヘテロ女性でも、ゲイ男性でも、属性に関係なく等しく背負っている人は背負っているものだと思います。

 

女であれば、ゲイであれば無条件に人の気をひけるわけではないです。

 

しかし、ルサンチマンに凝り固まってしまうのは、圧倒的にヘテロ男性が多いように見えます。

 

なぜヘテロ男性にその傾向が強いのか、不思議に思います。

  

ありがたい指摘です。

 

「欲望されない」こと自体は、性自認がどうであれ、おそらく誰の身にも降りかかる事実だと、僕も思いました。

 

すると問題は、「苦しみ」というところ。主観性の問題。

 

 

上記で述べてきたことにつなげて表現するなら、なぜシスへテロ男性は、「存在そのものが世界から無視されてる感覚」に至るような、そんな苦しみを感じてしまうのか、というところに問いがある。

 

非モテの問題にひきつけて考えると、「存在そのものが世界から無視されてる感覚」に至るような苦しみの原因が、なぜモテの問題=性的な問題へと収束してしまうのか。

 

シスへテロ男性の主観性が、なぜそのように収束されてしまうのか。

 

シスへテロ男性の固有の困難を名指そうとするなら、そのように問いを再設定する必要がありそうだなあと感じました。

 

 

 

  • 特権性が付与される構造が原因

 

そのように問いを再設定し、僕も考えてみたのですが…。

 

らくさんの次のような指摘は、妥当であると感じました。

 

 

私は個人的には、「女性を獲得できない」「人から注目されない」というルサンチマンは、裏返せば「本来は自分は女性を獲得できるはずだった」「本来は自分は周囲から注目を浴びるはずであった」という意識の現れではないかと思っています。

 

女性やゲイの非モテが攻撃的ではなく、諦めモードに入れるのは「本来自分はパートナーを獲得できるはずである」という前提を持っていないからじゃないかと…。

 

 

ヘテロ男性というセクシャリティを自然と受け入れることができた場合、そのままこの社会では特権性が付与される。

 

特権性が付与される構造の中で、「シスへテロ男性である自分は、本来女性を獲得できるはずだ」「本来自分は、周囲から注目を浴びる(ような社会的地位や、そのような賞賛を得られる活躍ができる機会を与えられる)はずだ」という意識を、自然と植え付けられていく。

 

そして、その「シスヘテロ男性という特権階級」の内部で、ヘテロ男性同士の熾烈な競争がある。

 

この競争の結果として、「本来得られるはず」の状態に至らないとき、意識と現実とのズレがルサンチマンとなり、「苦しさ」が生まれる。

 

女性ないしはシスへテロに違和を感じるに至った人は、特権性が付与される構造から排除されるため、このようなかたちでのルサンチマンとしては、発現しにくい。

 

 

…ということで、らくさんのコメントに異論はなく、むしろ、らくさんのコメントのおかげで、より思考がクリアになったという気がしています。

 

せっかくですので、さらに思考を進めてみたいところです。

 

シスへテロ男性が、特に「欲望されない」ことに苦しんでしまう原因が、以上のようなものだったとして、ならば彼らをいったいどうすれば良いのか?

 


…論理的に考えるなら、「ルサンチマンに絡みつかれたシスへテロ男性は、冷たく突き放されるべき」となるような気がします。

 

「シスへテロ男性は、自分の有するルサンチマンが、既存の不公正な構造から生じたものだと、とっとと理解しろ」

 

「そのことを、意識しないと分からないだろうから、とにかく滅茶苦茶に意識しろ。意識しながら、自分(たち?)で勝手に自らのルサンチマンを解消できるよう、あれこれ方法を試行錯誤し、実際に行動して失敗しながら学んでいけ」

 

…と。

 

 

 

  • 僕のゆきどまり

 

…正直に今の気持ちを書き留めます。

 

あの記事を書いてから、僕はぼんやりと、次のように思っていました。

 

シスへテロ男性に固有の困難を、そもそも名指しても良いのか、と。名指そうとする試み自体が、無意味なのではないか、と。

 

 

今振り返ると、僕は次のような論理で、前回の記事を書き進めたような気がしています。

 

