痴漢をめぐる論点(ツイッターより)③

前回の記事の続きです。

 

  • 痴漢被害を誰にも相談できないこと

昨日から興味深く拝読。十代で就職、いかにもな田舎娘だったので、通勤でよくオジサンに威嚇されて被害にあってました。同年代の友達もいなかったので、会社で困って相談すると「は、自慢?」みたいな空気になり、結局、黙っちゃってたなあ……とか思い出してましたー。

 

「は、自慢?」みたいな反応…。この「嫉妬問題」は超デリケートだと感じます。

 

こういう反応が予想できるから、自らの被害の事実を、誰かに伝えることを躊躇してしまう。

 

 

 

 

 

思い出すのは、杉田俊介さんの、次の記述。

 

杉田さんは、ある文章を書く中で、杉田さん自身が「微妙な形で性暴力を受けたことがある」事実を思い出しています。ただその事実は…。

 

当時それを殆ど人に話していない。ある友人から「よかったじゃん、かわいい人?」と言われてからは、特に。(ちなみに、その記憶を辿る時ぼくが今も思い出すのは、同じ頃、ある親しい女性から「自分のことを好きだというクラス男の子から、サークルのボックス中を追いかけられた、怖かった」という話を聞いた時、「でもモテてよかったじゃん」と反射的に答えてしまい、その人を「そっか、伝わらないのか、そっか……」とひどくガッカリさせたこと)(杉田俊介「性暴力についてのノート」『フリーターズフリー vol.02』

 

…なお、杉田さんは、この自らが受けた「微妙」な「性暴力」の経験を、「女性に対するいやな無力さ―しかもその中にそこはかとない快楽があった」とも述べています。

 

  

誰もが、性的対象として見られることからは、逃れられない。モテ競争からは、無関係でいることができない。とりわけ杉田さんの場合は、ヘテロ男性として、「非モテ」の悩みを抱えていた…。

 

モテ競争に負けている劣等感があるからこそ、痴漢の被害の事実をカミングアウトされたとしても、そのままそれを受け止めることができない。嫉妬の感情が邪魔をして、歪んだ情報の受け取り方をしたり、それをおかしなかたちで発信したりしてしまう…。

 

 

性的な対象として扱われた事実を、自分も100%嬉しくない、と思えない(ような気もする…)。こんなモヤモヤ感が、ときに性暴力(なのだろうか…?と迷ってしまうような事態の)被害を受けた側にも生じてしまう*1

 

 

誰にも相談できなくなる理由のひとつに、このようなモヤモヤ感がジャマをしてしまう場合もあるのでしょう。

 

 

 

 

 

 関連して。

 

つい先日読んだ論文、「統合失調症患者に好意を向けられた女性看護師の感情体験」*2(清水隆裕、入江拓、2014年。雑誌『精神看護』2014年11月号所収)。

 

この論文の中では、統合失調症の患者さんに好意を向けられた精神科の女性看護師さんの、インタビューの結果が掲載されています。

 

その語りの中で、そっと、本当にそっと、 

でも、ちょっと(女性として)嬉しい感じもします。

と述べている、語りのローデータがあったりしました。 

 

 

しかしここは本当に複雑で…

(同僚の中には、)何かたぶらかしたんじゃないの?ってそういう方向に行く人もいるんですよね。あなたに隙があるからっていう感じの。そういうふうに思われるのは嫌だった。

 

(ほかの看護師にも好意を向けていると)安心しました。私に落ち度はちょっと少なかったのかなって。

 

(極めて都合の良い、インタビューデータの抜粋の仕方をしています。詳しくは原文をご参照ください)

 

…といった気持ちも吐露されています。

 

看護師さんが置かれてしまう、心理と状況の複雑さと言ったら…!

 

対人援助職の方が陥る、性愛の問題については、また別のテーマとなりますので詳しくは述べませんが…。

 

この論文では、「患者から好意を向けられた精神科女性看護師の体験は、暴力を受けた看護師の体験と酷似していた」という知見を明らかにしています。

 

そして、痴漢の被害に遭った人が、他者にその被害の事実を相談することが難しい状況となることも、看護師さんの置かれる状況と近いものを感じます。

 

 

性的に求められることをめぐる問題。突然その渦中に投げ込まれる人も、その問題を第三者の立場から関わる人も、複雑な語りにくさ・受け取りにくさが生じる。痴漢被害を相談できない背景には、そういう状況があるのだと思います。

 

 

 

 

 

 

うわー…本当に辛かったでしょう。「痴漢にあった人は、なんでそれをもっと広く訴えないの?」というのは、このように「自慢かよ」あるいは「それ聞いて勃起したわ」などの頓珍漢な答えで、余計に傷つけられる経験があったりするからなんですよね…。 

 

(前略)「痴漢=(現実の犯罪でなく)ポルノ」みたいな発想の人は一部にどうしてもいるので、ズリネタとか笑い話にされてしまうことがある(後略) 

 

