狂気の自助へ① -映画『サウルの息子』感想前編

映画『サウルの息子』を見た。http://www.finefilms.co.jp/saul/

 

物語の舞台は、ナチスドイツの運営する強制収容所。そこは、ユダヤ人を集め、管理し、虐殺する場所である。

強制収容所で実行された空前絶後の大虐殺。この「事実」の物語が、映画『サウルの息子』だ。

主人公(サウル)もユダヤ人であり、サウルは強制収容所にいる他のユダヤ人たちを殺し、その死体の後片付けをする「処理」係(ゾンダーコマンド)のひとりである。

サウルらゾンダーコマンドも、時が来れば結局、同じように殺される。ナチスドイツの大虐殺の「事実」をなかったことにするために。もちろん、逆らっても殺される。「死」は早いか少し遅いかでしかない。それを分かっていながらも、同胞たちの「処理」の仕事をせざるを得ない。

そこには、周りにも先にも、「死」あるのみ。収容所における極限状態の生活。未来に何の希望もなく、末にあるのは徹底的な抹殺と消去である。まさに、地獄。

そんな中、サウルは、ある子どもを見て、あれは自分の「息子」だ、と語り出す。

その「息子」とは、本当にサウルの「息子」なのか?

サウルは狂っているのか?  それとも正気なのか?

「事実」から、「死」と、そして「狂気/正気」を問う。

 

…こんな物語が映画『サウルの息子』だ。以下、ネタバレありで、書きながらこの映画の物語のことを考えていく。

というのも、映画視聴後、「なんだったんだ、これは…」というモヤモヤ感が僕の中で消えてくれないからだ。書きながら、僕なりに思うことを言葉にしていき、ゆっくり考えていきたいと思う。

 

なお、なぜ僕が映画『サウルの息子』を見ようと思ったかというと、宇多丸さんの映画時評を聴いたからだ。

 

宇多丸サウルの息子」の感想を語る シネマハスラー https://youtu.be/DTa-5ucdiqU

 

ナチスドイツの強制収容所を映画として描くことについては、これまでも色々な議論があったという。

エンターテイメント映画として、強制収容所であった虐殺という「事実」を消費して良いのか。こんな論点があることを、宇多丸さんの映画時評を聴いて知った。

つまり。あの悲惨な「事実」に、僕たちは、いったいどう向き合うべきなのか。そんな問いがまず、目の前にはあるはずなのに。

エンターテイメントとしての消費は、死者を感動のネタに使う、死者の冒涜ではないのか。それは生者が、あの過去の「事実」と向き合うことから眼を逸らすことにつながるのではないか。それは果たして、倫理的に許されることなのか。

そんな鋭い批判が、これまでにもあったのだという。

映画『サウルの息子』は、こうした批判に真正面から向き合ったものだ、と映画時評で宇多丸さんが解説していた。

それで僕は、この映画を見てみようと思ったのだった。

映画とは、物語とは、エンターテイメントとは何なのか。そのことを考えてみたくて。

 

僕がこの映画を実際に見てみると、最初から、あまりにも強烈に、悲惨すぎる「事実」が描かれていて、圧倒されてしまった。

それは、グロ描写などではなかった。

むしろ、ハッキリとは映さない。見ている側を想像力で戦慄させ、心底恐怖させるような描き方がなされていた(次の動画も参照)。

 

町山智浩サウルの息子」早くも2016年ベスト! たまむすび https://youtu.be/j0YDv0GsR5E

 

ドンドンと必死に壁を叩く音。壁越しにかすかに聴こえる悲鳴、叫び声、絶叫。長い時間が過ぎて(ガス室のガスは薄いもので、即死できない。10分近く苦しめられて死に至る。…その残酷さ!)、末期の声も失われて全てが終わったのだろう、次のシーンでは、ガス室の中を掃除するサウルらの姿があり、その視界の端を横切っていく肌色の「もの」、赤色や黄土色の汚れ。それらを淡々と「処理」していくサウルたち…。

 

覚悟して見始めたのだけども、映画開始直後から、トップスピードで非常に苦しかった。

本気でこの強制収容所の状況を想像しようとしたら、苦しすぎて気分が悪くなりそうで。

視聴開始してすぐ、僕は、ある程度心のスイッチを切り、客観的・乖離的に目の前の映像を見ようと思い始めた。

そうしながらこれは、主人公のサウルに近い姿勢だな、と思ったりした。

 

この映画では基本、サウルから見た視点でのカメラワークで物語が進行していく。そのカメラ≒サウルの視界は、周囲へ視点を合わせないようになっていて、その視界のほとんどが、ぼんやりとぼやけるようになっている。

