痴漢をめぐる論点(ツイッターより)⑤

前回の記事の続きです。

 

  • 痴漢被害と周囲の眼

 

痴漢被害に遭ったとき、周りに人の眼があるかどうかはとても重要です。

 

誰も見ていないところで、痴漢に対して抵抗すると、復讐されてしまうかもしれないからです。

 

紹介するのもおぞましく、恐怖をあおるようで、ここで挙げるのも若干躊躇するのですが…。1988年には、こんな事件もあったようです。

 

地下鉄御堂筋事件:

大阪府/人権学習シリーズvol.6 同じをこえて その「ちがい」は何のため? 女性専用車両で考える特別な措置/解説資料(コラム)

 

周りの人の対応がいかに重要であるのか、痛感させられる事件です。

 

なお、上記コラムの文章の内容も、示唆に富むものです。

 

「駅員(できれば女性)を増員し、女性の性暴力被害を防ぐと共に、被害があった場合は迅速な対応を行う」べしという提案は、今日でも参照されるべきではないでしょうか。

 

また…

他の関西私鉄各社にも同じ要望書を送付し、返答を求めたところ「性を前面に出したくないので、迷惑行為はやめましょうというキャンペーンにしている」などの回答が返ってきました。この回答には、実際に痴漢に苦しめられている女性が多いにも関わらず、それを見て見ぬふりをする鉄道会社の姿勢が表れていました。

…という分析や、

 

大阪府警関西鉄道協会が制作した「痴漢行為にあったら、勇気を出して大きな声を出しましょう」という趣旨のポスターは、同会の主張である「女に注意を呼びかけるのではなく、男に痴漢をやめろと呼びかけるべき」と全く相いれず、性暴力を行う男性に甘い社会を浮き彫りにしました。

という分析も、社会が示す痴漢被害への理不尽なリアクション例を、よく照らし出していると感じました。

 

 

  • 被害を見つけたら…(「あ、この人、痴漢されているのかも」と思ったら…)

さて。

 

ということで、痴漢被害は常態化しているため、電車等に乗ったときは、自分の近くでいつでも被害が生じているかもしれない。まずはそういう意識を持ちたいところです。

 

 

 

では痴漢被害を見かけた場合ですが、まず正論として。

 

「あ、痴漢されてる!」と思ったら、周りは「おい、何してるんだ!」とすぐに声を上げるべき。

 

特に、基本的に体格差の上で優位にある男性が、それを率先して行うべき。

 

これは、まずは当然のことと思います。

 

 

 

ただここで、あえて恥を曝しますが…。

 

もし僕自身が、痴漢被害を目撃し、すぐに堂々と「何をしてるんだ!」と声を上げられるか? と問われると、少し自信がないです…。

 

なぜなら、僕はとても臆病だからです。体格も立派ではない、弱々しいメガネ男。幼い頃から、殴り合いのケンカどころか、口ゲンカもろくにしたことがない。だから多分、痴漢の加害者に僕が何か言おうとしても、震え声になるでしょう。情けないですが…。

 

また、リアルに想像すると、「本当に痴漢されてるのかな?」という迷いがあると、行動に躊躇が出るでしょう。勘違いだったら、そして勘違いなのにヘンに手を出した結果、トラブルに巻き込まれたら、どうしよう…。きっと、そんな躊躇も生まれそうです。

 

…あとは、実際にそういう場面に接してみないと、自分がどういう行動をすることができるかは、わかりません。痴漢被害者が毅然とした行動に出る必要はない(というか、そんなのは無理な場合が往々にしてある)という話しを前回はしましたが、第三者として目撃している場合は、僕自身が痴漢の被害に遭ってるんじゃないんだから、できれば「毅然と」行動したいなあ…。そういうカッコいい「人」(「男」じゃなくて!)になりたい。

 

 

 

 

なお、以前ツイッターで見かけて、気にかかっていたツイートを掘り出してきました。

犬越 on Twitter: http://t.co/kzFzd8ZAxU"

 

(1)痴漢に接触されたら、ハンカチに口を当てて具合悪そうに振る舞う

 

(2)周囲の人は、「具合悪そうに見えますけど、大丈夫ですか?」と声をかける

 

…この意見は、とても参考になるなあって思いました。

 

僕が目撃者になったときでも、毅然として声をかけることが難しかったとしても、(2)の「具合悪そうに見えますけど、大丈夫ですか?」と声をかけることなら、きっとできそうです。

 

別に被害者の方がハンカチに口を当てていなくても、「疑わしきは行動」の精神で、積極的にこのように声をかけても良いんじゃないかなあ。

 

実は勘違いで痴漢にあっていなかったとしたら、声をかけられた方はキョトンとするだけでしょうし(そしたら「ごめんなさい、勘違いでした」で済む)。

 

この方法を紹介してくれた犬越さんは、「事後対策である事や協力者が見つからなかった時の次の手がない事が気に掛かってます。なんとか発展させたいんですが… 」と言っています。うむー、確かに。

 

この方法だと、加害者を捕まえる、という方向にはあまりならないでしょう。それが問題と言えば、問題か…? 大事(オオゴト)にしたくないという、日本人の多数派が好みそうな方法であることは否めませんが…。

 

でも僕は、窮余の策としてのこの対策を積極的に支持したいです。ここまでの考察で痛感しているのは、痴漢被害に対する周囲の人の無知や無関心が、何より痴漢行為を蔓延させていると思うから。

 

自分に自信がない人であっても、自分のできる範囲で、痴漢被害の撲滅に関わっていこうと思うこと。そして、その気持ちを行動に表す人が増えることが、とても大切だと思うからです。

 

melさんも、9/4のツイートでこのようにつぶやかれています。

 

mel on Twitter:

それと、痴漢に遭ってる人に気づいたら、痴漢のことには触れずに「具合悪そうですが大丈夫ですか?」とさりげなく声をかけるというの、この前他の方もツイートしてたけど、声かけるほうもかけられるほうも抵抗なくやりやすいと思うので、こういう助け方も広まるといいと思う。

 

もちろんそれは痴漢の罪を不問にするという意味ではないのだけど、現実として痴漢に逆切れされるかもとか、まわりの他の人は協力してくれないかもという不安がある以上、そういう「痴漢のことには触れずに助ける」というやり方も必要だと思う

 

少なくとも、僕個人はこの方法を自分の頭に叩き込んでおこう。

 

多くの女性も、痴漢に遭遇したら「ハンカチで口を覆う(具合悪そうに振る舞う)」「しゃがみこむ」「吐きそうなフリをする」などの方法を頭に入れておくと、きっと良いのでしょうね。

 

こういう方法を、多くの人に周知するには、どうしたら良いのかな…。

 

