キョドるマックス ―『マッドマックスFR』の物語について、書きながら考えたこと 2

第二章 経緯

 

2-1 杉田俊介さん

 杉田俊介さんの文章を、ずっと読み継いできた。飽き性で多動の僕が継続してきた、数少ないこと。杉田ファンというより、『ザ・ファン』。杉田さんの文章は、僕のストーキング対象であり、僕は「杉田文体依存症者」である。

 杉田さんは、『フリーターにとって自由とは何か』という本の中で、自分の弱さを抉るようにして、次のように内省していた。「実際、ぼく自身の人生の問題を含め、現在の日本の若年労働者達(の一部)の無気力や見通しの甘っちょろさには、『最後には親に頼ればいい』というぎりぎりの退路への信頼には、心から嫌気がさす。吐気がする側面がどうしてもある。それは戦後の高度成長から消費バブルへといたる歴史の、最後の経済的な恩恵(?)を浴びた世代の心根に刻まれた、恥ずべき特権意識と没落感なのか。ぼくたちの生存を内蔵から骨の髄までひたすこの「甘さ」だけは、これだけは甘く見ることが決してできない」(杉田2005、p.130-131)。

 杉田さんは別の文章で、自分のことを「貧困世帯/低学歴/地方出身のロウ・フリーターですらなく、中産階級や関東圏の恩恵を散々受けてきたハイ・フリーターでしかない」と規定して、「その水増し分をも率直に認める」とも述べている(杉田2007、p.44)。その上で、自らを含む全てのフリーター≒非正規雇用者たちに向けて、こう書く。

 

 「今後はアルバイト身分の人がアルバイト身分のまま持続的に生活し食べられる環境と条件を、ぼくたち、あなたたちが当事者の意志でつくっていかないといけないんじゃないか? って。その中で、各労働者の賃金格差だけじゃなく、仕事格差(スキル格差・情報格差)の問題や社会保障の不十分さを少しでも改善しないと…。

 (中略)たとえば今の自分の仕事で10年をかけて技術や知識を高め、正社員を目指す。できれば将来は自力で事業所を立ち上げ、独立自営でやっていきたい。多くのアルバイト身分の人は各々の文脈でそう考えている。ぼくもそう考えているけどね。でも、努力してもとどかない人々が今も昔も無数にいる、いるだけじゃなくって、時が経つに連れ急斜面をなだれ落ちるみたいに増加し続ける―という話です。

 だからハッキリ言わなきゃいけない、ぼくらは一生フリーターでも生きていける。

 そのための、現実的な条件やアイディアをしつこく模索したいって思う」(杉田2005、p.177-178)

 

 杉田さんは、不安定な雇用の中で生きざるを得ない僕たちにとって、その自由とはいったい何なのかを、書きながら必死に考え抜こうとした。杉田俊介さんは、仲間たちと共に雑誌『フリーターズフリー』を作り、僕らの心と身体から発せられるか細い声を、多様な言葉たちに変えて絞り出し、練り上げ、目に見えるものにしようとしてきた。この雑誌と運動に、この杉田さんたちの姿勢に、僕がどれだけ励まされたか。何度も何度も読み返してきた。

 杉田俊介さんはずっと、障害者介助のヘルパーの仕事をしつつ、文章を書いていた。が、途中でその仕事から離れ、パート主夫として子育てしながら文章を書き継いでいった。その間も杉田さんは、自らの弱さを言葉にしようとする勇気を手放さなかった。世間のレールから外れていることへの不安。ずっと収入も生活も安定しないこと。子どもが産まれた。このままで大丈夫か。こんな自分で良いのか。

 杉田さんは近年、旺盛に文芸批評・サブカルチャー批評の文章を発表している。でもそのことは、杉田さん自身の生活と労働の安定を意味しているわけではないようだ。杉田さん自身の言葉を社会へと届ける、その回路がさらに充実し始めた。そういうことであり、そういうことでしかないのかもしれない。とにかく、杉田さんの姿勢は、以前からずっと、ずっと変わっていない。杉田さんの書くものを読んでいると、心と身体に勇気が駆け巡ってくる。僕は、ずっとそう感じてきた。

  

 

2-2 男らしくない男たちの当事者研究

 杉田さんの文章を読み継ぎながら、僕も僕なりに、男性性と暴力の問題を自分ごととして考えたいと思った。「まくねがお」という記号≒ハンドルネームを使って、主にツイッターで、ぶつぶつと、呟きながら考えはじめた。その呟いたものが、杉田さんの眼に止まったようだった。DMをもらった。僥倖。SNSってすげー。

 杉田さんと会うことになり、一緒に北海道浦河町の「べてるの家」を訪ねた。車中で、沢山の話をした。楽しかった。しあわせ。そこでの会話は、杉田さんが『非モテの品格』という本を書き上げる、最後の一押しとなったようだった。それも、嬉しかった。

 「べてるの家」への旅の中で、僕たちも「男らしくない男たちの当事者研究」をしたいよね、という話になった。住む場所が遠く離れているので、Web対談という形式でやってみることにした。

 

<参考>

杉田俊介×まくねがお「男同士で傷を舐め合ってもいいじゃないか! 「男らしくない男たちの当事者研究」始めます。」『messy』2016.12.3 http://mess-y.com/archives/38466

・「男らしくない男たちの当事者研究」の記事一覧 http://mess-y.com/archives/category/column/otokorasikunai/

 

