「恋愛」が唯一の道か? ―『デート』最終話感想②―
エラく合間が空きましたが、ドラマ『デート』の感想を、一区切りつくまで、書き留めておこうと思います。
(実は、下記の記事のほとんどを随分以前に書いてはいたのですが、書き上げられずに中断していました。2015/9/28に、ドラマ『デート』の後日談的なスペシャルドラマが放映され、それを見ての熱が冷めやらぬうちにと思って、少しだけ手を入れて書き上げたのが、以下の記事になります)
ネタバレだらけですので、このドラマを後日見ようと思っている方は、どうかご注意ください。
- 多くの視聴者の反応
まずは初めに、このドラマに関するNAVERまとめを、僕が読んだ感想。
ドラマ「デート」の最終回に脱帽・・伏線の回収が見事すぎ! - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2142713980540425801
前回の記事で、「最終話に出てきたリンゴは白雪姫の比喩だ」と僕は書きましたが、アダムとイブの創世記のエピソードの比喩だったようです。知らなかったなあ。
そのほか、上記のNAVERまとめでは、このドラマに散りばめられたネタの数々が解説されています。このドラマを面白く見た方は、一度ご覧になると、色々楽しめると思います。
さて、上記のNAVERまとめと、そのほかWEB上での感想を拾い読みしてみましたが…。
多くの視聴者の方は、やっぱり「恋愛」が見たかったんだなあ、と思いました。
僕とは、全く感覚が違う…。「依子と巧が、恋愛で、うまくいってほしい…!」とドキドキしながら見ていた視聴者の人が、圧倒的に多いんですねえ。
「月9ドラマなんだから、そうやって楽しむ人が多いのは当たり前だろ」と思われる方も多いのかもしれませんが…。僕はドラマをほとんど見ないタイプでしたので、そんな基本的なことも知らなかったのです。そっかあ、そっかあ…。
- 作り手、古沢良太さんの意図
上記のNAVERまとめで知り、ドラマ『デート』の脚本家である古沢さんに関する紹介記事を読みました。
「月9詐欺で国民騙す」発言も...『デート』の脚本家・古沢良太はクドカンより野心家? - エキサイトニュース
http://www.excite.co.jp/News/entertainment_g/20150216/Litera_870.html
僕も最初にこのドラマを見てみようと思う気にさせられた、「恋愛至上主義」批判というテーマについて、古沢さんの意図が述べられています。
「恋愛なんてクソの役にも立たない」「結婚とは有益な共同生活を送るための契約」などという醒めた恋愛・結婚観に共感する視聴者が続出。ネット上での評価も高い。
まるでこれまで月9作品が築き上げた"恋愛至上主義"的価値観を覆すかのような展開。だが、じつはこれは狙ったものではないらしい。脚本を担当し、"ポスト・クドカン"の呼び声も高い古沢良太氏は、脚本執筆の裏側をこう明かす。
「実は月9とは知らず、2話分書いた後に知らされたという......だから今回の目標は、月9詐欺で全国民を騙すことです(笑)」(「エンタミクス」3月号/KADOKAWA)
また、古沢さんが脚本を書くときに考える視点が、以下のように紹介されています
まず、脚本を書くときに古沢氏が考えるというのは、「商業的に成功するかどうか」。そこで重要になってくるのが「今」という視点と「普遍性」だという。そして、もうひとつ重要な点に、今までにない「新しさ」と「社会への影響」を挙げる。
「僕は映画でもドラマでも、『この作品で世の中が変わるかもしれない』と思いながら作ってるんです。『これで世の中変えてやる』『政治では変えられないようなことを、僕たちは変えられるんだ!』と思ってやっている。だから『この作品で、もっと社会に明るくなってほしい』というふうにも考えるんです。結果そうなることはまずありませんが、そういう気持ちから、燃えることもあります」(前出)
