キョドるマックス ―『マッドマックスFR』の物語について、書きながら考えたこと 3

第三章 招待

 

3-1 予告編

 『マッドマックス 怒りのデスロード』(原題は『Mad Max : Fury Road」。以下、MMFR)という映画がある。まずは、この映像。

 

<参考>

・「映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード』予告編」『YouTube』2015.4.9  https://www.youtube.com/watch?v=4Krw9BbjzKQ

 

 絶賛された予告編だ。アートディレクター・映画評論家の高橋ヨシキさんは、映画雑誌の企画で、2015年(要確認)の映画ベスト10のトップに、この予告編の映像を選んだという。映画本編の公開前に、本編ではなく、その予告編をベスト映画に選ぶという暴挙。予告編の映像について、高橋さん曰く「こんなものを生きているうちに見れて良いのか」「見ている全コマにエクスタシーを感じる」。

 

<参考>

・「高橋ヨシキのシネマストリップ 映画「マッドマックスシリーズ特集」怒りのデスロードも!【nhkラジオすっぴん】」『YouTube』2015.10.9 https://www.youtube.com/watch?v=un7ABgIkIk8

 

 ただし、高橋さんとやりとりしているラジオ・パーソナリティの方は、予告編を見て「確かに凄そう」とは思ったが、「ヨシキさんほどの感動は得られなかったんですね」とも語っている。

 

 MMFR。日本では2015年6月20日公開。激しいカー・アクション映画。映画「マッドマックス」シリーズの第四作目に当たる。前三作では、迫力あるカーチェイスやアクション・ヴァイオレンスシーンの数々と、車や衣装、世界観全体の過激で強烈なデザインが話題となった。

 監督はジョージ・ミラー。第四作目のMMFRが公開されたときの年齢は、なんと70歳。MMFRの映画公開は、前作から数えて27年後。その実質的な制作期間だけを数えても、10年間以上が費やされて作られた労作。映画公開後は、第88回アカデミー賞の10部門にノミネートされ、最多の6部門(衣装デザイン賞・美術賞 ・メイクアップ&ヘアスタイリング賞・編集賞・音響編集賞・録音賞)を受賞することとなった。そんな超傑作が、MMFRである。

 

 

3-2 町山智弘さんによる紹介

 では、MMFRとはどんな映画なのか。映画評論家の町山智弘さんは、一言で言えば「メチャクチャ」、「映画史に残るデタラメさ」があると言った(以下、まずはTBSラジオ『たまむすび』2015年5月26日の映画紹介コーナーにおける、町山智弘さんの解説を参考に紹介していく。関連URLは以下の通り)。

 

<参考>

・「町山智浩 マッドマックス 怒りのデス・ロード 「2時間ブっ通しでクライマックス!!」たまむすび」『YouTube』2015.5.25 https://www.youtube.com/watch?v=kEJlRvf9D_o

・「町山智浩 マッドマックス 怒りのデス・ロードを語る」『miyearnZZ Labo』2015.5.26 http://miyearnzzlabo.com/archives/25762

 

 MMFRは、どうメチャクチャであり、デタラメか。映画が始まってすぐに始まるアクションシーン。その後もずっと、アクションシーン・カーチェイスシーンが連続する。初めてこの映画を見た人は、言葉での説明がほとんどないまま、次々と顕れるアクションシーンの嵐に圧倒され、まずは何が何だか分からなくなるだろう。この映画には、セリフがほとんどない。聴こえるのは、爆音か、クラッシュする音ばかり。

 

 さらに圧倒されるのは、アクションシーンの数々だけではない。この映画に顕れる、様々なモノ。例えば車。大型の高級車(キャデラック)を上下に二つ重ね、大型エンジン(V8)を二つ積んでいる車や…。 

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 背面に複数のドラムを剥き出しのまま搭載し、運転中に生演奏で、ドラム隊が激しくそれらのドラムを打ち鳴らしながら疾走するトラック。しかも、ドラム隊と背中合わせで、トラックの正面には膨大な数のアンプ類とギター男が控えており、ドラミングのリズムの盛り上がりと共に、ギターソロがかき鳴らされる。

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<参考>

・「『マッドマックス』のイカれた改造車を創造した男に直撃!今回も撮影中に死者が出た?」『日刊アメーバニュース』2015年05月30日 http://news.ameba.jp/20150530-604/

・「映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード』に登場するマッドなクルマを独占紹介!(前編)」『autoblog』2015.05.28 http://jp.autoblog.com/2015/05/27/madmax-cars1/

 

 極めつけは、このギター男のかき鳴らすダブルネックギター。それは火炎放射器にもなっていて、炎を迸らせながら轟音を生み出し、爆音で爆走していく…。

 

<参考>

・「Mad Max Fury Road Guitar Guy (Full Scenes)」『YouTube』2015.5.26 https://www.youtube.com/watch?v=1DcqnkzGEFQ

 

 この映画は、CGをほとんど使わないようにしている点にも特徴があり、見るものを呆れさせるような突飛なデザインの車の数々は、実際に複数台作られたものであるという。車が大好きな人や、アクション映画やヴァイオレンス映画が大好きな人は、まずこれらの意匠や仕掛けだけで満足するだろう。一見するとバカげているとしか思えないアイデアが、イヤと言うほど盛り込まれ、映像の中で次々に登場し、見ていると思わず笑ってしまう。

 町山さんは、誉め言葉としてこの映画を「バカ映画」と呼び、「見ていると、どんどん知能指数が落ちていく」、「アドレナリンはガンガン出て、知能指数がどんどん落ちて」いく映画だと述べている。強烈な映像とシーンの連続で、見終わった後はクラクラして、もうフラフラになる。

 

 町山さんは、この映画を「ストーリーがないんです。基本的に」とも解説していた。さらに町山さんは、このMMFRの解説後、ラジオパーソナリティの山里良太さんとの間で、この映画のメッセージや物語を深く考え(過ぎ?)るべきか否かをめぐって、やりとりを交わしている(上記サイト参照)。町山さんは、MMFRの登場人物のマックスについて、「主人公のマッドマックスって、物語の本筋とあんまり関係ない」と述べ、「ラスボスであるイモータン・ジョーとマックスは、互いに相手を知らないまま終わってしまう」点を指摘して、「この映画は深く考えると変な映画だ」と述べている。

 

 …そうなのだろうか。この映画は、基本的に「物語」がないのだろうか。もしくは、この映画におけるマックスは、物語の本筋とあまり関係がないのだろうか。この映画は、深く考えると本当に変な映画なのだろうか。そもそも、マックスはこの映画で主人公なのだろうか。

 

 ライムスター・宇多丸さんがTBSラジオで行っている「映画評論コーナー シネマハスラー」(当時の名称。コーナーは現在も継続中で、現在の名称は「週刊映画時評 ムービーウォッチマン」)では、MMFRを見た一般の視聴者からの感想として、MMFRに対する批判的な意見が以下のように紹介されていた。「マックスの脇役感が半端なく、物語に一向に入り込めず、感情移入できなかった」…(下記動画の3:32~)。

 

<参考>

・「【大絶賛】宇多丸 マッドマックス 怒りのデス・ロード シネマハスラー」『YouTube』2015.6.27 https://www.youtube.com/watch?v=mw4jwEIf5n4

 

 …まず、僕自身の視聴経験として、この映画を見て「物語に一向に入り込めない」とは、全く感じなかった。そして僕は、この映画の物語のことを、ずっと考え(過ぎ?)ている。この映画には、物語がないと僕は全く思わないし、そう捉えない方が良いと思っている。

 そもそも、全三作までのマッドマックス・シリーズは、極めてマッチョで、男のロマンがいっぱいに詰まったような映画だった*1。そこでは、小難しいことを考えず、ただバカになって、そこにあるヴァイオレンスやアクションや車等の意匠の過激さを「すげえ!」と言いながら楽しめる。無言がちで、強く、逞しく、そしてかっこいいマックス。そんな従来の「男らしさ」=マッチョの権化のようなマックスに、感情移入をし、ただ心惹かれて。そんな遊び場としても、マッドマックス・シリーズはあったのだと思う。

 しかし最新作であるMMFRは、その物語についてじっくり考えてみると、「マッチョに憧れる男の遊び場」に留まることを、決して許さないような部分が含まれている。まずは、そういうことだと思う。

 

 …従来の、「マッチョに憧れる男たちの遊び場」を超えて、新たな「男たちの遊び場」として、この映画を読み解くことはあり得るのだろうか。少なくとも僕は、この映画について好きなように書き/読みながら、楽しく遊んでいる。いま、まさに。僕のこの行為は、いったいどんな遊びとしてあり得るのだろう?