  1. 孤独なシスへテロ男性は、「欲望されない苦しみ」を抱えている。
  2. どうすれば、その苦しみと向き合える(ないしはやりすごせる)のか。
  3. ひとりでは難しい。無理だ。
  4. シスへテロ男性は、それ以外の人に対して加害者の立場に置かれている。だから、その人たちと一緒に、この苦しみのことを考えることはできないだろう(とりあえず)
  5. ならば、シスへテロ男性同士で、まずは一緒に考えるしかない。


…こんな論理展開で、僕はシスへテロ男性の固有の困難を名指そうと試みた。一緒に考えるために、まずは共に向き合うべき固有の困難を言語化しようとしてみた。書きながら、いつの間にかこんな方向に辿りついた感じです。

 

 

しかし書き上げてみて思うに、孤独なシスへテロ男性同士で連帯するなんて、ほぼ不可能ではないのか。

 

まだ若い方々、これから大人になっていくシスへテロ男性の方々なら、連帯は可能かもしれません。

 

若い方々は、まだルサンチマンをこじらせていない。まだこじれが深刻ではない若い方々は、坂爪さんの『男子の貞操』を参照しながら、同/異性とピア的に話しあっていけば、男としての性に自分なりに向き合っていけるんじゃないか。率直には、そんなふうに感じるのです(そんな簡単にはいかない?)。

 

でも僕がどうしても念頭においてしまうのは、前回記事の標題にある通り、「ヘイト行動」をしてしまうような「孤独な男性」の存在です。

 

あの人たちに、「僕らには固有の困難がある」と言って、「一緒に考えよう」と呼びかけることは、とても無謀なことではないのか。

 

すでにネット上では非モテに関する論争が、これまでも山ほど積み重ねられてきたし、今でも山のように溢れている。

 

そこでは、結局は次のような見も蓋もない言葉が強いような気がするのです。「そうは言っても、モテれば解決だよね」「そうは言っても、モテなければ解消はされないよね」。

 

 

 

  • 再出発

 


僕は、このブログを、匿名で行っています。それは、普段なかなか話すことができない、性に関する対話と、それに伴う思考を、ウェブ上の匿名でならできるかもしれない、と思ったからです。

 

しかし僕は、このブログ上でも、自分のことを書きながら考えることが、なんだかうまくできなくなってきました。

 

そこには色んな理由があると思います。ただ、その中のひとつに…。

 

非モテの方が、僕の個人史的な情報を知り、「アイツは非モテじゃないからそんなことが言えるんだ」とスルーされてしまうのが怖い。

 

そんな理由が、僕の中に確実にある。そう意識できるようになってきました。

 


言葉にしたからこそ、この発想はおかしいと、ハッキリ思えます。

 

これは操作主義的な発想だ。ウェブ上で見ている人のことを馬鹿にしている(それは自分のことを馬鹿にすることだ)。うまく情報操作して、僕はウソの自分で、他者から承認してもらえる欲求を満たそうとしている。

 

僕は「まくねがお」という記号ですが、僕が誠実に自分の思考を書き留めることができず、自己をウソで塗り固めるように書き続ける記号になってしまうなら、消えた方が良い。僕自身のために、そう思います。

 

 

僕は、非モテの方々と、実のあるやりとりがしたい。そのような気持ちがあるからには、僕の中にそう思わせる何かがあるのでしょう。

 

その気持ちを大切にしつつ、まずは僕が、僕自身の個人史の振り返りから始める必要があるのかもしれません。

 

 

 

  • 原点回帰

 

最後に、僕の原点である、ふたりの方の思考の断片を書き留めて、今後の糧にしたいと思います*1

 

 

 1.上山和樹さんの『「ひきこもり」だった僕から』(2001年)より

 

P151の「性的な挫折」という節から。

 

  ひきこもりは、普通は「社会的・経済的挫折」と見なされます。それはわかりやすい話です。実際、そうですし。でも、私が思うに、ひきこもりには、もう一つ重大な挫折が秘められています。これまではあまり触れられていないんですが、「性的な挫折」です。これは、決定的です。

 特に男性に言えると思いますが、「社会的にうまくいっていない自分のような人間に、異性とつきあう資格などない」。そう思いつめて、絶望している人がどれほど多いことか。そして、これは決定的な挫折感情なのです。「もう自分には、セックスも恋愛も結婚も、一生ムリだ」これは耐えられない認識です。実は、こちらの挫折感情のほうが、傷としては根深いのではないか。

