狂気の自助へ③ -映画『サウルの息子』感想後編

(②からの続き)

 

サウルはやはり、狂っていた。

でも、当たり前だ。人が、同朋が、目の前でゴミのように「処理」される。あまりにも無残に、そこにある感情も人格も無視されて、殺され消されていく。

しかも、その「処理」の手伝いを、サウルはさせられている。そして、自分もこの先、同じ様に確実に殺され、「処理」されるのだ。狂って当然である。

 

大澤信亮さんは、大人が子どもを見たときに、大人の心の中にユーモアと生きる勇気が湧いてくる理由を、確かこう述べていた。

「こんなに弱い生き物のくせに、まるで生きようとすることを疑わない、生きていることの真剣さが、生の否定に傾きがちな大人たちの疲れた心を、強く蹴るからではないだろうか。まだいける、と」。

(大澤信亮「出日本記」『新世紀神曲』新潮社、2013年、p.98)

 

サウルの場合は、最初に見たのは「かろうじて生き残っていた子ども」だった。その後、その子が殺されて以降にサウルが見たのは、自分で自分を助けようとして作り出された、空想上の「息子」だ。

すでに死んでしまった子どもの遺体に、狂気の中で幻想の「息子」を見ること。それはきっと、極限状態がなせる業だったのだろう。状況はあまりにも絶望的。現実は、とても見れたものではない。狂気によって、自分が現実とつながっている、そのこと自体に眼を背けなければならなくなったのだろう。

 

ここで、サウルがある女性と遭遇する、例のシーンについても触れておく。

サウルが、収容所内で女性と出会うシーンがある。あの女性とサウルは、かつて非常に人間的で、暖かい関係性があったのだろう。あの女性の、そしてサウルの、燃えるような眼差し。女性は、サウルの手を求めるように握ろうとする。そして、最後に女性が呼びかける、「サウル」という言葉。そのときの声の、切れば血が出るような音色、残響。

しかしサウルは、その女性の接触や声に、結局は応えなかった。

その女性と見つめ合っていたとき、サウルの表情は一瞬色づいたように見えたが、しかしそれはすぐに閉じてしまった。女性が握ろうとした手も振り解き、女性の声にも応答しようとしなかった。

きっと、サウルは現実にとことん絶望していたんだろう(そしてその直観は、「事実」として正しかった)。

現実にいる女性との一瞬のつながり、それが喚起するかもしれない現実感を、拒絶したかった。自分と現実がつながっている、その感覚自体が耐え難くなる。あの極限状態とは、きっと、そういうものだったのだろう。

 

サウルの息子』の作り手が、物語を描いて伝えたかったのは、「あまりにも苦しい世界に置かれているときに、自分自身を助けようとすること」だった。僕は、そう思う。

サウルは狂っていたが、しかし、狂うことが助けとなることは、確実にある。

強制収容所内の生活という極限状態に置かれたとき、それでも正気であろうとするならば、言い換えると、それでも理性的で人間的な行動を取ろうとするならば、おそらく以下のような行動を取ることになるだろう。

理不尽な支配に対する抵抗・反乱の運動に加わること。暴力に対して闘うこと。置かれている状況の中で、せめて何とか自分や仲間の命が奪われないように行動すること。

でも、強制収容所であった「事実」は、あまりにも悲惨だった。それらの、理性的で人間的で利他的な言動は、どれもが無為に終わったのだ。それが強制収容所であった「事実」。

その「事実」を描き、そんな渦中に置かれた人たちの境遇をできる限り想像し、その人たちの心境の深層に少しでも迫りたい。もう決して救うことができない、あの人たちへ。『サウルの息子』という物語は、そうして産まれたもののように思えた。

 

 

さらに考えたい。サウルの「狂気の自助」は、映画の中の物語で次第に生成変化していったものではないか。

サウルは、埋葬失敗前までは、正気と狂気の分裂状態にいた。それが埋葬失敗後、あのラストシーンにおいては、サウルの内的世界が狂気の領域の方へと、さらなる生成変化を遂げたのではないか。

 

埋葬失敗前の、正気と狂気の狭間にいる状況については、②の記事ですでに述べた通りである。反乱の動きに加わりつつも(正気)、「息子」埋葬にも駆り立てられ、止まれない(狂気)。サウルの中には正気も残っていて、正気と狂気の分裂状態に、サウルは置かれていた。