なかなか気骨が感じられる力強い言葉だが、たしかに『デート』も、恋愛への関心が薄くなりつつある今という現代性を反映させながら、世間から理解されづらい主人公ふたりに、妙な共感を生み出している。これもひとつの"社会変革"なのかもしれない。
今僕が書いている、この記事の結論として述べることに関わりますが、僕の一番の関心は、古沢さんが「恋愛」を、結局はどう描こうとしていたのか? という点です。
上記の語りにしたがうと、「月9詐欺」という言葉が示すように、古沢さんは、「恋愛」がテーマの月9ドラマのはずなのに、そのドラマの中で「恋愛至上主義」批判をぶち上げる、というかたちで、世間の意表をつき、注目を集めようとした。
でも、その「恋愛至上主義」批判を取り上げたのは、あくまでも「ネタ」のためであり。「恋愛」そのものを否定的に描く気は、古沢さんには最初からなかったのかもなあ、と思いました。
前回の記事でも書いたように、古沢さんがこのドラマで描いた「恋愛」は、確かにその中に「恋愛至上主義」批判を含んだ、素晴らしいものだとは思っています。
ただ、僕の関心からすると、「そうは言っても、恋愛から外れる道を選ぶことを、本気で肯定する気は、古沢さんには最初からなかったんだなあ…」とも思い、少し残念に思いました。
古沢さんのスタンスは、結局のところ、「恋愛」の枠の中から外れる気はない。(「恋愛至上主義」に踊らされているような)おかしな「恋愛」と、そうではない「恋愛」の違いはあるが、「恋愛」そのものは必要(不可欠?)のものとして捉える。そんな感じなのかなあ、と思いました。
- 親密性と共同生活
僕はこのドラマに随分と一喜一憂させられましたが、その理由について、ぼんやり考えています。
最終話まで見て思うのは、このドラマが描きたかったことと、僕が見たかったテーマが、ややズレていたんだなあ、ってことです。
僕はむしろ、この最終話以降の依子と巧の生活や関係を見てみたかった。
契約結婚・共同生活をしていく中で、ふたりはきっとお互いにぶつかり合ったり、ケンカしたりするでしょう。
その色々なやりとりの中で、お互いが徐々に変わっていき、共同生活を創り上げていく、そのプロセスが見たかった。
要するに、このドラマのテーマは「恋愛」であり、僕が見たかったのは「親密性と共同生活」だったと。
だから僕は、すげーやきもきしてたんだろうなあ、と思いました。恋愛をめぐるドタバタ劇は良いから、早く依子と巧にくっついてほしかったんですね、僕は。
その「くっつく」っていうのも、単純な恋愛関係ではなくて。共同生活のための契約的な関係で良い。そして、その後が見たかった。そういうことだったんだろうなあ。
ただ、このドラマは、題名がそれこそ『デート』なのであって、そんなドラマに「親密性と共同生活」というテーマを求めるというのは、筋違いというもの。こればっかりは、仕方がない。
また、僕はこのドラマが描く「恋愛」について、深く考え込まされました。だから、このドラマはこのままでも、僕にとってはとても面白かったです。
- 「運命」と「偶然」
最終回の終盤、巧と依子が幼い頃、電車の中で運命の出会いをしていたシーンがありましたね。
色々モヤモヤと考えたのですが、やっぱりこのシーン、いらないなあ…。
下記で理由を詳しく書きますが、ふたりの出会いは実は「運命」でしたー!っていうのに、僕は何だか興醒めしてしまいます。
古沢さんがこのシーンを入れた理由は、世間の恋愛観におもねるため? それとも、批判まで想定済みの燃料投下的なネタの意味合い?
恋愛ドラマの「運命」や「偶然」を、徹底的に嗤うような展開がここまでは繰り広げられていたので、最後のふたりの「運命」を見させられたとき、僕は、何だか一周回った苦笑いみたいなのは出てしまいましたけど…。
そんな相対化しきっていることへのユーモアを感じさせることが、古沢さんのねらいだったのかなあ?