 仕事だけなら、「一生、できなくてもいい」と思えるかもしれません。しかし、性的な関係となれば……。

 ここからも窺えますが、ひきこもりの当事者は―私も含めてですが―、価値観的に非常に保守的な人が多い。むしろ「親以上に」そうかもしれません。

 親は案外「もう、ここまでこじれてしまったのだから、とにかく元気に過ごしていってくれたらいい」と思っていたりするのですが、本人が許さない。それが特に性的な局面に現れやすいのです。そして、それが特に強く本人を苦しめる。

 今回の私の体験記録を見ていただいてもおわかりだと思うのですが、性的な葛藤というのは、ひきこもり当事者の心性を強く支配し、規定していると思います。本当に、強烈な感情で、根深くこじれてしまっている。

 逆に言うと、このへんに、ひきこもり対策の一つの鍵が見えてきます。性的事柄に一番苦しむということは、逆に言えば、性的事柄で光が見えてくれば、事態は劇的に変化するかもしれない、ということです。私がそうでした。

 性的事柄といっても、ただ単にセックスをすればいいというものではなく、やはり精神―性的な関係がはじまるかどうか、ということ。「精神の肉体関係」とでもいうんでしょうか。そんなものがはじまる必要があります。

 

さらにP153から。

 

 

 私自身痛感しているのですが、実は「性的な」関係をつくろうとするときに、自分の中にインストールされてしまっていた価値観と、もっともラディカルな形で格闘する必要ができてくるのです。先ほど、「本人は、実は親以上に保守的だ」と申しました。「親への価値観的反発が問題だ」というそれ以前の記述と矛盾するようですが、実は本人自身が、自分の中に仕組まれてしまった「暗黙の強制」みたいなものに一番縛られていて、そのことでものすごく苦しんでいる。その縛りを再度問題化し、突破口に向けての自分の組み直しを促してくれるのが、「性的」執着であり、そういう相手との具体的な出会いなのだと思います。

 

 

…上山さんの「体験記録」が気になるかと思いますが、ぜひ原文に当たってみてください。

 

簡単にそのプロセスをメモするなら、上山さんの事態が劇的に変化したきっかけは、ウェブ上における、ある女性との出会いでした(P89)。

 

その女性と、いつの日か直接会いたいという動機が、前へと踏み出す行動につながっていきました(P92)。

 

さらには、年の近い男性の友達が同居を誘ってくれ、しかもその彼の決定的な言葉(P102)が、「歯車が変わりだす」ことへとつながる直接的な行動に、不可欠でした。

 

なお、そもそものきっかけだった女性との関係は、結果的に失恋に終わっています。

 

さらに言えば、上記のプロセスの間には、壮絶な葛藤(性的な問題も含めて!)が幾度もあります。P100のエピソードなどは、僕には地獄としか表現しようがなかった。


なお、現在も上山和樹さんは、ブログ『フリージングポイント』で粘り強い思考を続けています*2


Freezing Point

 

 

 

 2.杉田俊介さんの「『男性弱者』と内なるモテ幻想」(『無能力批評』所収、2008年)より

 

P304から*3

 

  生まれたこと自体を承認されていること、それは事実としてはわかっているのに、実存的には足りない。なぜなのか。やはり「自分であること」の核には―それがすべてではないが、その中の大切な部分として―、「男としての性的な弱さ」があるのではないか、そう思わざるをえなかった。「男らしさ」と「男であること」の亀裂と矛盾の中で次第に溜まっていくつらさ。痛み。いやらしさ。性的な弱さの核心を異性に承認し肯定してほしい。しかし「男」には基本的に、それを口にすることは許されていない。それこそがもっとも、男らしくないのだから。はっきりいって、この素朴な肯定欲求が正しい、人としてまっとうだ、とは今も少しも思えない。しかし、実存的にそういう欲求がある。あってしまう。それを認めざるをえない。そんな最小限の肯定感を実感できないこと、可能性としてすら体感できないことが、非モテ3なのだろう。もしあなたが、それを「男らしくない」「男のくせに」「きもちわるい」と感じたなら、まさにそれによって、非モテの人々は一層追い込まれていくのだ。

 

杉田さんは、非モテの本質が「累積し続ける」「不能感と空洞感」であり、「ルサンチマンは人を不可避に、独我論的な構成の中に追い込む。不能な気分が、《世界》の全体を覆い尽くしていくのだ」と述べています(P306)。