今回の痴漢に関する一連の記事を書き終えたら、ここまでの考察を踏まえて、使いやすい痴漢対策(被害者用、目撃者用両方の)のまとめ記事を作ってみるとか。初見の人でも分かりやすくて、検索でも引っかかりやすいようなものになるように工夫して。

 

つか、僕が知らないだけで、そういうサイトが既にあるんでしょうかね? もしどこにもなくて、僕にやれそうだったら、やってみます。

 

 

 

なお、犬越さんは、次のようなツイートもしてくださっています。

これ何回か呟いてますが、私が電車内で遭遇して被害者(女性、しかも妊婦さん)を救出した痴漢案件は、性的接触ではなく「ゼロ距離ガン見」でした。夫婦かと思ってしばらく悩んでしまった為に声掛けが遅れたのが本当に悔やまれる…。

こんな痴漢の例もある、と…。嗜虐欲に基づく痴漢ならば、こういう例もあるような気がします(相手が逆らえないことを良いことに、不快なことをし続ける…)。

 

周囲の人が、「あれ、おかしいな」と思ったときは、すぐに行動に移せることの大切さを、痛感させられます。

 

 

さて、痴漢に関して考えたい論点として、あとは「痴漢被害を相談されたとき、どうすれば良いのか」と、「社会的な対策として、痴漢とどう向き合えばよいのか」というトピックが残っています。

 

さらに、過去のツイートを発掘していたら、紅蓮の猫さんの一連のツイートがありました。


紅蓮の猫さんによる、電車内痴漢についての実態と対策調べてみた - Togetterまとめ

 

このことについても触れた上で、金田さんのツイート(とそのやりとり)の社会的な対策に関するものも抜き出しつつ、考察を続けていきたいと思います。

 

ということで、(きっと)続きます。

痴漢をめぐる論点(ツイッターより)④

前回の記事の続きです。

 

  • 痴漢被害の実態

あと大抵の男性は、「ほとんどの女性(半数以上)が痴漢や通り魔に遭った事がある」という統計じたいを知らず、「レアケース」か「女が嘘をついてる」と思うらしいのですが、これは学校で教えるかメディアでもたびたび流して、被害が常態化してるということをまず周知してほしいと思っています。

 

大抵の男性からすると、(ポルノではなく)犯罪としての痴漢の話に接するのは、報道されたときだけだろうから、少なく思えてるというのは分かります。でもたいての男性のお母さん、姉妹、娘、女友達、女の恋人も、おそらく痴漢にあったことがあります。

 

痴漢についてのツイがけっこうRTされてありがたいです。ただそういう人たちのホームを見に行くと謎のデマもRTしてたりして悲しくなります。一年間に女性のうち1割以上が痴漢にあい、うち9割が泣き寝入りしてるという、警察の資料こちら→

 

続)「なんだ一割か」と思うかもしれませんが、この統計での尋ね方は「過去一年間で」なので、「一度でも痴漢被害にあったことがある」女性の数はぐんと増えます。統計は色々あるので図書館にある『女性のデータブック』系のものの「性暴力」「犯罪」あたりの項を読んでみてください。

 

…ということで、痴漢被害が常態化している状況を前提に、話しを進めていきます。

 

こういう話しをすると、「痴漢冤罪が…!」という反応が出てくることを、どうしても意識してしまいますが…。

 

正直な話し、痴漢冤罪の議論について、僕はあまりフォローできていません。

 

偏見かもしれませんが、僕には痴漢冤罪を撲滅しようとする議論に血道を上げ、その議論を盛り上げようとしている方の一部が、「怒男性」「ミソジニー(女性蔑視)」によって突っ走っているだけではないか、と反射的に疑ってしまい、まともに考えようとする気が、これまでは起きませんでした。

 

僕は映画『それでも僕はやってない』も見ていないぐらいですから、痴漢冤罪の問題について、まともに考えたことがありません。それは正直に述べておきます。

 

ただ、痴漢冤罪で苦しい思いをした(今もしている)被害者の方も、絶対にいるはずです。「怒男性」だからと偏見を持って、この問題を考えることを止めるのも、きっとおかしなことなのでしょう。

 

なので、「もし自分が、痴漢冤罪の被害にあったとしたら…」ということもよく想像しながら、情報を集めつつ、今後ゆっくり考えていきたいと思っています。

 

 

 

 

  • 痴漢と服装

私も若い頃は今以上にダッサダサの、髪の毛ボサボサ、ブスの、ビン底眼鏡オタクだったんですが、それですら、(むしろダッサダサで田舎くさかったからこそ)上京してすぐ、満員電車で痴漢されました、相手をほぼ特定できるぐらいだったですが、満員すぎてすぐ逃げられたのと、怖くて声が出ませんでした

 

私も上京して初の痴漢、すっぴんベリーショートメガネジーパンに膝丈のでかいコートという超モサ色気ゼロ服だったので、ショックと混乱でどうにかなりそうでした。その後派手服+金髪+眉&耳ピアスあけまくりファッションになったらその時期だけ痴漢ほぼ無かったです。

 

そうなんですよね。私、「ズボンは痴漢にあいにくい」と聞いてから、わりとずっとズボンで(動きやすいのが一番の理由だけど)、さらに「絶対に捕まえる」と身構えてる+満員電車にあまり乗らないので、痴漢にあってないのですが、ズボンでも痴漢は来る、と聞いてます。

 

服装、地味な方向に持っていくのは痴漢避けにはぜんぜんならないと思いましたね。ヒョウ柄ミニスカガーターベルトみたいなファッションより、ジーパンとかデニムロングスカートの時のほうがぜんぜん変な人寄ってきましたもん。あとバイトの制服着てるときとか。

 

ああ…私は経験ないんですが、「本屋痴漢」「本屋盗撮」多いらしいですね。昔は監視カメラとかもなかったし… RT 小柄とかロングヘアとかでも遭遇しやすいんですよね。中学のとき本屋で痴漢にあうのがイヤでばっさりショートにしたら遭わなくなりました。

 

…前回までの記事でも、僕は基本的に「嗜虐欲に基づく痴漢」に焦点を当てて考えてきています。

 

この痴漢に焦点を当てると、加害者が被害者を選ぶときのポイントは、性的な反応よりも、「こいつは支配できそうか」「こいつは大人しそうか」というところになる。

 

その結果、地味に見える、大人しそうに見える、という方が、痴漢被害に遭ってしまうという場合も、どうも実態としてありそうです。

 

以前のツイートで見て、なるほどなあと思ったイラストはこちら。

 

http://livedoor.blogimg.jp/girokerogirokero/imgs/d/8/d8005edc.jpg

 

 

 

