中動態と制度分析

0 はじめに 

國部功一郎『中動態の世界』(医学書院、2017年)を読んでいる。

序文を読み、次のような場面を思い出した。
ある人へ僕は、「ホントにあなたが、【そのこと】を辞めたいと思ったら、手を貸す」と伝えたことがあった。
「もう限界だ、とあなたが感じたら、僕は手助けすることができる。そのときが来たら、僕に言ってほしい」と。

…ダメだ。僕はまだ、「意志」に侵されている。
中動態の世界へ、僕は自分を中へと入れられていないのだ。
序文を読んで、僕はそう思った。

 

1 意志と責任、その暴力 -本文を最後まで読む前に

これまで僕は、文章を書く様々な場面で、能動と受動を撹乱するように表現する、そんな癖を僕自身が持っていることに、何となく気づいていた。
杉田俊介さんや大澤信亮さんの影響だ。ふたりは、能動と受動、加害と被害の入れ替わりや反転について、いつも注意の目を向けていた。

『中動態の世界』は、こうした問題意識を受け継いで持っていた僕にとって、非常に刺激的な内容に思える。

理性中心主義の登場後、主体概念が生まれ、「意志」という幻想が創られて、能動/受動が明確に分けられた。
創られた「意志」、それに伴う暴力については、自己責任論を思い出せば分かりやすい。
「あなたの意志でこうなったのだから、あなたが悪い」。
この言葉と幻想は、人を殺している。いまもまさに、現在進行形で。
能動か受動かへと、行為をどちらか一方へ明確に区別する、「意志」という名の分断線。
「意志」を在るものと見做す言語実践。
これらは、強烈な暴力性を帯びている。

ネオリベラルな言説だけに、この暴力性があるわけではない。左派の言説にも、この暴力性は無縁ではない。
いや、むしろこう言うべきだ。左派の言説とは、前提として、この暴力性と共にあるのだ、と。
なぜなら、左派の言説は、理性を用いて、この理性の存在を前提として、これまで作られてきたのだから。
リベラル派が理性を用いて発信する、その言説には、常にこの暴力の可能性を警戒すべきだ。

岡野八代さんの『フェミニズム政治学』。
そこでは、理性中心主義・自立的な個人観による主体概念を批判し、ケア・「声なき声」を想起させる人間観を提示していた。
中動態の議論とも、きっとリンクしていくのではないか。

障害学や依存症論で提唱してきた当事者論。
熊谷さんや上岡さんと國部さんが対話しながら中動態概念を練り上げた経緯がある以上、これらには当然リンクしていくはずだ。

この本を読むことで、僕もどんなことを感じる/感じさせられるのか、非常に楽しみだ。

 

2 制度分析

フェミニズムの人間観。障害学等の当事者性論。さらに…。
僕は、以前から「制度分析」という思想と実践に興味を抱いていた。
研究をしていた頃は、一本論文も書いた。

ci.nii.ac.jp

上記の論文では、制度分析とは何か、それなりの説明がされてある。
(前の方の、教育学だの教育原理だのがどったら、という部分は読み飛ばしてほしい。論文化するために、無理やりくっつけた部分だから)

『中動態の世界』を読み、中動態の構えとは、制度分析の議論でいうところの「後向きの想像力」等の概念に、非常に似ていることに気づく。
そして、中動態の構えに加えて、権力性へと焦点が振り向けられている点が、制度分析の議論の特徴であると言えるだろう。
制度分析にはミクロ政治学的な視点がある、と言われる。すなわち、いわゆる「マジョリティの当事者研究」という、近年取り上げられ始めた視点が、制度分析の思想には先行して存在していた。
中動態とは、このミクロな場における内在的な権力性分析という構えを示している。そんなように感じた。

中動態とは、主語がその状態なり経験に影響を受けていること、それをそのまま表現する文法のことだ。
制度分析とは、以下の二点を同時に分析せよ、と呼びかけるものだ。
一、権力性を帯びる人が、自分の足を踏み入れている場で、その権力性によって場自体へ影響を与えている事実。
二、自らが支配欲へと囚われていく、その政治的欲望。

より権力性と支配欲に焦点付ける視座が、制度分析の議論の特徴であると言える。

中動態→制度分析→マジョリティの当事者研究、という流れで、文章に残してみたいと感じた。では、『中動態の世界』を最後まで読んでみよう。

 

3 ヴィア船長と共に ―本文を読み終えて

…『中動態の世界』を読み終えた。
前半、第3章ぐらいまでで、面白いと感じさせられたイメージは、その後大きくは膨らまなかった。
同じモチーフを、いくつかの角度から、何度も何度も確認していくような本だった。
デカルト研究者である國分さんが、これまでの理論に中動態の概念も加えて、じっくり言葉を積み上げるプロセスに追走させてもらった、そんな読後感を味わっている。

ただし、最終章の小説『ビリー・バット』論は、自分の過去の体験を想起させられて、新鮮であり刺激的で、とても面白かった。
僕にとっても、ビリーには「憧れ」を、クラッガートやヴィア船長には「自分」を感じ、慄然とした。
中でも特に僕が惹かれたのは、ヴィア船長である。

ヴィア船長がビリーへ刑を宣告した真の理由は、「船員の叛乱への恐れ」だった。
その恐れが、何もかもを見えなくさせ、頭上に偽りの理由を幾重にも積み重ねてしまい、ヴィア船長を錯乱させたのだった。
恐れが底にあること自体に、ヴィア船長は気づくことができなかった。

ヴィア船長の立場に対し、ビリーは同情したわけだけど、そんなビリーの心にも、僕は共鳴する。
ヴィア船長は、ビリーに心底惹かれていた。だからこそ、ビリーを殺す自身の決断は、それはそれは辛いものだったろう。

ヴィア船長の決断、そこで用いられたヴィア船長の「意志」は、確かに何もかもを切断し消去しようとする営みだった。
ビリーを想う気持ちも、底には叛乱に怯える自分がいたことも、それら全てを「意志」で断ち切ろうとしたのだろう。
建前として前面に出たのは、自らが法的な存在であらねばならないとする義務感だ。

しかし消そうとした気持ちや恐れは消えずに残り、悔いとなってヴィア船長を最後まで動かしていった。

僕が『ビリー・バット』論を読みながら思い出したのは、前職の経験だ。
僕も、人の言葉や行為の裏をいつも読もうとした。
その実、底にある怯えにいつも規定されていた。
ギリギリでの判断を迫られることが多く、その多くに法的な(…? 組織維持のための「建前」的な?)理由を貼り付けては、僕はヴィア船長のように振る舞い、結果残るのは「悔い」だった。

そんな経験をし、『中動態の世界』を読み終えた今は、以下のような言葉が残る。

・権力性を帯びるものこそ、複数化させ(≒複数的転移が生じる場を立ち上げて)、問いを浮かび上がらせなければならない。

・ヴィア船長が、「自分は恐れのために目隠しされ、決断を迫られているのではないか」と躓ける契機を。

「今の錯乱した私をスローダウンさせ、誰かに事の次第を委ねられるような、そんな一手は有り得ないのか」と。

「そうした一手を探し委ねることは、決して逃げではない。むしろ、怯えにより錯乱している私がここにいるならば、そうした一手の可能性を探る努力の放棄こそが、ここでは『逃げるということ』なのではないのか」と。

そのように、ヴィア船長に立ち止まらせる機会を。

…環境として、それらが表現される可能性こそ、用意されねばならないのだ。


クラッガートやヴィア船長は、精神分析的だ。
いつも裏を読もうとし、疑心暗鬼になる。
いつしか自閉し、独我論的な幻想に囚われていく。
人の無意識を分析しようとし、いつしか自らの無意識が分析できなくなって暴れ回り、ついに制御不能になっていく。

これは、フェリックス・ガタリ三脇康生さんによる、精神分析に対する根底的な批判と重なる。
要は、臨床家と患者、スタッフと被支援者といった線引きが、能動と受動の区別に対応するのだ。
その区別を強固にする実践は、最終的に独我論へと閉じていく。

能動と中動の世界が、臨床家・スタッフを含めた、その場にいるあらゆる人の当事者性を分析すること(≒その人の本質を捉え、その変状を表現すること)を可能にさせる。
それをガタリは、制度分析と呼んだのだろう。

必要なのは、権力性を帯びる者自身の精神分析であり、権力性を帯びる者が片足を置いている場への分析であり、その両者を同時に行わせる分析の運動(≒制度分析)である。
そうした営為、それを呼び起こす運動を、「メジャー性の当事者研究」と言い換えても良い。

自らを過程の中に留まっているものとして精緻に捉えようとし、その変化のあり様を手放さないようにして、そのまま表現しようとする中動態の構え。これを、その場にいて権力性を持つ者が、自然に惹かれ、気がつくと実践している。そんな運動こそが、今まさに必要だ。

ことを「人間」として、その「属性」として捉えてはいけない(それが「能動/受動」パラダイムなのだろう)。
ことを(「変状」している)「本質」として、その「性質」として捉える。
ガタリ人間主義を批判して、「抽象機械」という言葉でその目指すべき理念を表現したのは、この「中動/能動」パラダイムを捉えたいがためだったのではないか、と思った。

そして、とりわけ三脇さんが注意を向けていたのは、とにかく「権力性」の分析へと焦点づけることだった。
浅田彰らのガタリ批評を批判し、特に1960年代頃までの初期ガタリの議論に、三脇さんは可能性を見ていた。
そこには、痛切に、権力性分析への欲望があった。
評論家のように、メタに立っての言動やアクションは、自らを過程の外に置いて為そうとするもので、そこでは足下の権力性を分析しようとする運動が、決して生じはしない。

かといって、『中動態の世界』を読み終えた今なら、メタ的に薄っぺらく言葉だけを操る評論家や、実は内心で保身のことしか考えていない権力者のことなどを、「無責任だ」と責める気持ちも、今は立ち止まって考えるべきだと感じている。
責任を問おうとする心性は、「能動/受動」パラダイムに囚われている。支配欲に囚われている。
その心性は、反転して僕をヴィラ船長のようにするだろう。

必要なのは、自らの権力性と、それが支配欲へと流れていく、そんな政治的欲望に眼を向けること。
その欲望が湧いてくるプロセスを表現すること。
支配欲≒政治的欲望が場にどのような影響を与えてきた/いるかを捉えようとし、そのように試行錯誤している自分を、そのまま表現することだ。

それは「意志」で為すのではない。
中動の構えとは、ありふれて在るもの。
つまり必要なのは、今この場にある、そんな中動の構えをただ自然に捉えていくイメージで生きることだ。
ただし、ありふれて在る中動の構えは、保守的な社会構造とそれに伴う保守的な価値観によって、常に「能動/受動パラダイム」に脅かされている(ように感じさせられる)。
つまり、中動の構えをただ自然に捉えるイメージで生きることとは、痛烈で絶え間のない、社会変革を求める運動として、表現されているように外からは見えるはずだ。
しかし、その内部にいる人の主観は、決してそうではない。強い意志としてあるのではなく、ただあるようにして生きることになっているはずだ。

…ここまでは、中動態の理論を制度分析の思想に重ねて、なぞろうとしてみたに過ぎない。
いつか僕がしてみたいと思うのは、当事者研究→中動態→制度分析という流れで、制度分析という概念とはどのようなものであるかを紹介し、現在の議論では得られていないような新たな知見を、制度分析の思想の中から見出したい、というものである。
それは、今はできない。ここでの文章は、ただ、「そこにある権力性と、支配欲へと注意せよ」と、僕へそう視線を向けるよう、あらためて促したに過ぎない。

 

4 非モテ男性論

以下、してみたいと他に感じたことを、ここに留め置く。

非モテ男性論との接点で言えば、どこかの本(二村さんの『すべモテ』の後書き?)で、二村さんと國分さんが非モテ男性論について言及しており。
そこでは國分さんが「モテたいと思う自分を感じ切り、決断し行動せよ」というような発言をしていた記憶がある。

その國分さんの発言は、まだ『中動態の世界』に取り組む前のものだと思われる。
中動態の議論を経由すると、國分さんだったら非モテ男性論へどのように言及することになるか、予想してみたい。

いま、思いつきで予想してみるなら…。「モテたい」とは何かを、それぞれが躓き、立ち止まって考える機会の提供こそが必要である、ということになるのではないだろうか。
非モテの男」に囚われてしまった自分、その過程を振り返る。
そんな自分へと変わったり、揺れたりしている状態を表現する。
まずはそんな構えが必要なんじゃないか。