 

 そんな問いを考えるためには、最新作MMFRが「マッチョに憧れる男の遊び場」に留まらない作品となった、その理由を読み解くことがヒントになるように思う。この読み解きは、第四章以降で書きながら考えることになるだろう。

 

 いずれにせよ、上記の町山さんの紹介では、アクション・ヴァイオレンス映画を好まない人が、MMFRのことを敬遠してしまうかもしれない。それは、非常にもったいない。MMFRは、例えば次のような人たちにとっても、とても面白い素材だと僕は感じている。映像や音楽の芸術的表現に関心を持っている人。ジェンダーに関心を持っている人。現代社会の構造から生じる理不尽さに憤りを感じつつ、日々の生活と労働の場で闘っている人。そして、男らしくない男たち。こんな人たちにも、MMFRの面白さを感じ取ってもらうためには、宇多丸さんの時評と高橋ヨシキさんのコメントを参考にすることが、まずは最も良いと思う。

 

 

3-3 宇多丸さんの時評と高橋ヨシキさんのコメント

 

「期待を遥かに超えて、ぶっとばされました」

「大袈裟じゃなく、映画史更新レベルの一作に、マジでなっている」

「少なく見積もっても、ま、5千億点。(中略)みなさん、5千億点の映画やってんすよ。5千億点の映画、そんなあります? お前の塩梅だろうがって話だけど(笑) 俺の塩梅はとにかくいいんだよ。だまされたと思って…、とにかく今行かないヤツはバカだ! 『マッドマックス 怒りのデスロード』、ぜひ劇場でウォッチしてください!」…。

 

 ラッパーであり、TBSラジオで映画時評を担当するライムスターの宇多丸さんは、MMFRを見て、こう言っていた(以下、TBSラジオ『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』2015年6月27日の内容を参考にしていく。関連URLは以下の通り)。

 

<参考>

・「【大絶賛】宇多丸 マッドマックス 怒りのデス・ロード シネマハスラー」『YouTube』2015.6.27 https://www.youtube.com/watch?v=mw4jwEIf5n4

・「宇多丸 高橋ヨシキジョージ・ミラー監督独占インタビュー シネマハスラー」『YouTube』2015.6.27 https://www.youtube.com/watch?v=fPc68kVkrnw

・「「宇多丸 語り足りない!「マッドマックス 怒りのデスロード」高橋ヨシキ シネマハスラー」『YouTube』2015.6.27 https://www.youtube.com/watch?v=FIRSURD7CxY

 

 宇多丸さんは、この映画を最初に見た時、「あまりにぶっとばされすぎて、感想が言葉にならなかった」という。高橋ヨシキさんも、「この映画の前では、言葉は無意味なのではないか、とまで思った」と語っている。

 そして宇多丸さんは、何度かこの映画を見る中で、「…これは、凄いんじゃないすか」「…あそこって、どういうこと?」等々の言葉が、やっと出てくるようになった。毎週映画時評を担当し、映画のことを言葉にし続けてきた宇多丸さんをして、そこまで言わしめるような、そんな映画。

 

 まず、宇多丸さんが次のように言っていることに、注目したい。

 この映画は確かにド派手なアクションシーンが沢山盛り込まれている。登場人物や登場するモノ、世界観も過激で、強烈に見える。

 しかし、この映画には、直接的な残虐描写・残酷描写が、ほぼない。また、派手な展開になればなるほど物語の意味が分からなくなっていく、といったような映画でもない。アクション・シーンの間にストーリーが止まってしまうような、「アクションを魅せるためだけのアクション・シーン」も、この映画の中にはない。さらにMMFRには、ゆったりとした時間や静寂のシーンもしっかりと含まれていて、ただひたすらに小うるさくてやかましく感じるようなガチャガチャした映画とも、一線を画している。

 だから、激しいアクション・ヴァイオレンス映画に苦手意識を持っている人も、スルーせずにちょっと足を止めて、MMFRに注目してみてほしい。

 MMFRは、アクション・シーンと物語の進行を常に絡めて、物語を駆動させている。これは、どういうことなのか。ここは先に触れた、「MMFRの物語とは何か」という問いにも関わるところでもあるので、じっくりと宇多丸さんの解説を追ってみよう。

 

 まず、MMFRは開始30分、言葉での説明がほとんどないまま、登場人物であるマックスの独白と、その身に突然起きた「出来事」から開始される。マックスは、何が何だか分からない状況へと巻き込まれていくが、映画を見ている視聴者もマックスと同じ心境に立たされる。そんな状況が、開始30分間はノンストップでいきなり続く。そのため、この映画の一度目の視聴時では、「なんなんだこの世界は…」と圧倒されてしまう。だから、はじめて映画を見た直後だと、感想を言葉にし難い。

 しかし、その後に何度もこの映画を見ていくと、その舞台がどのような世界観で描かれているのか、そして各登場人物がどのような背景を持っているのかが、ビジュアル等でしっかり描かれていることを理解できていく。

 

 MMFRは、セリフが非常に少なく、その物語の構成も、極限までシンプルなものとなっている。しかし宇多丸さん曰く、それは「映画の中で語られていることが少ないことを意味しない」。むしろ逆だ。MMFRは、映画の中で語られているものが、非常に多い。ただしMMFRはセリフ、ないしは言葉で語るのではない。ならば何で語るのかと言えば…。

 

 「ビジュアルとアクションで語るんですよ。それが映画じゃないんですか」。

 

 MMFRには宇多丸さん曰く、「普通の超面白い映画の五本分ぐらいの、映画的アクション、ないしは映画的ビジュアルのアイデアが、存分にぶち込まれている」。しかもそれらが絶え間なく、常に複数で、数珠つなぎに同時進行していくようなかたちで表現されていく。そのためアクション映画として、まずはとても面白い。素晴らしいエンターテイメントであり、誰が見ても面白いと感じられる。しかもそれらは、ほとんどCGを使わないリアル・アクションであり、その点でも誰もが驚愕できる。

 さらに特筆すべきは、それらアクション・シーンがそのまま登場人物の造形の繊細な描写につながっていて、同時にそれらアクション・シーンは全体の物語を推進する力にもなっているところだ。ひとつひとつのアクションによって、ひとりひとりの登場人物に潜んでいる個性の豊かさや、物語全体の深みが増していく。ビジュアルとアクションがロジカルに組み立てられていて、個々の/全体のストーリーテリングに直結している。このような作りを指して宇多丸さんは、MMFRが「完全に、純映画的なストーリーテリングというところに、特化して機能している」映画だと評価している。MMFRは、「映画の基本、映画の根幹、映画というものの本質、その純度を、現状可能な限りまで突き詰めた」一作である、と。

 MMFRでは、撮影・美術・衣装・メイクアップ等のビジュアルや、役者陣の演技、そのひとつひとつのセリフやそれらの配置、そして音響・音楽に至るまで、全セクションのレベルが異常に高い。それら全てが、非常にロジカルに、考え抜かれて組み合わされて置かれている。そのため、セリフや言葉での説明が少なくても、映画全体のビジュアルとアクション、それらの流れによって、ストーリーや設定を視聴者にしっかり伝えている。そのため、最終的にはセリフや出番が少ない登場人物にも、そのそれぞれに、しっかりとした厚みのある物語がちゃんと見えてくる。映画を見ているだけで、寓意があり、深みのあるテーマが、その物語全体から自然に浮かび上がってくる…。

 

 まとめよう。MMFRにおける物語は、軽く振り返ってみると、非常にシンプルなものに(…もしくは、町山さんがそう言ったように、「ストーリーが基本的にない」ように)思える。しかし、実はMMFRの物語は、登場人物それぞれに用意されていて、そのひとつひとつに味わい深く、多様で数多くの意味を含んだ、複雑なものとしてあるのだ。特徴は、その物語の表現方法にある。基本的に、言葉では表現していない。ビジュアルとアクションによって。ビジュアルとアクションを徹底的に洗練し、これらの組み合わせと折り重なりによって、複雑な物語を描いている*2

 MMFRで描かれている、この複雑な物語をどう読み解くか。具体的には第四章以降で、その作業を行っていく。先にも述べた通り、ジェンダーに関心を持っている人や、現代の社会構造の理不尽さに抗いながら日々の生活と労働の場で闘っている人、そして男らしくない男たちにとって、MMFRの物語は重要なメッセージを放っていると、僕は感じている。第四章以降で、MMFRの物語が伝えてくれているメッセージとは何かを考え、言葉にしてみたいと思う。次の記事の更新には二週間以上かかるため、気になる方は、先に上記URL、特にジョージ・ミラー監督のインタビュー動画をチェックしてほしい。ジェンダーに関心を持っている人は、上記URLをチェックすれば、MMFRへの興味が十分にそそられると思う。

 

 さて、アート的な表現に関心のある人は、次のような宇多丸さんの評に、あらためて目を向けてみてほしい。MMFRは、アート映画的である。「芸術性とかでも、ちゃんと評価した方が良い」「エンターテイメントなのに、超アート的なルックもある」。

 色彩等含め、ルックは非常に斬新で、宇多丸さん曰く「バッキバッキ」(MMFRの映像を撮ったジョン・シール(撮影監督)も、なんと年齢は70歳代…!)*3。そして、音。全編通じて、サウンドデザインが非常に精密に行われている。音楽や効果音、さらにはセリフの響き等まで含めて。シーンとシーンをつなぐ役目として、次のシーンを呼び込むような音づくりが、ほとんどミュージカル的なかたちで行われている*4。音の強弱や、それぞれの音が紡ぎ出しているリズムに対しても、ぜひ注目したい。

 MMFRは、いわば「総合芸術」と言っても良いのかもしれない。文学的な意味での物語の深みと共に、視覚的・音楽的表現の美しさも同時に、異常なまでに追い求めている。映画の細部のひとつひとつから、その全体に至るまで。高橋ヨシキさんは、MMFRを「宗教芸術に近い」と述べている。宗教芸術とは、ありとあらゆるディテールにこだわるものである。その理由は、それらのこだわりが総体として、「神を讃える」という一つの目的のために、真っ直ぐ向かっているからであるという。MMFRが狂ったように一個一個のディテールや背景を考え抜き、作り込もうとしているのは、もはや宗教的情熱だと、高橋ヨシキさんは言っている。

 

 

 

 前編(第一章~第三章)は、ここまで。現時点ではまだ、僕が考えたい問いの、その外堀をほんの少しだけ埋めたに過ぎない。徐々に徐々に、問いの中心へと向かっていく。次はいよいよ、男性性とMMFRとの関係を考えることへ、本格的に取りかかっていく。まずは、ジョージ・ミラー監督のインタビューを聴くところから。そしてWeb上には、MMFRに関する沢山の言葉たちがある。それらを読むところから。書きながら考え、次回で外堀を完全に埋めて、僕の問いの中心を見定めたい。

 

 

<上記以外の引用・参考>

・「マッドマックス 怒りのデスロード」『Wikipedia』2017.6.20アクセス https://ja.wikipedia.org/wiki/マッドマックス_怒りのデス・ロード