…ただ、だからと言って、個人の対策として、「なるべく派手そうな格好をしよう」「大人しくなさそうな格好をしよう」と呼びかけるのは、とってもトンチンカンなような気がします。

 

まず、服装を選ぶ自由は、大事だと思うから。痴漢被害に遭わないために、自分の意に沿わないような服装をするのって、どう考えてもおかしい。

 

というか、それぞれの女性には現在の生活世界の中で、そこで適応するために自分の服装をチョイスしているという側面が、多くの場合であるはずです。

 

「服装を○○に変えたほうが良い」というアドバイスは、現在の生活上、そうしようにもなかなかできない人が多数いることが想像されます。

 

そもそも、話しを服装や見た目のことに持っていくことは…。

 

「男を誘うような格好をしているから悪いんだ」という自己責任論的でかつ意味不明な言い分が理不尽であるのと同じように…。

 

「地味そうに見えるから、大人しそうだから悪いんだ」ってな理不尽な言い分に、つながってしまうかもしれない。

 

これはよーく考えてみると、滅茶苦茶におかしな言い分です。こう言われた人は、きっと、ものすごーく傷つくと思います。

 

だから、痴漢対策として服装の話しを云々するのは、あまり有益でないこととして、話しを進めていきます。

 

 

  • 被害に遭いそうになったら…

 

  就活の面接向かう途中、電車で隣席座ってきたサラリーマンに股間見せられました。キレたらすぐ謝った小心者とはいえ、駅員のいる車両まで1人で連行する自信はなく周囲の助けもなく、面接遅刻して痴漢云々て嘘て思われそうとか色々あって…何も出来ませんでした。悔しい。

 

私とか鍛えてないし動けない小デブなんで、痴漢や通り魔に反撃するのは、お恥ずかしいですが「加害者が弱そうで、時間がある」時だけです。自転車通り魔に遭った時、凄い弱そうだったので「何すんじゃゴルア!!」って追いかけたら脱兎のごとく逃げていった。ただ誰にでも薦めることはできません。

 

嗜虐欲に基づく痴漢、つまり、弱そうに見えるから狙われたのだとしたら、強気に反応すれば逃げていく可能性もある。

 

ただ、上記ツイートにもあるように…

 

「反撃、復讐されたらどうしよう」

 

「遅刻するなど、時間がない」*1

 

…などの要素が絡み、実際に行うのはとても難しいことが想像されます。次の方のツイートも、とてもありがたい情報です。

 

私は痴漢や変質者を追っ払ってたわけだけど、そういうのはな、絵面で見ると毅然ととかそういうんでないぞ。叫んだり傘だの鞄だの手当たり次第にぶん回し、目撃者がいないとまずいからそれを人前でやるわけだ。完全に見た目は凶戦士だ。スカートにヒールでは無理だし

 

完全に見た目は「凶戦士」。面白い表現を選んで書いて下さっていますが、ご本人のそうしているときの心境も含め、秀逸な表現だと感じます。

 

なりふりなんか構っていられないし、普段の自分や周囲の振る舞いと思いっきり浮いたって良いわけです。もう無我夢中で暴れる。「毅然」ととか、そういうのは意識しなくて良い。

 

…と、言われたって、実際やるのはとても大変でしょうね。小中高の頃に、SSTでこういう動きをする経験の機会を用意したほうが良いんじゃないかなあ、なんて思います。

 

そして、上記ツイートで注目すべき点。

 

「目撃者がいないとまずいからそれを人前でやるわけだ」

 

と書いています。目撃者がいない、つまり他に見ている人がいないで暴れると、反撃されるかもしれない。こういう判断力が、大前提として必要なわけで…。

 

もはや、被害に遭いそうになった方の、個人的な対策を考えるということ自体も、極めて慎重にならざるを得ないのは明らかです。

 

もしできるならば、他にも人が見ていることを確認したうえで、無我夢中で暴れると良いでしょう。

 

でも、できなくても、責められることではありません。それは、とても判断力がいることですし、とびきりの勇気がいることです。そのときの服装などによる制約もあるわけで、そういう行動に出ることができるような条件にあること自体、限定的であると見なければなりません。ですので、反撃の行動に出ることができなかったとしても、その人を責めないようにしなければならないでしょう。

 

 

軽くネットサーフィンした程度ですが、こちらのサイトは、対策としてシンプルで分かりやすく整理されていました。

 


電車の痴漢犯罪対策室

 

 

 

  • 痴漢を見かけたら…(痴漢かも、と思ったら…)

こ…怖い!! 私、だいたい満員電車で痴漢に遭ってて、「空いててもにじりよってくる、逃げても追ってくる」タイプには遭ったことないのですが、(どちらがより怖いとかじゃないですけど)本当に逃れようがない…どう見ても困ってるのに、誰も助けてくれないなんて…。 

 

上記で見てきたように、痴漢被害に遭いそうなとき、周囲に人の眼があることが、とても大切です。ですので、今度は「あ、この人、痴漢されている(かも…?)」と思うような、痴漢被害者の周囲にいる人の立場に立って、考えてみます。

 

上記のツイートにもあるように、「誰も助けてくれない」と思われるような、周囲の反応もあり得るわけで…。こういうことがないように、電車に乗っているときなどは、僕たちはどうあれば良いのでしょうか?

 

 

 

 

…というところで、ちょっと一区切りします。以前ツイッターで、この問題を考えるのに良いつぶやきをリツイートした記憶があるので、それを探しに行ってくる。

 

最近の一連の記事は、書きながら考えているので、冗長だったり話しが飛んだりしていると思います。

 

次回かその次あたりにラストになると思うのですが、一通り書いたら、まとめとして、もう少し分かりやすいかたちで、自分の考えたものをあらためて整理しようかなあ、なんて妄想しています。

 

つか、僕の冗長な考察を混ぜるより、一連のツイートをカテゴリーに整理して載せることに集中した方が良いのかな? などと思ったり。

 

 

とりあえず、下記に、参考にしたい金田さん(とそのやりとり)のツイートの残りを、列挙させていただきます。

 

ということで、(たぶん)続きます。

 

 

 

 

 

  • 痴漢被害の相談に乗るときは…

あと痴漢はまだしも「露出魔」に関しては個人によって、被害の感覚が全然違う人が居て、「むしろ見て辱めてやればいいじゃん」「お前も大人なんだからビシッと『短小!』とか言ってやればいいじゃん」など、また頓珍漢な、他人事なアドバイスをする人がいます。それが出来たら相談してねーんだよ。

 

そうなんだよなー。「痴漢とか通り魔とか、被害者がしゃきっとしろ!」系の物言いありますけど(自分も言ってしまったことあり)、まず急いでるとき用事を後回しにしてまで、全力で逃げようとする加害者を駅員や交番まで連れていくのは本当に難しい。あと報復が怖いというのもありますよね。