…ちなみに、國分さんと二村さんとの非モテ男性談義に注意を向けていたのは杉田俊介さんであり、杉田さんの『非モテの品格』は、まさしく言論人という権力性を帯びた立場で、自分の非モテ男性性の揺れを表現するものだ。
それに喚起される他の男性性たちに向け、その男性生たちが揺らぎの中で表現されていく運動、その到来を、心の底から祈りつつ。
そして杉田さんは、個々の男性たちを変化へと誘う運動として、「男らしくない男たちの当事者研究」にチャレンジし、先鞭をつけてくれたのだった。
西井開さんの「非モテ当事者研究会」も、そうした運動の流れの中で僕は捉え、期待している。
環さん・うちゅうじんさんの「うちゅうリブ」も、そうした文脈で僕は応援している。

 

5 おわりに

…最後に、僕が『中動態の世界』の序文を読んで想起した、ある人へかけた言葉について振り返る。

僕の中にも恐れがある。
全てを打ち明けたその人から、僕がその人の無意識に深くコミットしたことで恨みを買い、復讐されるのではないか、という恐れ。
もっと踏み込むと、事態は急速的に混乱し、そこにはコミットしたくない、自分が面倒臭い事態に巻き込まれたくない、と怯えて、逃げたくなる心。

あのときの僕は、僕なりに、ギリギリまで踏み込んだ。
そもそも、何も言わずに逃げたかった。
でも、僕がその人に引き継いで、その人が応援していくだろう人々の今後を考えて、その人々と共にできる限り考えようとするならば、何も言わずに逃げることは「ない」と思ったのだ。だから、遅すぎると思ったが、コミットしたのだった。

…しかし、やはり僕は、不十分だった。僕の中の恐れや怯えを、僕は表現できずに、ある切断を行なったのだろう。だから、悔いが残っている。

僕の中には、当時も今も、山ほど不満もあるし不平もある。
はち切れて爆発しそうだ。
そうした自分も、いまここで表現しよう。
その上で、僕は、どうした構えに「なる」のか。

自分が弱いとか強いとかも、いまは表現したくない。
弱いとか強いとか表現しようとするときに、ある種の切断があって、「弱さを大切にしよう」と思うとき、それが強さを求める枠組みへの強化につながることがあるから。
今の僕は、ただ、表現しよう。今の僕につながる経験を。その歴史を。
ただそのまま、あるがまま。僕の今につながる事実として。

そうして、いま僕が片足を置いている場、僕がその場に影響を及ぼし与えた/ている部分、そうではない部分を、できる限り立ち止まり、考え、捉えて、表現しよう。
そうした動的な存在と場の中で、僕はコミットしよう。
それで結果的に、何かが生じたり生じなかったりするだろう。
その結果から、何かがわかり、何かに「なる」。

 

支配して責任を感じようとするな。

 

そのまま表現すれば、何かに「なる」。それで良いし、良くなくて良いのだ。

ブックリスト 【 まくねがおの、ぶっく・りーど・めんずりぶ 】

※ 随時更新予定…?(…しないかも)

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ウーマンリブフェミニズム

田中美津[1972]『いのちの女たちへ――とり乱しウーマン・リブ論』、河出文庫
上野千鶴子[1990]『家父長制と資本制――マルクス主義フェミニズムの地平』、岩波書店

 

【古典的な男性学論集】

・渡辺恒夫[1989]『男性学の挑戦』(日本初の学際的な男性学論集)
・井上輝子+上野千鶴子江原由美子編[1994] 『日本のフェミニズム① リブとフェミニズム』、岩波書店
・井上輝子+上野千鶴子江原由美子編[1995]『男性学――日本のフェミニズム(別冊)』、岩波書店

 

【日本版男性学

・渡辺恒夫[1986]『脱男性の時代』、勁草書房
伊藤公雄[1993]『男らしさのゆくえ』、新曜社
伊藤公雄[1996]『男性学入門』、作品社
・メンズセンター編[1996]『「男らしさ」から「自分らしさ」へ』、かもがわブックレット
・多賀太[2001]『男性のジェンダー形成――〈男らしさ〉の揺らぎのなかで』、東洋館出版社
・多賀太[2006]『男らしさの社会学――揺らぐ男のライフコース』、世界思想社
〇田中俊之[2009]『男性学の新展開』、青弓社ライブラリー
〇田中俊之[2015]『男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学』、KADOKAWA
◎田中俊之[2015]『<40男>はなぜ嫌われるか』、イースト新書
 ←【ありのままを見つめられない男性には、「心の醜形恐怖」がある? 「男性論ルネッサンス」検証 - wezzy|ウェジー
 ←【「40男」を嫌っているのは女性ではなく自分? 軽さと過酷さを兼ねそなえた『〈40男〉はなぜ嫌われるか』 - wezzy|ウェジー

 

【実践的運動の歴史】

・男も女も育児時間を!連絡会(育時連)[1989]『男と女で[半分こ]イズム――主夫でもなく、主婦でもなく』、学陽書房
・谷口和憲[1997]『性を買う男たち』、現代書館
〇だめ連編[1999]『だめ連宣言!』、作品社

 

【評論系(2000年前後~)】

小谷野敦[1999]『もてない男――恋愛論を超えて』、ちくま新書
小浜逸郎[2001]『「男」という不安』、PHP選書
加藤秀一[2006]『知らないと恥ずかしいジェンダー入門』、朝日出版社
杉田聡[2003]『レイプの政治学――レイプ神話と「性=人格原則」』、明石書店
本田透[2005]『電波男』、三才ブックス
本田透[2005]『萌える男』、ちくま新書

 

【新しい潮流(2010年前後~)】

二村ヒトシ[2012]『すべてはモテるためである』、文庫ぎんが堂
二村ヒトシ[2014]『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか」、文庫ぎんが堂
 ←【やっぱりモテなきゃダメですか? 2人の非モテが読む二村ヒトシ『すべてはモテるためである』 - wezzy|ウェジー
◎坂爪真吾[2014]『男子の貞操――僕らの性は、僕らが語る』、ちくま新書
 ←【「ゴミ」と見なされている男たちの性を、スマートに捉えなおすことは出来るのか? 坂爪真吾『男子の貞操』 - wezzy|ウェジー
奥田祥子[2015]『男性漂流――男たちは何におびえているか』、講談社+α新書

 

【男性の暴力】

宮地尚子[1998]「孕ませる性と孕む性――避妊責任の実体化の可能性を探る」、『現代文明学研究』第1号
宮地尚子編[2004]『トラウマとジェンダー――臨床からの声』、金剛出版
・沼崎一郎[2002]『なぜ男は暴力を選ぶのか――ドメスティック・バイオレンス理解の初歩』、かもがわブックレット
・中村正夫[2003]『男たちの脱暴力――DV克服プログラムの現場から』、朝日選書
・岩崎直子[2004]「男性の性被害とジェンダー」宮地編[2004]
草柳和之[2004]『DV加害男性への心理臨床の試み――脱暴力プログラムの新展開』、新水社
信田さよ子[2008]『加害者は変われるか?――DVと虐待をみつめながら』、筑摩書房

 

フェミニスト男性研究】

〇澁谷知美〔2001〕「「フェミニスト男性研究」の視点と構想 日本の男性学および男性研究批判を中心に」、社会学評論2001年51巻4号p.447-463(URL:「フェミニスト男性研究」の視点と構想

〇澁谷知美〔2003〕『日本の童貞』、文春新書(河出文庫版は〔2015〕)
・澁谷知美〔2009〕『平成オトコ塾―悩める男子のための全6章』、筑摩書房
・澁谷知美〔2013〕『立身出世と下半身―男子学生の性的身体の管理の歴史』、洛北出版

 

森岡正博杉田俊介メンズリブ論】

森岡正博[2005]『感じない男』、ちくま新書
森岡正博[2008]『草食系男子の恋愛学』、メディアファクトリー
杉田俊介〔2008〕「『男性弱者』と内なるモテ幻想」『無能力批評』、大月書店
 ←【シスへテロ男性固有の困難は、どう名指せば良いのか?(もしくは、名指すべきではないのか?) - まくねがお のブログ
杉田俊介〔2016〕『長渕剛論』、毎日新聞出版
杉田俊介〔2016〕『非モテの品格』、集英社新書
 ←【『非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か』 感想・書評とやりとり - Togetter】※烏蛇さんが僕のツイートをまとめて下さいました。誠にありがとうございます。
杉田俊介〔2017〕『宇多田ヒカル論』、毎日新聞出版
 ←【宇多田ヒカルの歌う「愛」は、男たちの新たな人間関係のヒントになるかもしれない。 - wezzy|ウェジー

 

【今後一読して、上記に加えるか検討する予定のもの】

・蔦森樹編〔1999〕『はじめて語るメンズリブ批評』、東京書籍
・須永史生〔1999〕『ハゲを生きる 外見と男らしさの社会学』、勁草書房
橋本治〔1986〕『恋愛論』』、講談社文庫(『完全版』、文庫ぎんが堂は〔2014〕)
橋本治〔2008〕『あなたの苦手な彼女について』、ちくま新書
宮台真司他編〔2009〕『「男らしさ」の快楽』、勁草書房
〇桃山商事〔2014〕『二軍男子が恋バナはじめました。』、原書房
・桃山商事〔2014〕『生き抜くための恋愛相談』、イースト・プレス
〇多賀太〔2016〕『男子問題の時代? 錯綜するジェンダーと教育のポリティクス』、学文社
・平山亮〔2017〕『介護する息子たち:男性性の死角とケアのジェンダー分析』、勁草書房

杉田俊介〔2018〕「私がフェミニズムから学んだと信じていること」『すばる2018年5月号』p.101-103、集英社

〇「特集 ぼくとフェミニズム」『すばる2018年5月号』p.84-264、集英社

 

※個人的な関心から、非モテに偏ったブックリストになっています。

おどおど桃

 おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に、という男女の固定化された分業こそ、性差別を産み育ててきたその元凶だが、それは男を山へ、女は川へ行かねばならないという強制を作りだすことによって維持されてきた。山というのは社会、川というのは家。つまり、男の『生きる』は社会に向けて、女の『生きる』は男に向けて、それぞれ存在証明していく中にあるという論理が、男女の固定された分業を通じて作り出され、それは長い歴史過程の中で巧みに構造化されてきた。

(中略)

 『お嫁に行けなくなりますョ』という恫喝は日常のささいなできごとを通じて、絶えまなく女に襲いかかってくる。よく、あたしは個人史の中で特に女を意識するように作られた記憶がない、などと言う人がいるが、女は川へ行かねばならないという外側からの強制は、いつのまにか、自ら川へ行ってしまう女を、女の中に作り出していて、〈女らしさ〉が無意識領分で操作されているところに、性差別の呪縛の、その解き放ち難さがあるのだ。

田中美津『いのちの女たちへ』より)

 

 「ないもの」を「ことば」にしていた人がいた 「いのちの女」に続く覚悟は?

(まくねがお、短歌投稿サイトUtakataより) 

 

おどおど桃

作 :まくねがお、山本謙    

底本:楠山正雄「桃太郎」青空文庫

 

第一章 はじまり

むかしむかし、あるところに、おばあさんとおじいさんがいました。毎日、おばあさんは山へしば刈りに、おじいさんは川へ洗濯に行きました。

ある日、おじいさんが川のそばで洗濯をしていますと、川上から大きな桃が一つ流れて来ました。おじいさんは、その桃を拾い上げ、抱えてお家へ帰りました。

夕方になり、山から帰ったおばあさんが、お家にあった大きな桃を、驚いてながめていますと、桃はぽんと二つに割れ、

「…ん? …んぎゃ、…んぎゃ。…ん?」

 と控えめなうぶ声を上げ、弱々しい赤ちゃんが遠慮がちに現われました。

おばあさんはますます驚いて、とにもかくにもまずは赤ちゃんをうぶ湯につかわせようとして、赤ちゃんを抱き上げました。すると、赤ちゃんはおどおどしながら、

「…スミマセン。」

 とでも言うかのように、おばあさんの顔から目を背けてしまいました。

「おやおや、何という遠慮がちな子だろう。」

おばあさんとおじいさんは、そう言って顔を見合わせた後、この子を自分たちで育てることに決めました。桃の中から生まれた子だということで、この子に「桃」という名をつけました。

 

 

時は流れ、桃は十五歳になりました。桃は元気に育ちましたが、その遠慮がちでおどおどとした感じは決して直らず、村人たちにいじめられても、あまり抵抗できない「おどおど桃」となってしまいました。

そしてある日、村では、おかしなウワサが持ち上がりました。最近村では、食べ物がよく盗まれる。どうやら、鬼がお家に忍び込み、食べ物を盗んでいるらしい。この村から遠く離れた、海の向こうの小さな島に、その鬼は逃げていった…。村人たちはいつしか、その小さな島のことを、鬼ヶ島と呼ぶようになりました。あそこには悪い鬼が住んでいて、村から盗んだ沢山の金銀財宝をため込んでいるんだ、とひそひそ言い合っています。しかし、鬼ヶ島に行って真相を確かめようとする村人は、誰もいません。