痴漢被害を減らすどころか言い出しづらい状況、変えていきたいですね!! RT もの凄く共感します。被害にあっても、お前が悪いと言われるか笑い話にされる事が多く、辛かったのを思い出しました。同性に言っても、自慢かと言われる事もあり、憤る事も。 

 

 

「それ聞いて勃起したわ」って…。思わず絶句してしまいますが…。

 

こう言ってしまう男性の心境を勝手に想像してみたのですが、ふと「もしかしたらその男性にとっては、誉め言葉のつもりで言っているのかもしれないな」なんて思いました*3

 

「あなたがそういうことをされるということを想像すると勃起する」=「あなたに性的魅力を感じている」と言うメッセージになるから。

 

ぐえー、こう書いていても、とにかく全く擁護できんわ…。こういう言葉を返すヤツってどういう神経してんだよ…。

 

 

女性を、性的魅力があると誉めることが、礼儀であると信じている男性は多いし、それが「常識」として蔓延している環境が、現にあると感じます。

 

しかしこの「常識」が、どれほど有害であることか!

 

 

被害に遭ったことの辛さを、誰かに吐露して整理したかったのに、それを茶化されてまともに受け止めてもらえなかったり…。

 

さらに上乗せして性的に消費されたりしたときの、その屈辱! 絶望!

 

 

性に関する話しを、茶化してお茶をにごしてしまう慣習があることや…。

 

性に関する話しになると途端に、「男はオオカミであることが良い(「元気があってよろしい」的な?)」だとか、「女は性的に誉められると嬉しいはず」みたいな常識があることこそ…。

 

深刻な二次被害を蔓延させる温床となっているのかもしれないな、と感じました。

 

 

 

 

 

 

 さて。 

 

この三回分の記事の内容を踏まえたうえで…。

 

「痴漢の被害に遭うかもしれない人が、個人的にはどのような対策を講じるのが良いのか」

 

そして、個人的な対策のみならず、「社会的にはどのような対策が必要なのか」

 

これらの点について、金田さんのツイートを基点にして、引き続き考えていきたいと思います。

 

 

 

ということで、(おそらく)続きます。

*1:ここは、痴漢被害のことを言っているのではないことに注意してください(紛らわしくて、すみません)。このモヤモヤ感が生ずるのは、あくまでも、「性暴力(なのだろうか…?と迷ってしまうような事態の)被害を受けた」場合の話しです。痴漢に遭ったときは、「ちょっとは嬉しい」だとか、そんなふうにはとても思えないはずです。前回までの記事で、「嗜虐欲に基づく痴漢」について散々触れたので、想像できるはずです。そんな痴漢被害を受けて、嬉しいと思うはずはありません(嗜虐欲に基づく痴漢被害にあっても、それが嬉しいと感じてしまうような人は、自分のことを傷つけたいと願ってしまう、自己否定感が強い状態の人なのだと思います。そういう人に対してだって絶対に、性暴力がなされてはいけないはずです)。杉田さんの例や、患者さんから恋愛感情を向けられた看護師さんの例を挙げたのは、あくまでも、相談をしようとすると周囲から嫉妬されてしまう状況を考えるためです。痴漢被害の場合、被害者が嬉しいと思うことなどは、全くありえないと想定した方が良いと思っています。

*2:この論文は面白かったのですが、清水隆裕さんの「この研究をした動機」の中にある意見は、批判されなければならないと思いました。清水さんは「看護師の今後のために大切なこと」として、「偏見や弱さがあったら愛せないのではなく、偏見や弱さをもつ自分を受け入れ、なお愛を捧げられるという、自分自身の能動性・姿勢・構えが問われているのだと思います」と述べています。この言葉を言い切る前に、性愛の問題を考える地点でもう少し踏みとどまり、性愛の問題の渦中に置かれた看護師の、その感情労働過程とは、いったいどういうものであるのかについて、もっと粘り強い考察を行おうとする姿勢が必要だと思う。入江さんもそうですが、何よりまず、男性と女性との身体的な非対称性などの問題等を、本気で踏まえて論じているようには、とても思えませんでした

*3:考えすぎか? 下半身でしかものを考えられない、筋金入りのただのバカか?

痴漢をめぐる論点(ツイッターより)②

前回の記事の続きです。

 

  • 男性が、他者から性的な対象として見られる、ということ

 

 男性だと、女性からの痴漢なんて無いってことになってるから、余計に、声をあげづらいですよね。嫌な思いをされたでしょう。RT ちなみに男の僕も高校時代に二回ほど電車で痴女(←たぶん50代)にあってましたよっ、てことも不意に付け加えておきます。・゜・(ノД`)・

 

 宣さんの被害には非常に同情しますが、男性の、「自分の体が他人にとってエロいわけがない」という鈍感さも相当なものですよね。男性は皆、萩尾望都先生の『残酷な神が支配する』を読んで、その鈍感さが自分の精神と人生を破壊するということを知るべき!! 