 

 

 

 

 

 

  • 社会は、痴漢加害/被害対策をどう講ずるべきか

本屋・図書館は多いと聞きますね。それである図書館が苦肉の策で(ホームレス問題も加味して)女性専用席を設けたみたいで賛否両論ですが、そもそも性犯罪者をどうにかできないものか…と悩みますね。職員の巡回を増やすのは一手ですが、人件費に響きますしね。  

 

この「車に乗ってやってくる勃起男」のこと思い出すと、「大人が子どもに声かけするのを禁止する条例」「声かけられても返事しちゃいけない」とか(はじめはちょっと大げさかなと思ったけど)そこまでしなければ子どもを守れないと思った地域の人たちの気持ちもわかるんですよね。 

 

 

*1:前回、「痴漢被害が相談できない」状況について書きました。この状況が、通勤中などに痴漢被害に遭ったとき、悔しいけれど被害の事実をスルーしてそのまま我慢したり、他の人にもそのまま相談せずに放置させてしまう環境をもたらしています。現在よりもさらにさらに、痴漢被害にあったことをしっかりと周囲に喋れる環境さえあれば、痴漢被害に遭ったときも、様々な対策が打てる時間的・精神的なゆとりが得られることになるでしょう。

痴漢をめぐる論点(ツイッターより)③

前回の記事の続きです。

 

  • 痴漢被害を誰にも相談できないこと

昨日から興味深く拝読。十代で就職、いかにもな田舎娘だったので、通勤でよくオジサンに威嚇されて被害にあってました。同年代の友達もいなかったので、会社で困って相談すると「は、自慢?」みたいな空気になり、結局、黙っちゃってたなあ……とか思い出してましたー。

 

「は、自慢?」みたいな反応…。この「嫉妬問題」は超デリケートだと感じます。

 

こういう反応が予想できるから、自らの被害の事実を、誰かに伝えることを躊躇してしまう。

 

 

 

 

 

思い出すのは、杉田俊介さんの、次の記述。

 

杉田さんは、ある文章を書く中で、杉田さん自身が「微妙な形で性暴力を受けたことがある」事実を思い出しています。ただその事実は…。

 

当時それを殆ど人に話していない。ある友人から「よかったじゃん、かわいい人?」と言われてからは、特に。(ちなみに、その記憶を辿る時ぼくが今も思い出すのは、同じ頃、ある親しい女性から「自分のことを好きだというクラス男の子から、サークルのボックス中を追いかけられた、怖かった」という話を聞いた時、「でもモテてよかったじゃん」と反射的に答えてしまい、その人を「そっか、伝わらないのか、そっか……」とひどくガッカリさせたこと)(杉田俊介「性暴力についてのノート」『フリーターズフリー vol.02』

 

…なお、杉田さんは、この自らが受けた「微妙」な「性暴力」の経験を、「女性に対するいやな無力さ―しかもその中にそこはかとない快楽があった」とも述べています。

 

  

誰もが、性的対象として見られることからは、逃れられない。モテ競争からは、無関係でいることができない。とりわけ杉田さんの場合は、ヘテロ男性として、「非モテ」の悩みを抱えていた…。

 

モテ競争に負けている劣等感があるからこそ、痴漢の被害の事実をカミングアウトされたとしても、そのままそれを受け止めることができない。嫉妬の感情が邪魔をして、歪んだ情報の受け取り方をしたり、それをおかしなかたちで発信したりしてしまう…。

 

 

性的な対象として扱われた事実を、自分も100%嬉しくない、と思えない(ような気もする…)。こんなモヤモヤ感が、ときに性暴力(なのだろうか…?と迷ってしまうような事態の)被害を受けた側にも生じてしまう*1

 

 

誰にも相談できなくなる理由のひとつに、このようなモヤモヤ感がジャマをしてしまう場合もあるのでしょう。

 

 

 

 

 

 関連して。

 

つい先日読んだ論文、「統合失調症患者に好意を向けられた女性看護師の感情体験」*2(清水隆裕、入江拓、2014年。雑誌『精神看護』2014年11月号所収)。

 

この論文の中では、統合失調症の患者さんに好意を向けられた精神科の女性看護師さんの、インタビューの結果が掲載されています。

 

その語りの中で、そっと、本当にそっと、 

でも、ちょっと(女性として)嬉しい感じもします。

と述べている、語りのローデータがあったりしました。 

 

 

しかしここは本当に複雑で…

(同僚の中には、)何かたぶらかしたんじゃないの?ってそういう方向に行く人もいるんですよね。あなたに隙があるからっていう感じの。そういうふうに思われるのは嫌だった。

 

(ほかの看護師にも好意を向けていると)安心しました。私に落ち度はちょっと少なかったのかなって。

 

(極めて都合の良い、インタビューデータの抜粋の仕方をしています。詳しくは原文をご参照ください)

 

…といった気持ちも吐露されています。

 

看護師さんが置かれてしまう、心理と状況の複雑さと言ったら…!

 

対人援助職の方が陥る、性愛の問題については、また別のテーマとなりますので詳しくは述べませんが…。

 

この論文では、「患者から好意を向けられた精神科女性看護師の体験は、暴力を受けた看護師の体験と酷似していた」という知見を明らかにしています。

 

そして、痴漢の被害に遭った人が、他者にその被害の事実を相談することが難しい状況となることも、看護師さんの置かれる状況と近いものを感じます。

 

 

性的に求められることをめぐる問題。突然その渦中に投げ込まれる人も、その問題を第三者の立場から関わる人も、複雑な語りにくさ・受け取りにくさが生じる。痴漢被害を相談できない背景には、そういう状況があるのだと思います。

 

 

 

 

 

 

うわー…本当に辛かったでしょう。「痴漢にあった人は、なんでそれをもっと広く訴えないの?」というのは、このように「自慢かよ」あるいは「それ聞いて勃起したわ」などの頓珍漢な答えで、余計に傷つけられる経験があったりするからなんですよね…。 

 

(前略)「痴漢=(現実の犯罪でなく)ポルノ」みたいな発想の人は一部にどうしてもいるので、ズリネタとか笑い話にされてしまうことがある(後略) 

 

痴漢被害を減らすどころか言い出しづらい状況、変えていきたいですね!! RT もの凄く共感します。被害にあっても、お前が悪いと言われるか笑い話にされる事が多く、辛かったのを思い出しました。同性に言っても、自慢かと言われる事もあり、憤る事も。 

 

 

「それ聞いて勃起したわ」って…。思わず絶句してしまいますが…。

 

こう言ってしまう男性の心境を勝手に想像してみたのですが、ふと「もしかしたらその男性にとっては、誉め言葉のつもりで言っているのかもしれないな」なんて思いました*3

 

「あなたがそういうことをされるということを想像すると勃起する」=「あなたに性的魅力を感じている」と言うメッセージになるから。

 

ぐえー、こう書いていても、とにかく全く擁護できんわ…。こういう言葉を返すヤツってどういう神経してんだよ…。

 

 

女性を、性的魅力があると誉めることが、礼儀であると信じている男性は多いし、それが「常識」として蔓延している環境が、現にあると感じます。

 

しかしこの「常識」が、どれほど有害であることか!

