男の「死の美学」を撃て② -映画『レスラー』感想中編

(①からの続き)

以下、2回目の視聴(2016年)で気づいたことや感じたことを、3点に分けて言葉にしていく。

 

1点目。パムはやはり、打算だけではなかった。一線は越えられない、と言っていたが、ダンスの途中で気づき、ランディのもとに向かうパム。そこで、店から芸名・キャシディではなく、本名・パムと呼ばれ、パム自身も自分の本名の「パム」を自分で呟き、復唱する。客とは一線を越えられないと繰り返し言っていたパムが、本名の、店側の者ではない、ひとりの人間として、ランディと人生を歩もうと決めた瞬間に思えた。しかし、そのパムも、ファイトが始まった時点でランディに愛想をつかし、会場を立ち去ったように見えた。なぜか。ランディの試合前の演説では、パムもランディを理解しようとする眼差しを向けているように見えたのに。

 

2点目。ランディの最後は、単純な「自殺」ではなかった。客を巻き込み、客に自分を殺させる、巧妙な自分への殺人≒「自殺」だった。ランディは、「俺には誰もいない」とパムに言う。パムは「私がいる」とランディに応答する。幸せそうな表情を見せるランディ。そこで、リングインの呼び出しが入る。一瞬の間の後、ランディはパムに言う。「あそこが俺の居場所だ」と。その後、リング上で観客にランディはこう呼びかける。「俺を止めることができるのは、ファンだけだ」と。試合が進む。壮絶で迫力のあるファイト。終盤、ランディは心臓の異常に見舞われる。足がもつれて倒れる。対戦相手のアヤットラーも、審判も、ランディの異常に気づき、大丈夫かと声をかけ、試合を終わらそうとする。何度も、何度も。しかし、ランディは試合を続行する。最後のラム・ジャムの寸前。客の熱狂は止まらない。ランディを止める客は、ひとりもいない。ラム・ジャムラム・ジャムと、連呼する観客たち。客は、ランディに、死ね、死ね、と言っている。そう言わせたのは、ランディだ。ランディが、自分で招いた事態。「ツケは、自分で払わなければならない」。ランディは、自分が死ぬために、客の熱狂を煽り、自分に死のダイブをさせるよう仕向けたのだ。トップロープに登る直前、入場前の待合の幕間、パムがいたところを、ランディは見やる。そして、パムがいないことを確認したランディの顔は、泣き出しそうに、僕には見えた。「俺を止められるヤツは、ファンしかいない」。しかしランディは、一縷の望みをかけて、パムがあそこにいることを願い、目を向けたのかもしれない。もしあそこにパムがいたら、ランディはラム・ジャムを止め、穏やかにピンフォールで試合を終えていたのか。それとも、もう少し穏やかな顔をトップロープで見せた後に、その穏やかな心境のままでラム・ジャムを敢行できたのか。僕には、あのラム・ジャムのときのランディの顔も、泣き出しそうな弱々しい顔に見えた。死にたくないが死ぬしかない、徹底的に絶望し、勇気なんかかけらもないのに、なけなしの勇気を振り絞って「自殺」する、哀しく弱々しい、泣き虫の少年の顔に。

 

3点目。ラストシーンでパムと会う直前、ランディは何度か胸の辺りを撫でるようにし、「ジーザス」と小さく呟く。そのとき、眼からは一筋の涙が流れる。胸の前で十字を切った後に、ランディは肘打ちの素振りを行う。いつもの試合前の肩慣らしの動き。恐らく、試合前に行える最後の素振り。ランディは、死への恐怖を強く感じていた。それでも自分は死ぬしかないと、追い詰められた心境になったからこそ、彼は客に自らを殺させるよう、客を煽ったのではなかったか。

 

この映画に描かれているのは、男の悲劇だ。僕らは観客になってはならない。ランディにもなってはならない。何がランディを追い詰め、何が観客たちを殺人者にしたのか。その何かを見定め、分析し、撃ち抜かなければ。

 

 

…以上は、2016年にこの映画を二回見たときの、僕の感想である。

2020年1月、ツイッターで映画『レスラー』を評したツイートが流れてきて、それを面白く読み、僕もブログの下書きを残していたことを思い出した。この機会に、記事として公開しておくことにした。

いつか3度目の視聴をして、この映画の物語を支配していた、男の「死の美学」を撃ちたいと思う。弱々しく震えている、泣き虫のランディと僕たちは、確かにあそこにいたし、いまもここにいる。殺されたくないし、殺したくもない。そんな僕らの新たな物語へ。そこに向かって、言葉を紡ぎたいと思う。