・「MAD MAX FURY ROAD」(映画パンフレット)2015年6月19日、発行承認:ワーナー・ブラザーズ映画、松竹株式会社

 

 

 

*1:マッドマックス・シリーズの第一作目では、物語の前半で女性の強姦されるシーンが象徴的に置かれたり、マックスの妻の人物像の描き方が極めて平板な上、最終的には後のマックスの復讐劇のために殺されてしまう。その物語では、女性がモノとして扱われ、その暴力的なシーンの刺激性が利用されて、結局は男のロマンカタルシスへと回収する描写が目立った。第二作目以降では、強い女戦士が登場して男戦士と互角に戦う場面があったり、女性の登場人物が物語を推進する重要な役割を担うようになる等、強い男を描くだけの物語とは異なる側面も見せ始める。しかし、MMFR以前のマッドマックス・シリーズの物語の主軸は、強い男であるマックスが主人公となって、理不尽な暴力に対し、その復讐として対抗的に暴力を振るう、もしくは弱いものを救うための行動を主導的に取っていく。そんなモチーフが一貫していたと僕は思う。視聴者は、そんなマックスの強さに、カタルシスを得ることができてきた。

 では、第四作目のMMFRでは、それらのモチーフがどう変わったのか。もしくは、MMFRでも基本的にはこのモチーフが変わっていないと見るべきなのか。男が自らの力によって何かを実現すること。それを男のロマンと呼んでよいならば、この男のロマンをMMFRではどう取り扱っているのだろうか。それが、これから書きながら考える上での焦点となる。

*2:監督ジョージ・ミラーは、MMFRをセリフがほとんどない作りにしたことについて、インタビューでこう答えている。「私がアクションを愛してやまないのは、映画言語のもっともピュアな形だからだ。アクションは無声映画時代に作られた。(中略。ヒッチコックが、「日本人にも字幕なしで理解できる映画を目指している」といった言葉を引用して)それこそ、私がこの映画で目指したことになった。ストーリーを練る時も、脚本のブレンダン・マッカーシーと一緒に、ストーリーボード作りから始めた。台詞がほとんどないからね。ストーリーボードは全部で3,500枚ほどになって、そのほとんどが映画に採用されているよ」(映画パンフレット、p.24)。このように、MMFRに複雑な物語が埋め込まれていることは、以上の映画制作過程からも明らかである。

*3:なお、MMFRの様々な意匠・造形は、単に斬新さや過激さを追い求めているだけでなく、その世界観における合理性も追求している。このロジックについては、例えば映画パンフレット、p.29の、コリン・ギブソン美術監督)インタビューを参照のこと。

*4:MMFRの音作りとストーリーとの関係について、監督のジョージ・ミラーはインタビューでこう答えている。「私はアクション映画を一種の視覚的な音楽として捉えていて、この映画は、熱狂的なロック・コンサートとオペラの中間あたりのものなんだ。座席から観客をかっさらって、強烈でハチャメチャな旅の中に放り込みたい。そしてその過程で、観客はキャラクターたちがどんな人物なのか、そしてこのストーリーんに至るまでの出来事を知ることになる」(映画パンフレット、p.33)。

キョドるマックス ―『マッドマックスFR』の物語について、書きながら考えたこと 2

第二章 経緯

 

2-1 杉田俊介さん

 杉田俊介さんの文章を、ずっと読み継いできた。飽き性で多動の僕が継続してきた、数少ないこと。杉田ファンというより、『ザ・ファン』。杉田さんの文章は、僕のストーキング対象であり、僕は「杉田文体依存症者」である。

 杉田さんは、『フリーターにとって自由とは何か』という本の中で、自分の弱さを抉るようにして、次のように内省していた。「実際、ぼく自身の人生の問題を含め、現在の日本の若年労働者達(の一部)の無気力や見通しの甘っちょろさには、『最後には親に頼ればいい』というぎりぎりの退路への信頼には、心から嫌気がさす。吐気がする側面がどうしてもある。それは戦後の高度成長から消費バブルへといたる歴史の、最後の経済的な恩恵(?)を浴びた世代の心根に刻まれた、恥ずべき特権意識と没落感なのか。ぼくたちの生存を内蔵から骨の髄までひたすこの「甘さ」だけは、これだけは甘く見ることが決してできない」(杉田2005、p.130-131)。

 杉田さんは別の文章で、自分のことを「貧困世帯/低学歴/地方出身のロウ・フリーターですらなく、中産階級や関東圏の恩恵を散々受けてきたハイ・フリーターでしかない」と規定して、「その水増し分をも率直に認める」とも述べている(杉田2007、p.44)。その上で、自らを含む全てのフリーター≒非正規雇用者たちに向けて、こう書く。

 

 「今後はアルバイト身分の人がアルバイト身分のまま持続的に生活し食べられる環境と条件を、ぼくたち、あなたたちが当事者の意志でつくっていかないといけないんじゃないか? って。その中で、各労働者の賃金格差だけじゃなく、仕事格差(スキル格差・情報格差)の問題や社会保障の不十分さを少しでも改善しないと…。

 (中略)たとえば今の自分の仕事で10年をかけて技術や知識を高め、正社員を目指す。できれば将来は自力で事業所を立ち上げ、独立自営でやっていきたい。多くのアルバイト身分の人は各々の文脈でそう考えている。ぼくもそう考えているけどね。でも、努力してもとどかない人々が今も昔も無数にいる、いるだけじゃなくって、時が経つに連れ急斜面をなだれ落ちるみたいに増加し続ける―という話です。

 だからハッキリ言わなきゃいけない、ぼくらは一生フリーターでも生きていける。

 そのための、現実的な条件やアイディアをしつこく模索したいって思う」(杉田2005、p.177-178)

 

 杉田さんは、不安定な雇用の中で生きざるを得ない僕たちにとって、その自由とはいったい何なのかを、書きながら必死に考え抜こうとした。杉田俊介さんは、仲間たちと共に雑誌『フリーターズフリー』を作り、僕らの心と身体から発せられるか細い声を、多様な言葉たちに変えて絞り出し、練り上げ、目に見えるものにしようとしてきた。この雑誌と運動に、この杉田さんたちの姿勢に、僕がどれだけ励まされたか。何度も何度も読み返してきた。

 杉田俊介さんはずっと、障害者介助のヘルパーの仕事をしつつ、文章を書いていた。が、途中でその仕事から離れ、パート主夫として子育てしながら文章を書き継いでいった。その間も杉田さんは、自らの弱さを言葉にしようとする勇気を手放さなかった。世間のレールから外れていることへの不安。ずっと収入も生活も安定しないこと。子どもが産まれた。このままで大丈夫か。こんな自分で良いのか。

 杉田さんは近年、旺盛に文芸批評・サブカルチャー批評の文章を発表している。でもそのことは、杉田さん自身の生活と労働の安定を意味しているわけではないようだ。杉田さん自身の言葉を社会へと届ける、その回路がさらに充実し始めた。そういうことであり、そういうことでしかないのかもしれない。とにかく、杉田さんの姿勢は、以前からずっと、ずっと変わっていない。杉田さんの書くものを読んでいると、心と身体に勇気が駆け巡ってくる。僕は、ずっとそう感じてきた。

  

 

2-2 男らしくない男たちの当事者研究

 杉田さんの文章を読み継ぎながら、僕も僕なりに、男性性と暴力の問題を自分ごととして考えたいと思った。「まくねがお」という記号≒ハンドルネームを使って、主にツイッターで、ぶつぶつと、呟きながら考えはじめた。その呟いたものが、杉田さんの眼に止まったようだった。DMをもらった。僥倖。SNSってすげー。

 杉田さんと会うことになり、一緒に北海道浦河町の「べてるの家」を訪ねた。車中で、沢山の話をした。楽しかった。しあわせ。そこでの会話は、杉田さんが『非モテの品格』という本を書き上げる、最後の一押しとなったようだった。それも、嬉しかった。

 「べてるの家」への旅の中で、僕たちも「男らしくない男たちの当事者研究」をしたいよね、という話になった。住む場所が遠く離れているので、Web対談という形式でやってみることにした。

 

<参考>

杉田俊介×まくねがお「男同士で傷を舐め合ってもいいじゃないか! 「男らしくない男たちの当事者研究」始めます。」『messy』2016.12.3 http://mess-y.com/archives/38466

・「男らしくない男たちの当事者研究」の記事一覧 http://mess-y.com/archives/category/column/otokorasikunai/

 

 上記記事での杉田さんの説明を借りて、当事者研究とは何かについて、簡単に紹介してみる。当事者研究とは、自分たちの生き方を、専門家や家族から与えられるのではなく、仲間の助けを借りながら、自分のことを自分でよりよく知っていく、そのための独自の研究を行うことを言う。当事者研究は、次のように考える。人は、自分のことを案外よく知らない。経験の面では自分が自分を一番よく知っているが、自分についての解釈をけっこう間違ってしまっていたりする。自分はこんな人間なんだと思い込んだり、こじらせてしまったりする。なので、同じような経験を持つ仲間内で話し合いながら、自分に対する自分の解釈を変えていく。それぞれの「個人の語り」を大事にすることにより、それが積み重ねられてだんだんとデータベースになっていく。そうすると、もちろんそれは仲間(ピア)内でも共有できるが、仲間以外の、別の誰かや別の集団の参考にもなっていく。

 では、「男らしくない男たちの当事者研究」とは何か。上記のような当事者研究の方法を、「男らしくない男たち」を自称する僕らも、自分たちなりにカスタマイズしながら学んでいけないか。というのも、僕らは僕らなりに「男らしさ」という規範に日々苦しんだり、くよくよと悩んだりしているが、一方で支配的な「男性性」を中心とした社会の構造はそう簡単に変わらない。かといって、何もかもを自己責任のままにもしたくない。だから共通の悩みや葛藤をもった当事者同士(男らしくない男たち)の対話や関係性の中で、何かを変えていくことはできないか…。