 

 

被害に遭ったことの辛さを、誰かに吐露して整理したかったのに、それを茶化されてまともに受け止めてもらえなかったり…。

 

さらに上乗せして性的に消費されたりしたときの、その屈辱! 絶望!

 

 

性に関する話しを、茶化してお茶をにごしてしまう慣習があることや…。

 

性に関する話しになると途端に、「男はオオカミであることが良い(「元気があってよろしい」的な?)」だとか、「女は性的に誉められると嬉しいはず」みたいな常識があることこそ…。

 

深刻な二次被害を蔓延させる温床となっているのかもしれないな、と感じました。

 

 

 

 

 

 

 さて。 

 

この三回分の記事の内容を踏まえたうえで…。

 

「痴漢の被害に遭うかもしれない人が、個人的にはどのような対策を講じるのが良いのか」

 

そして、個人的な対策のみならず、「社会的にはどのような対策が必要なのか」

 

これらの点について、金田さんのツイートを基点にして、引き続き考えていきたいと思います。

 

 

 

ということで、(おそらく)続きます。

*1:ここは、痴漢被害のことを言っているのではないことに注意してください(紛らわしくて、すみません)。このモヤモヤ感が生ずるのは、あくまでも、「性暴力(なのだろうか…?と迷ってしまうような事態の)被害を受けた」場合の話しです。痴漢に遭ったときは、「ちょっとは嬉しい」だとか、そんなふうにはとても思えないはずです。前回までの記事で、「嗜虐欲に基づく痴漢」について散々触れたので、想像できるはずです。そんな痴漢被害を受けて、嬉しいと思うはずはありません(嗜虐欲に基づく痴漢被害にあっても、それが嬉しいと感じてしまうような人は、自分のことを傷つけたいと願ってしまう、自己否定感が強い状態の人なのだと思います。そういう人に対してだって絶対に、性暴力がなされてはいけないはずです)。杉田さんの例や、患者さんから恋愛感情を向けられた看護師さんの例を挙げたのは、あくまでも、相談をしようとすると周囲から嫉妬されてしまう状況を考えるためです。痴漢被害の場合、被害者が嬉しいと思うことなどは、全くありえないと想定した方が良いと思っています。

*2:この論文は面白かったのですが、清水隆裕さんの「この研究をした動機」の中にある意見は、批判されなければならないと思いました。清水さんは「看護師の今後のために大切なこと」として、「偏見や弱さがあったら愛せないのではなく、偏見や弱さをもつ自分を受け入れ、なお愛を捧げられるという、自分自身の能動性・姿勢・構えが問われているのだと思います」と述べています。この言葉を言い切る前に、性愛の問題を考える地点でもう少し踏みとどまり、性愛の問題の渦中に置かれた看護師の、その感情労働過程とは、いったいどういうものであるのかについて、もっと粘り強い考察を行おうとする姿勢が必要だと思う。入江さんもそうですが、何よりまず、男性と女性との身体的な非対称性などの問題等を、本気で踏まえて論じているようには、とても思えませんでした

*3:考えすぎか? 下半身でしかものを考えられない、筋金入りのただのバカか?

痴漢をめぐる論点(ツイッターより)②

前回の記事の続きです。

 

  • 男性が、他者から性的な対象として見られる、ということ

 

 男性だと、女性からの痴漢なんて無いってことになってるから、余計に、声をあげづらいですよね。嫌な思いをされたでしょう。RT ちなみに男の僕も高校時代に二回ほど電車で痴女(←たぶん50代)にあってましたよっ、てことも不意に付け加えておきます。・゜・(ノД`)・

 

 宣さんの被害には非常に同情しますが、男性の、「自分の体が他人にとってエロいわけがない」という鈍感さも相当なものですよね。男性は皆、萩尾望都先生の『残酷な神が支配する』を読んで、その鈍感さが自分の精神と人生を破壊するということを知るべき!! 

 

「自分は美形じゃないから…」凄くわかります。男性は、痴漢が実際にどれぐらい多くて、美しさ・若さなどより「文句を言わなさそう」な人を狙いがちというのを知らないので、「ブス(ババア)なのに痴漢されるかよ!」とか言いますが、翻ってそれ男性の被害も隠蔽してますよね @mirugi_jp 

 

この視点を、ヘテロ男性として受け止めるとは、どういうことか。

 

 

突然ですが、僕は専業主婦の母から、凄くかわいがられて育った、末っ子です。

 

そんな育ちの背景を持つ、30代半ばの僕が今、様々な人間関係を経験する中で気づくのは…。

 

一部の年上の女性との関わりが、とても楽だと言うことです。その女性から、自然と好意を持たれたり、何かと世話を焼かれたり助けを受けたりして、僕は得をすることが多い。

 

この例を挙げることは、僕が一部の年上の女性から、性的に求められている、と言いたいわけではありません(この点は、さらに深めて考察すると、こうは割り切れない、より複雑な問題かもしれません。母娘問題ならぬ、母息子問題。要するに、マザコン問題。「母は息子と寝たいのか?」「息子は母と…?」。おそらくはフェミニズムにおいて、すでに検討されている論点だと思います。これを僕が当事化作業として、要するに「息子側」から問い直すとは、いったいどういうことなのか?)

