男の「死の美学」を撃て① -映画『レスラー』感想前編

映画『レスラー』を見た。考えたいことがあった。あらすじ等は、下記のウィキペディアを参照してほしい。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/レスラー_(映画)

 

以下、1回目の視聴(2016年)で感じたことを、書きながら考えていきたい。

 

僕が最も書きながら考えたいと思うのは、ラストシーンだ。

ストリッパーであり、シングルマザーの女性、パム(芸名はキャシディ)。彼女は、この映画の主人公であるレスラー・ランディの、最後の試合がはじまる直前で、ランディの前に現れて、ランディへ、人生を共にしたい、と告げる。パムに関しては、その前に気になるシーンがある。

 

それは、パムの息子が、ランディを模したレスラーフィギュアで夢中になって遊んでいるシーンだ。あのフィギュアを、息子へのプレゼントとしてランディからもらったときのパムの様子は、鼻で笑っていたようにも見えた。こんな人形に、息子が喜ぶはずない、と。しかしパムの予想は外れ、息子はランディのレスラーフィギュアに夢中になった。息子のその姿を見て、パムはランディの元へ謝りに行く。

 

パムには、ランディへの恋心があっただけでなく、したたかな計算もあったのではないか。パムは、もう年齢を重ね、ストリッパーとしては確実に下り坂に入っていて、仕事を続けられる猶予も残り少ない。これまでは息子をシッターに預けて子育てしてきたが、今後は稼ぎにも陰りが出てくる。これまでは父親がいないまま息子を育ててきたが、今後は息子が慕っているレスラーを父親に迎えて(きっと息子も喜ぶだろう)、三人で家族をやっていく方が、きっとうまく生活が回るのではないか…。

 

(この一連のシーンを、パムの打算として解釈することは、野暮だと非難されるかもしれない。パムの息子がランディの人形で遊んでいるところを見て、パムはランディのことを思い出した、ないしはランディのレスラーとしての偉大さに改めて気づいた、というように、男のロマン的・感傷的に解釈することも可能だ。でも僕には、パムが最後は会場を去ったことが気になる。パムは、確かにランディに惹かれていたが、同時にパムは、息子への責任も決して手放さない、そんな女性だったのではないか。ランディが娘を想いたくても、ついつい忘れてしまうのとは対照的な、そんな人物だったのではないか…)

 

しかし、ランディはすでに、絶望的な気持ちを抱き、「自殺」を決意していた。リングに上がることを止めようとするパムの提案を退け、「ファンが待っている」と言いながら、ランディはリングに上がる。パムは、ランディが対戦相手と闘い始めた様子を見て、顔をしかめ、会場から立ち去っていく。

 

ラストシーン、ランディは「最後のラム・ジャム=死へのダイブ」の直前、幕間の方を見やる。そしてそこに、パムの姿がないことを確認して、自嘲的に哀しく笑う。そのままランディは、震えながら「自殺」していく…。

 

僕は、この映画のこの部分を、書きながら考えないではいられない。

 

ランディが「自殺」へと至る、その絶望の過程が、この映画ではしっかりと描かれている。特に、娘と信頼回復していくかもしれない希望が覗いた後、ランディがコカインセックスに耽って娘との約束をすっぽかし、娘から完璧な絶縁を言い渡されるシーン。もうあれでランディは、全てが終わった、と思ったのだ。見る人によっては、ランディのことを自業自得の愚かな男のようにしか思えない人もいるだろう。でも僕は、ああなってしまうランディのことを、全否定する気には、どうしてもなれない。それまで長年してきた生活のツケ、依存的に快楽を求めてしまう惰性。それに抗うことなど、一朝一夕にできるはずがない。もちろん、ランディのあの行動は酷い。娘には責められても仕方がない。しかし、失敗を、スリップを繰り返しながら、ランディが生きていく道はあって良いはずだ。娘との生活はダメになったとしても、家族以外の人や、新たな家族となる人と、失敗の繰り返しに付き合ってもらいながら、一緒に生きる道があって良いはずだ。

 

ランディは最後の試合の直前、ひとり涙を流していた。死ぬのが嫌なのだと思った。怖いし、寂しいし、哀しいのだろうと思った。でもランディの絶望の気持ちは、今後生きていくことの方がさらに、より苦しいと思わせてしまったのだろう。

 

この映画のネット上の批評文を、幾つか読んだ。そのほとんどを、男が書いている、と思った。熱い男の生き様、とか書いてる批評文に、激しい怒りを感じた。そのようなアングルで、この物語を閉じて良いのか? ランディの哀しみに寄り添おうとするなら、むしろランディの絶望にこそ踏み込み、その先を考えないではいられない。男が、少年のように夢やロマンへ憧れる気持ち。その気持ちが、最終的にあんな悲劇を生むのならば、それを賛美できるはずはない。ランディの苦しみを、本気で汲み取る気はあるのか? あの物語を賞賛する男は、ランディの「自殺」を幇助した観客たちと同じだと思う。

 

再び、パムについて。ランディのラストファイトを見て、パムは、ランディを見限ったのだと思う。観客に煽られる快感に依存してしまった、あの男には、マトモな生活を共に送ることが、できるはずもない、と。ランディが幕間を見て自嘲気味に笑ったのは、そのようにパムから棄てられたことを知り、またそれが予想外でもなんでもなく、予想通りだと思ったからではないか。もう、ランディは自分に期待もできなくなっていたし、他人から棄てられても当然だと、そう思っていたのではないか。

 

ラストの試合で、興奮した観客の歓声が聴こえる。僕にはそれが酷く空虚で、刹那的で、薄っぺらな熱狂の声に聴こえた。一方でランディたちのファイトは、その逆だった。魂が込められていた。その魂が、薄っぺらに消費されていく。哀しい。あまりにも哀しい。日々の生活の労苦は、一見熱狂的ではない。でも、ランディはその魂を、日々の生活の労苦との闘いへと、ぶつければ良かった。過去の栄光の影に抗うための闘い、日常の惨めさとの闘いへと。

 

ランディのように、投げ遣り、捨て鉢になってしまい、夢やロマンに逃げる男たちは、きっと数多くいる。この映画は、そんな男たちの心の琴線に触れるような、非情とも言えるリアルさがあると思った。僕は、ランディの哀しみに共感するが、この生き様を美しいとか、カッコ良いとか潔いとか、素晴らしいとは言いたくない。ズタボロになり、自分のプライドもメチャクチャになり、それでも地を這いながら生きていく、そういう生き方にこそ、美しさを見出したい。そう思った。ランディのように生きてしまう男はいる。それを哀れだとも言いたくない。ランディのように生きてしまう男の哀しみに寄り添い、しかしランディのように「自殺」的に闘うのではなく。ランディが飲み込まれた自殺衝動に抗うように闘う男を讃えたい。僕は、ランディほどの絶望を生きていない。その意味で、僕の言葉はどこまでもいい加減だ。知りもしないのに、簡単に言うな、と言われそうだ。だけど僕は、なんと言われようと、自殺衝動に抗う男たちと共に生きたい。生きる道を探したい。

 

(②へ続く)