プライド、内省の拒絶、語れなさ

ツイッターからある記事を知り、読んだ感想をメモ的に。

 

その記事はこちら。


男の成功像、生き方縛る 「逃げたっていいんだ」:朝日新聞デジタル

 

「逃げてはいけない」という価値観。プライドの問題。

 

このプライドが、周囲への相談のできなさにつながっていく。無言で苦しみ、耐え切れず爆発して周囲に暴力を振るったり、場合によっては自殺に至る。

 

「男性は…」とか「女性は…」とか一般化して語ることに、僕はなるべく慎重であろうとしていますが、自殺率の男性の高さは、男性一般の「語れなさ」を如実に示しているように思えます。

 

ここでの「語れなさ」とは、論理的な言語化のことでは勿論ありません。むしろそのような論理的な言語化作業が隠してしまうような、「弱さの自己開示」としての言語化の問題です。

 

ある問いを「内省できない」というとき、プライド(自尊心)が邪魔をしている、というケースがあるような気がします。

 

プライドとは、臆病さの裏返しだと思っています。

 

自分の中にある、その弱さを認めてしまうと、自分が自分でいられなくなるような、足元が崩落してしまうかのような恐怖。意識して考えることさえも怖いようなもの。そんなとても情けなく(他の誰よりも自分自身が)思えてしまうような、臆病さ。

 

だからこそ、その弱さにつながるような問いに対しては、無意識に眼を背けようとしてしまう。考え進めれば前に進めるはずの、目の前にある問いに、気づくことができない。

 

外から見ると、「そんなことで悩んでたの?」「くだらない」「さっさと相談してくれればいいじゃん」と思われてしまう。でも、そう言われてしまうと、とても恥ずかしくて死んでしまいたくなる。そんな、プライドと臆病さの問題。

 

①プライド(≒臆病さ)

②内省の拒絶(≒問いの回避)

③語れなさ(≒「弱さの自己開示」の言語化ができないこと)

 

…この三つが互いに互いを補強し合うメカニズムがあるような気がするのですね。それでどんどんどんどんこじれていく悪循環が生まれる。

 

ならば、このメカニズムを突破する道筋を、どう描けば良いのでしょうか。

 

上記の記事では、家事を男性が行ったり、高校で男女が制服を交換する(! 素晴らしい取り組みだと思います!)ことで、男性が自らに染み付いた「当たり前」を相対化し、気づく機会が得られたと紹介しています。

 

しかし、より深刻に「男としてのプライド≒臆病さ」をこじらせてしまっているケースでは、このような機会があっても、なかなか通用しないような気もします。

 

 

この悪循環の突破の方法を一緒に考えていくために、男性学を真摯に進めたいと考える男性同士のピア的な対話空間(それは、家父長的で権力的・排除的なホモソーシャル空間とは、きっと真逆のものになるでしょう)を、なんとか作れないものでしょうか。

 

やや話しの流れからは飛躍があるかもしれませんが、僕は以下の記事を書かれた方のセンスと自己開示の言葉などに、そういった対話を開いていく可能性を感じています。

 


カネカネカネ - おれだけに許された特別な時間の終わり

 

余計な注意喚起の一言かもしれませんが、上記記事を紹介して「マリアのような、男に赦しをくれる女性が必要だ」とか言いたいわけではありません(idepop2さんも、そんなことを主張したくて書いているわけでは、全くないはずです )。

 

むしろ逆です。自分の弱さを認め、言語化すること。そしてその弱さと、正面から対峙すること。

 

このような言語化作業を、暴力にまみれ、暴力に絡みつかれた男たちの手で、死にものぐるいで豊富化していくこと。

 

…うーん、とりあえずは、そんなことぐらいしか思いつきません。