 

きっと僕は、ある種の年上の女性に好まれる(?「この子はもうホントに、ほうっておけないわ!」と思わせるような、依存物質を脳内に出させる?)ような媚態を、身に着けているのだと思います。母との関係で、その「媚態」という資源を獲得したんだと思う。…とてもキモいですね。書いてて思う。

 

言いたいのは、僕は僕が生まれ育つ中で獲得したジェンダー的な資源を利用して、人間関係をうまく渡り歩いているということです。その資源を無自覚に行使することが、ある種の搾取や暴力を孕んでいるかもしれない、ということです。ここを自覚できるかどうかは、男性学的にとても大切なような気がします。

 

 

女性は、自分がどのように見られているか、容姿や振る舞い方のセンスも含め、自分がどのような資源を持っているか(もしくは、いないか)に、敏感にならざるを得ません。

 

なぜなら女性は、相当に幼い時期から、「見られる性」としての血みどろの闘いに、巻き込まれているからです。「見られる性」としてすぐに評価されるような環境が土台となり、何よりも女性同士で、過酷な生き残り競争をせざるを得ない構造がある。

 

化粧などをめぐる論考を読んでいると、その過酷な闘いを渡り歩いてきた状況が想像でき、男性の状況とのあまりの違いに、愕然とさせられます。


Love Piece Club - 第一回 上野千鶴子 化粧をめぐる省察 / 上野千鶴子

 

 

…うーん、金田さんのツイートを確認し直してみると、僕自身の例は、やっぱりちょっと論点がズレてますね。

 

金田さんのツイートから学ぶべきは、男性も、性的対象としての自分を、問い直す必要があるということです。それは男の身体を持つ人にとって、日常で相当に自覚的にならないと、難しい作業だと思われます。僕の例は、僕の当事化作業としてそれを今やってみようと思ったときに、思い浮かんだ例、ということでした。

 

そして金田さんのツイートやそのやりとりからは、嗜虐欲に基づく痴漢の被害に遭う可能性は、決して女性だけではない、という事実も、突きつけられていると思います(その被害を受ける可能性が、女性よりも圧倒的に低いことは、言うに及ばず)。

 

「こいつは大人しそうだから、逆らわなそうだから、あっさり従いそうだから、好き放題に滅茶苦茶にしてやろう。不細工だから、ダサいから、こんなふうに性的に求められたことはないだろう? 哀れな奴だな。性的な経験を恵んでやるから、せいぜい興奮しろよ。ま、お前がどう思おうがどう感じようが、関係ない。弱くて何もできないお前の意志や感覚なんか関係ない。お前の存在なんかどうでも良い。ただ、蹂躙するだけ。あー、超興奮する」。

 

こんな欲望から来る暴力に、男性だって曝される危険性がある。そのことを、安全で安心な自分の性的ファンタジーの中ではなく(小松原香織「『レイプされたい』という性的ファンタジーについて」『フリーターズフリー vol.02』)、突然実際に起こるリアルな悲劇として自分の身に降りかかることを、その恐怖を、どこまで自分のこととして、想像できるか? 

 

こんな思索を経由した上で、さらに、体力差のある女性の身体を持つ人の身に、この悲劇が降りかかったとき、いったいその人はどんな内面を持つに至るのか…。それを想像してみなくてはなりません。男の身体を持つ自分には、とても困難なことですが…。

 

萩尾望都さんの『残酷な神が支配する』というマンガ、僕はまだ読んでいないのですが、ぜひ読んでみようと思いました。

 

(きっと)続きます。

痴漢をめぐる論点(ツイッターより)①

2014/11/13の金田淳子さんのツイッターで、痴漢についてのツイートがありました。

 

新しき金田淳子 (@kaneda_junko) | Twitter

 

大事な論点が沢山含まれていると思いましたので、引用させてもらいながら、考えを書き留めさせてください。自分メモ用として。

 

  • 嗜虐欲としての痴漢

 

先日ちょっと思うことあり。もう女性ならばほとんど皆、気づいてることだけど、一部のヘテロ男性の、女性に対する「触りたい、セックスしたい」という欲望が、「相手を(その場限りでも)尊重し互いに気持ちよくしたい」ではなく、むしろ「相手を困らせたい」欲望になってる人が居る。痴漢や強姦魔。 

 

痴漢が、性欲というよりも、支配欲や嗜虐欲としてなされることが多いという、大事な指摘だと思います。

 

レイプにおいても、性欲に起因するものだけでなく、「パワーレイプ」「アンガーレイプ」と呼ばれるような、権力関係に起因するものがあるのだ、との指摘を思い出します。

 


性暴力は自衛可能か? - キリンが逆立ちしたピアス

 

「自分は美形じゃないから…」凄くわかります。男性は、痴漢が実際にどれぐらい多くて、美しさ・若さなどより「文句を言わなさそう」な人を狙いがちというのを知らないので、「ブス(ババア)なのに痴漢されるかよ!」とか言いますが、翻ってそれ男性の被害も隠蔽してますよね

 

金田さんのツイートの中では、田舎から出てきて戸惑っていたり周囲に相談ができなさそうな女性や、判断力が乏しかったり咄嗟の対応が(なおさら)難しい子どもがターゲットにされることの危険性について触れられています。

 

とても大切な指摘です。僕は、容姿や性欲の問題ではなくて、「声を決して上げられなさそうな、自分が圧倒できるだろう、弱いもの」に向けてなされる性暴力(痴漢等)の存在を、自分の頭に叩き込んでおきたい。

 

「男性の被害も隠蔽することになる」との指摘も、極めて重要に感じます。これは後であらためて触れたい。

 

 

  • 身体的非対称性

男性の身体を持つ僕が、しっかり念頭に置かねばならないと思った論点が、こちら。

 

続)そんなの一部の男性と思いたいけど、ほとんどの女性が痴漢にあっているという統計からしても、一部の男性が大手を振って歩いてるような状態。一対一になったら男性は女性を組み伏せられるような体格差もある。この状態では女性が男性とカジュアルにセックスしようと思っても普通なかなかできない。

 

続)というのはハッテン場で対人技術を磨いたゲイ男性から「女性もカジュアルに性欲を満たせばいいのに。ハッテン場にも襲ってくる奴いるけど、うまく対処できるよ」とアドバイスされたから。それを聞いて(そうでないゲイもいるだろうけど)男×男ってなんて安全なんだ!と羨ましくなてしまった。

 

続)男×男の間で痴漢、性暴力が全くないと思えないし(特に大人×子ども)、この方の対人スキル高すぎると思ったけど、女性が襲われたとき、「落ち着いて。ちゃんとやってあげるから、ホテルに行きましょ」とか交渉しても、殴られると思う。強姦魔はラブラブセックスしたいわけじゃないから。

 

続)で、別にそのゲイ男性を「ノンキだなあ」とか批判したいわけじゃなくて、多分多くのヘテロ男性も、同じぐらいのノンキさで「なんで女はやらせてくれないんだ?」とか思ってるので、溝が大きいなあと確認できたし、代償行為ではないけど、自分がBLだとホッとする理由の一つもちょっとわかった。 

 

男性から女性に振るわれる性暴力として、間違いなくあるのは、この体格差を武器にしているという背景。

 

最近、みなみさんの記事からは学ばせてもらうことが多いなあ、と思っているのですが…。

 


Love Piece Club - 第15回「恋愛の重たい男とラブピース戦士の攻防」 / みなみかずゆき

 

