愛と暴力

 

ツイッターでいただいたお言葉からのレスポンスとして。

 

色々と思うところがありますが、じっくり書きながら考えるのはまた今度に。

 

考える材料にしたいと思っているものを以下、3点に列挙しておきます。

 

 

  1. 森岡正博さんの議論:性交、暴力、原罪

    「膣内射精性暴力論の射程:男性学から見たセクシュアリティと倫理」森岡正博

     膣内射精から始まるすべてのいのちの誕生の背後には、潜在的な性暴力の影がぴったりと貼り付いているということである。赤ちゃんの誕生は、祝福されるべきものと言われる。だがしかし、そのいのち誕生の初発となった膣内射精は、いつでも事後遡及的に性暴力として構築され得る可能性をはらんだものなのである。すなわち、このようにして生まれてくる赤ちゃんは、その存在の始原において潜在的な性暴力の影を背負って生まれてくるということである。すなわち、性交の結果として母親の胎内から生まれ出てきたすべての人間は、この意味での性暴力の影を背負いながらこの世に生まれてきたのである。これは、これらの人間が生まれながらにして背負わなくてはならない原罪ではないのか。

     

    なお、 森岡さんが考える素材にしている宮地尚子さんの文章も、じっくり読みながら考えたいところです。

    宮地尚子「孕ませる性と孕む性」(現代文明学研究)

     そしてもっと重要なのは、妊娠の負担に気づいているからこそ、避妊しない性交を行なう男性もかなりいるのではないかという点である。孕む危険をもたせることで、女性の行動の自己規制を促す。身体につながれざるをえない女性と、身体から自由な男性との格差を楽しみ、生物学的格差を利用して、女性のセクシュアリティをコントロールする。明確にその意図を自覚しているかどうかは別として、そういう男性は決して少なくないはずである。
     女性が負う妊娠や中絶の負担に気づいていないだけであれば、女性と話し合い、想像力を用いることで、男性の行動は変革されるかもしれない。けれど、気づいた上で、その格差を利用している男性の行動をどうすれば変革できるのだろうか。権力バランスの逆転か、同じ負担を人為的に男性に与える社会的システムの構築か、法的な制裁か。

     

     私は、男性学に期待している。けれども過剰な期待をもつわけにはいかない。男性学は男性を救うものになるかもしれないが、必ずしも女性を救うとはかぎらない。
     男性学をする男性はいまだ男性の中では少数者に過ぎない。自ら変わっていこうとする少数の男性を女性は暖かく支援(母親のように?)すべきなのかもしれないが、孕ませる性の暴力性を、単に「気づかなかった」ですませてもらっては困る。幾つも譲歩した上で「せめて中絶の自由を」といってきた女性たちの、その譲歩の理由を、あきらめの積み重ねを、いまいちど男性は見直すべきではないだろうか。

     

  2. 大澤信亮さんの議論:性愛関係、家父長制的資本制、他者性

    「触発する悪―男性暴力×女性暴力」『フリーターズフリー02号』2008年から。ネットでは公開されていないので、気になる部分を引用しておきます(興味を持たれた方は、ぜひ原文をご参照ください)。

     

     物理的な意味での暴力性が女性にあることは、バレリー・ソラナスの例やこの事典自体が証明している。『女性は男性のようには暴力を振るわない』という都合のいい錯覚は、見たいものだけしか見ないありふれた精神作用に過ぎない。問題は、個別的な女性暴力のケースがいかに積み上げられようと、それらすべてを『男のせい』として自己を問わない精神構造にこそある。たとえば、予想される切り返しは、『女性にそのような暴力を強いたのは男社会だ』というものだ。この安全装置を外さない限り、すべての議論は無意味になる。女性だけではない。それに対する男性もまた、『ごちゃごちゃ文句を言われるのはうざい』あるいは『女相手に本気になるのは男が廃る』と建前として女性を尊重するが、根本的に何かを考えさせられることはなく、それはやがて『男も被害者だ。一方的に被害者面するな』という個別ケースでのバックラッシュを生み、結局、社会を変えるという根幹の主題が見失われるだろう。

