中動態と制度分析

0 はじめに 

國部功一郎『中動態の世界』(医学書院、2017年)を読んでいる。

序文を読み、次のような場面を思い出した。
ある人へ僕は、「ホントにあなたが、【そのこと】を辞めたいと思ったら、手を貸す」と伝えたことがあった。
「もう限界だ、とあなたが感じたら、僕は手助けすることができる。そのときが来たら、僕に言ってほしい」と。

…ダメだ。僕はまだ、「意志」に侵されている。
中動態の世界へ、僕は自分を中へと入れられていないのだ。
序文を読んで、僕はそう思った。

 

1 意志と責任、その暴力 -本文を最後まで読む前に

これまで僕は、文章を書く様々な場面で、能動と受動を撹乱するように表現する、そんな癖を僕自身が持っていることに、何となく気づいていた。
杉田俊介さんや大澤信亮さんの影響だ。ふたりは、能動と受動、加害と被害の入れ替わりや反転について、いつも注意の目を向けていた。

『中動態の世界』は、こうした問題意識を受け継いで持っていた僕にとって、非常に刺激的な内容に思える。

理性中心主義の登場後、主体概念が生まれ、「意志」という幻想が創られて、能動/受動が明確に分けられた。
創られた「意志」、それに伴う暴力については、自己責任論を思い出せば分かりやすい。
「あなたの意志でこうなったのだから、あなたが悪い」。
この言葉と幻想は、人を殺している。いまもまさに、現在進行形で。
能動か受動かへと、行為をどちらか一方へ明確に区別する、「意志」という名の分断線。
「意志」を在るものと見做す言語実践。
これらは、強烈な暴力性を帯びている。

ネオリベラルな言説だけに、この暴力性があるわけではない。左派の言説にも、この暴力性は無縁ではない。
いや、むしろこう言うべきだ。左派の言説とは、前提として、この暴力性と共にあるのだ、と。
なぜなら、左派の言説は、理性を用いて、この理性の存在を前提として、これまで作られてきたのだから。
リベラル派が理性を用いて発信する、その言説には、常にこの暴力の可能性を警戒すべきだ。

岡野八代さんの『フェミニズム政治学』。
そこでは、理性中心主義・自立的な個人観による主体概念を批判し、ケア・「声なき声」を想起させる人間観を提示していた。
中動態の議論とも、きっとリンクしていくのではないか。

障害学や依存症論で提唱してきた当事者論。
熊谷さんや上岡さんと國部さんが対話しながら中動態概念を練り上げた経緯がある以上、これらには当然リンクしていくはずだ。

この本を読むことで、僕もどんなことを感じる/感じさせられるのか、非常に楽しみだ。

 

2 制度分析

フェミニズムの人間観。障害学等の当事者性論。さらに…。
僕は、以前から「制度分析」という思想と実践に興味を抱いていた。
研究をしていた頃は、一本論文も書いた。

ci.nii.ac.jp

上記の論文では、制度分析とは何か、それなりの説明がされてある。
(前の方の、教育学だの教育原理だのがどったら、という部分は読み飛ばしてほしい。論文化するために、無理やりくっつけた部分だから)

『中動態の世界』を読み、中動態の構えとは、制度分析の議論でいうところの「後向きの想像力」等の概念に、非常に似ていることに気づく。
そして、中動態の構えに加えて、権力性へと焦点が振り向けられている点が、制度分析の議論の特徴であると言えるだろう。
制度分析にはミクロ政治学的な視点がある、と言われる。すなわち、いわゆる「マジョリティの当事者研究」という、近年取り上げられ始めた視点が、制度分析の思想には先行して存在していた。
中動態とは、このミクロな場における内在的な権力性分析という構えを示している。そんなように感じた。

中動態とは、主語がその状態なり経験に影響を受けていること、それをそのまま表現する文法のことだ。
制度分析とは、以下の二点を同時に分析せよ、と呼びかけるものだ。
一、権力性を帯びる人が、自分の足を踏み入れている場で、その権力性によって場自体へ影響を与えている事実。
二、自らが支配欲へと囚われていく、その政治的欲望。