「誰かが、様子を見に行った方が良いんじゃないか?」

「鬼が攻めてくるかもしれないぞ。村に攻めてくるかもしれん。」

テポドンが飛んでくるかもしれん。」

「村の危機だ! 『村難(むらなん)』だ! 危急存亡のときだ!」

「ジェーアラートだ! 解散総選挙だ!」

…ひとしきり、村の中では大騒ぎがあったようです。そして…。

 

…なぜか、桃が鬼ヶ島へ行くことになっていたのです。

 

きっと、桃の頼みを断れない性格を知っている誰かが、そういう流れにしたのでしょう。桃は、お家に帰っておばあさんの前へ出て、こう言いました。

「あのう、桃に、しばらくおひまを下さい…。鬼ヶ島へ、なんだか桃が様子を見に行くことになったみたいで…。」

おばあさんはびっくりしておじいさんも呼び、いつものように、三人での話し合いが始まりました。じっくり桃の話しを聴いて、おばあさんは、こう言いました。

「鬼ヶ島に行くのは、止めた方が良いですね。私だったら、行きませんよ。」

「桃は、どうしたいんじゃ?」

そうおじいさんに尋ねられ、桃は、困ってしまいました。どうしたら良いかわからず、眼には涙が滲んでいます。それを見て、おばあさんがこう言いました。

「…桃も、もう、十五歳。そろそろ、桃の行動は、桃が決めて、桃が責任を取らないといけませんねえ。」

「それは、いまの桃には、ちょっと厳しすぎるんじゃないかのう…。」

「…桃、困ったときは、いつでも私たちに言って良いんですよ。困ったことがあったら、私たちはいつでも一緒に考えることができるし、失敗しても一緒にやり直すことができるんですから。だからいま、桃が、一番したいようにすれば良いんですよ。」

「わしらは、桃を応援しとるぞ。」

桃はよーく考えて、まず鬼ヶ島へ行ってみることに決めました。桃の決意の言葉を聞いたおじいさんが、

「よーし、そんな遠くへ行くんなら、おべんとうをこしらえてあげよう。」

 と言い、おべんとうのきびだんごを作り始めました。きびだんごがうまそうにでき上あがる頃、桃のしたくもすっかりでき上がりました。桃は、

「じゃあ、おばあさん、おじいさん、行ってきます…。」

 と、いつものおどおどした声をのこして、お家を出ていきました。おばあさんとおじいさんは、お家の外に立って、いつまでも、いつまでも見送っていました。

 

 

第二章 出会い

桃が海辺に向かって、とぼとぼ歩いていきますと、大きな山の上に来ました。すると草むらから、犬が一ぴきかけて来て、早口でこう言いました。

「なんか面白いことないかなないかなワンワンワン。」

桃は、犬の早口に戸惑いつつ、こう言いました

「えーっと、桃はこれから鬼ヶ島に行くんだけんども…。」

犬は、桃の言葉が終わらないうちに、こう早口で言いました。

「あっあっあっ腰になんかあるなんかあるワンワンワンワン! 腰に下げたものはなになに何なの何なのワンワンワン!」

「えっとえっと、これはきびだん

「わっわっほしいほしいちょうだいちょうだいワンワンワン! 鬼ヶ島にも行きたい行きたい面白そうだワンワンワンワン!」

「えっと、えっと…。うん…。」

桃はとりあえず、犬にきびだんごを一つあげました。犬はきびだんごを一つもらい、桃のあとからついて行きました。

 

山を下りてしばらく行くと、こんどは森の中にはいりました。桃がふと見上げると、木の上で猿が一匹、一心不乱に何かの計算をしています。その猿の顔色がとても悪かったので、桃は心配して「あのう…。」と声をかけましたが、猿は計算に夢中で、気づかない様子。そのうち、猿のお腹が「ぐーっ。」と大きくなりました。ははあ、お腹が空いているのかも。桃はそう思い、きびだんごをひとつ取り出すと…、良い香りが猿の鼻まで届いたのでしょう、猿がハッとして、こちらを向きました。

「あのう…、顔色悪いですよ。これ、食べますか。」

「…此れは此れは本当に感謝の念に堪えない。私は気が付くと過集中状態へと突入しており、空腹状態を維持したまま膨大な時間と共に現世界の生態系を体験し続けていたようだ。」

そう言って猿は、するすると木から降りてきて、今度はきびだんごを一心不乱に食べ始めました。食べ終わると、桃へ丁寧におじぎをし、お礼をしたいと、難しい言葉を使って言いました。桃は、難しい言葉に戸惑いながら言いました。

「えと、えと…。桃はこれから鬼ヶ島に行くんだけども…。犬くんと一緒に。あれ、犬くん? おーい、犬くーん。」

犬は遠くで、ちょうちょと遊んでいます。…と思ったら、「あっリス!」と、目の前を横切ったリスを追いかけ始めました。それを見て猿は、こう言いました。

「…成程。ならば、私も鬼ヶ島なる場所を目指して旅程を共にすることを提案致したい。向こうの犬科の生物は、著しく知能が劣っているように見受けられる。」

「犬くんを、そんなに悪く言わなくても…。…うん、でも、ついてきてくれると助かるよ。猿さんは、とっても頭が良さそうだし…。」

こうして、猿も桃のあとからついて行きました。

 

山を下りて、森をぬけ、こんどはひろい野原へ出ました。すると空の上で、「ケン、ケン。」と鳴く声がします。見上げると、雉が一羽とんで来て、ニコニコしながら、こう言いました。

「こんにちはー。」

「あ、こんにちは。」

「アタシ、雉ちゃん。」

「あ、も、桃です…。」

「この先、鬼、出るよ。あぶないよ。」

「うん、桃たちは、鬼ヶ島に行こうと思ってるんだ…。」

 雉と桃が話していると、犬が話に首を突っ込んできました。

「おっおっおっ、雉ちゃんも仲間に入れよう入れようそうしようワンワン! 空飛べるよ役立つよワンワンワン!」

猿も、ムッとしながら口を挟んできました。

「犬は本当に失礼千万な生物だ。初対面の相手に不躾な依頼を羞恥心なく申し出るとは。確かに上空を飛来する能力は現行の我ら一行に持ち合わせない貴重で価値あるものに相違ない。しかし通りすがりでありともすればすれ違って二度と出会うことのない不確実性を多分に要素として含む他者に相対し、即座に先のような非礼な態度で勧誘に臨むならば、本来は快諾される可能性のある任務もあえなく拒絶される可能性のあるものとして変換される恐れがないとは言えない。なあ、そうだろう、雉ちゃんと自らを名指す方よ。」

雉は、ニコニコして、こう言いました。

「うん、うん。」

犬は猿に言い負けないように、早口でこう言いました。

「猿はホントにいけ好かないいけ好かないいけ好かないワンワンワンワン! ねー雉ちゃん一緒にいこうよいこうよワンワンワン! いいだろいいだろワンワンワン! 楽しいぜ楽しいぜワンワンワンワン!」

雉は、ニコニコして、こう言いました。

「うん、うん。」

「わっわっほらほらワンワンワン! 一緒に行ってくれるって一緒に行ってくれるってワンワンワンワン!」

犬が喜び駆けまわり、桃も驚き、言いました。

「え、ついてきてくれるの? 雉ちゃん…。」

「うん、うん。」

「それは、とっても嬉しいんだけども…。あ、そうだ、きびだんご、あげるね。おじいちゃんが作ってくれたんだけんども…。」

雉は、さっきよりもニコニコし、目をキラキラさせて、こう言いました。

「わー、ありがと!」

こうして、雉もきびだんごを一つもらい、桃のあとからついて行きました。

 

 

第三章 ケンカ

一行がさらに進んで行くと、やがてひろい海ばたに出ました。そこには、ちょうどいいぐあいに、船が一そうつないでありました。一行は、さっそく、この船に乗り込もうとしたのですが…。

…そこで、大ゲンカが始まってしまいました。犬が後先考えず、船の一番前に立ち、がむしゃらに漕ぎ出そうとしました。猿が犬を押し止め、犬の行動の非論理的な点を長々と述べて、「まずは鬼ヶ島への距離と方角、着くまでの時間を類推して計算し、適切な速度と角度を確定してから出発すべきである。」と主張、ひとりで計算を始めてしまったのです。犬は三秒ほど待ったもののすぐにイライラして頭が沸騰、次の瞬間、犬と猿は取っ組み合いのケンカを始めてしまい、桃が慌てて止めに入りました。その間ずっと、雉は、離れた場所で見ています。

何とか桃が間に入り、二人を引き離そうとしています。犬はとにかくイライラし、ついにみんなの悪口を言い始めました。

「猿のヤツ、最初から気に入らなかった気に入らなかったワンワンワン! 頭が良いのを鼻にかけ、オレをずっとバカにして、バカにしてバカにしてワンワンワンワン!」

「桃だって、悪い悪いぞワンワンワン! アンタが大将のはずだろワンワンワン! なのにずーっとぼーっと立ってるだけワンワンワン! もっと猿にガツンと言ってやれワンワンワン! 頼りない頼りないワンワンワンワン!」

「雉だって、オレは腹立つ腹立つワンワンワン! お前が一番何もしない、ただ見てるだけ見てるだけワンワンワン! ズルイズルイズルイわんわんわんわん! そういうヤツ、オレ大嫌い! 大嫌い大嫌いワンワンワンワン!」

犬はひとしきり叫びまわり走りまわり、ついに、こう言いました。

「オレ、この旅を抜けるワンワンワンワン!」

 

そんな犬の言葉を聴き、興奮した猿も言いました。

「私も犬に対しては最初から猛烈にそして拭い様のない激しい違和感を持ち続けていた! この一行の旅程の方向性を定める最終審級は桃氏であることは一寸の狂いもなく確定的な事実である! だのに犬は常時先行して行動を決定し、我々一行を振り回し我々を混乱に陥れ続けて来た! 一体全体全く持って何様のつもりか!」

「お前こそ何様のつもりだワンワンワン! 何言ってるか、いっつもゼンゼン意味わかんないんだワンワンワンワン!」

「私の主張の意味を犬が解さないのは、犬の語彙力と理解力が極めて致命的に乏しいためである! 犬が日々の思考・行動において、常時内的に論理的な言語処理を実行し、深い洞察を重ね続けていたならば、緻密かつ透徹に論理性を駆使して積み上げられた末に錬成された先のような私の主張を、精確に理解することが多大な労力を費やす程の困難であるはずなど無いのだ!」

「うるさいうるさいワンワンワンワン!」

「五月蠅く耳障りなのは犬、貴様の方だ! 罵菟倭菟罵菟倭菟(ばうわうばうわう)と口汚く吠えるな! 言葉とは発せられれば発せられるほど暴力を誘発するもの、此れほど私が常日頃言葉少なく主張しようとして血の滲むような努力を欠かしていないにも関わらず、貴様はその醜く耳障りな負け犬の遠吠え一つも我慢できないのか!」

猿のこの言葉を聴いて、犬の表情が怒りのあまり、スッと青ざめるのを、桃は確かに見ました。思わず桃が口を挟みました。

「猿さん、その言葉は酷いよ。いや、猿さんが本当は何を言っているのか、桃にも意味がよくわかんなかったけども…。とにかく、犬くんに酷いことを言ったのが、桃にも分かったよ。猿さん、犬くんに、謝った方が良いよ。」

猿は、桃の言葉を聴いて、一瞬ひるんだような顔をしました。しかし、思い返したようにキッとした顔をして、桃にこう言い返しました。

「大半が完全に的外れな知見に過ぎない犬の主張において、桃が頼るに値しない存在だという議論を展開した点に関してだけは、唯一正鵠に的を射ていると私も常々想念していたところだ! あなたが私へ先のように忠告する資格など、唯の一つたりとも存在していない!」

猿はますます興奮し、いよいよ引っ込みがつかなくなったのでしょう。雉の方も向いて、こう言いました。

「雉に対しても、強く不審に思う面が無きにしも非ずだ! 現時点に至るまで、雉は一言たりとも自身の内心を吐露・開陳していない。討議に参加しない不作為は、それ自体が現状追認という効果を及ぼさざるを得ず、その点では雉も、我々が陥っているこの破滅的・壊滅的・終末論的な事態に対して、深海の如く底深く昏く重苦しい罪の一端を等しく担っているものと心得よ!」

そう叫んで、猿は最後に、こう言いました。

「私も、この旅を、抜ける!」

 

 

第四章 弱さ

…沈黙が、辺りを支配しました。犬は青ざめ俯いて、じっとその場に佇んでいます。猿はハーハー息を切らし、肩で呼吸をしています。雉は怯えた顔をして、離れて様子を窺っています。どのくらい時間が経ったでしょうか。桃が口を開きました。