 上記記事での杉田さんの説明を借りて、当事者研究とは何かについて、簡単に紹介してみる。当事者研究とは、自分たちの生き方を、専門家や家族から与えられるのではなく、仲間の助けを借りながら、自分のことを自分でよりよく知っていく、そのための独自の研究を行うことを言う。当事者研究は、次のように考える。人は、自分のことを案外よく知らない。経験の面では自分が自分を一番よく知っているが、自分についての解釈をけっこう間違ってしまっていたりする。自分はこんな人間なんだと思い込んだり、こじらせてしまったりする。なので、同じような経験を持つ仲間内で話し合いながら、自分に対する自分の解釈を変えていく。それぞれの「個人の語り」を大事にすることにより、それが積み重ねられてだんだんとデータベースになっていく。そうすると、もちろんそれは仲間(ピア)内でも共有できるが、仲間以外の、別の誰かや別の集団の参考にもなっていく。

 では、「男らしくない男たちの当事者研究」とは何か。上記のような当事者研究の方法を、「男らしくない男たち」を自称する僕らも、自分たちなりにカスタマイズしながら学んでいけないか。というのも、僕らは僕らなりに「男らしさ」という規範に日々苦しんだり、くよくよと悩んだりしているが、一方で支配的な「男性性」を中心とした社会の構造はそう簡単に変わらない。かといって、何もかもを自己責任のままにもしたくない。だから共通の悩みや葛藤をもった当事者同士(男らしくない男たち)の対話や関係性の中で、何かを変えていくことはできないか…。

 …僕は第一章で、「僕のこと」を述べた。それは、男性性(男らしさ)の問題とどこまで結びついているのだろうか。自分でも、よくわからない。今書いているこの文章を、別の人にも読んでもらった。するとその人は、僕が自分のことを「男らしさ」に結びつけ過ぎて考えることにより、より「男らしさ」に囚われてしまうのではないか、という危惧を感じたようだった。さらにその人は、そもそも「自分とは何か」ということを突き詰めすぎたり、誰かにプレゼンしようとしてしまうところに、現代社会における大きな罠があるのではないか、とも言っていた…。

 …そうなのかもしれない。何度でも、この論点には立ち返りたい。そう押さえておきながら、今は筆をさらに進めてみる。

 

  

2-3 仲間たちと出会うために

 杉田さんは、西森路代さんや荒井裕樹さん、熊谷晋一朗さんや松本俊彦さんと、このテーマに関わるような対話を行っている。

 

<参考>

・西森路代×杉田俊介「否定形で語られる「男らしさ」から、「男らしくない男らしさ」の探求へ」『messy』2016.8.13 http://mess-y.com/archives/34538

・荒井裕樹×杉田俊介「永遠に付きまとう「非モテ」感に、男たちはどう向き合えばいいのか。」『messy』2016.10.21 http://mess-y.com/archives/36810

・熊谷晋一郎+杉田俊介「「障害者+健常者運動」最前線 あいだをつなぐ「言葉」『現代思想』2017年5月号

・松本俊彦×杉田俊介「取り残されているのはマジョリティ側の男性」(『週間金曜日 “男”の呪いを自ら解け!』2017.6.9号

 

 …良いなあ、杉田さん。有名な人や、ラディカルで魅力的な人とやりとりできることが羨ましい、ってことじゃなくて。直接会って、その人と面と向かって対話していることが、とっても羨ましい。ぐー。

 

 …いや、真っ直ぐ書きながら考えてみよう。有名な人、ラディカルで魅力的な人とやりとりできる、そんな杉田さんのポジションに、羨ましさを感じている自分もいることを、まず率直に認める。そういう自分がいることを受け止めながら、「でも、そういうことでもないよなあ」と思う自分に、真っ直ぐありたい。そう思う。

 

 …「何者」かでないと、立っていられない。自分の考えていること、考えて何かしようと努力している姿を、誰かに向けて発信していないと、「もう、立っていられないの」(映画『何者』の理香の言葉)。そんな自分の弱さを、まずは感じ切りたいと思う。

 

 それこそ、映画『何者』の、理香と拓人との対話のように。直接、目の前にいる誰かと、面と向かって、対話をすること。目の前のその人の、そして何より自分の、心や身体から発せられるか細い声に、耳を澄ませるようにして。じっくりと、しかしゆっくり・ゆったりと聴き合い、語り合うこと。そうして気がつくと、いつの間にか自然に、その人と自分の固有の弱さが共に浮かび上がるような、そんな対話の場。そんな場が、僕もほしい。

 本来、当事者研究とは、「仲間たちと、共に」行うものだ。僕も、そうした仲間たちが身近にほしい。どうすれば僕は、仲間たちと出会うことができるのだろうか。

 

 …今の僕ができることとして。例えば、映画をきっかけにするのはどうだろう。僕たちが本当に面白いと思える、そんな映画を見て。その物語について書きながら/読みながら、僕たちの問いを深く考えられるような、そんな映画たち。こういった映画たちを媒介にして、僕たちが出会うことはできないだろうか。

 

 僕はこれまでツイッターで、映画のことを呟きながら考えてきた。そうしながら見えてくるのは、いつだって自分自身のことだった。この作業は、僕にとって、とても大切なものだった。でも、それはどこまでいっても、独白だった。

 今回は、ツイッターではなくブログで、この作業をじっくり、とことんやってみよう。ブログでやったとしても、きっとそれは、自己に閉じたものにしか、なり得ないんじゃないか。そう思う気持ちもある。でも、文章を読むこと/書くことを通じて、誰かと出会い、降り積もっていく関係だって、きっとあり得る。僕と杉田さんとの関係は、まさしくそういうものだった。ならば、さらに新たな出会いを求めるようにして、僕も書くこと/読むことに向かって、思いきり身を投じてみよう。

 

 

<引用・参考>

杉田俊介(2005年)『フリーターにとって「自由」とは何か』人文書院

杉田俊介(2007年)「無能力批評 disabirity critique A 『フリーターズフリー』創刊号に寄せて」有限責任事業組合フリーターズフリーフリーターズフリー』01号、人文書院