 

「自分は美形じゃないから…」凄くわかります。男性は、痴漢が実際にどれぐらい多くて、美しさ・若さなどより「文句を言わなさそう」な人を狙いがちというのを知らないので、「ブス(ババア)なのに痴漢されるかよ!」とか言いますが、翻ってそれ男性の被害も隠蔽してますよね @mirugi_jp 

 

この視点を、ヘテロ男性として受け止めるとは、どういうことか。

 

 

突然ですが、僕は専業主婦の母から、凄くかわいがられて育った、末っ子です。

 

そんな育ちの背景を持つ、30代半ばの僕が今、様々な人間関係を経験する中で気づくのは…。

 

一部の年上の女性との関わりが、とても楽だと言うことです。その女性から、自然と好意を持たれたり、何かと世話を焼かれたり助けを受けたりして、僕は得をすることが多い。

 

この例を挙げることは、僕が一部の年上の女性から、性的に求められている、と言いたいわけではありません(この点は、さらに深めて考察すると、こうは割り切れない、より複雑な問題かもしれません。母娘問題ならぬ、母息子問題。要するに、マザコン問題。「母は息子と寝たいのか?」「息子は母と…?」。おそらくはフェミニズムにおいて、すでに検討されている論点だと思います。これを僕が当事化作業として、要するに「息子側」から問い直すとは、いったいどういうことなのか?)

 

きっと僕は、ある種の年上の女性に好まれる(?「この子はもうホントに、ほうっておけないわ!」と思わせるような、依存物質を脳内に出させる?)ような媚態を、身に着けているのだと思います。母との関係で、その「媚態」という資源を獲得したんだと思う。…とてもキモいですね。書いてて思う。

 

言いたいのは、僕は僕が生まれ育つ中で獲得したジェンダー的な資源を利用して、人間関係をうまく渡り歩いているということです。その資源を無自覚に行使することが、ある種の搾取や暴力を孕んでいるかもしれない、ということです。ここを自覚できるかどうかは、男性学的にとても大切なような気がします。

 

 

女性は、自分がどのように見られているか、容姿や振る舞い方のセンスも含め、自分がどのような資源を持っているか(もしくは、いないか)に、敏感にならざるを得ません。

 

なぜなら女性は、相当に幼い時期から、「見られる性」としての血みどろの闘いに、巻き込まれているからです。「見られる性」としてすぐに評価されるような環境が土台となり、何よりも女性同士で、過酷な生き残り競争をせざるを得ない構造がある。

 

化粧などをめぐる論考を読んでいると、その過酷な闘いを渡り歩いてきた状況が想像でき、男性の状況とのあまりの違いに、愕然とさせられます。


Love Piece Club - 第一回 上野千鶴子 化粧をめぐる省察 / 上野千鶴子

 

 

…うーん、金田さんのツイートを確認し直してみると、僕自身の例は、やっぱりちょっと論点がズレてますね。

 

金田さんのツイートから学ぶべきは、男性も、性的対象としての自分を、問い直す必要があるということです。それは男の身体を持つ人にとって、日常で相当に自覚的にならないと、難しい作業だと思われます。僕の例は、僕の当事化作業としてそれを今やってみようと思ったときに、思い浮かんだ例、ということでした。

 

そして金田さんのツイートやそのやりとりからは、嗜虐欲に基づく痴漢の被害に遭う可能性は、決して女性だけではない、という事実も、突きつけられていると思います(その被害を受ける可能性が、女性よりも圧倒的に低いことは、言うに及ばず)。

 

「こいつは大人しそうだから、逆らわなそうだから、あっさり従いそうだから、好き放題に滅茶苦茶にしてやろう。不細工だから、ダサいから、こんなふうに性的に求められたことはないだろう? 哀れな奴だな。性的な経験を恵んでやるから、せいぜい興奮しろよ。ま、お前がどう思おうがどう感じようが、関係ない。弱くて何もできないお前の意志や感覚なんか関係ない。お前の存在なんかどうでも良い。ただ、蹂躙するだけ。あー、超興奮する」。

 

こんな欲望から来る暴力に、男性だって曝される危険性がある。そのことを、安全で安心な自分の性的ファンタジーの中ではなく(小松原香織「『レイプされたい』という性的ファンタジーについて」『フリーターズフリー vol.02』)、突然実際に起こるリアルな悲劇として自分の身に降りかかることを、その恐怖を、どこまで自分のこととして、想像できるか? 

 

こんな思索を経由した上で、さらに、体力差のある女性の身体を持つ人の身に、この悲劇が降りかかったとき、いったいその人はどんな内面を持つに至るのか…。それを想像してみなくてはなりません。男の身体を持つ自分には、とても困難なことですが…。

 

萩尾望都さんの『残酷な神が支配する』というマンガ、僕はまだ読んでいないのですが、ぜひ読んでみようと思いました。

 

(きっと)続きます。

痴漢をめぐる論点(ツイッターより)①

2014/11/13の金田淳子さんのツイッターで、痴漢についてのツイートがありました。

 

新しき金田淳子 (@kaneda_junko) | Twitter

 

大事な論点が沢山含まれていると思いましたので、引用させてもらいながら、考えを書き留めさせてください。自分メモ用として。

 