 

 

さらにここから杉田さんは、「非モテと性暴力が不即不離の関係にある」として、非モテと性暴力の関係について踏み込んだ考察をしていきます。

 

まず、正直に言います。杉田さんの後半の文章を、うまく理解できないと感じました。フロイトデリダの理論が僕にはわからない、というところもあるのですが、そういうことだけではないような気がします。

 

例えば、「ある種の女性や子どもたちに固有の弱者暴力(名誉男性化した女性の暴力、ではなく)を男の側から批評することすら、辞さないつもりだ」(P317)と述べるあたりが、僕にはついていけない。

 

この僕の「ついていけなさ」には、「否認」が含まれているような気もして、うまく思考を進められません。加害者である僕は、このように考えてはいけないのではないか。何だかグチャグチャした感覚が、邪魔をしています。

 

…書きながら思いますが、杉田さんはとても不穏なところに果敢に踏み出そうとしている。それをどう受け止めればよいかはまだ分かりませんが、どう捉えるにせよ、僕にとっても大事な問いが潜んでいるような気もします。もう少し考えてみます。

 

 

もう一点、僕の心理がグチャグチャする部分として。

 

杉田さんが「最後に」で、ご自分の大事な加害/被害経験を論述されているところ。

 

このところも、どう考えたら良いのかわかりません。ぼかして書いているため、よく分からない、というところもあります。ただ、何だか、僕自身も自らの大事な加害/被害経験を問い直したいという衝動に駆られる。杉田さんの文章の投げ出し方が、そのように僕を感じさせるのだと思います。

 

 

杉田俊介さんの「『男性弱者』と内なるモテ幻想」という文章は、以上の通り、僕にとってはどう読んで考えれば良いか分からない、グチャグチャしているところが含まれているのですが…。

 

杉田さんのこの文章では、新たなメンズリブに向けての考察も書き留められてもいます。

 

1990年代に本格化した「女性学を経由した男性の自己省察の学問」である男性学(P293)について、先行研究を示しつつ、整理して下さっている。

 

引き続き、僕の思考の原点として、再読しながら考えていきたいと思います。

 

*1:非モテと僕との「原点の文章」と言うなら、本当は本田透さんの『電波男』(それ以前のエヴァンゲリオン二次創作、「萌える大甲子園」など)から始めなければいけないのかもしれませんが…。後日の宿題にします。

*2: 勝手な想像ですが、現在の上山和樹さんならば以上の論点について、シスへテロ男性同士の連帯(≒メンズリブ)などという方向には行かず、「ミクロな場における主観性と関係性の技法」の問題へと、徹底的に照準を合わせていくでしょう。

 なお、上山さんの議論から三脇康生さんの文献を知って読み、ラボルド病院の実践から学びたいと思っています。多彩で無数のクラブやアトリエを創り出し続けること。スタッフが(患者も交えて?)徹底的に対話しつつ、仕事を柔軟に変化させるアクションを続け、その動きの中で自らの役割を問い直し続ける「役割分担表」。こんな手法を用いるなどして、複数的な場=制度が常に創り出され、それぞれの場=制度の異質性が維持・調整され続け、それぞれの場=制度における参入・退出の自由と、その間の移動・交通の自由が保障され続ける。そうすることで、その場=制度にいる構成員の全てが、自らが気づけなかった他者と出会い、自らの当事者性を問い直す機会を得ることができる。そこでは、スタッフと患者の線引きさえもズラされ、問い直される。そこでは、性的なことへの拘りからも解き放たれ、「そこにいても良い」という感覚を、誰もが穏やかに獲得できていく…。こんな環境整備上の努力の問題として、病院という場=制度に限らず社会のあらゆるミクロな場=制度における責任の問題として、非モテの議論も展開することはできないのでしょうか。

*3:今回、あらためて杉田さんのこの文章を読んだのですが、僕の思考は結局杉田さんの後を追っているなあ、という印象です。僕はこのブログ等で、できるだけ自分の思考の根拠となったものは明記して、その上で書きながら考えたいというスタンスを取っているのですが、気がつくと自分でも知らぬうちに杉田さんと同じようなことを書いている。ですので、気づかぬうちに杉田さんの思考を剽窃するように書いているかもしれません。気づくたびに明記して、自他の区別をつけていきたいと思います。