「犬くんも猿さんも、ごめんよ。桃が頼りなくて…。」

 桃の言葉に、周りの空気は、ますますどんよりと重たくなったかのようでした。続けて、桃は言葉を重ねました。

「実は、桃は、この旅を、自分がしたくてしているわけじゃ、なかったんだ…。」

桃は、ゆっくりと、この旅に出ることになった経緯を説明し始めました。村の子どもたちからいじめられて、もういじめられるのがイヤで、断れずにこの旅に行くと決めたこと。自分は昔から、なよなよしているとバカにされ、おどおどうじうじしていて、みんなを引っ張る大将になんて、とてもなれないと思っていること…。そんな本心を三匹に伝え、桃は、次のように言いました。

「…だから、もう、鬼ヶ島に行くのは止めようと思うんだ。村人のみんなに、謝るよ、心から。ただ川に流されるようにしてここまできた、桃が悪かったんだ。最初から、そうすれば良かったんだ。」

そうして桃は、三匹に向けて、深々と頭を下げました。

「桃のおどおどに巻き込んじゃって、みんなにイヤな思いをさせてしまって、本当にごめんなさい…。」

三匹は、ただじっと、桃の言葉を聴いていました。

 

「…だからね、もうこれで、帰ることにしようかなって、思うんだけども…。」

ここまで伝えて、桃は、雉の言葉を一言も聴いていないことに気づき、言いました。

「ごめん、雉さんの気持ちを聞くのを忘れていたよ。ねえ雉さん、雉さんの今の気持ち、聞かせてくれる?」

桃は、雉と目を合わせ、いつもおばあさんやおじいさんが桃にそうしてくれていたような、優しいまなざしで、雉へ自分の気持ちを話すように、そっと促しました。すると、雉の口から、ことばが湧き出しました。

 

「…ごめん、バカだから、アタシ。

…わからないの、みんなの話し。バカだから。

…早いと、よくわからないの。アタシ、とろいから。

…難しくて。言うこと、わからないの。だいたいね。

…でもね、わからないと。言うとね、バカにされる。もっと。

…言えなくて。ずっと。みんなに。

…バカにされる。野原の雉のみんなに。いつも、ひとりでいたの。だから…。」

 

…雉の言葉を最後まで聴いて、桃は言いました。

「そんな雉ちゃんに、これまで気がつかなくて、ごめんね。」

すぐに猿も言いました。

「雉ちゃん氏よ、何時も、解り難い言い方をして、御免。」

続けて犬も言いました。

「雉っち、いつも、早口で、ごめんな、ワンワン。」

「ううん。」

 と、雉は、弱々しい笑みを浮かべながら、みんなに答えました。

 

雉のことばを聴いて、犬が、いつしか語り始めました。自分はいつもせっかちで、思いついたことをすぐ、してしまう。後先を考えずに。そして、前にしたことも、すぐに忘れてしまう。そのせいで、常に失敗ばかりしていて、山の犬たちからは、いっつも煙たがられている…。

「だいたい、ひとりなんだオレ、オレもひとりなんだ、ワンワンワン!」

 

犬のことばを聴き、猿も、いつしか語り始めました。自分はいつも、思いこんだらずっとそれに拘ってしまい、没頭して、そのことしかできなくなる。他の人と、何かを一緒にやろうとすると、いつも自分のしたいことを曲げることができず、相手を言い負かしてしまい、仲違いをしてしまう…。

「私も、いつも独りだったんだ。皆と、同じだ。」

 

そう言ってから猿は、犬に、次のように言いました。

「犬氏よ、さっきは、酷い事を云った。意地になっていたんだ。本当に、申し訳なかった。」

「猿っち、オレも悪口言って、悪かったワンワン。」

 

 

第五章 話し合い

桃は、みんなが仲直りしたことに、心底ほっとして、こう言いました。

「それじゃあ、帰ろうか。」

犬がずっこけ、止めました。

「桃っち待て待てワンワンワン! せっかくだから、鬼ヶ島に行ってみたいぞワンワンワン!」

「アタシも、行きたい。」

「私も同じく、行きたいと思う。だが、どのように鬼ヶ島まで行くか。その方法が問題だ。」

いつの間にか三匹が、鬼ヶ島へ行くための話し合いを始めています。慌てて桃も加わって、一人と三匹の話し合いが始まりました。デコボコの一行ですから、話し合いはなかなか、スムーズには進みません。そこで一行は、まず話し合いの決まりを定めることにしました。桃がみんなの声を聴き、猿はそれを言葉に残していきました。定まった《決まり》は、次のような八つの文章になりました。

 

《犬・雉・猿・桃が話し合いするときの決まり》
  1. 言いたいことは、ゆっくり話そう。
  2. 言いたいことは、わかりやすい言葉で話そう。
  3. 相手の話は、終わるまで、しっかりと聴こう。
  4. 相手の話がわからないときは、「わからない」と言おう。
  5. 「わからない」と言われたときは、ゆっくり、わかりやすい言葉で、何度も伝えよう。
  6. 自分の気持ちを、正直に、そのまま伝えよう。
  7. 相手のことを大事にしよう。そして、悪いことをしたなと思ったら、「ごめんなさい」をしよう。
  8. 「わからない」誰かがいないように、置いてけぼりにされる誰かがいないように、全員がわかるまで、ゆっくり、じっくり、とことん話し合おう。

 

そうして一行は、定めた《決まり》に基づいた話し合いで、鬼ヶ島に行く方法を決めていきました。犬は漕ぎ手になり、ひたすら船をこぐ。猿はかじ取りになり、指示された方向へと集中してかじを切る。雉は物見をつとめ、空を飛び船へ戻りと往復して、鬼ヶ島への方角を見定める。桃は三匹のつなぎ役で、雉からの情報を猿に伝えつつ、犬の様子を見守ってペースのアドバイスをする…。

 

そこまで決まって気がつくと、日がとっぷりと落ちていました。

「奉仕残業は、良くない。それは暗黒労働と言うのだ。」

 と猿が言い、みんなは同意して、鬼ヶ島への出発を明日へ延期することにしました。一行は桃のお家へと帰り、おばあさんとおじいさんと共に美味しいご飯を食べ、一緒に楽しくおしゃべりし、お風呂に入って、ぐっすりと眠りました。

 

 

そして、次の日の朝、一行は再び出発して、元の海べりへと戻ってきました。

海べりへ着くと一行は、ついに船を漕ぎ出しました。漕ぎ手の犬の、狂ったようなハリキリぶりは最高潮、まさにマッド・マックス・ドック! 目のまわるような速さで船は走って行きます! 猿のかじ取りの集中力は凄まじく、雉の物見も効果てきめん! 桃はあんまり役立たない!

 

…どのくらいの時間が過ぎたでしょうか。急に雉が、

「あれ、あれ! 島が!」

 と上空でさけびました。桃も、雉の示す方向を眺めてみると、遠い遠い海のはて、確かに島の形があらわれてきました。

「ああ、見える、見える! 鬼ヶ島が見えるよ!」

桃がこう言うと、犬も、猿も、声をそろえて、

「ひゃっほう、ひゃっほう。」

 とさけびました。

 

見る見る鬼ヶ島が近くなり、鬼のお城が見えました。一行はいったん船を止め、船上で再び昨日のように、今後についての話し合いを始めました。昨日定めた話し合いの《決まり》を、何度も途中で暗唱し、立ち戻り、確認しながら。ゆっくりじっくり話し合って、この後一行で何をどうするか、決めることができました。

 

話し合いを終えた頃、お日様はすっかり真上にありました。

「昼休憩なしは、良くない。それは暗黒労働というのだ」

 と猿が言い、みんなは同意して、みんなでおじいさんの作ったお弁当を食べ、腹ごしらえをしました。そして、ほんの少し昼寝をしました。猿曰く、

「此れは怠惰ではない。適切な長さの午睡は、仕事の能率を上げ、合理的なのだ」

 …そうです。

 

 

最終章 旅の行方

昼寝を終えた一行は、鬼ヶ島へと船を寄せ、上陸すると真っ直ぐにお城の前へ行って、みんなで門をノックしました。鬼退治? とんでもない! 必要なのは、お互いを知り合うこと。そのためにまず、相手の話を聴くことです。相手のことを一方的に悪者だと決めつけた行動は、何も生み出さないと、一行は身をもって知っているのです。

鬼たちはなかなか門を開けてくれず、「この島から出ていけ!」と怒鳴られたりもしましたが、一行は話を聴こうとする姿勢を粘り強く示し続けて、なんとか鬼たちと対面することに成功、鬼たちの話を聴くことができました。

確かに、鬼たちは村から食べ物を盗んでいました。しかし、鬼たちにも言い分がありました。桃の住んでいる村の土地は、もともとは鬼たちが住んでいたところだったらしいのです。けれど、人間たちの数が増えるにつれ、どんどんと鬼たちの住処が押し出され、そのことに一部の鬼が激昂、鬼と人間のケンカが始まってしまいました。しかし数で勝る人間たちに鬼たちは敵わず、鬼たちの方が悪いと決めつけられ、終いにはこの島にまで追いやられた、とのことでした。それはずーっと昔にあったことですが、最近の鬼ヶ島ではずっと不作続きで、食べ物もあまりなく、それで鬼たちは村から食べ物を盗むことにした、というのです…。

 

この話を聴いて、桃は意を決し、勇気を出して、こう言いました。

「わかりました。鬼さんたちの話を、帰って村のみんなに伝えようと思います。」

「伝えて、どうすると言うのだ。」

「鬼さんたちは、食べ物を盗んだことについて、『ごめんなさい』をした方が良いと、桃は思います。だけど、桃を含めた村のみんなも、鬼さんたちをいじめたり追い出したりした過去について、『ごめんなさい』をすべきだと思いました。そして、鬼さんたちが元いた土地でも生活できるよう、村のみんなで話し合いをしてみたいと思います。」

「ふん、世の中そんな甘くない。俺らの元いた住処に、今はお前の村があるじゃないか。俺らが、お前の村の隅っこで暮らすっていうのか? どうせ、また何かと理由をつけて、俺らをいじめるに決まってる。」

「もちろん、難しいことを言ってるってことは、よくわかってます。桃も、村ではいじめられていました。

だけど、今ならわかる。きっと、村のみんなは、桃がおどおど、うじうじばっかりしてるのに少し、うんざりしただけなんだ。実際に、そう言われたこともありました。言われた桃の方だって、ただ相手のことを怖がってるばっかりで、少しも相手の気持ちを知ろうとはしなかった。

大切なのは、お互いがお互いを知ることだと思います。桃が、もう少しだけでも心を開き、相手の気持ちを知ろうとして、話し合いをすることができたら。そうしたら桃も、もう少しだけ、いじめられなくなるかもしれない。きっと、鬼さんたちも同じです。少しずつでも良いです。村のみんなと、お話をしてくれませんか?」

 

「…。」

鬼たちはみんな、顔をしかめて、黙っています。雉が思わず、言いました。

「話すの、大事よ!」

犬も思わず、言いました。

「ゆっくり、話して、最後まで、聴くんだ、ワンワン!」

猿も思わず、言いました。

「自他の相互理解を目指し、繰り返し対話する営為が、非常に大切だ。意思の伝達に失敗した場合も、再度の疎通を試みれば良い。私もその重要性を実感した。」

「猿ちゃん、アタシ、今のわかんない!」

「了解。…駄目なら、もう一回、話し合う。これが、大事だと、わかった。」

「アタシもわかった!」

桃も思わず、言いました。

「困ったことがあったら、桃たちはいつでも、一緒に考えることができると思います。失敗したりケンカしたりしても、いつでももう一度、一緒にやり直すことができると、桃は思います。」

一行は必死に、鬼たちへ、自分の思いを伝えました。そして、桃が村の人たちと話し合ってから、もう一度鬼ヶ島へと戻ってくるまでの間に、鬼たちの間でも話し合いをしてみてはどうですか? と一行は鬼たちへ尋ねました。鬼たちは、一行の提案を聴き、戸惑いながらも、

「…やってみる。」

 と言いました。

 

 

これで、用事はおしまい。桃が三匹に向かって言いました。

「それじゃあ、帰ろうか。」

「え、金銀財宝があるんじゃないのかワンワンワン!」

「きっと無いだろう。鬼達は、食べる物もないと言っているのだから。」

「帰ろ! お家に!」

一行は、食べ物があまりない鬼たちへ、手元にあったきびだんごを、残らず全部あげました。そして、手ぶらで船に乗りました。みんなで歌いながら笑いながら、帰りはのんびりゆったりと、船をこいでいきました。

 

空はちょっとずつ茜色に染まり、雁の群れが村の方へ向かって飛んでいきました。お家では、おじいさんが美味しい料理を作って待っています。おばあさんも、しばを背負ってお家へと、ゆっくり、ゆっくり戻ってきているはずです。みんながお家へ帰ったとき、楽しい晩餐がまた、始まるのでしょう。今日も、明日も、明後日も。

