「迷惑」とは何か -ドキュメンタリー番組「母から娘へ」感想

1.問い

安積宇宙(あさか うみ)さん、安積遊歩(あさか ゆうほ)さんが出演するドキュメンタリー、「母から娘へ」(NHK教育テレビハートネットTV』2019.7.23放送)を見る。

番組は、相模原障害者殺傷事件が導入となり、宇宙(うみ)さんのフリーハグの取り組み(=路上で道行く人々にハグを呼びかけるもの)の映像から始まる。

生まれる前から障害があることは分かっていた宇宙さん。障害があること。誰かの助けが要ること。そんな存在は、生まれてきてはいけないのか。「迷惑」をかける人は、この社会で生きていてはいけないのか。相模原障害者殺傷事件は、宇宙さんや他の障害を持つ人々へ、本来は問う必要もない、問いとして提示すべきですらないはずの、あまりにも理不尽で過酷な問いを突きつけることとなった。

フリーハグの取り組みは、自分と他者が信頼し合えることを、触れ合うことでまず、確認させる。殺伐とした社会のイメージを緩ませるように、人が人として出会い、触れ合えることを実感できる。そんな営為が、フリーハグなのだろう。

 

2.差別

番組の中では、遊歩さんが結婚したいと願うパートナーの、その母と始めて会うときに、拒絶されることを恐れてガタガタと震えた、というエピソードが紹介されていた。遊歩さんは以前、お付き合いしていた男性の母から、「別れなければ家に火をつける」と脅され、その男性と別れざるを得なくなった、そんな過去があった。同じようにまた、最愛の人の母から、何か拒絶されるようなことを言われたら。その恐怖で、遊歩さんはガタガタと震えたのだ、と。

遊歩さんはその後、パートナーと結婚することとなり、宇宙さんが生まれる。遊歩さんのパートナーさんの母、つまり遊歩さんの義母の、過去を振り返る語りには、当時の壮絶な葛藤の跡が滲んでいた。差別がいけないのは分かっていた。しかし、実の息子の人生を思うと、差別的な気持ちがどうしても消えない。

遠いどこかの世界の話として、差別があるのではないのだ、きっと。ミクロな生活当事者の場面でこそ、差別は顕現する。実生活を過ごす我が身へ、具体的に訪れるものとして、差別はある。

遊歩さんの義母は、自らの差別意識と向き合い続ける。遊歩さんが宇宙さんを出産する直前、義母は病院に現れ、遊歩さんを励ます。遊歩さんの目から、涙が溢れる。壮絶な映像。言葉を失った。

 

3.声

遊歩さんは、自身の幼少期、声を聴いてもらえなかったのだと言う。障害者解放運動に出会い、初めて自身の心の声を抑圧しなくて良いことを知った。遊歩さんが実践しているピアカウンセリングは、障害を持つ人の声を徹底的に聴こうとする。子どもの頃の自分を救い、その声を聴こうとするかのように。

自身の抑圧された過去に気づき、自身の内なる子ども(インナーチャイルド)・内なる若者(インナーユース)に対して応答しようとする。それは、自身を救い、また、社会で同じように苦しんでいる人を救うことにつながる。ラディカル(社会変革的で根源的)な実践や運動をしている人は、みんなそのようなプロセスを辿っている気がする。

宇宙さんと遊歩さんとの対話も印象的だった。宇宙さんは、遊歩さんのように怒れない、と言った。遊歩さんは孤独の影を背負っていて、怒ることで人との関係が切れてしまい、独りになったとしても仕方がないと、どこかでそう思っているように見える、と。遊歩さんは、それらの見立てを否定しなかった。時代がそうだったのだ。あまりにも理不尽で、孤独だった。怒るほかなかった、変えるためのアクションを取らざるを得なかった、と。

僕は、宇宙さんと自身を重ねられるような立場にはいないけど、誰かを怒ることが苦手な点では似ていると思い、モヤモヤと考えた。孤独になることも怖い。しかし、目の前の理不尽をやり過ごしてしまいたくもない。

怒りが、僕にはよく分からない。とりわけ、自身が踏みにじられることの怒りが。でも、怖さはよく分かる。僕は、いつも怖がっている。まずは、怖さを感じ切りたい。そんな臆病な僕から始めたい。そう思った。

 

4.僕

相模原障害者殺傷事件の犯人は、事件後も障害者差別の気持ちが消えていないと、ある記事を読んで知った。優生思想・能力主義の価値観の中で、自身が使えない存在ではないかと悩み、苦しみ、社会から逸れ、ついに障害者を殺傷するに至った犯人。社会に「迷惑」をかける存在を消去することで、社会の役に立つ「何者」かになれた。犯人は、今でもそう思っている。

他人に「迷惑」をかけてはいけない。能力がほしい。強くありたい。優れてありたい。そう思う自分は、あまりにも強固だ。僕もいま、障害福祉の仕事をしているけど、能力主義的に考えてしまい、落ち込むことばかりだ。

この前、プールの着替えを手伝っていたメンバーさんから、僕のたどたどしい介助のせいで怒られてしまった。介助がないと着替えられない、そんなメンバーさんのこれまでとこれからを、そして、そんなメンバーさんの介助をしている自分を、あれこれと考えながら番組を見たりもした。

僕にも、まだまだ、他者への信頼感が足りない。職場で、誰かの力を借りることができない。自分でやろうとしてしまう。

 

5.「迷惑」

僕の内側にある、「迷惑をかけるな」という言葉。これを、粉々にして、すっかり無くしてしまいたい。でも、できない。どうしても湧いてくる。なんて根強い言葉なのだろう!

この社会では誰でも、「迷惑をかけるな」と言われ続けて生きていく。周りの大人から、社会から。社会から「迷惑をかけるな」と言われ続けてきた大人に、僕は育てられてきた。だから、当たり前なのだ。「迷惑をかけるな」という内言があまりにも強固なのは、きっと長い長い歴史の蓄積があるからなのだった。

「迷惑をかけるな」と脅迫されてきた、僕の内なる子ども、僕の内なる若者に、応答しようとするならば、どんなアクションに至るのだろう?

相模原障害者殺傷事件のあの犯人が、自身の内なる子ども、内なる若者へと真に応答しようとするならば、どんなアクションに至るのだろう?

「迷惑」をかける人は、この社会で生きていてはいけないのか。この文章の冒頭で提示された、この問いは、本来は提示すべきでもない。問うまでもない。助けが要らない人などいない。馬鹿馬鹿しい。そう否定し、一蹴すべきなのだろう。

しかし、この問いを生きてしまった犯人がいたし、いまもいる。僕はどうか。他の人はどうか。いま、仕事で共に時間を過ごすメンバーさんたちは。同僚たちは。少なくとも僕にとっては、あの声を否定する前に、葛藤が要る。そんな気がする。

葛藤しながら日々を過ごす。そんな僕らを、大切に尊重したい。そして、様々なプロセスの中で、自身の問いと格闘しているメンバーさんたちや同僚たちと、共に生きていければ。そう思った。

 

6.おわりに

番組は、あまりにも劇的だった。その劇的さの背後にある、宇宙さんの、遊歩さんの、彼女らをケアし脱学習してきた人々の、日常の様々な格闘も、僕は想像したいと思った。

闘いは、僕らの日々の生活と労働の場面で、いつでも転がっている。気づけば、そこにある。なかったことにしようとしても、なくならない。それは、きっと恩寵だ。そう感じる。