それが埋葬失敗後、あのラストシーンでは、サウルは「息子」を作り出して微笑むことで、結果的に自分も仲間も殺されてしまう。正気の領域は消え去り、狂気の彼岸へと行ってしまった。そんなふうに、僕には見えた。

 

生成変化のプロセスは、サウルが遺体の子どもを見るときの表情の変化にも表れているように思える。

最初に遺体の子どもを見たときのサウルは、表情を動かす描写がほとんどない。微かな予兆を見て取れなくもないが、すぐにカットが変わり、遺体の子どもを見ているサウルの背中を映す描写へと切り替わってしまって、表情が見えなくなる。

物語中盤で、サウルが遺体の子どもを見るときは、サウルの表情をカメラがある程度長く捉えている。そのときは、微かにサウルの頰が緩んでいるように見える。

そしてラストシーンの、金髪・白人の子どもを見たときは、誰の眼にも明らかなぐらい、サウルはハッキリと微笑みを浮かべていた。

このサウルの表情・微笑みが、サウルの狂気の度合いを表していたのではないだろうか。微笑みが深まるほど、狂気も深まっていた。そう見るべきではないか。

 

 

そして最後は、以下のような解釈の言葉を置いてみたい。

 

ラストシーン、サウルは金髪の男の子を見て、狂気によって「 あのとき埋葬しようとしていた息子は、実は生きていたんだ」と思えて、それでサウルは微笑みを浮かべた。そう解釈することもできる。

しかしこの想像力は、メロドラマ的である。サウルは死ぬ直前、希望を感じていたのだ、と。「自分は死んでも、息子は生きている、ああ、良かった」、と。サウルは最後に、そのような希望を感じて死ぬことができたのだ、と…。

 

もしくは、こう解釈することも可能だ。サウルは狂気の中にいるのだから、その心境は正気の僕たちに想像できるものではない。ただ少なくとも、サウルの微笑みはあの金髪の男の子を救ったのだ。あそこでサウルが声を上げていれば、あの金髪の男の子はナチス親衛隊の銃撃やユダヤ人たちの逃走劇へと巻き込まれることになったのかもしれない。

しかしこのような想像力は、今度は非常にヒロイックなものである。サウルの微笑みは、結果的にあの無垢な男の子を救うことになったのだ、と…。

 

涙腺を刺激する、もしくはサウルを英雄視する、上記のようなカタルシスを伴う解釈を、突き放していく想像力もあり得る。それは、(生者の側からは、こうとしか捉えられないような、)ただの無意味で無名の「狂気の自助」として、あのサウルの微笑みを想像してみることだ。

僕らのような外側の立場からは、無意味で無名の狂気としか把握できないが、しかし内側からは、言い換えると強制収容所で過ごし結局は「死」に至ったサウルの側からは、そのときその瞬間、自分を助けようとして自然に浮かんできた微笑みだったのだ、と。少なくともサウル自身にとっては、そんなものでしかなかった、と。それだけは言えるし、それだけしか言えない、そんな微笑みだったのだと、そう想像することもあり得るのではないか。

しかしこれでもなお、あの「事実」と真に向き合おうとするならば、倫理的に許される一線を踏み越えた想像になってしまっているのかもしれない。

 

あの「事実」に向き合いながら、その渦中の「死」と「狂気」に接近しようとするとき、必要な想像力とは、いったいどのようなものなのか…。

…とりあえず僕は、ここまでの想像と解釈の言葉を、統合しないままに置いておくことにする。統合困難な解釈は、当然さらに開かれているだろう。この映画を見た人たちによる、上記以外の想像力による解釈も、僕はぜひ聞いてみたり読んでみたりしてみたいと思う。

ブログ記事として書きながら考えるという手法では、僕自身が独我論的に複数の解釈を想像することしかできない。現時点では、これが僕の限界だ。あとは、他の人の声を聴いたり、その文章を読んで、さらに開いていければ、と思う。

 

 

 

狂気の自助へ。この物語も僕の上記の解釈も、ファンタジーに過ぎない。この映画は、エンターテイメント≒消費することを拒絶して、しかしそれでも物語を創作することによって、「事実」に迫ろうとした。

この映画の物語を読み解こうとして書かれた、僕のここまでの文章は、「事実」へ肉迫する力動を持ち得ているだろうか。

暴力は、僕らの身近にある。それは人を、狂気の自助へと駆り立てるのかもしれない。狂気の自助を統合困難な形で治療/支援/批評する装置を、僕らの周囲に作り出すこと。僕ら自身で、共に。そんなバトンを、この映画の物語から受け取りたい。