  • 嗜虐欲としての痴漢

 

先日ちょっと思うことあり。もう女性ならばほとんど皆、気づいてることだけど、一部のヘテロ男性の、女性に対する「触りたい、セックスしたい」という欲望が、「相手を(その場限りでも)尊重し互いに気持ちよくしたい」ではなく、むしろ「相手を困らせたい」欲望になってる人が居る。痴漢や強姦魔。 

 

痴漢が、性欲というよりも、支配欲や嗜虐欲としてなされることが多いという、大事な指摘だと思います。

 

レイプにおいても、性欲に起因するものだけでなく、「パワーレイプ」「アンガーレイプ」と呼ばれるような、権力関係に起因するものがあるのだ、との指摘を思い出します。

 


性暴力は自衛可能か? - キリンが逆立ちしたピアス

 

「自分は美形じゃないから…」凄くわかります。男性は、痴漢が実際にどれぐらい多くて、美しさ・若さなどより「文句を言わなさそう」な人を狙いがちというのを知らないので、「ブス(ババア)なのに痴漢されるかよ!」とか言いますが、翻ってそれ男性の被害も隠蔽してますよね

 

金田さんのツイートの中では、田舎から出てきて戸惑っていたり周囲に相談ができなさそうな女性や、判断力が乏しかったり咄嗟の対応が(なおさら)難しい子どもがターゲットにされることの危険性について触れられています。

 

とても大切な指摘です。僕は、容姿や性欲の問題ではなくて、「声を決して上げられなさそうな、自分が圧倒できるだろう、弱いもの」に向けてなされる性暴力(痴漢等)の存在を、自分の頭に叩き込んでおきたい。

 

「男性の被害も隠蔽することになる」との指摘も、極めて重要に感じます。これは後であらためて触れたい。

 

 

  • 身体的非対称性

男性の身体を持つ僕が、しっかり念頭に置かねばならないと思った論点が、こちら。

 

続)そんなの一部の男性と思いたいけど、ほとんどの女性が痴漢にあっているという統計からしても、一部の男性が大手を振って歩いてるような状態。一対一になったら男性は女性を組み伏せられるような体格差もある。この状態では女性が男性とカジュアルにセックスしようと思っても普通なかなかできない。

 

続)というのはハッテン場で対人技術を磨いたゲイ男性から「女性もカジュアルに性欲を満たせばいいのに。ハッテン場にも襲ってくる奴いるけど、うまく対処できるよ」とアドバイスされたから。それを聞いて(そうでないゲイもいるだろうけど)男×男ってなんて安全なんだ!と羨ましくなてしまった。

 

続)男×男の間で痴漢、性暴力が全くないと思えないし(特に大人×子ども)、この方の対人スキル高すぎると思ったけど、女性が襲われたとき、「落ち着いて。ちゃんとやってあげるから、ホテルに行きましょ」とか交渉しても、殴られると思う。強姦魔はラブラブセックスしたいわけじゃないから。

 

続)で、別にそのゲイ男性を「ノンキだなあ」とか批判したいわけじゃなくて、多分多くのヘテロ男性も、同じぐらいのノンキさで「なんで女はやらせてくれないんだ?」とか思ってるので、溝が大きいなあと確認できたし、代償行為ではないけど、自分がBLだとホッとする理由の一つもちょっとわかった。 

 

男性から女性に振るわれる性暴力として、間違いなくあるのは、この体格差を武器にしているという背景。

 

最近、みなみさんの記事からは学ばせてもらうことが多いなあ、と思っているのですが…。

 


Love Piece Club - 第15回「恋愛の重たい男とラブピース戦士の攻防」 / みなみかずゆき

 

男性の身体を持つ人が、女性の身体を持つ人よりも相対的に優位な立場にいるのは、この「体力差」という身体的な非対称性をあまり意識しないで、恋愛とセックスのことを考えることができる、という部分なのだと思います(なお、みなみさんはきっと、身体性の問題に非常に自覚的な方だと想像しています。みなみさんのことを批判したくて、上で例に上げたわけではありません。)。

 

このへんのところに無自覚だったり鈍感な、男性の身体を持つ人は、後述するような二次被害を巻き起こしてしまったり、女性の身体を持つ人とのディスコミュニケーションを様々なところで引き起こすのだろうと思いました。

 

男性の身体を持つ人が、こういった点に敏感であれ、という主張をしている本が、森岡正博さんの『草食系男子の恋愛学』だったと記憶しています。必読書です。

 

 

  • 一区切り

 

金田さんのツイートからさらに、

  • 男性が、他者から性的な対象として見られる、ということ
  • 痴漢と二次被害、そして押しつぶされる声
  • 痴漢対策(個人的なものと、マクロ的なもの)

…という論点に触れていきたいのですが、ちょっと時間を空けます。

 

(きっと)続きます。

 

※なお、金田さんは、今回のツイートの際に、あるためらいがあったことを述べています。そのためらいに対して、僕は最大限の配慮をしながら、続きの考察も書きとめていきたいと思っています。