     だが、繰り返せば、私はフェミニストに『認識を改めろ』『安全装置を外せ』と要求するのではない。むしろ彼女たちの認識に身を委ねようと思っている。逐一細かに反論を企てるのではなく、差し向けられた問いを正面から受け止め、身に染み込ませることだ。それは『自殺しようと』語ることである。だが、人を自殺に追い込む限り―そんなつもりはなかったという言い訳は通用しない―、それなりの覚悟はしてもらおう。

     

     たとえば、家族の構成原理が『愛』であるとは、どういうことか。

     

     自慰行為と区別される性愛的行為とは、『他者』を求めることにほかならないが、その他者性とは、『暴力』や『死』に地続きの受動性としてある。この性愛関係の暴力性こそが問題の核心であり、それ抜きの制度分析は現実を捉えそこなう

     

      たとえば、多かれ少なかれ性愛関係が暴力なら、そこに生まれてくる『子ども』とは何なのか。主観を括弧に入れて、近代家族の社会的役割を原則的に考えるなら、それは労働力商品予備軍としての子供を再生産することと一先ず言える。本人たちがどう思おうと、子供を産むとは、今の社会では労働力商品の供給を意味する。逆に言えば、子供を労働力商品にしない育児があれば、それは家父長制的資本制への根本的な批判に成り得る。育児法や環境整備ではない。上述したような性愛関係の孕む他者性=暴力性を、中和するのではなく、内在的に社会化していく回路が求められる。そのさい、第三者の介入が必要になるとしても、その介入がこの他者性=暴力性それ自体に根差さなければ根本的な克服はできないだろう。というより、諸個人の暴力性をコントロール可能なレベルにまで中和し、その規範を打ちこむものこそが資本制と私有財産制なのだ。ならば必要なのは、暴力的な性愛関係のなかに非資本制的な労働形式を送りこむことであり、同時に、暴力的な性愛関係のなかでそれを生み出すメビウス的にねじれた試みではないだろうか。

     

    なお、大澤さんの上記の議論には、font-daさんからの次のような批判があります。

    大澤信亮「触発する悪――男性暴力×女性暴力」(「フリーターズフリー」2号) - キリンが逆立ちしたピアス

     

    この批判を受けてか、大澤さんのこの文章を書いた後の感情が、例えば「出日本記」(『新世紀新曲』所収)に、こう記されています。

     その文章は発表した直後に主に女性たちから『ミソジニー』とレッテルを貼られて叩かれた。それは私にとって困難な問いを考えようとするものであり、自力で完結させられないという私としては稀な結論になったものなのだが、そこで提示した問いは知る限り、誰にも共有されなかった。そんな経験もあって私は女性の問題を本気で考えようとする意思を失ってしまった。向いていないことをやったという感じだけが残った。もっと言えば『どうせ俺は誰もが認める偉大な存在に理論的に対峙してればいいんだろ』と心が氷結した。

     (…その後、大澤さんは、この「私が思い出したくもないような文章」を読んで、良かったという感想のメールをくれた、「読む訓練を受けていない批評文(と書いてあった)を何とか読もうとしてくれた、高校を卒業してそのまま働き続けてきた、二十四歳の女性」の、その「人生を想像」しながら、思考を続けていきますが、以降は省略します。興味ある方はぜひ原文をご覧ください)

 

 3. 映画「愛、アムール」より

(未見の方は、ぜひ映画を見てから下のリンク先をクリックするなり、下記の僕の文章を読んでもらえればと思います。この映画は先入観があるともったいないです)

http://movieandtv.blog85.fc2.com/blog-entry-401.html

 

 

 

 

 

この映画で描かれる夫と妻との関係は、共依存ではないように僕にも見えました。

 

共依存ではなく、むしろ、夫がただ一方的に、妻から「依存されたい」心性を持っている。

 

そして夫は、その心性を持ちつつ、密室内で「了解不能な他者」である妻と向き合い、自閉的に闘っている。そんな悲しい一方通行の葛藤関係に見えました。

 

そしてハネケ監督が夫の、愛≒支配欲≒暴力から脱出しようとして格闘している現実(≒妄想)の部分を、上記の批評文では一切触れずに捨象ししている点で、僕には上記の批評文を物足りなく感じました。

 

 

一方、下記で述べている宇多丸さんの批評の方が、夫の格闘の部分をうまく指摘していると感じました。でもこちらの批評は、今度はジェンダーの視点が欠落しすぎていると思っています。

 


宇多丸が映画『愛、アムール』を語る - YouTube