より権力性と支配欲に焦点付ける視座が、制度分析の議論の特徴であると言える。

中動態→制度分析→マジョリティの当事者研究、という流れで、文章に残してみたいと感じた。では、『中動態の世界』を最後まで読んでみよう。

 

3 ヴィア船長と共に ―本文を読み終えて

…『中動態の世界』を読み終えた。
前半、第3章ぐらいまでで、面白いと感じさせられたイメージは、その後大きくは膨らまなかった。
同じモチーフを、いくつかの角度から、何度も何度も確認していくような本だった。
デカルト研究者である國分さんが、これまでの理論に中動態の概念も加えて、じっくり言葉を積み上げるプロセスに追走させてもらった、そんな読後感を味わっている。

ただし、最終章の小説『ビリー・バット』論は、自分の過去の体験を想起させられて、新鮮であり刺激的で、とても面白かった。
僕にとっても、ビリーには「憧れ」を、クラッガートやヴィア船長には「自分」を感じ、慄然とした。
中でも特に僕が惹かれたのは、ヴィア船長である。

ヴィア船長がビリーへ刑を宣告した真の理由は、「船員の叛乱への恐れ」だった。
その恐れが、何もかもを見えなくさせ、頭上に偽りの理由を幾重にも積み重ねてしまい、ヴィア船長を錯乱させたのだった。
恐れが底にあること自体に、ヴィア船長は気づくことができなかった。

ヴィア船長の立場に対し、ビリーは同情したわけだけど、そんなビリーの心にも、僕は共鳴する。
ヴィア船長は、ビリーに心底惹かれていた。だからこそ、ビリーを殺す自身の決断は、それはそれは辛いものだったろう。

ヴィア船長の決断、そこで用いられたヴィア船長の「意志」は、確かに何もかもを切断し消去しようとする営みだった。
ビリーを想う気持ちも、底には叛乱に怯える自分がいたことも、それら全てを「意志」で断ち切ろうとしたのだろう。
建前として前面に出たのは、自らが法的な存在であらねばならないとする義務感だ。

しかし消そうとした気持ちや恐れは消えずに残り、悔いとなってヴィア船長を最後まで動かしていった。

僕が『ビリー・バット』論を読みながら思い出したのは、前職の経験だ。
僕も、人の言葉や行為の裏をいつも読もうとした。
その実、底にある怯えにいつも規定されていた。
ギリギリでの判断を迫られることが多く、その多くに法的な(…? 組織維持のための「建前」的な?)理由を貼り付けては、僕はヴィア船長のように振る舞い、結果残るのは「悔い」だった。

そんな経験をし、『中動態の世界』を読み終えた今は、以下のような言葉が残る。

・権力性を帯びるものこそ、複数化させ(≒複数的転移が生じる場を立ち上げて)、問いを浮かび上がらせなければならない。

・ヴィア船長が、「自分は恐れのために目隠しされ、決断を迫られているのではないか」と躓ける契機を。

「今の錯乱した私をスローダウンさせ、誰かに事の次第を委ねられるような、そんな一手は有り得ないのか」と。

「そうした一手を探し委ねることは、決して逃げではない。むしろ、怯えにより錯乱している私がここにいるならば、そうした一手の可能性を探る努力の放棄こそが、ここでは『逃げるということ』なのではないのか」と。

そのように、ヴィア船長に立ち止まらせる機会を。

…環境として、それらが表現される可能性こそ、用意されねばならないのだ。


クラッガートやヴィア船長は、精神分析的だ。
いつも裏を読もうとし、疑心暗鬼になる。
いつしか自閉し、独我論的な幻想に囚われていく。
人の無意識を分析しようとし、いつしか自らの無意識が分析できなくなって暴れ回り、ついに制御不能になっていく。