 

 

おしまい。


*舞踏家の山本謙さん監修・話者、サックス奏者の吉田野乃子さん演出による、「おどおど桃」朗読劇の動画も、下記で紹介させていただきます。ぜひご覧下さい。

想定外の詩【Full ver】 https://youtu.be/bMZId0KARnA @YouTubeより

キョドるマックス ―『マッドマックスFR』の物語について、書きながら考えたこと 3

第三章 招待

 

3-1 予告編

 『マッドマックス 怒りのデスロード』(原題は『Mad Max : Fury Road」。以下、MMFR)という映画がある。まずは、この映像。

 

<参考>

・「映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード』予告編」『YouTube』2015.4.9  https://www.youtube.com/watch?v=4Krw9BbjzKQ

 

 絶賛された予告編だ。アートディレクター・映画評論家の高橋ヨシキさんは、映画雑誌の企画で、2015年(要確認)の映画ベスト10のトップに、この予告編の映像を選んだという。映画本編の公開前に、本編ではなく、その予告編をベスト映画に選ぶという暴挙。予告編の映像について、高橋さん曰く「こんなものを生きているうちに見れて良いのか」「見ている全コマにエクスタシーを感じる」。

 

<参考>

・「高橋ヨシキのシネマストリップ 映画「マッドマックスシリーズ特集」怒りのデスロードも!【nhkラジオすっぴん】」『YouTube』2015.10.9 https://www.youtube.com/watch?v=un7ABgIkIk8

 

 ただし、高橋さんとやりとりしているラジオ・パーソナリティの方は、予告編を見て「確かに凄そう」とは思ったが、「ヨシキさんほどの感動は得られなかったんですね」とも語っている。

 

 MMFR。日本では2015年6月20日公開。激しいカー・アクション映画。映画「マッドマックス」シリーズの第四作目に当たる。前三作では、迫力あるカーチェイスやアクション・ヴァイオレンスシーンの数々と、車や衣装、世界観全体の過激で強烈なデザインが話題となった。

 監督はジョージ・ミラー。第四作目のMMFRが公開されたときの年齢は、なんと70歳。MMFRの映画公開は、前作から数えて27年後。その実質的な制作期間だけを数えても、10年間以上が費やされて作られた労作。映画公開後は、第88回アカデミー賞の10部門にノミネートされ、最多の6部門(衣装デザイン賞・美術賞 ・メイクアップ&ヘアスタイリング賞・編集賞・音響編集賞・録音賞)を受賞することとなった。そんな超傑作が、MMFRである。

 

 

3-2 町山智弘さんによる紹介

 では、MMFRとはどんな映画なのか。映画評論家の町山智弘さんは、一言で言えば「メチャクチャ」、「映画史に残るデタラメさ」があると言った(以下、まずはTBSラジオ『たまむすび』2015年5月26日の映画紹介コーナーにおける、町山智弘さんの解説を参考に紹介していく。関連URLは以下の通り)。

 

<参考>

・「町山智浩 マッドマックス 怒りのデス・ロード 「2時間ブっ通しでクライマックス!!」たまむすび」『YouTube』2015.5.25 https://www.youtube.com/watch?v=kEJlRvf9D_o

・「町山智浩 マッドマックス 怒りのデス・ロードを語る」『miyearnZZ Labo』2015.5.26 http://miyearnzzlabo.com/archives/25762

 

 MMFRは、どうメチャクチャであり、デタラメか。映画が始まってすぐに始まるアクションシーン。その後もずっと、アクションシーン・カーチェイスシーンが連続する。初めてこの映画を見た人は、言葉での説明がほとんどないまま、次々と顕れるアクションシーンの嵐に圧倒され、まずは何が何だか分からなくなるだろう。この映画には、セリフがほとんどない。聴こえるのは、爆音か、クラッシュする音ばかり。

 

 さらに圧倒されるのは、アクションシーンの数々だけではない。この映画に顕れる、様々なモノ。例えば車。大型の高級車(キャデラック)を上下に二つ重ね、大型エンジン(V8)を二つ積んでいる車や…。 

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 背面に複数のドラムを剥き出しのまま搭載し、運転中に生演奏で、ドラム隊が激しくそれらのドラムを打ち鳴らしながら疾走するトラック。しかも、ドラム隊と背中合わせで、トラックの正面には膨大な数のアンプ類とギター男が控えており、ドラミングのリズムの盛り上がりと共に、ギターソロがかき鳴らされる。

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<参考>

・「『マッドマックス』のイカれた改造車を創造した男に直撃!今回も撮影中に死者が出た?」『日刊アメーバニュース』2015年05月30日 http://news.ameba.jp/20150530-604/

・「映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード』に登場するマッドなクルマを独占紹介!(前編)」『autoblog』2015.05.28 http://jp.autoblog.com/2015/05/27/madmax-cars1/

 

 極めつけは、このギター男のかき鳴らすダブルネックギター。それは火炎放射器にもなっていて、炎を迸らせながら轟音を生み出し、爆音で爆走していく…。

 

<参考>

・「Mad Max Fury Road Guitar Guy (Full Scenes)」『YouTube』2015.5.26 https://www.youtube.com/watch?v=1DcqnkzGEFQ

 

 この映画は、CGをほとんど使わないようにしている点にも特徴があり、見るものを呆れさせるような突飛なデザインの車の数々は、実際に複数台作られたものであるという。車が大好きな人や、アクション映画やヴァイオレンス映画が大好きな人は、まずこれらの意匠や仕掛けだけで満足するだろう。一見するとバカげているとしか思えないアイデアが、イヤと言うほど盛り込まれ、映像の中で次々に登場し、見ていると思わず笑ってしまう。

 町山さんは、誉め言葉としてこの映画を「バカ映画」と呼び、「見ていると、どんどん知能指数が落ちていく」、「アドレナリンはガンガン出て、知能指数がどんどん落ちて」いく映画だと述べている。強烈な映像とシーンの連続で、見終わった後はクラクラして、もうフラフラになる。

 

 町山さんは、この映画を「ストーリーがないんです。基本的に」とも解説していた。さらに町山さんは、このMMFRの解説後、ラジオパーソナリティの山里良太さんとの間で、この映画のメッセージや物語を深く考え(過ぎ?)るべきか否かをめぐって、やりとりを交わしている(上記サイト参照)。町山さんは、MMFRの登場人物のマックスについて、「主人公のマッドマックスって、物語の本筋とあんまり関係ない」と述べ、「ラスボスであるイモータン・ジョーとマックスは、互いに相手を知らないまま終わってしまう」点を指摘して、「この映画は深く考えると変な映画だ」と述べている。

 

 …そうなのだろうか。この映画は、基本的に「物語」がないのだろうか。もしくは、この映画におけるマックスは、物語の本筋とあまり関係がないのだろうか。この映画は、深く考えると本当に変な映画なのだろうか。そもそも、マックスはこの映画で主人公なのだろうか。

 

 ライムスター・宇多丸さんがTBSラジオで行っている「映画評論コーナー シネマハスラー」(当時の名称。コーナーは現在も継続中で、現在の名称は「週刊映画時評 ムービーウォッチマン」)では、MMFRを見た一般の視聴者からの感想として、MMFRに対する批判的な意見が以下のように紹介されていた。「マックスの脇役感が半端なく、物語に一向に入り込めず、感情移入できなかった」…(下記動画の3:32~)。

 

<参考>

・「【大絶賛】宇多丸 マッドマックス 怒りのデス・ロード シネマハスラー」『YouTube』2015.6.27 https://www.youtube.com/watch?v=mw4jwEIf5n4

 

 …まず、僕自身の視聴経験として、この映画を見て「物語に一向に入り込めない」とは、全く感じなかった。そして僕は、この映画の物語のことを、ずっと考え(過ぎ?)ている。この映画には、物語がないと僕は全く思わないし、そう捉えない方が良いと思っている。

 そもそも、全三作までのマッドマックス・シリーズは、極めてマッチョで、男のロマンがいっぱいに詰まったような映画だった*1。そこでは、小難しいことを考えず、ただバカになって、そこにあるヴァイオレンスやアクションや車等の意匠の過激さを「すげえ!」と言いながら楽しめる。無言がちで、強く、逞しく、そしてかっこいいマックス。そんな従来の「男らしさ」=マッチョの権化のようなマックスに、感情移入をし、ただ心惹かれて。そんな遊び場としても、マッドマックス・シリーズはあったのだと思う。

 しかし最新作であるMMFRは、その物語についてじっくり考えてみると、「マッチョに憧れる男の遊び場」に留まることを、決して許さないような部分が含まれている。まずは、そういうことだと思う。

 

 …従来の、「マッチョに憧れる男たちの遊び場」を超えて、新たな「男たちの遊び場」として、この映画を読み解くことはあり得るのだろうか。少なくとも僕は、この映画について好きなように書き/読みながら、楽しく遊んでいる。いま、まさに。僕のこの行為は、いったいどんな遊びとしてあり得るのだろう?

 

 そんな問いを考えるためには、最新作MMFRが「マッチョに憧れる男の遊び場」に留まらない作品となった、その理由を読み解くことがヒントになるように思う。この読み解きは、第四章以降で書きながら考えることになるだろう。

 

 いずれにせよ、上記の町山さんの紹介では、アクション・ヴァイオレンス映画を好まない人が、MMFRのことを敬遠してしまうかもしれない。それは、非常にもったいない。MMFRは、例えば次のような人たちにとっても、とても面白い素材だと僕は感じている。映像や音楽の芸術的表現に関心を持っている人。ジェンダーに関心を持っている人。現代社会の構造から生じる理不尽さに憤りを感じつつ、日々の生活と労働の場で闘っている人。そして、男らしくない男たち。こんな人たちにも、MMFRの面白さを感じ取ってもらうためには、宇多丸さんの時評と高橋ヨシキさんのコメントを参考にすることが、まずは最も良いと思う。

 

 

3-3 宇多丸さんの時評と高橋ヨシキさんのコメント

 

「期待を遥かに超えて、ぶっとばされました」

「大袈裟じゃなく、映画史更新レベルの一作に、マジでなっている」

「少なく見積もっても、ま、5千億点。(中略)みなさん、5千億点の映画やってんすよ。5千億点の映画、そんなあります? お前の塩梅だろうがって話だけど(笑) 俺の塩梅はとにかくいいんだよ。だまされたと思って…、とにかく今行かないヤツはバカだ! 『マッドマックス 怒りのデスロード』、ぜひ劇場でウォッチしてください!」…。

 

 ラッパーであり、TBSラジオで映画時評を担当するライムスターの宇多丸さんは、MMFRを見て、こう言っていた(以下、TBSラジオ『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』2015年6月27日の内容を参考にしていく。関連URLは以下の通り)。

 

<参考>

・「【大絶賛】宇多丸 マッドマックス 怒りのデス・ロード シネマハスラー」『YouTube』2015.6.27 https://www.youtube.com/watch?v=mw4jwEIf5n4

・「宇多丸 高橋ヨシキジョージ・ミラー監督独占インタビュー シネマハスラー」『YouTube』2015.6.27 https://www.youtube.com/watch?v=fPc68kVkrnw

・「「宇多丸 語り足りない!「マッドマックス 怒りのデスロード」高橋ヨシキ シネマハスラー」『YouTube』2015.6.27 https://www.youtube.com/watch?v=FIRSURD7CxY

 

 宇多丸さんは、この映画を最初に見た時、「あまりにぶっとばされすぎて、感想が言葉にならなかった」という。高橋ヨシキさんも、「この映画の前では、言葉は無意味なのではないか、とまで思った」と語っている。

 そして宇多丸さんは、何度かこの映画を見る中で、「…これは、凄いんじゃないすか」「…あそこって、どういうこと?」等々の言葉が、やっと出てくるようになった。毎週映画時評を担当し、映画のことを言葉にし続けてきた宇多丸さんをして、そこまで言わしめるような、そんな映画。

 

 まず、宇多丸さんが次のように言っていることに、注目したい。

 この映画は確かにド派手なアクションシーンが沢山盛り込まれている。登場人物や登場するモノ、世界観も過激で、強烈に見える。

 しかし、この映画には、直接的な残虐描写・残酷描写が、ほぼない。また、派手な展開になればなるほど物語の意味が分からなくなっていく、といったような映画でもない。アクション・シーンの間にストーリーが止まってしまうような、「アクションを魅せるためだけのアクション・シーン」も、この映画の中にはない。さらにMMFRには、ゆったりとした時間や静寂のシーンもしっかりと含まれていて、ただひたすらに小うるさくてやかましく感じるようなガチャガチャした映画とも、一線を画している。

