狂気の自助へ② -映画『サウルの息子』感想中編

(①からの続き)

 

映画『サウルの息子』の物語の、もうひとつの導きの糸。サウルの「息子」埋葬をめぐる格闘の行く先へも、視線を移していきたい。

 

主人公のサウルは、ある男の子の顔を見て、その少年が自分の「息子」であると確信する。その少年は物語の冒頭、ガス室で瀕死ながらも生き残っていたが、その後あっさりとナチス将校にとどめを刺され、殺されてしまった男の子だ。

 

サウルは、その「息子」の遺体を隠す。そして、ユダヤ教の聖職者である「ラビ」を探して、多数の収容者の中から見つけ出し、そのラビが殺されないように匿う。ラビに立ち会ってもらい、埋葬のための宗教上の手続きを踏もうとする。大混乱の中で、なんとか地面に埋葬用の穴を掘ろうとする。このようにして、サウルはひとりで「息子」を埋葬しようと悪戦苦闘するのだった。

いずれも、異常な行動だ。サウル(…に限らず収容者の全員)は、常にナチス親衛隊の監視下にある。「息子」埋葬のための上記の行動は、どれも常にリスクがあった。発覚すれば、確実に殺されるリスクが。

当たり前だが、「息子」を埋葬できたところで、サウル自身が「死」から逃れられるわけではない。しかしサウルは自らの、そして他の同朋・仲間たちの危険さえも、基本的に顧みることはなかった。そうしてただひたすらに、「息子」を埋葬しようとした。

(ただ、サウルの行動には、微妙な揺れもあった。「息子」埋葬がサウルの至上目的だったのは間違いないが、請われて反乱の手助けにも手を貸したりしていた。仲間たちが同胞ユダヤ人の解放を夢見て、反乱を企てる動きに、サウルも協力していたのだ。しかし、サウルは反乱のための準備行動の最中も、常に「息子」埋葬に気を取られ、そちらの方へと引っ張られてしまう。結果的にサウルの行おうとした準備行動(火薬の運搬)は、失敗して無為に終わってしまう。サウルの行動は、極めて中途半端だった。きっとサウルは、反乱を企てる仲間たちから、以下のように見えただろう。狂ってしまい、役に立たない男。気もそぞろで、漂うようにしか行動できない、正気が疑われる男…)

 

しかも、サウルがそうまでして追い求めてきた「息子」埋葬という至上目的も、結局は失敗に終わってしまう。

反乱に伴う大混乱の中、収容所を脱出して川を泳いで逃げる最中に、サウルは力尽きて、それまで必至に守り抱えてきた「息子」の遺体を手放してしまう。そのまま遺体は、川に流されてしまうのだ。

その後のサウルは、魂が抜けたように逃走路をとぼとぼと歩いていく。

 

そして、問題のラストシーンである。

森の中の逃走路の途中に、たまたま無人の小屋があり、5分だけ休むために、仲間たちは小屋の中に留まって、隠れる。

「もう少しでレジスタンスと合流できる、そこで銃を取って闘おう」。

休んでいる最中、絶望的な状況で、生きる希望を失わないように励ます、仲間たちの声が聴こえる。

そこに、外遊びの途中で迷い込んでしまったのだろうか、金髪で白人の男の子が小屋の入り口を覗き込んだ。

そのことに、たまたま、サウルだけが気づく。サウルは、その少年を見て、何も言わない。行動もしない。

ただゆっくりと、サウルの表情に笑みが浮かぶ。

 

…これで、『サウルの息子』の物語はおしまいだ。逃走も失敗し、小屋の中にユダヤ人たちが隠れていることはナチス親衛隊にバレてしまって、銃声が響く。そしてサウルともども、強制収容所に囚われていた人々はほとんど全て死んでしまう、そんなことを暗示させるシーンが、最後にさりげなく置かれるだけだ。

僕は見終わって、キョトンとしてしまった。『サウルの息子』という物語は、いったい何を伝えたかったのだろう?  

 

まず、先の記事で書いたように、『サウルの息子』はエンターテイメントとしての作りを拒絶していた。

僕も見終わった直後は、疲労感とキョトンとした感じで、何となく呆然としてしまった。

しかし恐らく、これは映画の作り手のねらい通りなのだろう。

強制収容所で実行された虐殺という「事実」、それを見ることを、心地よく終わらせて良いはずはない。疲労感は、むしろそのまま感じれば良い。

そして、一見して分かりにくいことも、この「事実」に踏みとどまらせようとする、物語の作り手の意思によるものではないか。

確かに気になる。映画の物語を、遡って立ち止まり、あれこれ考えたくなる。

 

まず、サウルの最後の笑み。

あれは、少年に笑いかけたようにも見えるし、自然に自分に浮かんでしまった笑みのようにも見える。

思い返すと、映画の中盤、サウルは自分の「息子」の遺体にかけられた布を外し、その表情を見るたびに、非常に微妙ながら、表情を緩ませていたようにも思える。

 