これは、フェリックス・ガタリ三脇康生さんによる、精神分析に対する根底的な批判と重なる。
要は、臨床家と患者、スタッフと被支援者といった線引きが、能動と受動の区別に対応するのだ。
その区別を強固にする実践は、最終的に独我論へと閉じていく。

能動と中動の世界が、臨床家・スタッフを含めた、その場にいるあらゆる人の当事者性を分析すること(≒その人の本質を捉え、その変状を表現すること)を可能にさせる。
それをガタリは、制度分析と呼んだのだろう。

必要なのは、権力性を帯びる者自身の精神分析であり、権力性を帯びる者が片足を置いている場への分析であり、その両者を同時に行わせる分析の運動(≒制度分析)である。
そうした営為、それを呼び起こす運動を、「メジャー性の当事者研究」と言い換えても良い。

自らを過程の中に留まっているものとして精緻に捉えようとし、その変化のあり様を手放さないようにして、そのまま表現しようとする中動態の構え。これを、その場にいて権力性を持つ者が、自然に惹かれ、気がつくと実践している。そんな運動こそが、今まさに必要だ。

ことを「人間」として、その「属性」として捉えてはいけない(それが「能動/受動」パラダイムなのだろう)。
ことを(「変状」している)「本質」として、その「性質」として捉える。
ガタリ人間主義を批判して、「抽象機械」という言葉でその目指すべき理念を表現したのは、この「中動/能動」パラダイムを捉えたいがためだったのではないか、と思った。

そして、とりわけ三脇さんが注意を向けていたのは、とにかく「権力性」の分析へと焦点づけることだった。
浅田彰らのガタリ批評を批判し、特に1960年代頃までの初期ガタリの議論に、三脇さんは可能性を見ていた。
そこには、痛切に、権力性分析への欲望があった。
評論家のように、メタに立っての言動やアクションは、自らを過程の外に置いて為そうとするもので、そこでは足下の権力性を分析しようとする運動が、決して生じはしない。

かといって、『中動態の世界』を読み終えた今なら、メタ的に薄っぺらく言葉だけを操る評論家や、実は内心で保身のことしか考えていない権力者のことなどを、「無責任だ」と責める気持ちも、今は立ち止まって考えるべきだと感じている。
責任を問おうとする心性は、「能動/受動」パラダイムに囚われている。支配欲に囚われている。
その心性は、反転して僕をヴィラ船長のようにするだろう。

必要なのは、自らの権力性と、それが支配欲へと流れていく、そんな政治的欲望に眼を向けること。
その欲望が湧いてくるプロセスを表現すること。
支配欲≒政治的欲望が場にどのような影響を与えてきた/いるかを捉えようとし、そのように試行錯誤している自分を、そのまま表現することだ。

それは「意志」で為すのではない。
中動の構えとは、ありふれて在るもの。
つまり必要なのは、今この場にある、そんな中動の構えをただ自然に捉えていくイメージで生きることだ。
ただし、ありふれて在る中動の構えは、保守的な社会構造とそれに伴う保守的な価値観によって、常に「能動/受動パラダイム」に脅かされている(ように感じさせられる)。
つまり、中動の構えをただ自然に捉えるイメージで生きることとは、痛烈で絶え間のない、社会変革を求める運動として、表現されているように外からは見えるはずだ。
しかし、その内部にいる人の主観は、決してそうではない。強い意志としてあるのではなく、ただあるようにして生きることになっているはずだ。

…ここまでは、中動態の理論を制度分析の思想に重ねて、なぞろうとしてみたに過ぎない。
いつか僕がしてみたいと思うのは、当事者研究→中動態→制度分析という流れで、制度分析という概念とはどのようなものであるかを紹介し、現在の議論では得られていないような新たな知見を、制度分析の思想の中から見出したい、というものである。
それは、今はできない。ここでの文章は、ただ、「そこにある権力性と、支配欲へと注意せよ」と、僕へそう視線を向けるよう、あらためて促したに過ぎない。