 だから、激しいアクション・ヴァイオレンス映画に苦手意識を持っている人も、スルーせずにちょっと足を止めて、MMFRに注目してみてほしい。

 MMFRは、アクション・シーンと物語の進行を常に絡めて、物語を駆動させている。これは、どういうことなのか。ここは先に触れた、「MMFRの物語とは何か」という問いにも関わるところでもあるので、じっくりと宇多丸さんの解説を追ってみよう。

 

 まず、MMFRは開始30分、言葉での説明がほとんどないまま、登場人物であるマックスの独白と、その身に突然起きた「出来事」から開始される。マックスは、何が何だか分からない状況へと巻き込まれていくが、映画を見ている視聴者もマックスと同じ心境に立たされる。そんな状況が、開始30分間はノンストップでいきなり続く。そのため、この映画の一度目の視聴時では、「なんなんだこの世界は…」と圧倒されてしまう。だから、はじめて映画を見た直後だと、感想を言葉にし難い。

 しかし、その後に何度もこの映画を見ていくと、その舞台がどのような世界観で描かれているのか、そして各登場人物がどのような背景を持っているのかが、ビジュアル等でしっかり描かれていることを理解できていく。

 

 MMFRは、セリフが非常に少なく、その物語の構成も、極限までシンプルなものとなっている。しかし宇多丸さん曰く、それは「映画の中で語られていることが少ないことを意味しない」。むしろ逆だ。MMFRは、映画の中で語られているものが、非常に多い。ただしMMFRはセリフ、ないしは言葉で語るのではない。ならば何で語るのかと言えば…。

 

 「ビジュアルとアクションで語るんですよ。それが映画じゃないんですか」。

 

 MMFRには宇多丸さん曰く、「普通の超面白い映画の五本分ぐらいの、映画的アクション、ないしは映画的ビジュアルのアイデアが、存分にぶち込まれている」。しかもそれらが絶え間なく、常に複数で、数珠つなぎに同時進行していくようなかたちで表現されていく。そのためアクション映画として、まずはとても面白い。素晴らしいエンターテイメントであり、誰が見ても面白いと感じられる。しかもそれらは、ほとんどCGを使わないリアル・アクションであり、その点でも誰もが驚愕できる。

 さらに特筆すべきは、それらアクション・シーンがそのまま登場人物の造形の繊細な描写につながっていて、同時にそれらアクション・シーンは全体の物語を推進する力にもなっているところだ。ひとつひとつのアクションによって、ひとりひとりの登場人物に潜んでいる個性の豊かさや、物語全体の深みが増していく。ビジュアルとアクションがロジカルに組み立てられていて、個々の/全体のストーリーテリングに直結している。このような作りを指して宇多丸さんは、MMFRが「完全に、純映画的なストーリーテリングというところに、特化して機能している」映画だと評価している。MMFRは、「映画の基本、映画の根幹、映画というものの本質、その純度を、現状可能な限りまで突き詰めた」一作である、と。

 MMFRでは、撮影・美術・衣装・メイクアップ等のビジュアルや、役者陣の演技、そのひとつひとつのセリフやそれらの配置、そして音響・音楽に至るまで、全セクションのレベルが異常に高い。それら全てが、非常にロジカルに、考え抜かれて組み合わされて置かれている。そのため、セリフや言葉での説明が少なくても、映画全体のビジュアルとアクション、それらの流れによって、ストーリーや設定を視聴者にしっかり伝えている。そのため、最終的にはセリフや出番が少ない登場人物にも、そのそれぞれに、しっかりとした厚みのある物語がちゃんと見えてくる。映画を見ているだけで、寓意があり、深みのあるテーマが、その物語全体から自然に浮かび上がってくる…。

 

 まとめよう。MMFRにおける物語は、軽く振り返ってみると、非常にシンプルなものに(…もしくは、町山さんがそう言ったように、「ストーリーが基本的にない」ように)思える。しかし、実はMMFRの物語は、登場人物それぞれに用意されていて、そのひとつひとつに味わい深く、多様で数多くの意味を含んだ、複雑なものとしてあるのだ。特徴は、その物語の表現方法にある。基本的に、言葉では表現していない。ビジュアルとアクションによって。ビジュアルとアクションを徹底的に洗練し、これらの組み合わせと折り重なりによって、複雑な物語を描いている*2

 MMFRで描かれている、この複雑な物語をどう読み解くか。具体的には第四章以降で、その作業を行っていく。先にも述べた通り、ジェンダーに関心を持っている人や、現代の社会構造の理不尽さに抗いながら日々の生活と労働の場で闘っている人、そして男らしくない男たちにとって、MMFRの物語は重要なメッセージを放っていると、僕は感じている。第四章以降で、MMFRの物語が伝えてくれているメッセージとは何かを考え、言葉にしてみたいと思う。次の記事の更新には二週間以上かかるため、気になる方は、先に上記URL、特にジョージ・ミラー監督のインタビュー動画をチェックしてほしい。ジェンダーに関心を持っている人は、上記URLをチェックすれば、MMFRへの興味が十分にそそられると思う。

 

 さて、アート的な表現に関心のある人は、次のような宇多丸さんの評に、あらためて目を向けてみてほしい。MMFRは、アート映画的である。「芸術性とかでも、ちゃんと評価した方が良い」「エンターテイメントなのに、超アート的なルックもある」。

 色彩等含め、ルックは非常に斬新で、宇多丸さん曰く「バッキバッキ」(MMFRの映像を撮ったジョン・シール(撮影監督)も、なんと年齢は70歳代…!)*3。そして、音。全編通じて、サウンドデザインが非常に精密に行われている。音楽や効果音、さらにはセリフの響き等まで含めて。シーンとシーンをつなぐ役目として、次のシーンを呼び込むような音づくりが、ほとんどミュージカル的なかたちで行われている*4。音の強弱や、それぞれの音が紡ぎ出しているリズムに対しても、ぜひ注目したい。

 MMFRは、いわば「総合芸術」と言っても良いのかもしれない。文学的な意味での物語の深みと共に、視覚的・音楽的表現の美しさも同時に、異常なまでに追い求めている。映画の細部のひとつひとつから、その全体に至るまで。高橋ヨシキさんは、MMFRを「宗教芸術に近い」と述べている。宗教芸術とは、ありとあらゆるディテールにこだわるものである。その理由は、それらのこだわりが総体として、「神を讃える」という一つの目的のために、真っ直ぐ向かっているからであるという。MMFRが狂ったように一個一個のディテールや背景を考え抜き、作り込もうとしているのは、もはや宗教的情熱だと、高橋ヨシキさんは言っている。

 

 

 

 前編(第一章~第三章)は、ここまで。現時点ではまだ、僕が考えたい問いの、その外堀をほんの少しだけ埋めたに過ぎない。徐々に徐々に、問いの中心へと向かっていく。次はいよいよ、男性性とMMFRとの関係を考えることへ、本格的に取りかかっていく。まずは、ジョージ・ミラー監督のインタビューを聴くところから。そしてWeb上には、MMFRに関する沢山の言葉たちがある。それらを読むところから。書きながら考え、次回で外堀を完全に埋めて、僕の問いの中心を見定めたい。

 

 

<上記以外の引用・参考>

・「マッドマックス 怒りのデスロード」『Wikipedia』2017.6.20アクセス https://ja.wikipedia.org/wiki/マッドマックス_怒りのデス・ロード

・「MAD MAX FURY ROAD」(映画パンフレット)2015年6月19日、発行承認:ワーナー・ブラザーズ映画、松竹株式会社

 

 

 

*1:マッドマックス・シリーズの第一作目では、物語の前半で女性の強姦されるシーンが象徴的に置かれたり、マックスの妻の人物像の描き方が極めて平板な上、最終的には後のマックスの復讐劇のために殺されてしまう。その物語では、女性がモノとして扱われ、その暴力的なシーンの刺激性が利用されて、結局は男のロマンカタルシスへと回収する描写が目立った。第二作目以降では、強い女戦士が登場して男戦士と互角に戦う場面があったり、女性の登場人物が物語を推進する重要な役割を担うようになる等、強い男を描くだけの物語とは異なる側面も見せ始める。しかし、MMFR以前のマッドマックス・シリーズの物語の主軸は、強い男であるマックスが主人公となって、理不尽な暴力に対し、その復讐として対抗的に暴力を振るう、もしくは弱いものを救うための行動を主導的に取っていく。そんなモチーフが一貫していたと僕は思う。視聴者は、そんなマックスの強さに、カタルシスを得ることができてきた。

 では、第四作目のMMFRでは、それらのモチーフがどう変わったのか。もしくは、MMFRでも基本的にはこのモチーフが変わっていないと見るべきなのか。男が自らの力によって何かを実現すること。それを男のロマンと呼んでよいならば、この男のロマンをMMFRではどう取り扱っているのだろうか。それが、これから書きながら考える上での焦点となる。

*2:監督ジョージ・ミラーは、MMFRをセリフがほとんどない作りにしたことについて、インタビューでこう答えている。「私がアクションを愛してやまないのは、映画言語のもっともピュアな形だからだ。アクションは無声映画時代に作られた。(中略。ヒッチコックが、「日本人にも字幕なしで理解できる映画を目指している」といった言葉を引用して)それこそ、私がこの映画で目指したことになった。ストーリーを練る時も、脚本のブレンダン・マッカーシーと一緒に、ストーリーボード作りから始めた。台詞がほとんどないからね。ストーリーボードは全部で3,500枚ほどになって、そのほとんどが映画に採用されているよ」(映画パンフレット、p.24)。このように、MMFRに複雑な物語が埋め込まれていることは、以上の映画制作過程からも明らかである。

*3:なお、MMFRの様々な意匠・造形は、単に斬新さや過激さを追い求めているだけでなく、その世界観における合理性も追求している。このロジックについては、例えば映画パンフレット、p.29の、コリン・ギブソン美術監督)インタビューを参照のこと。

*4:MMFRの音作りとストーリーとの関係について、監督のジョージ・ミラーはインタビューでこう答えている。「私はアクション映画を一種の視覚的な音楽として捉えていて、この映画は、熱狂的なロック・コンサートとオペラの中間あたりのものなんだ。座席から観客をかっさらって、強烈でハチャメチャな旅の中に放り込みたい。そしてその過程で、観客はキャラクターたちがどんな人物なのか、そしてこのストーリーんに至るまでの出来事を知ることになる」(映画パンフレット、p.33)。

キョドるマックス ―『マッドマックスFR』の物語について、書きながら考えたこと 2

第二章 経緯

 

2-1 杉田俊介さん

 杉田俊介さんの文章を、ずっと読み継いできた。飽き性で多動の僕が継続してきた、数少ないこと。杉田ファンというより、『ザ・ファン』。杉田さんの文章は、僕のストーキング対象であり、僕は「杉田文体依存症者」である。

 杉田さんは、『フリーターにとって自由とは何か』という本の中で、自分の弱さを抉るようにして、次のように内省していた。「実際、ぼく自身の人生の問題を含め、現在の日本の若年労働者達(の一部)の無気力や見通しの甘っちょろさには、『最後には親に頼ればいい』というぎりぎりの退路への信頼には、心から嫌気がさす。吐気がする側面がどうしてもある。それは戦後の高度成長から消費バブルへといたる歴史の、最後の経済的な恩恵(?)を浴びた世代の心根に刻まれた、恥ずべき特権意識と没落感なのか。ぼくたちの生存を内蔵から骨の髄までひたすこの「甘さ」だけは、これだけは甘く見ることが決してできない」(杉田2005、p.130-131)。

 杉田さんは別の文章で、自分のことを「貧困世帯/低学歴/地方出身のロウ・フリーターですらなく、中産階級や関東圏の恩恵を散々受けてきたハイ・フリーターでしかない」と規定して、「その水増し分をも率直に認める」とも述べている(杉田2007、p.44)。その上で、自らを含む全てのフリーター≒非正規雇用者たちに向けて、こう書く。

 

 「今後はアルバイト身分の人がアルバイト身分のまま持続的に生活し食べられる環境と条件を、ぼくたち、あなたたちが当事者の意志でつくっていかないといけないんじゃないか? って。その中で、各労働者の賃金格差だけじゃなく、仕事格差(スキル格差・情報格差)の問題や社会保障の不十分さを少しでも改善しないと…。

 (中略)たとえば今の自分の仕事で10年をかけて技術や知識を高め、正社員を目指す。できれば将来は自力で事業所を立ち上げ、独立自営でやっていきたい。多くのアルバイト身分の人は各々の文脈でそう考えている。ぼくもそう考えているけどね。でも、努力してもとどかない人々が今も昔も無数にいる、いるだけじゃなくって、時が経つに連れ急斜面をなだれ落ちるみたいに増加し続ける―という話です。

 だからハッキリ言わなきゃいけない、ぼくらは一生フリーターでも生きていける。

 そのための、現実的な条件やアイディアをしつこく模索したいって思う」(杉田2005、p.177-178)

 