男性の身体を持つ人が、女性の身体を持つ人よりも相対的に優位な立場にいるのは、この「体力差」という身体的な非対称性をあまり意識しないで、恋愛とセックスのことを考えることができる、という部分なのだと思います(なお、みなみさんはきっと、身体性の問題に非常に自覚的な方だと想像しています。みなみさんのことを批判したくて、上で例に上げたわけではありません。)。

 

このへんのところに無自覚だったり鈍感な、男性の身体を持つ人は、後述するような二次被害を巻き起こしてしまったり、女性の身体を持つ人とのディスコミュニケーションを様々なところで引き起こすのだろうと思いました。

 

男性の身体を持つ人が、こういった点に敏感であれ、という主張をしている本が、森岡正博さんの『草食系男子の恋愛学』だったと記憶しています。必読書です。

 

 

  • 一区切り

 

金田さんのツイートからさらに、

  • 男性が、他者から性的な対象として見られる、ということ
  • 痴漢と二次被害、そして押しつぶされる声
  • 痴漢対策(個人的なものと、マクロ的なもの)

…という論点に触れていきたいのですが、ちょっと時間を空けます。

 

(きっと)続きます。

 

※なお、金田さんは、今回のツイートの際に、あるためらいがあったことを述べています。そのためらいに対して、僕は最大限の配慮をしながら、続きの考察も書きとめていきたいと思っています。

プライド、内省の拒絶、語れなさ

ツイッターからある記事を知り、読んだ感想をメモ的に。

 

その記事はこちら。


男の成功像、生き方縛る 「逃げたっていいんだ」:朝日新聞デジタル

 

「逃げてはいけない」という価値観。プライドの問題。

 

このプライドが、周囲への相談のできなさにつながっていく。無言で苦しみ、耐え切れず爆発して周囲に暴力を振るったり、場合によっては自殺に至る。

 

「男性は…」とか「女性は…」とか一般化して語ることに、僕はなるべく慎重であろうとしていますが、自殺率の男性の高さは、男性一般の「語れなさ」を如実に示しているように思えます。

 

ここでの「語れなさ」とは、論理的な言語化のことでは勿論ありません。むしろそのような論理的な言語化作業が隠してしまうような、「弱さの自己開示」としての言語化の問題です。

 

ある問いを「内省できない」というとき、プライド(自尊心)が邪魔をしている、というケースがあるような気がします。

 

プライドとは、臆病さの裏返しだと思っています。

 

自分の中にある、その弱さを認めてしまうと、自分が自分でいられなくなるような、足元が崩落してしまうかのような恐怖。意識して考えることさえも怖いようなもの。そんなとても情けなく(他の誰よりも自分自身が)思えてしまうような、臆病さ。

 

だからこそ、その弱さにつながるような問いに対しては、無意識に眼を背けようとしてしまう。考え進めれば前に進めるはずの、目の前にある問いに、気づくことができない。

 

外から見ると、「そんなことで悩んでたの?」「くだらない」「さっさと相談してくれればいいじゃん」と思われてしまう。でも、そう言われてしまうと、とても恥ずかしくて死んでしまいたくなる。そんな、プライドと臆病さの問題。

 

①プライド(≒臆病さ)

②内省の拒絶(≒問いの回避)

③語れなさ(≒「弱さの自己開示」の言語化ができないこと)

 

…この三つが互いに互いを補強し合うメカニズムがあるような気がするのですね。それでどんどんどんどんこじれていく悪循環が生まれる。

 

ならば、このメカニズムを突破する道筋を、どう描けば良いのでしょうか。

 

上記の記事では、家事を男性が行ったり、高校で男女が制服を交換する(! 素晴らしい取り組みだと思います!)ことで、男性が自らに染み付いた「当たり前」を相対化し、気づく機会が得られたと紹介しています。

 

しかし、より深刻に「男としてのプライド≒臆病さ」をこじらせてしまっているケースでは、このような機会があっても、なかなか通用しないような気もします。

 

 

この悪循環の突破の方法を一緒に考えていくために、男性学を真摯に進めたいと考える男性同士のピア的な対話空間(それは、家父長的で権力的・排除的なホモソーシャル空間とは、きっと真逆のものになるでしょう)を、なんとか作れないものでしょうか。

 

やや話しの流れからは飛躍があるかもしれませんが、僕は以下の記事を書かれた方のセンスと自己開示の言葉などに、そういった対話を開いていく可能性を感じています。

 


カネカネカネ - おれだけに許された特別な時間の終わり

 

余計な注意喚起の一言かもしれませんが、上記記事を紹介して「マリアのような、男に赦しをくれる女性が必要だ」とか言いたいわけではありません(idepop2さんも、そんなことを主張したくて書いているわけでは、全くないはずです )。

 

むしろ逆です。自分の弱さを認め、言語化すること。そしてその弱さと、正面から対峙すること。

 

このような言語化作業を、暴力にまみれ、暴力に絡みつかれた男たちの手で、死にものぐるいで豊富化していくこと。

 

…うーん、とりあえずは、そんなことぐらいしか思いつきません。

 

愛と暴力

 

ツイッターでいただいたお言葉からのレスポンスとして。

 

色々と思うところがありますが、じっくり書きながら考えるのはまた今度に。

 

考える材料にしたいと思っているものを以下、3点に列挙しておきます。

 

 

  1. 森岡正博さんの議論:性交、暴力、原罪

    「膣内射精性暴力論の射程:男性学から見たセクシュアリティと倫理」森岡正博

     膣内射精から始まるすべてのいのちの誕生の背後には、潜在的な性暴力の影がぴったりと貼り付いているということである。赤ちゃんの誕生は、祝福されるべきものと言われる。だがしかし、そのいのち誕生の初発となった膣内射精は、いつでも事後遡及的に性暴力として構築され得る可能性をはらんだものなのである。すなわち、このようにして生まれてくる赤ちゃんは、その存在の始原において潜在的な性暴力の影を背負って生まれてくるということである。すなわち、性交の結果として母親の胎内から生まれ出てきたすべての人間は、この意味での性暴力の影を背負いながらこの世に生まれてきたのである。これは、これらの人間が生まれながらにして背負わなくてはならない原罪ではないのか。

     

    なお、 森岡さんが考える素材にしている宮地尚子さんの文章も、じっくり読みながら考えたいところです。

    宮地尚子「孕ませる性と孕む性」(現代文明学研究)

     そしてもっと重要なのは、妊娠の負担に気づいているからこそ、避妊しない性交を行なう男性もかなりいるのではないかという点である。孕む危険をもたせることで、女性の行動の自己規制を促す。身体につながれざるをえない女性と、身体から自由な男性との格差を楽しみ、生物学的格差を利用して、女性のセクシュアリティをコントロールする。明確にその意図を自覚しているかどうかは別として、そういう男性は決して少なくないはずである。
     女性が負う妊娠や中絶の負担に気づいていないだけであれば、女性と話し合い、想像力を用いることで、男性の行動は変革されるかもしれない。けれど、気づいた上で、その格差を利用している男性の行動をどうすれば変革できるのだろうか。権力バランスの逆転か、同じ負担を人為的に男性に与える社会的システムの構築か、法的な制裁か。