 

4 非モテ男性論

以下、してみたいと他に感じたことを、ここに留め置く。

非モテ男性論との接点で言えば、どこかの本(二村さんの『すべモテ』の後書き?)で、二村さんと國分さんが非モテ男性論について言及しており。
そこでは國分さんが「モテたいと思う自分を感じ切り、決断し行動せよ」というような発言をしていた記憶がある。

その國分さんの発言は、まだ『中動態の世界』に取り組む前のものだと思われる。
中動態の議論を経由すると、國分さんだったら非モテ男性論へどのように言及することになるか、予想してみたい。

いま、思いつきで予想してみるなら…。「モテたい」とは何かを、それぞれが躓き、立ち止まって考える機会の提供こそが必要である、ということになるのではないだろうか。
非モテの男」に囚われてしまった自分、その過程を振り返る。
そんな自分へと変わったり、揺れたりしている状態を表現する。
まずはそんな構えが必要なんじゃないか。

…ちなみに、國分さんと二村さんとの非モテ男性談義に注意を向けていたのは杉田俊介さんであり、杉田さんの『非モテの品格』は、まさしく言論人という権力性を帯びた立場で、自分の非モテ男性性の揺れを表現するものだ。
それに喚起される他の男性性たちに向け、その男性生たちが揺らぎの中で表現されていく運動、その到来を、心の底から祈りつつ。
そして杉田さんは、個々の男性たちを変化へと誘う運動として、「男らしくない男たちの当事者研究」にチャレンジし、先鞭をつけてくれたのだった。
西井開さんの「非モテ当事者研究会」も、そうした運動の流れの中で僕は捉え、期待している。
環さん・うちゅうじんさんの「うちゅうリブ」も、そうした文脈で僕は応援している。

 

5 おわりに

…最後に、僕が『中動態の世界』の序文を読んで想起した、ある人へかけた言葉について振り返る。

僕の中にも恐れがある。
全てを打ち明けたその人から、僕がその人の無意識に深くコミットしたことで恨みを買い、復讐されるのではないか、という恐れ。
もっと踏み込むと、事態は急速的に混乱し、そこにはコミットしたくない、自分が面倒臭い事態に巻き込まれたくない、と怯え。逃げる心。

あのときの僕は、僕なりに、ギリギリまで踏み込んだ。
そもそも、何も言わずに逃げたかった。
でも、僕がその人に引き継いで、その人が応援していくだろう人々の今後を考えて、その人々と共にできる限り考えようとするならば、何も言わずに逃げることは「ない」と思ったのだ。だから、遅すぎると思ったが、コミットしたのだった。

…しかし、やはり僕は、不十分だった。僕の中の恐れや怯えを、僕は表現できずに、ある切断を行なったのだろう。だから、悔いが残っている。

僕の中には、当時も今も、山ほど不満もあるし不平もある。
はち切れて爆発しそうだ。
そうした自分も、いまここで表現しよう。
その上で、僕は、どうした構えに「なる」のか。

自分が弱いとか強いとかも、いまは表現したくない。
弱いとか強いとか表現しようとするときに、ある種の切断があって、「弱さを大切にしよう」と思うとき、それが強さを求める枠組みへの強化につながることがあるから。
今の僕は、ただ、表現しよう。今の僕につながる経験を。その歴史を。
ただそのまま、あるがまま。僕の今につながる事実として。

そうして、いま僕が片足を置いている場、僕がその場に影響を及ぼし与えた/ている部分、そうではない部分を、できる限り立ち止まり、考え、捉えて、表現しよう。
そうした動的な存在と場の中で、僕はコミットしよう。
それで結果的に、何かが生じたり生じなかったりするだろう。
その結果から、何かがわかり、何かに「なる」。

 

支配して責任を感じようとするな。

 

そのまま表現すれば、何かに「なる」。それで良いし、良くなくて良いのだ。