プライド、内省の拒絶、語れなさ

ツイッターからある記事を知り、読んだ感想をメモ的に。

 

その記事はこちら。


男の成功像、生き方縛る 「逃げたっていいんだ」:朝日新聞デジタル

 

「逃げてはいけない」という価値観。プライドの問題。

 

このプライドが、周囲への相談のできなさにつながっていく。無言で苦しみ、耐え切れず爆発して周囲に暴力を振るったり、場合によっては自殺に至る。

 

「男性は…」とか「女性は…」とか一般化して語ることに、僕はなるべく慎重であろうとしていますが、自殺率の男性の高さは、男性一般の「語れなさ」を如実に示しているように思えます。

 

ここでの「語れなさ」とは、論理的な言語化のことでは勿論ありません。むしろそのような論理的な言語化作業が隠してしまうような、「弱さの自己開示」としての言語化の問題です。

 

ある問いを「内省できない」というとき、プライド(自尊心)が邪魔をしている、というケースがあるような気がします。

 

プライドとは、臆病さの裏返しだと思っています。

 

自分の中にある、その弱さを認めてしまうと、自分が自分でいられなくなるような、足元が崩落してしまうかのような恐怖。意識して考えることさえも怖いようなもの。そんなとても情けなく(他の誰よりも自分自身が)思えてしまうような、臆病さ。

 

だからこそ、その弱さにつながるような問いに対しては、無意識に眼を背けようとしてしまう。考え進めれば前に進めるはずの、目の前にある問いに、気づくことができない。

 

外から見ると、「そんなことで悩んでたの?」「くだらない」「さっさと相談してくれればいいじゃん」と思われてしまう。でも、そう言われてしまうと、とても恥ずかしくて死んでしまいたくなる。そんな、プライドと臆病さの問題。

 

①プライド(≒臆病さ)

②内省の拒絶(≒問いの回避)

③語れなさ(≒「弱さの自己開示」の言語化ができないこと)

 

…この三つが互いに互いを補強し合うメカニズムがあるような気がするのですね。それでどんどんどんどんこじれていく悪循環が生まれる。

 

ならば、このメカニズムを突破する道筋を、どう描けば良いのでしょうか。

 

上記の記事では、家事を男性が行ったり、高校で男女が制服を交換する(! 素晴らしい取り組みだと思います!)ことで、男性が自らに染み付いた「当たり前」を相対化し、気づく機会が得られたと紹介しています。

 

しかし、より深刻に「男としてのプライド≒臆病さ」をこじらせてしまっているケースでは、このような機会があっても、なかなか通用しないような気もします。

 

 

この悪循環の突破の方法を一緒に考えていくために、男性学を真摯に進めたいと考える男性同士のピア的な対話空間(それは、家父長的で権力的・排除的なホモソーシャル空間とは、きっと真逆のものになるでしょう)を、なんとか作れないものでしょうか。

 

やや話しの流れからは飛躍があるかもしれませんが、僕は以下の記事を書かれた方のセンスと自己開示の言葉などに、そういった対話を開いていく可能性を感じています。

 


カネカネカネ - おれだけに許された特別な時間の終わり

 

余計な注意喚起の一言かもしれませんが、上記記事を紹介して「マリアのような、男に赦しをくれる女性が必要だ」とか言いたいわけではありません(idepop2さんも、そんなことを主張したくて書いているわけでは、全くないはずです )。

 

むしろ逆です。自分の弱さを認め、言語化すること。そしてその弱さと、正面から対峙すること。

 

このような言語化作業を、暴力にまみれ、暴力に絡みつかれた男たちの手で、死にものぐるいで豊富化していくこと。

 

…うーん、とりあえずは、そんなことぐらいしか思いつきません。

 

愛と暴力

 

ツイッターでいただいたお言葉からのレスポンスとして。

 

色々と思うところがありますが、じっくり書きながら考えるのはまた今度に。

 

考える材料にしたいと思っているものを以下、3点に列挙しておきます。

 

 

  1. 森岡正博さんの議論:性交、暴力、原罪

    「膣内射精性暴力論の射程:男性学から見たセクシュアリティと倫理」森岡正博

     膣内射精から始まるすべてのいのちの誕生の背後には、潜在的な性暴力の影がぴったりと貼り付いているということである。赤ちゃんの誕生は、祝福されるべきものと言われる。だがしかし、そのいのち誕生の初発となった膣内射精は、いつでも事後遡及的に性暴力として構築され得る可能性をはらんだものなのである。すなわち、このようにして生まれてくる赤ちゃんは、その存在の始原において潜在的な性暴力の影を背負って生まれてくるということである。すなわち、性交の結果として母親の胎内から生まれ出てきたすべての人間は、この意味での性暴力の影を背負いながらこの世に生まれてきたのである。これは、これらの人間が生まれながらにして背負わなくてはならない原罪ではないのか。

     

    なお、 森岡さんが考える素材にしている宮地尚子さんの文章も、じっくり読みながら考えたいところです。

    宮地尚子「孕ませる性と孕む性」(現代文明学研究)