 …僕は第一章で、「僕のこと」を述べた。それは、男性性(男らしさ)の問題とどこまで結びついているのだろうか。自分でも、よくわからない。今書いているこの文章を、別の人にも読んでもらった。するとその人は、僕が自分のことを「男らしさ」に結びつけ過ぎて考えることにより、より「男らしさ」に囚われてしまうのではないか、という危惧を感じたようだった。さらにその人は、そもそも「自分とは何か」ということを突き詰めすぎたり、誰かにプレゼンしようとしてしまうところに、現代社会における大きな罠があるのではないか、とも言っていた…。

 …そうなのかもしれない。何度でも、この論点には立ち返りたい。そう押さえておきながら、今は筆をさらに進めてみる。

 

  

2-3 仲間たちと出会うために

 杉田さんは、西森路代さんや荒井裕樹さん、熊谷晋一朗さんや松本俊彦さんと、このテーマに関わるような対話を行っている。

 

<参考>

・西森路代×杉田俊介「否定形で語られる「男らしさ」から、「男らしくない男らしさ」の探求へ」『messy』2016.8.13 http://mess-y.com/archives/34538

・荒井裕樹×杉田俊介「永遠に付きまとう「非モテ」感に、男たちはどう向き合えばいいのか。」『messy』2016.10.21 http://mess-y.com/archives/36810

・熊谷晋一郎+杉田俊介「「障害者+健常者運動」最前線 あいだをつなぐ「言葉」『現代思想』2017年5月号

・松本俊彦×杉田俊介「取り残されているのはマジョリティ側の男性」(『週間金曜日 “男”の呪いを自ら解け!』2017.6.9号

 

 …良いなあ、杉田さん。有名な人や、ラディカルで魅力的な人とやりとりできることが羨ましい、ってことじゃなくて。直接会って、その人と面と向かって対話していることが、とっても羨ましい。ぐー。

 

 …いや、真っ直ぐ書きながら考えてみよう。有名な人、ラディカルで魅力的な人とやりとりできる、そんな杉田さんのポジションに、羨ましさを感じている自分もいることを、まず率直に認める。そういう自分がいることを受け止めながら、「でも、そういうことでもないよなあ」と思う自分に、真っ直ぐありたい。そう思う。

 

 …「何者」かでないと、立っていられない。自分の考えていること、考えて何かしようと努力している姿を、誰かに向けて発信していないと、「もう、立っていられないの」(映画『何者』の理香の言葉)。そんな自分の弱さを、まずは感じ切りたいと思う。

 

 それこそ、映画『何者』の、理香と拓人との対話のように。直接、目の前にいる誰かと、面と向かって、対話をすること。目の前のその人の、そして何より自分の、心や身体から発せられるか細い声に、耳を澄ませるようにして。じっくりと、しかしゆっくり・ゆったりと聴き合い、語り合うこと。そうして気がつくと、いつの間にか自然に、その人と自分の固有の弱さが共に浮かび上がるような、そんな対話の場。そんな場が、僕もほしい。

 本来、当事者研究とは、「仲間たちと、共に」行うものだ。僕も、そうした仲間たちが身近にほしい。どうすれば僕は、仲間たちと出会うことができるのだろうか。

 

 …今の僕ができることとして。例えば、映画をきっかけにするのはどうだろう。僕たちが本当に面白いと思える、そんな映画を見て。その物語について書きながら/読みながら、僕たちの問いを深く考えられるような、そんな映画たち。こういった映画たちを媒介にして、僕たちが出会うことはできないだろうか。

 

 僕はこれまでツイッターで、映画のことを呟きながら考えてきた。そうしながら見えてくるのは、いつだって自分自身のことだった。この作業は、僕にとって、とても大切なものだった。でも、それはどこまでいっても、独白だった。

 今回は、ツイッターではなくブログで、この作業をじっくり、とことんやってみよう。ブログでやったとしても、きっとそれは、自己に閉じたものにしか、なり得ないんじゃないか。そう思う気持ちもある。でも、文章を読むこと/書くことを通じて、誰かと出会い、降り積もっていく関係だって、きっとあり得る。僕と杉田さんとの関係は、まさしくそういうものだった。ならば、さらに新たな出会いを求めるようにして、僕も書くこと/読むことに向かって、思いきり身を投じてみよう。

 

 

<引用・参考>

杉田俊介(2005年)『フリーターにとって「自由」とは何か』人文書院

杉田俊介(2007年)「無能力批評 disabirity critique A 『フリーターズフリー』創刊号に寄せて」有限責任事業組合フリーターズフリーフリーターズフリー』01号、人文書院

キョドるマックス ―『マッドマックスFR』の物語について、書きながら考えたこと 1

第一章 僕のこと

 

 …昨日の夜、パートナーと深刻な口喧嘩をした。僕の被害者意識が原因で。

 

 相模原障害者殺傷事件。トランプ現象。マジョリティ(…って誰だ?)の人の心の中には、不安や不満が渦巻いているらしい。自らの不安や不満の底から目を背け、別の何かに憎しみ(=ヘイト)をぶつける。「自分たちこそが被害者だ」と。「本来あるべき何かを奪われている」と。「奪われそうだ」と。そんな不安や不満。その底にあるものとは何か。

 

 …僕は、子どもの頃、泣き虫だった。幼稚園にいた頃。五歳のときの記憶。クレヨンの箱を落とした。机の下の床に、クレヨンが散らばった。それだけで、僕は泣き出してしまった。

 …劣等感。なぜ僕は、すぐに泣いてしまうのだろう。周りの人は、誰もこんなことで泣いてないのに。

 

 …子どもの頃、父のことを「情けない」と思ったことがあった。車に乗っていた。父が運転していた。父が運転をミスしたのか、相手が乱暴な運転をしたのか、それは覚えていない。別の車から激しくクラクションが鳴り、その車に乗る男性ドライバーが窓を開けて、父を大声で怒鳴りつけた。父は、何も言い返せなかった。

 …「情けない」。そう思った。

 

 …はじめての離職経験。仕事を辞めた理由は、色々あった。そのうちのひとつ(…?)。胸に棘が刺さって抜けないような記憶。50代の男性の同僚のこと。

 …見るからにうだつが上がらない。押しが弱い。仕事ができない。職場ではいつも小さくなり、事なかれ主義で、逃げ腰で、とにかく定時で帰ろうとする。慢性的に残業している周りの同僚から、「あいつは仕事ができないくせに、すぐに帰りやがる」と軽蔑されている。その人は上司から仕事を振られて、肩を落として時々残業している。いつもヘコヘコしている。

 …その人を見て僕は、「ここにいると、いつか僕も、ああなるのだろうか」とぼんやり思った。そして、「ああはなりたくない」と、強く思った。

 

 …僕の今。他人が怖い。他人からの、何が怖いのだろう。軽蔑されて、嫌われることが? 攻撃されることが? よく分からない。人の顔を見ることができない。どんな人に対しても、基本的には内心、ビクビクしている。オドオドしている。僕の心の中にある、慢性的な挙動不審。キョドっている。

 …このキョドりは、僕の外に出ていないだろうか。他の人に、ばれていないだろうか。

 …辛くて辛くて、もう消えてしまいたい。

 

 これがきっと、僕の本心。こんな「怯え」は、僕の核として、常にある。

 

 おそらく、僕の核は変わっていないのだ。五歳のあの頃の僕と。クレヨンを落としただけでも泣き出した僕。その後、小学生となり、一年生の一年間を学校で泣かずに過ごすことができた。それで僕は、僕の心の中にいる「泣き虫な男の子」を、殺すことができたと思っていた。思いこんでいた。でも、あの僕は、死んでいなかったのだ。オブセッション。取り憑かれ、いつも回帰してくるもの。

 

 どうも、今の僕の中にある被害者意識、不安や不満は、僕個人のことで言えば、僕の根底にある「怯え」から来ているのではないか。

 

 …その「怯え」を外に出すな。堂々としてあれ。

 

 でも、僕の心と身体は、その命令に耐えられない。必死に蓋を閉じて、「なかったこと」にしようとしても、暴れ出して馴致されない、僕の「怯え」。僕の心の底にある「暴れ馬」。いや、「怯え馬」。馴致されない僕の「怯え」は、ついに形を変え、被害者意識として、蓋の外へと噴き出しているのではないか。

 

 …「怯え」とは、見つめようとすればするほど、恐怖心が増していくものなのだろうか。自意識過剰に「怯え」を意識すると、それはどんどん強まっていくようなものなのだろうか。だったら、「怯え」のことは考えず、「怯え」に囚われないための何かを、僕は身に付ければ良いのか。

 

 …必要なのは、堂々として負けない、そんな心と身体の強さなのだろうか。この「怯え」をもう一度、本当に殺し切り、それを「ないもの」にするような強さを、僕は目指せばよいのか。

 

 …こんなふうに、もやもやと、ぐるぐると考え込んでいると、映画『マッドマックス 怒りのデスロード』の物語が、ふと思い出されてくる。

 僕は、登場人物であるマックスの「怯え」を、いつも敏感に掴み取る。僕の特殊能力。怯える心と身体の震えに共鳴し、憑依して、自他の区別はつかなくなる。マックスに接近させられては、僕との違いを何とか抉り出し、必死にマックスを突き放す。そしてまた、マックスに接近する。この繰り返しの中で、いったい何が見えてくるだろうか。

 マックスが怯えてキョドり、取り乱すとき。それは、物語の前半と、終盤にもう一度、顕れる。マックスの「怯え」は、物語の中盤で表向きは消え去ったように見えるが、終盤に再び、姿を見せる。その瞬間、「怯え」と共に湧き出した言葉があった。このマックスの「怯え」と言葉とは何か。

 