 杉田さんは、不安定な雇用の中で生きざるを得ない僕たちにとって、その自由とはいったい何なのかを、書きながら必死に考え抜こうとした。杉田俊介さんは、仲間たちと共に雑誌『フリーターズフリー』を作り、僕らの心と身体から発せられるか細い声を、多様な言葉たちに変えて絞り出し、練り上げ、目に見えるものにしようとしてきた。この雑誌と運動に、この杉田さんたちの姿勢に、僕がどれだけ励まされたか。何度も何度も読み返してきた。

 杉田俊介さんはずっと、障害者介助のヘルパーの仕事をしつつ、文章を書いていた。が、途中でその仕事から離れ、パート主夫として子育てしながら文章を書き継いでいった。その間も杉田さんは、自らの弱さを言葉にしようとする勇気を手放さなかった。世間のレールから外れていることへの不安。ずっと収入も生活も安定しないこと。子どもが産まれた。このままで大丈夫か。こんな自分で良いのか。

 杉田さんは近年、旺盛に文芸批評・サブカルチャー批評の文章を発表している。でもそのことは、杉田さん自身の生活と労働の安定を意味しているわけではないようだ。杉田さん自身の言葉を社会へと届ける、その回路がさらに充実し始めた。そういうことであり、そういうことでしかないのかもしれない。とにかく、杉田さんの姿勢は、以前からずっと、ずっと変わっていない。杉田さんの書くものを読んでいると、心と身体に勇気が駆け巡ってくる。僕は、ずっとそう感じてきた。

  

 

2-2 男らしくない男たちの当事者研究

 杉田さんの文章を読み継ぎながら、僕も僕なりに、男性性と暴力の問題を自分ごととして考えたいと思った。「まくねがお」という記号≒ハンドルネームを使って、主にツイッターで、ぶつぶつと、呟きながら考えはじめた。その呟いたものが、杉田さんの眼に止まったようだった。DMをもらった。僥倖。SNSってすげー。

 杉田さんと会うことになり、一緒に北海道浦河町の「べてるの家」を訪ねた。車中で、沢山の話をした。楽しかった。しあわせ。そこでの会話は、杉田さんが『非モテの品格』という本を書き上げる、最後の一押しとなったようだった。それも、嬉しかった。

 「べてるの家」への旅の中で、僕たちも「男らしくない男たちの当事者研究」をしたいよね、という話になった。住む場所が遠く離れているので、Web対談という形式でやってみることにした。

 

<参考>

杉田俊介×まくねがお「男同士で傷を舐め合ってもいいじゃないか! 「男らしくない男たちの当事者研究」始めます。」『messy』2016.12.3 http://mess-y.com/archives/38466

・「男らしくない男たちの当事者研究」の記事一覧 http://mess-y.com/archives/category/column/otokorasikunai/

 

 上記記事での杉田さんの説明を借りて、当事者研究とは何かについて、簡単に紹介してみる。当事者研究とは、自分たちの生き方を、専門家や家族から与えられるのではなく、仲間の助けを借りながら、自分のことを自分でよりよく知っていく、そのための独自の研究を行うことを言う。当事者研究は、次のように考える。人は、自分のことを案外よく知らない。経験の面では自分が自分を一番よく知っているが、自分についての解釈をけっこう間違ってしまっていたりする。自分はこんな人間なんだと思い込んだり、こじらせてしまったりする。なので、同じような経験を持つ仲間内で話し合いながら、自分に対する自分の解釈を変えていく。それぞれの「個人の語り」を大事にすることにより、それが積み重ねられてだんだんとデータベースになっていく。そうすると、もちろんそれは仲間(ピア)内でも共有できるが、仲間以外の、別の誰かや別の集団の参考にもなっていく。

 では、「男らしくない男たちの当事者研究」とは何か。上記のような当事者研究の方法を、「男らしくない男たち」を自称する僕らも、自分たちなりにカスタマイズしながら学んでいけないか。というのも、僕らは僕らなりに「男らしさ」という規範に日々苦しんだり、くよくよと悩んだりしているが、一方で支配的な「男性性」を中心とした社会の構造はそう簡単に変わらない。かといって、何もかもを自己責任のままにもしたくない。だから共通の悩みや葛藤をもった当事者同士(男らしくない男たち)の対話や関係性の中で、何かを変えていくことはできないか…。

 …僕は第一章で、「僕のこと」を述べた。それは、男性性(男らしさ)の問題とどこまで結びついているのだろうか。自分でも、よくわからない。今書いているこの文章を、別の人にも読んでもらった。するとその人は、僕が自分のことを「男らしさ」に結びつけ過ぎて考えることにより、より「男らしさ」に囚われてしまうのではないか、という危惧を感じたようだった。さらにその人は、そもそも「自分とは何か」ということを突き詰めすぎたり、誰かにプレゼンしようとしてしまうところに、現代社会における大きな罠があるのではないか、とも言っていた…。

 …そうなのかもしれない。何度でも、この論点には立ち返りたい。そう押さえておきながら、今は筆をさらに進めてみる。

 

  

2-3 仲間たちと出会うために

 杉田さんは、西森路代さんや荒井裕樹さん、熊谷晋一朗さんや松本俊彦さんと、このテーマに関わるような対話を行っている。

 

<参考>

・西森路代×杉田俊介「否定形で語られる「男らしさ」から、「男らしくない男らしさ」の探求へ」『messy』2016.8.13 http://mess-y.com/archives/34538

・荒井裕樹×杉田俊介「永遠に付きまとう「非モテ」感に、男たちはどう向き合えばいいのか。」『messy』2016.10.21 http://mess-y.com/archives/36810

・熊谷晋一郎+杉田俊介「「障害者+健常者運動」最前線 あいだをつなぐ「言葉」『現代思想』2017年5月号

・松本俊彦×杉田俊介「取り残されているのはマジョリティ側の男性」(『週間金曜日 “男”の呪いを自ら解け!』2017.6.9号

 

 …良いなあ、杉田さん。有名な人や、ラディカルで魅力的な人とやりとりできることが羨ましい、ってことじゃなくて。直接会って、その人と面と向かって対話していることが、とっても羨ましい。ぐー。

 

 …いや、真っ直ぐ書きながら考えてみよう。有名な人、ラディカルで魅力的な人とやりとりできる、そんな杉田さんのポジションに、羨ましさを感じている自分もいることを、まず率直に認める。そういう自分がいることを受け止めながら、「でも、そういうことでもないよなあ」と思う自分に、真っ直ぐありたい。そう思う。

 

 …「何者」かでないと、立っていられない。自分の考えていること、考えて何かしようと努力している姿を、誰かに向けて発信していないと、「もう、立っていられないの」(映画『何者』の理香の言葉)。そんな自分の弱さを、まずは感じ切りたいと思う。

 

 それこそ、映画『何者』の、理香と拓人との対話のように。直接、目の前にいる誰かと、面と向かって、対話をすること。目の前のその人の、そして何より自分の、心や身体から発せられるか細い声に、耳を澄ませるようにして。じっくりと、しかしゆっくり・ゆったりと聴き合い、語り合うこと。そうして気がつくと、いつの間にか自然に、その人と自分の固有の弱さが共に浮かび上がるような、そんな対話の場。そんな場が、僕もほしい。

 本来、当事者研究とは、「仲間たちと、共に」行うものだ。僕も、そうした仲間たちが身近にほしい。どうすれば僕は、仲間たちと出会うことができるのだろうか。

 

 …今の僕ができることとして。例えば、映画をきっかけにするのはどうだろう。僕たちが本当に面白いと思える、そんな映画を見て。その物語について書きながら/読みながら、僕たちの問いを深く考えられるような、そんな映画たち。こういった映画たちを媒介にして、僕たちが出会うことはできないだろうか。

 

 僕はこれまでツイッターで、映画のことを呟きながら考えてきた。そうしながら見えてくるのは、いつだって自分自身のことだった。この作業は、僕にとって、とても大切なものだった。でも、それはどこまでいっても、独白だった。

 今回は、ツイッターではなくブログで、この作業をじっくり、とことんやってみよう。ブログでやったとしても、きっとそれは、自己に閉じたものにしか、なり得ないんじゃないか。そう思う気持ちもある。でも、文章を読むこと/書くことを通じて、誰かと出会い、降り積もっていく関係だって、きっとあり得る。僕と杉田さんとの関係は、まさしくそういうものだった。ならば、さらに新たな出会いを求めるようにして、僕も書くこと/読むことに向かって、思いきり身を投じてみよう。

 

 

<引用・参考>

杉田俊介(2005年)『フリーターにとって「自由」とは何か』人文書院

杉田俊介(2007年)「無能力批評 disabirity critique A 『フリーターズフリー』創刊号に寄せて」有限責任事業組合フリーターズフリーフリーターズフリー』01号、人文書院

キョドるマックス ―『マッドマックスFR』の物語について、書きながら考えたこと 1

第一章 僕のこと

 

 …昨日の夜、パートナーと深刻な口喧嘩をした。僕の被害者意識が原因で。

 

 相模原障害者殺傷事件。トランプ現象。マジョリティ(…って誰だ?)の人の心の中には、不安や不満が渦巻いているらしい。自らの不安や不満の底から目を背け、別の何かに憎しみ(=ヘイト)をぶつける。「自分たちこそが被害者だ」と。「本来あるべき何かを奪われている」と。「奪われそうだ」と。そんな不安や不満。その底にあるものとは何か。

 

 …僕は、子どもの頃、泣き虫だった。幼稚園にいた頃。五歳のときの記憶。クレヨンの箱を落とした。机の下の床に、クレヨンが散らばった。それだけで、僕は泣き出してしまった。

 …劣等感。なぜ僕は、すぐに泣いてしまうのだろう。周りの人は、誰もこんなことで泣いてないのに。

 

 …子どもの頃、父のことを「情けない」と思ったことがあった。車に乗っていた。父が運転していた。父が運転をミスしたのか、相手が乱暴な運転をしたのか、それは覚えていない。別の車から激しくクラクションが鳴り、その車に乗る男性ドライバーが窓を開けて、父を大声で怒鳴りつけた。父は、何も言い返せなかった。

 …「情けない」。そう思った。

 

 …はじめての離職経験。仕事を辞めた理由は、色々あった。そのうちのひとつ(…?)。胸に棘が刺さって抜けないような記憶。50代の男性の同僚のこと。

 …見るからにうだつが上がらない。押しが弱い。仕事ができない。職場ではいつも小さくなり、事なかれ主義で、逃げ腰で、とにかく定時で帰ろうとする。慢性的に残業している周りの同僚から、「あいつは仕事ができないくせに、すぐに帰りやがる」と軽蔑されている。その人は上司から仕事を振られて、肩を落として時々残業している。いつもヘコヘコしている。

 …その人を見て僕は、「ここにいると、いつか僕も、ああなるのだろうか」とぼんやり思った。そして、「ああはなりたくない」と、強く思った。

 

 …僕の今。他人が怖い。他人からの、何が怖いのだろう。軽蔑されて、嫌われることが? 攻撃されることが? よく分からない。人の顔を見ることができない。どんな人に対しても、基本的には内心、ビクビクしている。オドオドしている。僕の心の中にある、慢性的な挙動不審。キョドっている。

 …このキョドりは、僕の外に出ていないだろうか。他の人に、ばれていないだろうか。

 …辛くて辛くて、もう消えてしまいたい。

 

 これがきっと、僕の本心。こんな「怯え」は、僕の核として、常にある。

 

 おそらく、僕の核は変わっていないのだ。五歳のあの頃の僕と。クレヨンを落としただけでも泣き出した僕。その後、小学生となり、一年生の一年間を学校で泣かずに過ごすことができた。それで僕は、僕の心の中にいる「泣き虫な男の子」を、殺すことができたと思っていた。思いこんでいた。でも、あの僕は、死んでいなかったのだ。オブセッション。取り憑かれ、いつも回帰してくるもの。

 

 どうも、今の僕の中にある被害者意識、不安や不満は、僕個人のことで言えば、僕の根底にある「怯え」から来ているのではないか。

 

 …その「怯え」を外に出すな。堂々としてあれ。

 

 でも、僕の心と身体は、その命令に耐えられない。必死に蓋を閉じて、「なかったこと」にしようとしても、暴れ出して馴致されない、僕の「怯え」。僕の心の底にある「暴れ馬」。いや、「怯え馬」。馴致されない僕の「怯え」は、ついに形を変え、被害者意識として、蓋の外へと噴き出しているのではないか。

 

 …「怯え」とは、見つめようとすればするほど、恐怖心が増していくものなのだろうか。自意識過剰に「怯え」を意識すると、それはどんどん強まっていくようなものなのだろうか。だったら、「怯え」のことは考えず、「怯え」に囚われないための何かを、僕は身に付ければ良いのか。

 