     そしてもっと重要なのは、妊娠の負担に気づいているからこそ、避妊しない性交を行なう男性もかなりいるのではないかという点である。孕む危険をもたせることで、女性の行動の自己規制を促す。身体につながれざるをえない女性と、身体から自由な男性との格差を楽しみ、生物学的格差を利用して、女性のセクシュアリティをコントロールする。明確にその意図を自覚しているかどうかは別として、そういう男性は決して少なくないはずである。
     女性が負う妊娠や中絶の負担に気づいていないだけであれば、女性と話し合い、想像力を用いることで、男性の行動は変革されるかもしれない。けれど、気づいた上で、その格差を利用している男性の行動をどうすれば変革できるのだろうか。権力バランスの逆転か、同じ負担を人為的に男性に与える社会的システムの構築か、法的な制裁か。

     

     私は、男性学に期待している。けれども過剰な期待をもつわけにはいかない。男性学は男性を救うものになるかもしれないが、必ずしも女性を救うとはかぎらない。
     男性学をする男性はいまだ男性の中では少数者に過ぎない。自ら変わっていこうとする少数の男性を女性は暖かく支援(母親のように?)すべきなのかもしれないが、孕ませる性の暴力性を、単に「気づかなかった」ですませてもらっては困る。幾つも譲歩した上で「せめて中絶の自由を」といってきた女性たちの、その譲歩の理由を、あきらめの積み重ねを、いまいちど男性は見直すべきではないだろうか。

     

  2. 大澤信亮さんの議論:性愛関係、家父長制的資本制、他者性

    「触発する悪―男性暴力×女性暴力」『フリーターズフリー02号』2008年から。ネットでは公開されていないので、気になる部分を引用しておきます(興味を持たれた方は、ぜひ原文をご参照ください)。

     

     物理的な意味での暴力性が女性にあることは、バレリー・ソラナスの例やこの事典自体が証明している。『女性は男性のようには暴力を振るわない』という都合のいい錯覚は、見たいものだけしか見ないありふれた精神作用に過ぎない。問題は、個別的な女性暴力のケースがいかに積み上げられようと、それらすべてを『男のせい』として自己を問わない精神構造にこそある。たとえば、予想される切り返しは、『女性にそのような暴力を強いたのは男社会だ』というものだ。この安全装置を外さない限り、すべての議論は無意味になる。女性だけではない。それに対する男性もまた、『ごちゃごちゃ文句を言われるのはうざい』あるいは『女相手に本気になるのは男が廃る』と建前として女性を尊重するが、根本的に何かを考えさせられることはなく、それはやがて『男も被害者だ。一方的に被害者面するな』という個別ケースでのバックラッシュを生み、結局、社会を変えるという根幹の主題が見失われるだろう。

     だが、繰り返せば、私はフェミニストに『認識を改めろ』『安全装置を外せ』と要求するのではない。むしろ彼女たちの認識に身を委ねようと思っている。逐一細かに反論を企てるのではなく、差し向けられた問いを正面から受け止め、身に染み込ませることだ。それは『自殺しようと』語ることである。だが、人を自殺に追い込む限り―そんなつもりはなかったという言い訳は通用しない―、それなりの覚悟はしてもらおう。

     

     たとえば、家族の構成原理が『愛』であるとは、どういうことか。

     

     自慰行為と区別される性愛的行為とは、『他者』を求めることにほかならないが、その他者性とは、『暴力』や『死』に地続きの受動性としてある。この性愛関係の暴力性こそが問題の核心であり、それ抜きの制度分析は現実を捉えそこなう

     

      たとえば、多かれ少なかれ性愛関係が暴力なら、そこに生まれてくる『子ども』とは何なのか。主観を括弧に入れて、近代家族の社会的役割を原則的に考えるなら、それは労働力商品予備軍としての子供を再生産することと一先ず言える。本人たちがどう思おうと、子供を産むとは、今の社会では労働力商品の供給を意味する。逆に言えば、子供を労働力商品にしない育児があれば、それは家父長制的資本制への根本的な批判に成り得る。育児法や環境整備ではない。上述したような性愛関係の孕む他者性=暴力性を、中和するのではなく、内在的に社会化していく回路が求められる。そのさい、第三者の介入が必要になるとしても、その介入がこの他者性=暴力性それ自体に根差さなければ根本的な克服はできないだろう。というより、諸個人の暴力性をコントロール可能なレベルにまで中和し、その規範を打ちこむものこそが資本制と私有財産制なのだ。ならば必要なのは、暴力的な性愛関係のなかに非資本制的な労働形式を送りこむことであり、同時に、暴力的な性愛関係のなかでそれを生み出すメビウス的にねじれた試みではないだろうか。

     

    なお、大澤さんの上記の議論には、font-daさんからの次のような批判があります。

    大澤信亮「触発する悪――男性暴力×女性暴力」(「フリーターズフリー」2号) - キリンが逆立ちしたピアス

     