 「怯え」という、僕の固有の弱さ≒武器を、非暴力的に開きたい。この世に、善用できないものなど、なにひとつない。「善用のできないもの、自他を同時に生かすという意味での<善>になりえないものは、ほんとうは、何一つない」(杉田2016、p.271)。そう祈りながら、引き続き書きながら考え、その言葉を留めていく。

 

 

<引用・参考>

杉田俊介(2016年)「宮崎駿の「折り返し点」4 ―『もののけ姫』論本陣」『すばる』2016年7月号

「恋愛」が唯一の道か? ―『デート』最終話感想②―

エラく合間が空きましたが、ドラマ『デート』の感想を、一区切りつくまで、書き留めておこうと思います。

(実は、下記の記事のほとんどを随分以前に書いてはいたのですが、書き上げられずに中断していました。2015/9/28に、ドラマ『デート』の後日談的なスペシャルドラマが放映され、それを見ての熱が冷めやらぬうちにと思って、少しだけ手を入れて書き上げたのが、以下の記事になります)

ネタバレだらけですので、このドラマを後日見ようと思っている方は、どうかご注意ください。

 

 

 

 

 

 

  • 多くの視聴者の反応

まずは初めに、このドラマに関するNAVERまとめを、僕が読んだ感想。

 

ドラマ「デート」の最終回に脱帽・・伏線の回収が見事すぎ! - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2142713980540425801

 

前回の記事で、「最終話に出てきたリンゴは白雪姫の比喩だ」と僕は書きましたが、アダムとイブの創世記のエピソードの比喩だったようです。知らなかったなあ。

そのほか、上記のNAVERまとめでは、このドラマに散りばめられたネタの数々が解説されています。このドラマを面白く見た方は、一度ご覧になると、色々楽しめると思います。


さて、上記のNAVERまとめと、そのほかWEB上での感想を拾い読みしてみましたが…。

多くの視聴者の方は、やっぱり「恋愛」が見たかったんだなあ、と思いました。

僕とは、全く感覚が違う…。「依子と巧が、恋愛で、うまくいってほしい…!」とドキドキしながら見ていた視聴者の人が、圧倒的に多いんですねえ。

「月9ドラマなんだから、そうやって楽しむ人が多いのは当たり前だろ」と思われる方も多いのかもしれませんが…。僕はドラマをほとんど見ないタイプでしたので、そんな基本的なことも知らなかったのです。そっかあ、そっかあ…。

 

 

上記のNAVERまとめで知り、ドラマ『デート』の脚本家である古沢さんに関する紹介記事を読みました。

 

「月9詐欺で国民騙す」発言も...『デート』の脚本家・古沢良太クドカンより野心家? - エキサイトニュース
http://www.excite.co.jp/News/entertainment_g/20150216/Litera_870.html

 

僕も最初にこのドラマを見てみようと思う気にさせられた、「恋愛至上主義」批判というテーマについて、古沢さんの意図が述べられています。

 「恋愛なんてクソの役にも立たない」「結婚とは有益な共同生活を送るための契約」などという醒めた恋愛・結婚観に共感する視聴者が続出。ネット上での評価も高い。

 まるでこれまで月9作品が築き上げた"恋愛至上主義"的価値観を覆すかのような展開。だが、じつはこれは狙ったものではないらしい。脚本を担当し、"ポスト・クドカン"の呼び声も高い古沢良太氏は、脚本執筆の裏側をこう明かす。

「実は月9とは知らず、2話分書いた後に知らされたという......だから今回の目標は、月9詐欺で全国民を騙すことです(笑)」(「エンタミクス」3月号/KADOKAWA

 

また、古沢さんが脚本を書くときに考える視点が、以下のように紹介されています

 まず、脚本を書くときに古沢氏が考えるというのは、「商業的に成功するかどうか」。そこで重要になってくるのが「今」という視点と「普遍性」だという。そして、もうひとつ重要な点に、今までにない「新しさ」と「社会への影響」を挙げる。

「僕は映画でもドラマでも、『この作品で世の中が変わるかもしれない』と思いながら作ってるんです。『これで世の中変えてやる』『政治では変えられないようなことを、僕たちは変えられるんだ!』と思ってやっている。だから『この作品で、もっと社会に明るくなってほしい』というふうにも考えるんです。結果そうなることはまずありませんが、そういう気持ちから、燃えることもあります」(前出)

 なかなか気骨が感じられる力強い言葉だが、たしかに『デート』も、恋愛への関心が薄くなりつつある今という現代性を反映させながら、世間から理解されづらい主人公ふたりに、妙な共感を生み出している。これもひとつの"社会変革"なのかもしれない。 


今僕が書いている、この記事の結論として述べることに関わりますが、僕の一番の関心は、古沢さんが「恋愛」を、結局はどう描こうとしていたのか? という点です。

上記の語りにしたがうと、「月9詐欺」という言葉が示すように、古沢さんは、「恋愛」がテーマの月9ドラマのはずなのに、そのドラマの中で「恋愛至上主義」批判をぶち上げる、というかたちで、世間の意表をつき、注目を集めようとした。

でも、その「恋愛至上主義」批判を取り上げたのは、あくまでも「ネタ」のためであり。「恋愛」そのものを否定的に描く気は、古沢さんには最初からなかったのかもなあ、と思いました。

 

前回の記事でも書いたように、古沢さんがこのドラマで描いた「恋愛」は、確かにその中に「恋愛至上主義」批判を含んだ、素晴らしいものだとは思っています。

ただ、僕の関心からすると、「そうは言っても、恋愛から外れる道を選ぶことを、本気で肯定する気は、古沢さんには最初からなかったんだなあ…」とも思い、少し残念に思いました。

古沢さんのスタンスは、結局のところ、「恋愛」の枠の中から外れる気はない。(「恋愛至上主義」に踊らされているような)おかしな「恋愛」と、そうではない「恋愛」の違いはあるが、「恋愛」そのものは必要(不可欠?)のものとして捉える。そんな感じなのかなあ、と思いました。

 

 

  • 親密性と共同生活

僕はこのドラマに随分と一喜一憂させられましたが、その理由について、ぼんやり考えています。

最終話まで見て思うのは、このドラマが描きたかったことと、僕が見たかったテーマが、ややズレていたんだなあ、ってことです。

僕はむしろ、この最終話以降の依子と巧の生活や関係を見てみたかった。

契約結婚・共同生活をしていく中で、ふたりはきっとお互いにぶつかり合ったり、ケンカしたりするでしょう。

その色々なやりとりの中で、お互いが徐々に変わっていき、共同生活を創り上げていく、そのプロセスが見たかった。

要するに、このドラマのテーマは「恋愛」であり、僕が見たかったのは「親密性と共同生活」だったと。

だから僕は、すげーやきもきしてたんだろうなあ、と思いました。恋愛をめぐるドタバタ劇は良いから、早く依子と巧にくっついてほしかったんですね、僕は。

その「くっつく」っていうのも、単純な恋愛関係ではなくて。共同生活のための契約的な関係で良い。そして、その後が見たかった。そういうことだったんだろうなあ。

ただ、このドラマは、題名がそれこそ『デート』なのであって、そんなドラマに「親密性と共同生活」というテーマを求めるというのは、筋違いというもの。こればっかりは、仕方がない。

また、僕はこのドラマが描く「恋愛」について、深く考え込まされました。だから、このドラマはこのままでも、僕にとってはとても面白かったです。

 

 

  • 「運命」と「偶然」

最終回の終盤、巧と依子が幼い頃、電車の中で運命の出会いをしていたシーンがありましたね。

色々モヤモヤと考えたのですが、やっぱりこのシーン、いらないなあ…。

下記で理由を詳しく書きますが、ふたりの出会いは実は「運命」でしたー!っていうのに、僕は何だか興醒めしてしまいます。

古沢さんがこのシーンを入れた理由は、世間の恋愛観におもねるため? それとも、批判まで想定済みの燃料投下的なネタの意味合い?

恋愛ドラマの「運命」や「偶然」を、徹底的に嗤うような展開がここまでは繰り広げられていたので、最後のふたりの「運命」を見させられたとき、僕は、何だか一周回った苦笑いみたいなのは出てしまいましたけど…。

そんな相対化しきっていることへのユーモアを感じさせることが、古沢さんのねらいだったのかなあ?


またしても僕が見たいテーマの話しになってしまうのですが、そのテーマから行くと、あんな「運命」を設定に入れてほしくなかったです。

あんな安っぽい「運命」ではない、「偶然」の方を、大切に描いてほしかった。

依子と巧は、たまたま偶然出会ったわけで。しかも全く境遇も発達特性も性格も違う。そんなふたりが、たまたま、惹かれあってしまった。

そういうところを、しっかりと前面に押し出すスタンスでいてほしかったな。あの幼い日の「運命」のエピソードで、この「偶然」の豊かさが台無しになってしまったような気しました。

 

 

  • 「恋愛」が唯一の道か?

最後に、このドラマを通じて考えさせられた、「恋愛」について。

そもそも、「恋愛」でなくては、前回の記事で僕が書いたような「心の穴」の共鳴と、そこから「自己否定」を飲み下す勇気がもたらされるような関係は、あり得ないのだろうか?

この問いが、僕の中でモヤモヤと残っています。

結局、恋愛のパートナーシップがなくては、人は「自己否定」を飲み下せず、ずっとそこから目を背けて生きざるを得ないのか。

 

もちろん、ドラマ『デート』が描いているのは、恋愛をすれば全て大成功、ということではない。

人は恋愛をしていても、一生苦しい。人生とは苦しいものなのだから、それはそうなのでしょう。

ただ、このドラマでは、「人は誰もが恋愛に挑戦し、その恋愛の中で自らの『自己否定』を飲み下し、ありのままの自己を受容していこうとする契機が生じ得るんだ」ということを描いているように、僕には見えましたが…。

すると、第一話で巧と依子のふたりが意気投合しながら主張し合った、「恋愛に参加しない自由」について、それを否定してしまうような印象を、このドラマ全体が発するメッセージとして感じてしまうのです。

最終話からさかのぼってこのドラマを振り返ったときに、あの第一話の意気投合で示された主張は、どう捉えるべきのでしょうか?