他の全てのシーンでは、サウルは基本的に無表情だ。

映画の全編に渡って、ショットはサウルの表情に接近していた。自らの死への恐怖や、焦り、戸惑いが一瞬浮かぶことはあっても、サウルが表情を緩ませるような気配は、ラストシーン以外では、「息子」の顔を見たときしかなかった。

(やや関連して、サウルがある女性と接触するシーンのことも、非常に気になる。そのシーンではサウルの眼差しが一瞬、情熱的に燃え上がったようにも見えた。が、それもほんの一瞬で、すぐに元の無表情・無関心に戻ってしまう。以下で息子の真偽とラストシーンに関する僕の解釈を述べる途中で、そのことについても軽く触れたい)

 

そして、議論の急所は、サウルの「息子」は、本当に彼の「息子」なのか?という点だ。

映画の中盤、サウルのことをよく知っていると思われる、ゾンダーコマンドの同僚が、サウルに対して「お前に息子はいない」と述べていた。

ここは、映画を見ていた僕が、ぼんやりとだが、ずーっと気にかかっていたところだ。

 

ゾンダーコマンドの同僚が、「お前に息子はいない」と述べるシーンは、確か二箇所あった。

二度目のときは、サウルが先に、まず弁解するかのように、「実の妻との間ではない子どもが、俺にはいるんだ」と述べていた。しかしその言葉を聴いても、同僚はあらためてサウルに確かめるように、「お前に、息子はいない」と答えていたのである。

ここは、象徴的なシーンなのではないか。

 

あえて整理してみる。「息子の真偽」については、以下の二通りの解釈ができる。

ひとつめは、サウルの「息子」とは、本当に血のつながったサウルの息子である、という解釈だ。

サウルの息子』の物語は、「親子の愛」の物語としても読み取れる。極限状態、父を支えたのは、息子への愛だった…。そんな、家族愛の物語。

この解釈では、サウルは正気だったということになる。実の息子を、死後はせめて人格的に扱いたいと願い、そうすることで、サウル自身も強制収容所の中で人間的であろうとした。

そんな理路で考えるなら、サウルは正気を保ったまま、息子の埋葬に奔走した、ということになるだろう。

しかしこの解釈では、ラストシーンの意味がよく分からない。

また、これを言っては元も子もないのだけど、この映画の作り手がインタビューで、「脚本上は最初、サウルの「息子」を本当の実の息子として設定していたが、それを制作途中で変更することにした」と語っているらしい(参考:宇多丸サウルの息子」の感想を語る シネマハスラー https://youtu.be/DTa-5ucdiqU)。だから、この一つ目の解釈は間違っていることになる。

 

ならば、もうひとつの解釈を取るべきだろう。そして次のようにサウルの「息子」の物語を読み解くべきではないか。

サウルの「息子」は、血のつながったサウルの息子ではない。

サウル自身が、自分を助けるために、幻想の「息子」を作り出した。サウルは、自分を助けるようにして「息子」を作り、その「息子」を埋葬せんとして、駆り立てられていたのだ、と。

 

先述の通り、同僚がサウルへ、「お前に息子はいない」と二度も発言していたことは、この解釈を取る根拠の一つになり得る。

だが、もっとも大きな根拠は、やはりラストシーンにある。

最後に小屋へ迷い込んできた、あの子どもは、金髪の白人の男の子だった。もはや黒髪でもなく、自分の「息子」と思いこめるような存在からは遠くかけ離れていた。

それでもサウルは、あの少年を「息子」として見た。それで、自然に笑みが浮かんだ。僕は、そう解釈したい。

サウルは、自分を助けようとして、最後の最後まで「息子」を作り続けたのだ、と。それほどの力が、サウルにはあったのだ、と。

 

しかし、サウルの最後の微笑みは、自身や仲間の命を失わせることにつながったのかもしれない。

サウルは笑みを浮かべただけで、その男の子を見送ってしまう。あの男の子はそれで小屋から走って出て行き、その後、ナチス親衛隊の追っ手に発見される。追っ手はすぐに、あの男の子が走ってきた先へと向かっていった。そのことによって、サウルらは全員殺されてしまった、と見ることも可能だ。あそこでサウルが声を上げていれば、ナチス親衛隊の追っ手に見つからずに済んだかもしれないのだ。

サウルが幻想の「息子」を作り出すことは、自身や仲間の命を救うことにはつながらなかった。むしろ、命が奪われることにつながったのかもしれない。

しかし、そうであってもなお、あれはサウルが自分を助けようとして、駆り立てられて顕わになった自助の営為として見るべきではないか。そんな直観が僕にはある。それはいったい、どういうことか。直観を、少しずつ言葉にしてみたい。

(③へ続く)