またしても僕が見たいテーマの話しになってしまうのですが、そのテーマから行くと、あんな「運命」を設定に入れてほしくなかったです。
あんな安っぽい「運命」ではない、「偶然」の方を、大切に描いてほしかった。
依子と巧は、たまたま偶然出会ったわけで。しかも全く境遇も発達特性も性格も違う。そんなふたりが、たまたま、惹かれあってしまった。
そういうところを、しっかりと前面に押し出すスタンスでいてほしかったな。あの幼い日の「運命」のエピソードで、この「偶然」の豊かさが台無しになってしまったような気しました。
- 「恋愛」が唯一の道か?
最後に、このドラマを通じて考えさせられた、「恋愛」について。
そもそも、「恋愛」でなくては、前回の記事で僕が書いたような「心の穴」の共鳴と、そこから「自己否定」を飲み下す勇気がもたらされるような関係は、あり得ないのだろうか?
この問いが、僕の中でモヤモヤと残っています。
結局、恋愛のパートナーシップがなくては、人は「自己否定」を飲み下せず、ずっとそこから目を背けて生きざるを得ないのか。
もちろん、ドラマ『デート』が描いているのは、恋愛をすれば全て大成功、ということではない。
人は恋愛をしていても、一生苦しい。人生とは苦しいものなのだから、それはそうなのでしょう。
ただ、このドラマでは、「人は誰もが恋愛に挑戦し、その恋愛の中で自らの『自己否定』を飲み下し、ありのままの自己を受容していこうとする契機が生じ得るんだ」ということを描いているように、僕には見えましたが…。
すると、第一話で巧と依子のふたりが意気投合しながら主張し合った、「恋愛に参加しない自由」について、それを否定してしまうような印象を、このドラマ全体が発するメッセージとして感じてしまうのです。
最終話からさかのぼってこのドラマを振り返ったときに、あの第一話の意気投合で示された主張は、どう捉えるべきのでしょうか?
「あの二人は、実は恋愛感情で惹かれあっていただけなんであって、あのときの主張は結局ただの『のろけ』みたいなものだったんだねー。まったく、あのふたりったら…。」
…そんなふうに受け取られると、僕は何だか辛いです。人が生きるうえで、「恋愛に参加しない自由」は、確かにあるはずでしょ?
月9ドラマだから、「恋愛」を軸にストーリーを進めざるを得なかった。それは分かる。ただ、だったら、例えば依子と巧以外の登場人物が、「恋愛に参加しない自由」を行使して、力強く生き抜くパートナーシップ関係を結んでいる、そんな姿も描いてみてはどうでしょうか。
どちらでも良いんだと。「恋愛」という道を選びたくなければ、選ばなくても良いんだと。そんなメッセージもほしい。だって、「恋愛至上主義」批判って、本来そういうものでしょ? 安易にネタとしてだけ用いないでほしかった。用いるならばそれを(ただのネタとしてだけではなく、)テーマとして用いて、その含意を正しく理解して、責任を持って表現して欲しかったです。
もう一度、問いを提示します。人が自らの「自己否定」を飲み下そうと踏み出すためには、「恋愛」への挑戦が唯一の道なのか?
例えば、「友愛」は?
例えば、「姉妹愛」や「兄弟愛」は?(それは血縁に限ったものではなく、非血縁の他人との間でも、このような愛は生じえるのか?)
例えば、自助グループの中で芽生えるような「同朋愛」は?
例えば、世間では未だ名前がつけられていないような、その人たちに固有の、新たな関係性は?