 

「あの二人は、実は恋愛感情で惹かれあっていただけなんであって、あのときの主張は結局ただの『のろけ』みたいなものだったんだねー。まったく、あのふたりったら…。」

 

…そんなふうに受け取られると、僕は何だか辛いです。人が生きるうえで、「恋愛に参加しない自由」は、確かにあるはずでしょ?

月9ドラマだから、「恋愛」を軸にストーリーを進めざるを得なかった。それは分かる。ただ、だったら、例えば依子と巧以外の登場人物が、「恋愛に参加しない自由」を行使して、力強く生き抜くパートナーシップ関係を結んでいる、そんな姿も描いてみてはどうでしょうか。

どちらでも良いんだと。「恋愛」という道を選びたくなければ、選ばなくても良いんだと。そんなメッセージもほしい。だって、「恋愛至上主義」批判って、本来そういうものでしょ? 安易にネタとしてだけ用いないでほしかった。用いるならばそれを(ただのネタとしてだけではなく、)テーマとして用いて、その含意を正しく理解して、責任を持って表現して欲しかったです。

 

もう一度、問いを提示します。人が自らの「自己否定」を飲み下そうと踏み出すためには、「恋愛」への挑戦が唯一の道なのか?

例えば、「友愛」は?

例えば、「姉妹愛」や「兄弟愛」は?(それは血縁に限ったものではなく、非血縁の他人との間でも、このような愛は生じえるのか?)

例えば、自助グループの中で芽生えるような「同朋愛」は?

例えば、世間では未だ名前がつけられていないような、その人たちに固有の、新たな関係性は?

 

…「恋愛」を唯一の可能性として賭けさせようとする志向性は、危ういと思うのです。

恋愛幻想で苦しんでいる人を益々苦しませるし、実際に恋愛をしている人に対しても、ふたりだけで世界を完結させてしまう。

その延長として、現代で恋愛をテーマに描くとしたら、共依存やDVの問題を、マストで念頭に置かなくてはいけないと思います。その視点も、このドラマでは弱かったように感じています。

暴力に陥らないように、ふたりだけで世界を完結させないようにするためにこそ、色んな関係の中で人は生きていくんだと思いますし。その多様な関係の中で、自らの「自己否定」と向き合うこともできるような気もするのです。

…いや、これは事実としてそうだ、と言ってるわけではありません。僕の願望が多分にこめられている。そうあってほしいと、僕は強く思っています。

 

この『デート』というドラマは、基本的にふたりだけの閉じた物語であり、ほかの登場人物は刺身のツマのようなもの。ほかの登場人物は、ふたりを劇的な場面へと連れて行くための、舞台装置にしか過ぎませんでした。

そのせいで、このドラマが、視聴者の対幻想を強化させるようなストーリーになっている点には、留意しないといけないと思います。

恋愛を全否定するつもりはありませんが、様々な関係のかたちの、そのうちのひとつにしか過ぎないはず。

そのような現実の複雑さを、複雑なまま、ドラマとして描いてくれていたら。そんなふうに思いました。

 

 

  • おわりに

…はー、面白かった。

巧がひきこもった設定には不満がある、とか、依子の自閉特性の描写はもっと正確に、とか細かいツッコミどころは感じてますけど、それらは野暮なツッコミだとも思っていますので、自重します(すでにこう書いてるので、自重できてませんが)。


…一点だけ。役者の演技が、ほぼ全員凄かったってことには、触れておきたいです。

上記では、主人公の二人以外は刺身のツマでしかない、と書きましたが、それは物語上の位置づけの話しであって、役者さんの演技に対する評価とは、また別です。

依子と巧は元より、恋敵である鷲尾と香織、依子と巧の両親、子役の依子と巧に至るまで、素晴らしい演技に感じました。

どれも、難しい役だったと思います。よくあんなふうに、コミカルでかつシリアスに演技ができるなあ。すげえ。

特に最終話は、全員の演技のテンションが異常に高かった。役者陣がこのドラマの物語に完全に憑依しているような、神がかった演技を見せてもらえたような気がしています。


…というようなことを、延々と語っていたいのですが、キリがないのでこのへんで。

ドラマ『デート』に関わった全ての関係者の方々に、感謝の気持ちを込めつつ。

続きは僕の脳内で、ひとりウンチクを繰り広げていこうと思います。

 

 

  • 追記)

2015/09/28、スペシャルドラマ『デート 2015夏 秘湯』が放映されました。

とても楽しく見せてもらいましたし、上記の「その後の共同生活が見たかった」という僕の希望も、その一部をかなえてくれるようなものでした。ふたりの共同生活後の「うまくいかなさ」を描いてくれて、とても見ごたえがありました。

ただ、僕が上記で書いた批判は、スペシャルドラマでも当てはまると思いました。むしろ、(おそらく「恋愛」要素を欲していたファンの期待に応えたせいもあって、)恋愛以外の道は許容しない空気感が、より強まったような気もしています。

楽しくは見せてもらいましたが、後半で恋愛要素が非常に強くなってきたあたりでは、若干自分の中で距離を図りながら見ている感じになりました。

「恋愛」に全て回収してほしくないな、と。そう思いながら見ていました。

 

今後、「恋愛しない自由」も描くドラマを、誰かが作ってくれないでしょうか。

視聴率を取るのは非常に難しいかもしれませんが、間違いなく「新しい」ものになると思うし、それこそ社会変革を促すものになるでしょう。恋愛至上主義に苦しんでいる多くの人に届き、元気を与えるようなものにもなり得ると思います(今回のドラマ『デート』第1話や第2話が非常に盛り上がったのは、そのような物語を欲している層が多くいることを、示しているのではないでしょうか)。

作り手のどなたかが、果敢に挑戦して下さることを希望しています。

 

「自己否定」を飲み下す ―『デート』最終話感想①―

下等遊民ねがお、最後のウンチク。

 

このドラマを未見の方は、よくわからない内容となっていると思います。ご容赦ください。

これからこのドラマを見ようと思っている方は、ネタばれ満載になっておりますので、見ないことをオススメします。

 

 

 

 

 

 

 

 

  • 劣等感と自己否定

まず、最終回の結末を踏まえて、このドラマが描いていたテーマとあらすじを、簡潔に整理してみます。

 


依子は、他人の気持ちを共感的に理解することができず、家族以外の親しい人(恋人や友人)を作ることができない自分に、劣等感を持っていた。

巧は、父を侮辱されたことに傷つき、他人が怖くなってひきこもりとなり、そんな臆病な自分に対して、劣等感を抱いていた。

 

互いの弱さ。互いのコンプレックス。このふたつが偶然、出会うことになった。

依子は、巧の繊細さと、その誠実さに魅かれた。

巧は、依子の苦悩と、その真っ直ぐさに魅かれた。

互いの「心の穴」(二村ヒトシ)に、お互いが偶然、触れてしまった。

「心の穴」に触発され、自分以外の誰かのことを想ってしまう。そんな欲望が、ふたりの間に宿っていく。

 

 

依子と巧は、互いに相手の幸せを、強く願うようになった。

しかし、依子も巧も、自分に自信を持つことができなかった。

自分がパートナーになって、相手を幸せにできるとは、とても思えなかった。

自分が相手のパートナーになろうと、一歩を踏み出す勇気も、湧いてこなかった。

その底には、ふたりとも、根深い「自己否定」があった。

 

境遇も特性も性格も全く異なるふたりだったが、唯一共通している点。

それは、心の底で、自分に自信を持つことができず、自分を愛することができない、内なる「自己否定」に囚われているところだった。

 

 

  • 間接的な「告白」と、「自己否定」の飲み下し

ふたりは、そんな互いの本心を、直接伝えあう勇気も持てず、その機会もなかった。

 

しかしまるで、できすぎのドラマのように、様々な偶然が重なって…

最終話で、追い詰められたふたりは、互いの本心を吐露せざるを得なくなる。

互いの幸せを願うからこその、ギリギリの極限で。

これが、勇気を持つことができないふたりの、間接的な「告白」となった。


最終話の冒頭に、老女から差しだされるリンゴ。

恋が「禁断の果実」であるという比喩でもあるだろうし、白雪姫の魔女が差しだす毒リンゴのことも連想してしまう。


恋とは、苦しいものである。踏み出すと、一生苦しめられる。苦しみたくないなら、決して、このリンゴを食べてはならない。


「心の穴」に触れる恋は、互いの「自己否定」を抉り合うことになる。

覚悟して、恋に踏み出そうとするならば。

苦しみながらも、内なる「自己否定」を受けとめ、飲み下そうとする、その勇気が必要となる。

 

依子は、巧の告白を聴き、やっと自らの「自己否定」=リンゴを齧り、飲み込みはじめる。

巧も、依子から差しだされたリンゴを、応じるかのように力強く齧り出す。

互いの告白とその行為に応じ合うことで、自らの「自己否定」を、お互いに、やっと飲み下すことができていく…

 

 

以上が、僕の読みとった、このドラマのストーリーでした。

第一話の依子と巧の意気投合の場面と、最終話の間接的な「告白」からリンゴを齧り合うシーンは、本当に素晴らしいと感じました。

 

 

  • 良いお客さんとしての僕

僕は、『デート』を毎週見ていて、いつも良い意味で予想を裏切られ、ずっと楽しく見ていたのですが…。

第7話や第8話くらいの頃、僕はこのドラマが「結局は、世間のフツーの恋愛を賛美するだけのものである、全くもってケシカラン!」と思い込んでしまいました。

それで僕は本当に、プンプン怒っていたのです(ツイッタ―で)。

でも、最後の最終話で、またしても僕が完全に予想を外されて、うまく騙されていたことに気づきました。

 