     

     私は、男性学に期待している。けれども過剰な期待をもつわけにはいかない。男性学は男性を救うものになるかもしれないが、必ずしも女性を救うとはかぎらない。
     男性学をする男性はいまだ男性の中では少数者に過ぎない。自ら変わっていこうとする少数の男性を女性は暖かく支援(母親のように?)すべきなのかもしれないが、孕ませる性の暴力性を、単に「気づかなかった」ですませてもらっては困る。幾つも譲歩した上で「せめて中絶の自由を」といってきた女性たちの、その譲歩の理由を、あきらめの積み重ねを、いまいちど男性は見直すべきではないだろうか。

     

  2. 大澤信亮さんの議論:性愛関係、家父長制的資本制、他者性

    「触発する悪―男性暴力×女性暴力」『フリーターズフリー02号』2008年から。ネットでは公開されていないので、気になる部分を引用しておきます(興味を持たれた方は、ぜひ原文をご参照ください)。

     

     物理的な意味での暴力性が女性にあることは、バレリー・ソラナスの例やこの事典自体が証明している。『女性は男性のようには暴力を振るわない』という都合のいい錯覚は、見たいものだけしか見ないありふれた精神作用に過ぎない。問題は、個別的な女性暴力のケースがいかに積み上げられようと、それらすべてを『男のせい』として自己を問わない精神構造にこそある。たとえば、予想される切り返しは、『女性にそのような暴力を強いたのは男社会だ』というものだ。この安全装置を外さない限り、すべての議論は無意味になる。女性だけではない。それに対する男性もまた、『ごちゃごちゃ文句を言われるのはうざい』あるいは『女相手に本気になるのは男が廃る』と建前として女性を尊重するが、根本的に何かを考えさせられることはなく、それはやがて『男も被害者だ。一方的に被害者面するな』という個別ケースでのバックラッシュを生み、結局、社会を変えるという根幹の主題が見失われるだろう。

     だが、繰り返せば、私はフェミニストに『認識を改めろ』『安全装置を外せ』と要求するのではない。むしろ彼女たちの認識に身を委ねようと思っている。逐一細かに反論を企てるのではなく、差し向けられた問いを正面から受け止め、身に染み込ませることだ。それは『自殺しようと』語ることである。だが、人を自殺に追い込む限り―そんなつもりはなかったという言い訳は通用しない―、それなりの覚悟はしてもらおう。

     

     たとえば、家族の構成原理が『愛』であるとは、どういうことか。

     

     自慰行為と区別される性愛的行為とは、『他者』を求めることにほかならないが、その他者性とは、『暴力』や『死』に地続きの受動性としてある。この性愛関係の暴力性こそが問題の核心であり、それ抜きの制度分析は現実を捉えそこなう

     

      たとえば、多かれ少なかれ性愛関係が暴力なら、そこに生まれてくる『子ども』とは何なのか。主観を括弧に入れて、近代家族の社会的役割を原則的に考えるなら、それは労働力商品予備軍としての子供を再生産することと一先ず言える。本人たちがどう思おうと、子供を産むとは、今の社会では労働力商品の供給を意味する。逆に言えば、子供を労働力商品にしない育児があれば、それは家父長制的資本制への根本的な批判に成り得る。育児法や環境整備ではない。上述したような性愛関係の孕む他者性=暴力性を、中和するのではなく、内在的に社会化していく回路が求められる。そのさい、第三者の介入が必要になるとしても、その介入がこの他者性=暴力性それ自体に根差さなければ根本的な克服はできないだろう。というより、諸個人の暴力性をコントロール可能なレベルにまで中和し、その規範を打ちこむものこそが資本制と私有財産制なのだ。ならば必要なのは、暴力的な性愛関係のなかに非資本制的な労働形式を送りこむことであり、同時に、暴力的な性愛関係のなかでそれを生み出すメビウス的にねじれた試みではないだろうか。

     

    なお、大澤さんの上記の議論には、font-daさんからの次のような批判があります。

    大澤信亮「触発する悪――男性暴力×女性暴力」(「フリーターズフリー」2号) - キリンが逆立ちしたピアス

     

    この批判を受けてか、大澤さんのこの文章を書いた後の感情が、例えば「出日本記」(『新世紀新曲』所収)に、こう記されています。

     その文章は発表した直後に主に女性たちから『ミソジニー』とレッテルを貼られて叩かれた。それは私にとって困難な問いを考えようとするものであり、自力で完結させられないという私としては稀な結論になったものなのだが、そこで提示した問いは知る限り、誰にも共有されなかった。そんな経験もあって私は女性の問題を本気で考えようとする意思を失ってしまった。向いていないことをやったという感じだけが残った。もっと言えば『どうせ俺は誰もが認める偉大な存在に理論的に対峙してればいいんだろ』と心が氷結した。

     (…その後、大澤さんは、この「私が思い出したくもないような文章」を読んで、良かったという感想のメールをくれた、「読む訓練を受けていない批評文(と書いてあった)を何とか読もうとしてくれた、高校を卒業してそのまま働き続けてきた、二十四歳の女性」の、その「人生を想像」しながら、思考を続けていきますが、以降は省略します。興味ある方はぜひ原文をご覧ください)

 

 3. 映画「愛、アムール」より

(未見の方は、ぜひ映画を見てから下のリンク先をクリックするなり、下記の僕の文章を読んでもらえればと思います。この映画は先入観があるともったいないです)

http://movieandtv.blog85.fc2.com/blog-entry-401.html

 

 

 

 

 

この映画で描かれる夫と妻との関係は、共依存ではないように僕にも見えました。

 

共依存ではなく、むしろ、夫がただ一方的に、妻から「依存されたい」心性を持っている。

 

そして夫は、その心性を持ちつつ、密室内で「了解不能な他者」である妻と向き合い、自閉的に闘っている。そんな悲しい一方通行の葛藤関係に見えました。

 

そしてハネケ監督が夫の、愛≒支配欲≒暴力から脱出しようとして格闘している現実(≒妄想)の部分を、上記の批評文では一切触れずに捨象ししている点で、僕には上記の批評文を物足りなく感じました。

 

 

一方、下記で述べている宇多丸さんの批評の方が、夫の格闘の部分をうまく指摘していると感じました。でもこちらの批評は、今度はジェンダーの視点が欠落しすぎていると思っています。

 


宇多丸が映画『愛、アムール』を語る - YouTube