今の周囲も、また将来も、あまりに悲惨なことしかあり得ないと思える状況のとき。人は、なるべく周りに眼を向けないように、視野を狭窄的にして、様々な関心も閉じ、過ごしていく他なくなるのかもしれない。

スイッチを切って、目の前のことを無関心・無感情で、淡々と「処理」する他なくなるのかもしれない。

 

…さて。

物語の流れとしては、冒頭の強烈なシーンをインパクトとして、ずっと恐怖感が持続していくような作りになっていた。

途中、実は主人公ら「処理」係たち≒ゾンダーコマンドたちは反乱を企てていることが、見ている僕らにも分かってきて、それが物語終盤の山場にもなっていく。

 

この映画の物語の導きの糸は、以下の2本だ。

1本目は、このゾンダーコマンドたちの反乱をめぐる糸。

2本目は、サウルが自分の「息子」を埋葬せんとして格闘する糸である。

 

途中、サウルが都合よく助かりすぎではないか、と思うような展開も、いくつかあった。

しかし、そんなことは見る側の僕にとっても、作り手にとっても、どうでも良かったのだろうと、今になって思う。

サウルの息子』は、エンターテイメントとしての作りを拒絶していた。

物語を先取りして言うと。サウルは物語中盤では命を長らえるが、物語の結末では、結局命を失ったのだろうと予感させるような作りになっている。その結末も、悲劇的なカタルシスを直接的に得られようなものではないと感じた。

サウルが物語中盤で助かるのも、その後何らかのカタルシスを観客に得させるのための、ご都合主義的な設定操作ではなかったように思う。

納得いくように物語を作り、観客を気持ちよく興奮させるような作りは、強制収容所の「事実」を取り上げる以上、やってはならない。それは「事実」を消費させ、冒涜し、見る側が「事実」と真に向き合うことを避けさせる。

そんな行為は下手をすると、この「事実」が再び起こることを、助けることにもなりかねない。

だからこそ、この物語は、悲劇的カタルシス・その興奮とは別の何かが湧き上がるよう、観客へと呼びかけているはずだ。そのためにサウルは、物語中盤で生き延びることになったのだろう。

この別の何か、とは、見る側が「事実」と真に向き合うことであることは、まず、間違いない。

そして、強制収容所の虐殺の「事実」と真に向き合ったとき、その先に、いったい何が見えてくるのか。この映画の物語の作り手は、「事実」と向き合う過程で、いったい何を見たのか。そこまで、僕は知りたい。

この物語が呼びかけている何か、その奥深いところを、僕は知りたいと思った。

 

議論の急所は、「息子」の真偽とラストシーンにあるはずだ。次回以降の記事で、そこに迫りたい。

 

 

この記事の最後は、僕のちょっとした寄り道・迷い道で終わりにする。

 

僕自身のこの映画の視聴中の感情の流れを言うと、冒頭に強烈なインパクトがあり、ずっと恐怖に慄いていたが、後半では、やや退屈さも感じていた。

エンタメを拒絶する作りの物語と、その極限状態を見続けたことによる疲労のせいだろう。

ただ、後半は疲労と退屈さを感じつつも、このような物語を見ることができて、不思議と、なんだか救われたような気持ちにもなっていた。

 

安易に一緒にしてはいけないのは当然なんだけど、僕たちも形を変えた「強制収容所」にいるのではないか、という言葉が、何となく頭に思い浮かんできたのだった。

暴力を受け、もしくは暴力に手を染め、しかし自分の力では逃れられない境遇にあり。そんな世界をとことん描いてくれている。それをこうして、外から見ることができているありがたさを、映画を見ながら、じんわりと感じたりもしていたのだった。

 

ただし、強制収容所は文句なく自力では逃れられない境遇であり。それに比べて僕は、自分の意思と行動次第で、その境遇から解放され得る(…のではないか?)。そもそも、あのような直接的で膨大な、悲惨過ぎる「死」ばかりの世界からは、僕の住む世界は遠くかけ離れているわけで。そんな大きすぎる違いも、もちろん感じてはいるのだけど…。

 

このようにすぐに、自罰的に感じてしまう自分も、自己責任的でダメなのかな、と思ったり。

一方で、強制収容所で殺されたユダヤ人の方へ、自他の区別を無くして接近してしまう僕の危うさ(≒僕が接近すべきは、ユダヤ人の方ではなくマジョリティ側、すなわちユダヤ人を迫害・虐殺する決定を下したナチスドイツの最高執行部や、例えばアイヒマンのような、その命令を実行した人々、そして、それを陰に陽に後押しした大衆、そんな彼ら/彼女らの方ではないのか?なのにむしろ、その逆の方へと自然に接近してしまうことへの危険性)こそ、ダメなのかな、と思ったり。

 

うねうねと、そんなことを思い、考えたりもしている。

(②へ続く)