結果から言うと、『デート』は、フツーの恋愛をただ賛美するだけのドラマでは、全くありませんでした。

むしろ、恋愛することは苦しいし、グダグダになるし、何度も目も当てられないような失敗を繰り返すことになる…。

世間で喧伝されがちな「キラキラした恋愛」は幻想にすぎないよね、ということをはっきりと描こうとしたドラマでした。

と同時に、グダグダになりがちな、苦しく辛い多くの恋愛を、「自己否定」と向き合っていく契機として前向きに描こうとする、ラディカルで挑戦的なドラマだったと思います。


プンプン怒っていた僕は、ある意味、完全に騙されたわけで…。

思い返すと、かなり恥ずかしい。今から考えると、最後の最後にひっくり返す展開だって、当然あり得るのに…。

きっと僕は、このドラマの良いお客さんだったのでしょう。凄く楽しませてもらいました。

 

なお、僕が完全にだまされた理由として…。

基本的にこのドラマ、「展開を読ませず、最後にネタばらし」って構造を、一話完結でやってきたんですね。第7話ぐらいまでは。

それが、第8話以降では、話数をまたいで、最終回に向けた複線をはっていたんですねえ。最終話見て気づいたよ。

「一話完結でスッキリ驚かす」というクセをつけておいて、最終回にはそのクセ自体を利用して、もっとも大きな驚きを演出する…。

いや、すげえわ、作り手の人は。脱帽です。

 

 

もう少しだけ、書きながら考えたいことがあるので、続きます。

 

 

 

 

 

 

 

さいごに、こそっと余談。

 

name8nameさんのブログ、最近また新しい記事が更新されましたが、非常に面白く読んでいます。

誤解する人は、そのブログが性生活の単なる暴露のようにも見えるかもしれませんが、そうではない。

自らの性を、透徹に分析しようとする強固な意志を感じます。男性として、自らの性が持つ暴力性についても目を背けず、正面から言語化しようとしている。これって、本当に難しいことだと思います。

男性の中で、自らの性のメカニズムを、ここまで赤裸々に、ありのままに分析できる人って、滅多にいないのではないでしょうか。

僕も自らの性のメカニズムを見つめたいと思っているので、name8nameさんのブログは、本当にありがたいです。いつも、勇気をもらっています。

男性社会への抵抗と共闘 ―『問題のあるレストラン』第4話感想

ちょうどつい先ほど、ドラマ『問題のあるレストラン』第4話を見終えたところです。


とても面白く、考え込まされたので、見終えた直後の感想を書き留め、書きながら考えてみたいと思います。

 

このドラマを見たことがない方には、以下の文章を読んでも、よくわからない内容になっていると思います。不親切ですみません。


また、ネタバレばかりですので、未見の方で今後このドラマを見ようと思っている方は、以下の文章は読まないことをおススメします。

 

 


なお、『問題のあるレストラン』をまだ見ていないけど、これから見ようかどうか迷っている方は、まず第4話を見てから決めるっていう手も、あるんじゃないかなあって思いました。 


このドラマの趣旨が、象徴的に詰め込まれている回なんじゃないかなあ、第4話って。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、「喪服ちゃん」メイン回のこの第4話では、僕にカタルシスを期待させ、その期待が徹底的に破壊されてしまうポイントが、大きく言ってふたつありました。

 

 

 

  • 素朴に残酷な男性

 

ひとつめは、喪服ちゃんと良い感じになる男性、「星野」が、最初はあたかも誠実な人間であるかのように思わせる展開。


ドラマ前半の星野の、あの素朴で裏表のない感じ!


それで一瞬、星野に対して男性の暴力性を内省しようとする誠実さも期待した、僕自身の馬鹿さ加減が、ドラマを見終えた今では本当に悔しいです。バカ! ねがおのバカ!

 

 

…多分星野も、ある種のバカなのでしょう。


深くは物事を考えずに、性欲の解消や狩りの勝利感、現在の辛いことからいったん逃れられそうな快楽を、反射的に追求するタイプ。

 

 

このドラマにおける、星野という人物の描写は、見事に思えました。


若いが故に、素朴でもあり、残酷でもある。


自らの男性性の暴力を内省する気配もない、ああいう男性は、確かにいると思う。

 

 

…もちろん、他人事ではありません。

 

あの無邪気で調子の良い感じ…、僕自身の内側に、今でも巣食っているような気がする。

 

そして油断していたら、その無邪気さの延長線上で、僕もいつでも残酷な暴力を振るってしまうかもしれない。

 

 

…いや、今後の話しだけではありません。

 

すでに過去、僕も暴力を振るっていたでしょう。

 

自らの権力性に無自覚だった幼い頃の僕は、星野のようなかたちではなくとも、違うかたちで、ヘテロ男性ではない人々へと有形無形の暴力を振るっていたはずです。

 

 

ヘテロ男性である自分に無自覚に、この社会で生きることは、それがそのまま暴力へとつながる…。

 

 

 

  • 明るい未来が潰えた瞬間

 

僕のカタルシスへの期待が粉々に破壊されてしまった、第4話のもうひとつの場面。

 

それは、味のわかる客にレストランが認められ、誕生日ディナーが成功するかのように思わせていくところでした。

 


もちろん、見ていて途中から、嫌な予感はしていました。


客が料理をしきりに褒め、タマコがそれを本当に喜んでいるシーンが、何度も何度も強調されるあたりで。「ま、まさか…」と。

 


そして、画面にケーキが出てきたあたりで、先の展開を薄っすら予想はしました。


でも、予想をしつつ、それでも「喪服ちゃん、それだけは止めてくれ…!」と心の中での悲鳴が止まらなかった。


タマコの、このレストランの、明るい未来への希望を、どうか壊さないでくれ、と。

 

 

 僕の(勝手な)期待もむなしく、遂に川奈さんへと喪服ちゃんがケーキをぶつけ、ふたりが揉み合っている様子を、テレビ越しに呆然と眺めながら…。


頭の中では色んな思いが駆け巡り、心の中で戦慄していました。


女同士で闘わされ、潰しあわされている状況の、そのあまりの壮絶さと悲惨さに。

 

 

 

  • このドラマが描いているもの

 

男性たちは、力で持って傲然と女性の前に立ちはだかり、自らの立場を内省するどころか、自らの権力性に気づく素振りも見せない。

 

あらゆる男性が、女性の目の前に立ちはだかり、力で屈服させようとし、弱そうに見える女性を利用しては、使い捨てようとする。


一見、理解者に見えそうな男ほど、あやうい。


人生の局所で、最も傷を残すようなかたちで、男性は弱味につけこんで、女性を裏切っていく。

 


あらゆる女性の闘いは、敗北を運命づけられている。


殴り返そうにも、その拳が全く男たちには届かない。


そして、やり場のない怒りが、自らの傍らで一緒に競わされている女性の方へと向かう。


近くにいて、自分よりも競争で優位にいるかのように見える女性が、あたかも最も憎むべき敵であるかのように見え、怒りの矛先がそこに向かってしまう。

 

 

この男性社会の理不尽さ。

 

その被害に見舞われ続ける受苦。

 

そこから絶え間なく生じる悲しみと怒り。

 

この噴き出してくる感情を、ぶつけずに済ませられるわけはない。でも、それをいったい、どこにぶつけたら良いのか。

 

 

…川奈さんへと怒りをぶつけた喪服ちゃんのことを責めることなど、絶対にできないと、一連のシーンを見ながら思っていました。

 

 

 

  • レストランが象徴するもの

 

タマコは、去ろうとする喪服ちゃんを呼び止め、「がんばろう!」と呼びかけます。


喪服ちゃんはしかし、レストランを去っていく。


このところは、本当に素晴らしいシーンだと思いました。

 


この挫折の経験と、先への絶望感は、喪服ちゃんの今にとって大きい。大き過ぎる。今は喪服ちゃんは、レストランにいられないだろう。


でも、タマコの呼びかける言葉を、喪服ちゃんは聴くことができた。


だから喪服ちゃんは必ずまた、このレストランに帰ってくるだろうと思いました。

 

 

前話の第3話ぐらいから、レストランの存在が、僕にはとても美しいものに見えて仕方ありません。


男性社会から排除された者たちの、連帯と共闘の場としての、「問題のあるレストラン」。


男性社会からは「問題のある」とレッテルを貼られるような、このレストラン。


そして、その存在が逆に、男性社会を「問題のある」ものとして告発し、同時に男性社会に抵抗していく拠点の象徴になっている、このレストラン。

 

 

タマコの「がんばろう!」という呼びかけは、明らかに、男性社会による被害者全員に向けてのメッセージだと感じます。


ときに、互いが敵のように見え、互いに叩き合い、大きな挫折に遭って、先があまりにも絶望的にしか思えなくても。

 

それでも、一緒にがんばろう、一緒に生きよう、と。

 

 

 

  • 抵抗しながら生きるために

 

この第4話が、本当に名作だなあと僕が思ったのは、レストランのみんなで一緒に、主題歌に合わせてリズムを取るシーンがあるからでした。


あのシーンではみんな、何だか少し必死そうで、真剣で、でもとても楽しそうです。

 

ともに生きていくことの素晴らしさを感じさせてくれるような、そんな甘美さを、あのシーンを見ていて感じました。

 


あのシーンを見ているだけで、僕は何だか元気が出てきました。

 


元気が無くなってきたときは、この『問題のあるレストラン』第4話を、もう一度見たいと思わされました。

 

 

僕は、男性社会の中で生きる、ヘテロ男性です。


加害者にも、加害者がなすべき、抵抗としての闘いがあるはず。

 

その抵抗の戦場で、自らをギリギリまで追い込もうとする、その絶え間ない闘いを、僕自身が継続していくための元気を、このドラマから今後も貰いたいと思いました。

 

