性への劣等感を引き受けながら、生きていけるのか

水樹さん kiya2015さん へ

 

いただいたコメントに対して、お返事を書いていたら長くなったので、記事としてアップします。


にも関わらず、いただいたコメントには、全然応じていないように見えると思います(ごめんなさい)。


でも、おふたりのコメントを見ながら、自分なりに考えたことですので、どうかご了承ください。


(kiya2015さんのブログも、今回初めて見させてもらいました。色々と考えこまされました。今後、繰り返し読ませてもらうことになると思います)


なお、おふたりのコメントを読みながら考えたことではありますが、以下は基本的に自分自身に向けた言葉として、書き留めています。

 

 

 

とにかく、性的なことと結びつけてしまう。そんな自分の指向を、どうにもできない。


そうして、また再び加害/被害を繰り返し、ついには自分という存在を、消してしまいたくなる。
(死ぬのは痛くて苦しそうで嫌だ。苦痛なく、明日存在が消えていたら良い)


こんなふうに感じてしまう自己(に絡みつく社会)をどうすれば良い?

 

 

フロイトラカンじゃダメだ。


フロイトは、かえって性的なものとの結びつきを強めてしまう。


ラカンは、しょせん精神分析家とその対象の二者関係だ。閉じたところでの転移しか論じられない。二者関係である以上、きっと権力性から、その線引きから生じる臨床家と当事者の区別から、そこから生じる暴力の被害/加害から、きっと逃れることができない。

 

 

杉田俊介さんと大澤信亮さんの暴力批評の文章と、上山和樹さんのブログ(フリージングポイント)の文章を、もう10年以上、現実が苦しく感じられたときに、その現実から逃げるようにして、繰り返し読み返してきた。


その上山和樹さんが紹介してくれている、三脇康生さんの本を読み。


上山さんと三脇さんが紹介してくれている、ジャン・ウリとフェリックス・ガタリの議論に今、生きる指針を求める。

 

 

ウリ・ガタリによると、複数的な転移がポイントになる。


環境の中で、自らが作りだしてしまった性。その性に支配されてしまっている自己。この疎外を生じさせなくさせるためには、徹底的に場を複数化させるしかない。

 

 

例えば、次のような場が、とりあえず分かれていて、それぞれが複数あり、多様に存在しているとしたら。

  • 共同生活を快適に過ごす仲間を、探して出会うことができるような場(そこでは、ケアする/される関係が含まれる)。
  • 趣味や活動をともにする仲間を、探して出会うことができるような場。
  • 性的な指向を模索し合う仲間を、探して出会うことができるような場。
  • 社会参加の役割が与えられ、その対価として安心して暮らせるだけの賃金が得られるような、労働の場。
  • そして、愚痴を吐いたり、実存的な悩みを何でも相談できるような、安心で安全な場(=自分は自分でいて良いと、その存在が承認されるような場)。

 

ある場が、自分には必要ない(そこは自分は、ひとりで良い)と思う人は、そこに行かなくても良い。それで排除されたり軽蔑されたりしない。


また、これらの場を自由に行き来できる機会は、容姿や器用さに関わりなく、あらゆる人に保障されている。

 

…こんな環境整備がなされていて、こんな複数の場の中で自由に移動しながら生活し、未知で異質な他者と出会い、対峙して、自己を問い続けていけるのならば。


性への劣等感を引き受けても、絶望しきらずに、生きていけるような気もする。

 

 

こんな環境は、今の日本だと到底実現しようのない、絶望的な到達点に思えるが。


自分の身の回りが、そんな環境に少しでも近づくように、自分の今やることを少しずつでも積み上げられるのだったら、生きていっても良いような気がする。