    この批判を受けてか、大澤さんのこの文章を書いた後の感情が、例えば「出日本記」(『新世紀新曲』所収)に、こう記されています。

     その文章は発表した直後に主に女性たちから『ミソジニー』とレッテルを貼られて叩かれた。それは私にとって困難な問いを考えようとするものであり、自力で完結させられないという私としては稀な結論になったものなのだが、そこで提示した問いは知る限り、誰にも共有されなかった。そんな経験もあって私は女性の問題を本気で考えようとする意思を失ってしまった。向いていないことをやったという感じだけが残った。もっと言えば『どうせ俺は誰もが認める偉大な存在に理論的に対峙してればいいんだろ』と心が氷結した。

     (…その後、大澤さんは、この「私が思い出したくもないような文章」を読んで、良かったという感想のメールをくれた、「読む訓練を受けていない批評文(と書いてあった)を何とか読もうとしてくれた、高校を卒業してそのまま働き続けてきた、二十四歳の女性」の、その「人生を想像」しながら、思考を続けていきますが、以降は省略します。興味ある方はぜひ原文をご覧ください)

 

 3. 映画「愛、アムール」より

(未見の方は、ぜひ映画を見てから下のリンク先をクリックするなり、下記の僕の文章を読んでもらえればと思います。この映画は先入観があるともったいないです)

http://movieandtv.blog85.fc2.com/blog-entry-401.html

 

 

 

 

 

この映画で描かれる夫と妻との関係は、共依存ではないように僕にも見えました。

 

共依存ではなく、むしろ、夫がただ一方的に、妻から「依存されたい」心性を持っている。

 

そして夫は、その心性を持ちつつ、密室内で「了解不能な他者」である妻と向き合い、自閉的に闘っている。そんな悲しい一方通行の葛藤関係に見えました。

 

そしてハネケ監督が夫の、愛≒支配欲≒暴力から脱出しようとして格闘している現実(≒妄想)の部分を、上記の批評文では一切触れずに捨象ししている点で、僕には上記の批評文を物足りなく感じました。

 

 

一方、下記で述べている宇多丸さんの批評の方が、夫の格闘の部分をうまく指摘していると感じました。でもこちらの批評は、今度はジェンダーの視点が欠落しすぎていると思っています。

 


宇多丸が映画『愛、アムール』を語る - YouTube

性への劣等感を引き受けながら、生きていけるのか

水樹さん kiya2015さん へ

 

いただいたコメントに対して、お返事を書いていたら長くなったので、記事としてアップします。


にも関わらず、いただいたコメントには、全然応じていないように見えると思います(ごめんなさい)。


でも、おふたりのコメントを見ながら、自分なりに考えたことですので、どうかご了承ください。


(kiya2015さんのブログも、今回初めて見させてもらいました。色々と考えこまされました。今後、繰り返し読ませてもらうことになると思います)


なお、おふたりのコメントを読みながら考えたことではありますが、以下は基本的に自分自身に向けた言葉として、書き留めています。

 

 

 

とにかく、性的なことと結びつけてしまう。そんな自分の指向を、どうにもできない。


そうして、また再び加害/被害を繰り返し、ついには自分という存在を、消してしまいたくなる。
(死ぬのは痛くて苦しそうで嫌だ。苦痛なく、明日存在が消えていたら良い)


こんなふうに感じてしまう自己(に絡みつく社会)をどうすれば良い?

 

 

フロイトラカンじゃダメだ。


フロイトは、かえって性的なものとの結びつきを強めてしまう。


ラカンは、しょせん精神分析家とその対象の二者関係だ。閉じたところでの転移しか論じられない。二者関係である以上、きっと権力性から、その線引きから生じる臨床家と当事者の区別から、そこから生じる暴力の被害/加害から、きっと逃れることができない。

 

 

杉田俊介さんと大澤信亮さんの暴力批評の文章と、上山和樹さんのブログ(フリージングポイント)の文章を、もう10年以上、現実が苦しく感じられたときに、その現実から逃げるようにして、繰り返し読み返してきた。


その上山和樹さんが紹介してくれている、三脇康生さんの本を読み。


上山さんと三脇さんが紹介してくれている、ジャン・ウリとフェリックス・ガタリの議論に今、生きる指針を求める。

 

 

ウリ・ガタリによると、複数的な転移がポイントになる。


環境の中で、自らが作りだしてしまった性。その性に支配されてしまっている自己。この疎外を生じさせなくさせるためには、徹底的に場を複数化させるしかない。

 

 

例えば、次のような場が、とりあえず分かれていて、それぞれが複数あり、多様に存在しているとしたら。

  • 共同生活を快適に過ごす仲間を、探して出会うことができるような場(そこでは、ケアする/される関係が含まれる)。
  • 趣味や活動をともにする仲間を、探して出会うことができるような場。
  • 性的な指向を模索し合う仲間を、探して出会うことができるような場。
  • 社会参加の役割が与えられ、その対価として安心して暮らせるだけの賃金が得られるような、労働の場。
  • そして、愚痴を吐いたり、実存的な悩みを何でも相談できるような、安心で安全な場(=自分は自分でいて良いと、その存在が承認されるような場)。