 

 

  • オマケ

 

喪服ちゃんが会社の面接で、セーラームーンの緑を選んできた過去について、切々と独白するシーン。


喪服ちゃんの、あの壮絶な「素の露出」に対して、右端にいる面接官の男性が受け止めようと反応したシーンを、僕は凄く良いなあと思って見ていました。

 

 

誰にも届かなくとも、ギリギリまで追いつめられ、絶望した気持ちの中で自然に漏れてしまった、そんな喪服ちゃんの独白。

 

その言葉を聴こうとする他者がいてくれることで、喪服ちゃんの独白の言葉は独白ではなく、対話の言葉になりそうになる。

 

そして、喪服ちゃんの底に秘められていた拘りが、対話によって解きほぐれそうになる。

 


…でも、最終面接を喪服ちゃんはすっぽかし、喪服ちゃんがその会社で働いていく展開は、雲散霧消してしまいます。


切ない。あまりにも切ない。

 


あの端っこにいた面接官の男性と、喪服ちゃんとが、面接の後に再度出会い、さらに対話していく場面を、僕は見たかったです。

 

あの男性にどういう背景があり、どんな内面の変化があって、喪服ちゃんの言葉を聴きたいと感じたのか。それが明らかになる瞬間を、ぜひ見てみたかった。

依存、ひきこもり、選民意識 ― 『デート』第二話感想

 

ドラマ『デート』第二話の感想を書いていきます。ツイッターでの椿さんとのやりとりなどでも多くの刺激を受け、色々と思ったことを、ここに書き留めていきます。

 

『デート』未見者にはよくわからないような、不親切なものになっていると思います。すみません。

 

 

さて、ドラマ『デート』の第二話を見て、まずは次のことを、ハッキリと感じています。男主人公は、ドラマの第二話にして、非常に大切な批判を受けた、と。

 

 

  • 母子密着と依存

 

例えば、母を自然な感覚で食い物にし、そこを問えない感性。あそこは、男主人公が絶対に潜り抜けなければいけない批判だったと思います。

 

第二話にしてあそこまで深く抉るか、と正直ビックリでしたが(爽快な驚きでした)、大事な局部へと、素早く真っ先に男主人公を向き合わせる展開で、僕としてはとても嬉しかった。

 

第一話でも男主人公と母親の不気味な気持ち悪さが描れていましたが、第二話でも同様のシーンが散見されました。

婚約指輪を買う金を母にせびり、アッサリとその金を出す母。

その直後、母が息子のことを、小馬鹿にするかのように子ども扱いするシーンが続く。

息子のことを馬鹿にし、軽蔑つつも、甘やかしている母のあの感じ。

それに気づいてるんだか気づいてないんだか分からないけど、ズルズル同じ甘えた行動を繰り返す息子。

…本当に、何だか不気味な気持ち悪さを感じさせます。

 

男主人公と母の不気味な感じは、あのドラマでは、きっと意図的に、そこはかとなく匂わせる感じで表現していると感じました。

他のシーンでは、様々な人との関係性を、あれほど誇張して大袈裟に描いているのに…!

母子密着の、あの不気味な感じは、きっと誇張しては描けないのでしょう。誇張して描くと、あの微妙さが消されてしまうから。

 

終盤の男主人公の大演説を、女主人公は「死にかけの母に寄生して恥ずかしくないのか」と批判し、一度は奢られたランチ代金を、キッチリと割り勘分だけ、毅然として支払います。あそこは非常に痛烈なシーンとして、僕の眼には映りました。

  

知らない内に依存体質になってしまう。理屈を並べて、そこと向き合えない。

あのドラマは、ニートやひきこもり系の若者に対して、非常に強烈なメッセージを発していると感じました。

 

 

  •  ひきこもり問題とエンタメ表現

 

一方で…。

 

男主人公には、対人恐怖的な症状が出ていること(誇張して、あまり深刻ではないように表現しているところを、どう見たら良いものか…。エンタメ的な演出上、仕方がないのかもしれないけど…)。

 

「35歳まで働いたことがない人間を雇ってくれるところなんて、あるわけがないだろ!」という、男主人公の叫び。

 

母は身体が弱り始め、家に遺産はなく、今の生活を維持できなくなるタイムリミットが、刻々と迫っていること。

 

…それらの理由から、男主人公がホントになりふり構わず、パートナーシップ契約を結んでほしいと、女主人公へ「誠実に」頼み込む…。

(自分は一度も働いたことがないことを正直にありのまま告白しつつ、「家事も育児も全部する」「専業主夫として努力する」と訴える…)

 

 

これらは、ひきこもり問題の深刻なところを、こすってきたな、と感じます。

 

先にも少し触れましたが、誇張表現がその深刻さを殺いでいることについて、考え込んでいます。

ひきこもりの問題は、本当は、コミカルにはとても描けないような、深刻な問題です。

深刻なひきこもりで追い詰められての家庭内暴力事件は、表に出てこないものも含め、多々あるはず(親が子どもを殺す、もしくは子どもが親を殺す事件がときどき報道されますが、あれは間違いなく「氷山の一角」です)。

長年のひきこもりによる対人恐怖的な症状も、根性論で何とかなるようなシロモノではないケースが、多々あるはずです。

ちなみに、これは何も男性/息子だけの問題ではない。社会には、女性/娘さんが同様の状況に陥っているようなケースも、世間の目に触れないパターンも含め、沢山あるんだと思います。

ドラマでは、この深刻さを殺いでいることが、想像力の欠如したニート・ひきこもりバッシングを生んでしまうのではないか、と危惧してしまう反面…。

コミカルにデフォルメされているからこそ、月9ドラマに耐えられるエンタメ性を維持していて、多くの人に問題提起する素材になっているのかもしれません…。

 

 

男主人公が理屈を並べて演説せざるを得ないのも、それ以外に全く武器がないからです。

そのぐらい、状況は逼迫している。

男主人公のあの滑稽な必死さは、以上のように理解したいなあ、と思いました。

 

 

それにあの演説の理屈には、確実に一理あるのです。

「働けない人間に価値がないとするのは、おかしい」

僕も、全くその通りだと思う。ただ、後述の点だけが、僕にはひっかかった。

 

 

次回予告では、女主人公が男主人公に、働かないと選択をしたのはなぜなのか、と質問するシーンが映ってましたね。その理由が何なのか、僕もとても知りたいので、次回が非常に楽しみです。

 

 

  • プライドと選民意識

さて。ひとつのことが、とても気になっています。

 

それは、「男主人公は、プライドが高いのか? それともプライドを棄てているのか? 」というところです。

 

行動から見ると、プライドを棄てているようにも見えます。

自分がニートであることも包み隠さず告白。

なりふり構わぬ土下座。

専業主夫をやりますから、どうか寄生させて下さい」と、ここまで下に降りていける人も珍しい(そこにはファンタジーさを感じますね)。

  

一方で、自分は「高等遊民」であると主張し、周囲の大衆・愚民とは違うと言い張る。

この、強烈な、選民意識。

 

新たな結婚/共同生活観を創り出そうと主張する男主人公*1

 

しかしその根底には、「自分は他より優れている」と信じる強烈な自意識があり、行動を支えている。

 

世間の多数派の男性観から見ると、それとは真逆な、男らしくなく、競争する気もなく、プライドを捨て切った行動をしているようにも見える男主人公。

しかしその底には、「自分は上なんだ」と思い込む精神が潜んでいる。

こんな、捩れた構造がある。

 

 

僕は、このドラマの作り手が、この選民意識こそを批判し、そこから抜け出す道を提示しようとしているのかなあ、と思いました。

新たなジェンダーセクシャリティ観を紡いでいこうとする人が往々にして陥りがちな罠。それが、この選民意識なのではないか。

自分事として、以上のような問いが突き刺さってきました。

 

 

選民意識を底に潜ませた言葉や思考や行動では、他者/自分と向き合うことはできない。

女主人公が「(話しの内容は)理解します」と述べつつも、パートナーシップ契約の相手としては拒絶をし、男主人公の元から去っていったように。

  

男主人公は、この女主人公の行動から学び、自らの選民意識に気づき、そこと向き合って、闘わなければならない。

  

…ということで、今後の展開では、男主人公が自らの選民意識と向き合い、格闘し、それを超えていく過程が描かれていってほしいな、と勝手な期待をしています。

 

もちろん、女主人公の方も、大事な問いにぶつかり、乗り越えていくのでしょう。こちらに注目して見ていくのも非常に面白いでしょうね。

自閉特性を持っていること。

女性であること。

家族主義。

そしてやはり、内なるプライドとの格闘…。

僕がペラペラと語りながら考えても良いのですが、女主人公に関しては、どなたか別の方の感想を聞きたいなあって思っています。

というか、僕は男主人公にどうしても憑依してしまうので…。

 

…そうなのです。このようにドラマの感想をブログで一方的に書き散らかしている僕こそ、自室で小説や映画を見ては勝手に独白して過ごす男主人公の、似姿なわけですね。

全くもって、あの男主人公は、他人とは思えぬ。

 

それにしても、本当によくできたドラマだなあ。

つか、僕は普段ドラマなんて全く見てなくて、こんなふうに第一話からドラマを見るなんて、ほぼ始めてなんですが。

日本のエンタメ表現界ってマジすげえ。

 

下等遊民の僕には、来週が来るのが、とても楽しみです!

*1:恋愛観については、両主人公とも今のところ、「恋愛をしたくなくても偏見を受けない社会であれ」ということ以上の主張はしていません(「恋愛不要者」許容論?)。でも、今後の展開では、恋愛を単なる不要なものとしてだけ捉えるのではなく、「新たな恋愛観」を男主人公と女主人公が創っていこうとするのではないか、と予想しています。ドラマの題名が『デート』なのですから、きっとそうなっていくと思っているのですが…。