痴漢加害者男性との距離
僕と、痴漢加害者男性との距離は近いのだろうか? 遠いのだろうか?ということを、つらつら考えています。
- 「ムラムラ」はわかる
あんまり関係ないエピソードかもですが。
僕は現実に女性と性行為する経験を経る以前と以後で、女性を見たときの性的な反応が変わりました。
簡単に言っちゃうと、一度性行為を経験してからというもの、普通に路上で歩いている女性を見ても、「ムラムラ」しやすくなった、ということです。
多分この心理の変化の理由は、単純なことだと思う。それまでは現実に女性と性行為したことがなかったので、目の前にいる女性と性行為を結び付けて想像できなかった。それが経験によって、想像しやすくなった、ということだと思います。
まだ性行為を経験していなかった頃の、リアルとポルノを完全に区別していた自分の性的関心について、もっと掘り下げて考えたくなりますが、それは話しが横道に逸れるので置いておくとして…。
- どんな心理で、行動に移すの?
なので、「ムラムラ」してしまう、という心理まではわかる。
しかしやはり、それを痴漢行為として行動に起こす心理は、全く分からない。
うーん、ホントにわからない。僕の場合、痴漢云々以前に、そもそも人に触れること自体に躊躇するタイプだし…。
でも、痴漢をしてるときの心理って、興奮状態・心神喪失状態で、普段の躊躇の気持ちも何もなくなってしまうんだろうか?
いやいや、それにしたって、電車内でそんな興奮状態に陥るなんて、自分にはあり得そうにない。そんな状況が公共の場で自分の身に降りかかるなんて、とても想像できない。到底そんな事態は起こり得ない気がする…。
だいたい「ムラムラ」すると言っても、僕の場合は電車内で女性の身体を触りたいとは思わない。いやいや、これは性癖の問題か…?
…あーダメだ、ホントにわからん!
- 想像ですが…
頓珍漢かもしれないけど、痴漢行為をとりあえず自分とは距離の遠い問題として、あれこれ想像してみるしかない。とりとめもなく、思い浮かんだ論点としては…。
痴漢行為を行っている最中は、強烈な快楽物質が脳内に分泌し、一度その経験をしたら止められなくなって、加害者は何度も繰り返してしまい、依存症的な症状に近い状態になっているんだろうか?
加害者のそのときの精神状態、例えば今自分が他者から全く承認されていない不遇感とか、強いストレスを感じながら生活しているその反動とか、そのときの精神的な不安定さみたいなものも、痴漢行為を行動に移してしまうことと、何か因果関係があるんだろうか?
加害者の中には、幼少期のトラウマや、被虐待の経験などがあるケースが多いとか、そういう実態があるんだろうか?(僕にはそういう経験がないから、うまく想像できないんだろうか?)
…うーむ、色々気になる問いは出てくるが、それを確かめるための手掛かりが全くない。
とりあえず、時間があるときに以下の本などを読んでみて、男性の心理と身体について、色々情報を集めてみます。
・刑事司法とジェンダー(牧野雅子)
・男子の貞操(坂爪信吾)
・男達の脱暴力(中村正夫)
※犯罪加害者の心理分析、という方向でも、参考になる文献があるかもしれませんが、生憎そちら方面の文献のことは、全く分からず…。
- 距離が近いような気がするのは、自信のなさから?
さて。
ということで、よくよく考えると、僕と痴漢加害者との距離は遠い、と判断できるんですが。
でもついつい、「もしかしたら、僕と痴漢問題は、近いところにあるんじゃないだろうか」と考えたくなる自分もいるんですね。なんでだろう。単なるネガ男性の発動?
前回の記事でも触れましたが、「自分は女性に性的に欲望され(続け)る存在なんだろうか?(=そういう存在でありたい!)」という気持ちと、そこへの不安、自信のなさが、今回も影響しているような気がします。
これを男性性の一般論として回収するのは危険だと思うので、慎重に、あくまで僕個人は、ということですが。
「女性に、自分が男性として性的に欲望されたい」という気持ちが強くある。これはハッキリ自分の中にあると感じます。
痴漢加害者は、被害者のことを自分に都合よく「あいつも、俺のことを誘ってきているはずだ(=誘ってきてほしい)」と解釈してしまうと言われますが。
その部分に、近しさを感じてしまうんじゃないんだろうか。自分は確かに痴漢行為を行動には移さない。でも似たような欲望は持っている。そういう、共感の心理?
- 近くて遠い…?
うーん、心理としては近い距離にいるが、行動に移すか否かという点で、遠い距離にいる。そんな感じか?
いやいや、よく分かんなくなってきた。
今回は、僕が、痴漢加害者との距離を考えると、近いのか遠いのかよく分からなくなる、そのこと自体を考えたいと思って書き始めてみました。
難しいですね。何となくですが、痴漢加害者を完全に異化して捉えること自体、その心理の分析を難しくするような気もするのです。
ただ一方で、安易に自分のことと同列化して捉えようとすると、痴漢加害者自身にとっての都合の良い解釈や言い逃れを許し、その心理の深層を暴けないような気もしています。
冷静に、自分との距離を測りながら、もう少し考えてみようと思います。
※補足:性とコミュニケーションについて
森岡正博さんのブログ、『身体とアイデンティティ・トラブル』の書評より。
金井淑子「フェミニズムと身体論」のなかで、フェミニズムが「コミュニケーションを目的とするセックスこそが正しい」という理解をしたがゆえに、「そのことがじつは、フェミニズムの性愛観を呪縛し、フェミニズムの性解放に抑制をかけていることにも気づかれにくくしているのではないか」(28頁)と指摘している。たしかにそういう面はありそうだ。と同時に、男である私は、コミュニケーションを目的とするセックスに対する「あこがれ」が確かにある。これは「正しさ」ではなく、「あこがれ」であることに注意。こういうあたりで、対話することが可能になればいいのに。
僕にも、この「あこがれ」が確かにあります(前回の記事などを読み返すと、はっきりそれが分かる)。
僕も「非モテ」(このことも、いつか書きながら考えたいです)のメンタリティを持っているので、きっと自己の性的な欲望をこじらせているのでしょう。なので自戒を込めて、以下を書き留めます。
「この人は自分の欲望を受け止めてくれた」という喜びを求めることは、とても危険だ。相手の好意に甘え、相手からの発信を知らず知らずのうちに封殺し、自分の欲望だけを押しつけ続けることにもなりかねない。
アセクシャルの人や、クエスチョニングの人に対する想像力、その精度を上げるように努力してみよう。
自分の求める欲望を、今の相手に求めても、満たすことはできないかもしれない。そのことを知って、少しの間自分はガッカリするかもしれない。でも、このことを機会にして、より本当に相手のことを理解することができたのだから、きっとそれは素晴らしく、とても嬉しいことのはずだ。
性行為そのもので豊かなコミュニケーション(という名の欲望の押しつけ)をするのではなく。性行為を通じて、互いの存在をより尊重し合えるような、そんな真の豊かなコミュニケーションを。