…「恋愛」を唯一の可能性として賭けさせようとする志向性は、危ういと思うのです。
恋愛幻想で苦しんでいる人を益々苦しませるし、実際に恋愛をしている人に対しても、ふたりだけで世界を完結させてしまう。
その延長として、現代で恋愛をテーマに描くとしたら、共依存やDVの問題を、マストで念頭に置かなくてはいけないと思います。その視点も、このドラマでは弱かったように感じています。
暴力に陥らないように、ふたりだけで世界を完結させないようにするためにこそ、色んな関係の中で人は生きていくんだと思いますし。その多様な関係の中で、自らの「自己否定」と向き合うこともできるような気もするのです。
…いや、これは事実としてそうだ、と言ってるわけではありません。僕の願望が多分にこめられている。そうあってほしいと、僕は強く思っています。
この『デート』というドラマは、基本的にふたりだけの閉じた物語であり、ほかの登場人物は刺身のツマのようなもの。ほかの登場人物は、ふたりを劇的な場面へと連れて行くための、舞台装置にしか過ぎませんでした。
そのせいで、このドラマが、視聴者の対幻想を強化させるようなストーリーになっている点には、留意しないといけないと思います。
恋愛を全否定するつもりはありませんが、様々な関係のかたちの、そのうちのひとつにしか過ぎないはず。
そのような現実の複雑さを、複雑なまま、ドラマとして描いてくれていたら。そんなふうに思いました。
- おわりに
…はー、面白かった。
巧がひきこもった設定には不満がある、とか、依子の自閉特性の描写はもっと正確に、とか細かいツッコミどころは感じてますけど、それらは野暮なツッコミだとも思っていますので、自重します(すでにこう書いてるので、自重できてませんが)。
…一点だけ。役者の演技が、ほぼ全員凄かったってことには、触れておきたいです。
上記では、主人公の二人以外は刺身のツマでしかない、と書きましたが、それは物語上の位置づけの話しであって、役者さんの演技に対する評価とは、また別です。
依子と巧は元より、恋敵である鷲尾と香織、依子と巧の両親、子役の依子と巧に至るまで、素晴らしい演技に感じました。
どれも、難しい役だったと思います。よくあんなふうに、コミカルでかつシリアスに演技ができるなあ。すげえ。
特に最終話は、全員の演技のテンションが異常に高かった。役者陣がこのドラマの物語に完全に憑依しているような、神がかった演技を見せてもらえたような気がしています。
…というようなことを、延々と語っていたいのですが、キリがないのでこのへんで。
ドラマ『デート』に関わった全ての関係者の方々に、感謝の気持ちを込めつつ。
続きは僕の脳内で、ひとりウンチクを繰り広げていこうと思います。
- 追記)
2015/09/28、スペシャルドラマ『デート 2015夏 秘湯』が放映されました。
とても楽しく見せてもらいましたし、上記の「その後の共同生活が見たかった」という僕の希望も、その一部をかなえてくれるようなものでした。ふたりの共同生活後の「うまくいかなさ」を描いてくれて、とても見ごたえがありました。
ただ、僕が上記で書いた批判は、スペシャルドラマでも当てはまると思いました。むしろ、(おそらく「恋愛」要素を欲していたファンの期待に応えたせいもあって、)恋愛以外の道は許容しない空気感が、より強まったような気もしています。
楽しくは見せてもらいましたが、後半で恋愛要素が非常に強くなってきたあたりでは、若干自分の中で距離を図りながら見ている感じになりました。
「恋愛」に全て回収してほしくないな、と。そう思いながら見ていました。
今後、「恋愛しない自由」も描くドラマを、誰かが作ってくれないでしょうか。
視聴率を取るのは非常に難しいかもしれませんが、間違いなく「新しい」ものになると思うし、それこそ社会変革を促すものになるでしょう。恋愛至上主義に苦しんでいる多くの人に届き、元気を与えるようなものにもなり得ると思います(今回のドラマ『デート』第1話や第2話が非常に盛り上がったのは、そのような物語を欲している層が多くいることを、示しているのではないでしょうか)。
作り手のどなたかが、果敢に挑戦して下さることを希望しています。