 

ある場が、自分には必要ない(そこは自分は、ひとりで良い)と思う人は、そこに行かなくても良い。それで排除されたり軽蔑されたりしない。


また、これらの場を自由に行き来できる機会は、容姿や器用さに関わりなく、あらゆる人に保障されている。

 

…こんな環境整備がなされていて、こんな複数の場の中で自由に移動しながら生活し、未知で異質な他者と出会い、対峙して、自己を問い続けていけるのならば。


性への劣等感を引き受けても、絶望しきらずに、生きていけるような気もする。

 

 

こんな環境は、今の日本だと到底実現しようのない、絶望的な到達点に思えるが。


自分の身の回りが、そんな環境に少しでも近づくように、自分の今やることを少しずつでも積み上げられるのだったら、生きていっても良いような気がする。

性暴力加害者の心理

こちらの記事を読みつつ、考えたことをメモします。あいかわらず、思いつきでしかも長い。

 

性暴力加害者の心理 - キリンが逆立ちしたピアス

 


性暴力は自衛可能か? - キリンが逆立ちしたピアス

 

 

 

 

なお、前回の記事に加えて、チェックすべき文献を追加。

レイプの政治学杉田聡

 

まず、上記記事からの引用です。

なぜ男性が女性に性暴力をふるうのか、という理由がはっきりしないからである。男性の支配欲や嗜虐欲が原因であるという説が支持されたこともある。これらは「パワーレイプ」や「アンガーレイプ」と呼ばれ、「男性が女性をレイプするのは、性欲が原因ではない」という主張がなされた。

 

だが、この説には、統計による証明が不十分であるとの反論も出ている。

 

また、ホルモンであるテストテロンの影響や、遺伝学上の問題とされることもある。先に述べたように女性が加害者となる性暴力の事例はあるのだが、やはり数字上は男性が加害者となる性暴力の事例が圧倒的に多い。この謎に対する、クリアーな解は確定されていない。

 

うーむ。ホルモンや遺伝学上の問題までいっちゃうと、僕にはさっぱりわからん。

 

統計上の証明が不十分とのことではあるけど、原因は性欲か、支配欲・嗜虐欲か、という対立軸は興味深い。

 

前回の記事で、僕の性欲の中に嗜虐欲がある、と書きましたが。

 

性欲の発達の仕方として、支配欲・嗜虐欲を結びつけて発達しちゃったパターン、とかは、きっとあるのかもしれない。

 

そもそも僕は、性の発達のメカニズムも、よく分かってないからなあ。

 

だいたい、「発達」って言葉もあんまり良くないのかもしれんし。発達or未発達っていう二分法、定型/非定型の区別ができちゃうようなニュアンスがある。「生成」って言葉のほうがよいのかな。

 

このへんは、セクマイ関係の議論をチェックすると良いのかなあ。

 

いずれにせよ、性暴力加害もおそらくスペクトラムになっていて、性欲か支配欲・嗜虐欲かもケースバイケースなのでしょう。

 

だから一概には言えない、ってなし崩しにするんじゃなくって、どっちが主要因かという論点は重要だと思います。

 

また、もし性欲と支配欲・被虐欲が絡み合っているということなら、その絡まり合い方とか。性暴力加害でのスペクトラムの現れ方を、分析してみたいんだよなあ。ボチボチ色々読みながら考えてみます。

 

 

あと、上記記事のリンク先から…(閲覧注意です)


【追記あり】元露出狂が綴る防犯対策

しかし、人生を充実させたらいいかもしれません。僕は人生でうまくいかないことがあれば、露出の頻度が高まる傾向にありました。

 

…という言葉も気になった。

 

やっぱり自己肯定感とか、他者からの承認されてる感の度合いは影響しているんじゃないかなあ。

 

 

あわせて気になってるのが、階層の問題というか、貧困との関係ね。

 

生活困窮者支援や貧困問題の文脈で言うと、地域から孤立していて、お金やその他社会資源も乏しく、能力上もボーダーラインにあるようなケースで。

 

そういう環境の中で女性が若年妊娠してしまい、しかもそれが世代的に再生産されているという、そういうケース。

 

その背後に、同じような境遇で育った男性がいて、性暴力加害も蔓延していると思うのね。

 

そういう貧困層の男性、そこで起きる性暴力加害と、他者からの承認の問題との関係が、めちゃめちゃ気になってる。

 

性暴力加害でも、貧困層での問題は、また少し分けて見ていかないといけないのではないかなあ、と思います。

 

 

…ここまで書いて、上記の記事で挙げられていた『セックス神話解体新書』(小倉千加子)が手元にあったので読んでみたら、その中で『レイプ<強姦>』(ジーン・マックウェラー、1976年)の紹介がありますね。

 

この本は、ある研究者が、強姦の被害者646名と、加害者の強姦犯人1292人にアンケートやインタビューを行った調査結果が元になってるらしい。

 

こういう研究もあるんだなあ。いつか当たってみて、書きながら考えてみるかもです。