 …必要なのは、堂々として負けない、そんな心と身体の強さなのだろうか。この「怯え」をもう一度、本当に殺し切り、それを「ないもの」にするような強さを、僕は目指せばよいのか。

 

 …こんなふうに、もやもやと、ぐるぐると考え込んでいると、映画『マッドマックス 怒りのデスロード』の物語が、ふと思い出されてくる。

 僕は、登場人物であるマックスの「怯え」を、いつも敏感に掴み取る。僕の特殊能力。怯える心と身体の震えに共鳴し、憑依して、自他の区別はつかなくなる。マックスに接近させられては、僕との違いを何とか抉り出し、必死にマックスを突き放す。そしてまた、マックスに接近する。この繰り返しの中で、いったい何が見えてくるだろうか。

 マックスが怯えてキョドり、取り乱すとき。それは、物語の前半と、終盤にもう一度、顕れる。マックスの「怯え」は、物語の中盤で表向きは消え去ったように見えるが、終盤に再び、姿を見せる。その瞬間、「怯え」と共に湧き出した言葉があった。このマックスの「怯え」と言葉とは何か。

 

 「怯え」という、僕の固有の弱さ≒武器を、非暴力的に開きたい。この世に、善用できないものなど、なにひとつない。「善用のできないもの、自他を同時に生かすという意味での<善>になりえないものは、ほんとうは、何一つない」(杉田2016、p.271)。そう祈りながら、引き続き書きながら考え、その言葉を留めていく。

 

 

<引用・参考>

杉田俊介(2016年)「宮崎駿の「折り返し点」4 ―『もののけ姫』論本陣」『すばる』2016年7月号

「恋愛」が唯一の道か? ―『デート』最終話感想②―

エラく合間が空きましたが、ドラマ『デート』の感想を、一区切りつくまで、書き留めておこうと思います。

(実は、下記の記事のほとんどを随分以前に書いてはいたのですが、書き上げられずに中断していました。2015/9/28に、ドラマ『デート』の後日談的なスペシャルドラマが放映され、それを見ての熱が冷めやらぬうちにと思って、少しだけ手を入れて書き上げたのが、以下の記事になります)

ネタバレだらけですので、このドラマを後日見ようと思っている方は、どうかご注意ください。

 

 

 

 

 

 

  • 多くの視聴者の反応

まずは初めに、このドラマに関するNAVERまとめを、僕が読んだ感想。

 

ドラマ「デート」の最終回に脱帽・・伏線の回収が見事すぎ! - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2142713980540425801

 

前回の記事で、「最終話に出てきたリンゴは白雪姫の比喩だ」と僕は書きましたが、アダムとイブの創世記のエピソードの比喩だったようです。知らなかったなあ。

そのほか、上記のNAVERまとめでは、このドラマに散りばめられたネタの数々が解説されています。このドラマを面白く見た方は、一度ご覧になると、色々楽しめると思います。


さて、上記のNAVERまとめと、そのほかWEB上での感想を拾い読みしてみましたが…。

多くの視聴者の方は、やっぱり「恋愛」が見たかったんだなあ、と思いました。

僕とは、全く感覚が違う…。「依子と巧が、恋愛で、うまくいってほしい…!」とドキドキしながら見ていた視聴者の人が、圧倒的に多いんですねえ。

「月9ドラマなんだから、そうやって楽しむ人が多いのは当たり前だろ」と思われる方も多いのかもしれませんが…。僕はドラマをほとんど見ないタイプでしたので、そんな基本的なことも知らなかったのです。そっかあ、そっかあ…。

 

 

上記のNAVERまとめで知り、ドラマ『デート』の脚本家である古沢さんに関する紹介記事を読みました。

 

「月9詐欺で国民騙す」発言も...『デート』の脚本家・古沢良太クドカンより野心家? - エキサイトニュース
http://www.excite.co.jp/News/entertainment_g/20150216/Litera_870.html

 

僕も最初にこのドラマを見てみようと思う気にさせられた、「恋愛至上主義」批判というテーマについて、古沢さんの意図が述べられています。

 「恋愛なんてクソの役にも立たない」「結婚とは有益な共同生活を送るための契約」などという醒めた恋愛・結婚観に共感する視聴者が続出。ネット上での評価も高い。

 まるでこれまで月9作品が築き上げた"恋愛至上主義"的価値観を覆すかのような展開。だが、じつはこれは狙ったものではないらしい。脚本を担当し、"ポスト・クドカン"の呼び声も高い古沢良太氏は、脚本執筆の裏側をこう明かす。

「実は月9とは知らず、2話分書いた後に知らされたという......だから今回の目標は、月9詐欺で全国民を騙すことです(笑)」(「エンタミクス」3月号/KADOKAWA

 

また、古沢さんが脚本を書くときに考える視点が、以下のように紹介されています

 まず、脚本を書くときに古沢氏が考えるというのは、「商業的に成功するかどうか」。そこで重要になってくるのが「今」という視点と「普遍性」だという。そして、もうひとつ重要な点に、今までにない「新しさ」と「社会への影響」を挙げる。

「僕は映画でもドラマでも、『この作品で世の中が変わるかもしれない』と思いながら作ってるんです。『これで世の中変えてやる』『政治では変えられないようなことを、僕たちは変えられるんだ!』と思ってやっている。だから『この作品で、もっと社会に明るくなってほしい』というふうにも考えるんです。結果そうなることはまずありませんが、そういう気持ちから、燃えることもあります」(前出)

 なかなか気骨が感じられる力強い言葉だが、たしかに『デート』も、恋愛への関心が薄くなりつつある今という現代性を反映させながら、世間から理解されづらい主人公ふたりに、妙な共感を生み出している。これもひとつの"社会変革"なのかもしれない。 


今僕が書いている、この記事の結論として述べることに関わりますが、僕の一番の関心は、古沢さんが「恋愛」を、結局はどう描こうとしていたのか? という点です。

上記の語りにしたがうと、「月9詐欺」という言葉が示すように、古沢さんは、「恋愛」がテーマの月9ドラマのはずなのに、そのドラマの中で「恋愛至上主義」批判をぶち上げる、というかたちで、世間の意表をつき、注目を集めようとした。

でも、その「恋愛至上主義」批判を取り上げたのは、あくまでも「ネタ」のためであり。「恋愛」そのものを否定的に描く気は、古沢さんには最初からなかったのかもなあ、と思いました。

 

前回の記事でも書いたように、古沢さんがこのドラマで描いた「恋愛」は、確かにその中に「恋愛至上主義」批判を含んだ、素晴らしいものだとは思っています。

ただ、僕の関心からすると、「そうは言っても、恋愛から外れる道を選ぶことを、本気で肯定する気は、古沢さんには最初からなかったんだなあ…」とも思い、少し残念に思いました。

古沢さんのスタンスは、結局のところ、「恋愛」の枠の中から外れる気はない。(「恋愛至上主義」に踊らされているような)おかしな「恋愛」と、そうではない「恋愛」の違いはあるが、「恋愛」そのものは必要(不可欠?)のものとして捉える。そんな感じなのかなあ、と思いました。

 

 

  • 親密性と共同生活

僕はこのドラマに随分と一喜一憂させられましたが、その理由について、ぼんやり考えています。

最終話まで見て思うのは、このドラマが描きたかったことと、僕が見たかったテーマが、ややズレていたんだなあ、ってことです。

僕はむしろ、この最終話以降の依子と巧の生活や関係を見てみたかった。

契約結婚・共同生活をしていく中で、ふたりはきっとお互いにぶつかり合ったり、ケンカしたりするでしょう。

その色々なやりとりの中で、お互いが徐々に変わっていき、共同生活を創り上げていく、そのプロセスが見たかった。

要するに、このドラマのテーマは「恋愛」であり、僕が見たかったのは「親密性と共同生活」だったと。

だから僕は、すげーやきもきしてたんだろうなあ、と思いました。恋愛をめぐるドタバタ劇は良いから、早く依子と巧にくっついてほしかったんですね、僕は。

その「くっつく」っていうのも、単純な恋愛関係ではなくて。共同生活のための契約的な関係で良い。そして、その後が見たかった。そういうことだったんだろうなあ。

ただ、このドラマは、題名がそれこそ『デート』なのであって、そんなドラマに「親密性と共同生活」というテーマを求めるというのは、筋違いというもの。こればっかりは、仕方がない。

また、僕はこのドラマが描く「恋愛」について、深く考え込まされました。だから、このドラマはこのままでも、僕にとってはとても面白かったです。

 

 

  • 「運命」と「偶然」

最終回の終盤、巧と依子が幼い頃、電車の中で運命の出会いをしていたシーンがありましたね。

色々モヤモヤと考えたのですが、やっぱりこのシーン、いらないなあ…。

下記で理由を詳しく書きますが、ふたりの出会いは実は「運命」でしたー!っていうのに、僕は何だか興醒めしてしまいます。

古沢さんがこのシーンを入れた理由は、世間の恋愛観におもねるため? それとも、批判まで想定済みの燃料投下的なネタの意味合い?

恋愛ドラマの「運命」や「偶然」を、徹底的に嗤うような展開がここまでは繰り広げられていたので、最後のふたりの「運命」を見させられたとき、僕は、何だか一周回った苦笑いみたいなのは出てしまいましたけど…。

そんな相対化しきっていることへのユーモアを感じさせることが、古沢さんのねらいだったのかなあ?


またしても僕が見たいテーマの話しになってしまうのですが、そのテーマから行くと、あんな「運命」を設定に入れてほしくなかったです。

あんな安っぽい「運命」ではない、「偶然」の方を、大切に描いてほしかった。

依子と巧は、たまたま偶然出会ったわけで。しかも全く境遇も発達特性も性格も違う。そんなふたりが、たまたま、惹かれあってしまった。

そういうところを、しっかりと前面に押し出すスタンスでいてほしかったな。あの幼い日の「運命」のエピソードで、この「偶然」の豊かさが台無しになってしまったような気しました。

 

 

  • 「恋愛」が唯一の道か?

最後に、このドラマを通じて考えさせられた、「恋愛」について。

そもそも、「恋愛」でなくては、前回の記事で僕が書いたような「心の穴」の共鳴と、そこから「自己否定」を飲み下す勇気がもたらされるような関係は、あり得ないのだろうか?

この問いが、僕の中でモヤモヤと残っています。

結局、恋愛のパートナーシップがなくては、人は「自己否定」を飲み下せず、ずっとそこから目を背けて生きざるを得ないのか。

 

もちろん、ドラマ『デート』が描いているのは、恋愛をすれば全て大成功、ということではない。

人は恋愛をしていても、一生苦しい。人生とは苦しいものなのだから、それはそうなのでしょう。

ただ、このドラマでは、「人は誰もが恋愛に挑戦し、その恋愛の中で自らの『自己否定』を飲み下し、ありのままの自己を受容していこうとする契機が生じ得るんだ」ということを描いているように、僕には見えましたが…。

すると、第一話で巧と依子のふたりが意気投合しながら主張し合った、「恋愛に参加しない自由」について、それを否定してしまうような印象を、このドラマ全体が発するメッセージとして感じてしまうのです。

最終話からさかのぼってこのドラマを振り返ったときに、あの第一話の意気投合で示された主張は、どう捉えるべきのでしょうか?

 

「あの二人は、実は恋愛感情で惹かれあっていただけなんであって、あのときの主張は結局ただの『のろけ』みたいなものだったんだねー。まったく、あのふたりったら…。」

 

…そんなふうに受け取られると、僕は何だか辛いです。人が生きるうえで、「恋愛に参加しない自由」は、確かにあるはずでしょ?

月9ドラマだから、「恋愛」を軸にストーリーを進めざるを得なかった。それは分かる。ただ、だったら、例えば依子と巧以外の登場人物が、「恋愛に参加しない自由」を行使して、力強く生き抜くパートナーシップ関係を結んでいる、そんな姿も描いてみてはどうでしょうか。

どちらでも良いんだと。「恋愛」という道を選びたくなければ、選ばなくても良いんだと。そんなメッセージもほしい。だって、「恋愛至上主義」批判って、本来そういうものでしょ? 安易にネタとしてだけ用いないでほしかった。用いるならばそれを(ただのネタとしてだけではなく、)テーマとして用いて、その含意を正しく理解して、責任を持って表現して欲しかったです。

 

もう一度、問いを提示します。人が自らの「自己否定」を飲み下そうと踏み出すためには、「恋愛」への挑戦が唯一の道なのか?

例えば、「友愛」は?

例えば、「姉妹愛」や「兄弟愛」は?(それは血縁に限ったものではなく、非血縁の他人との間でも、このような愛は生じえるのか?)

例えば、自助グループの中で芽生えるような「同朋愛」は?

例えば、世間では未だ名前がつけられていないような、その人たちに固有の、新たな関係性は?

 

…「恋愛」を唯一の可能性として賭けさせようとする志向性は、危ういと思うのです。

恋愛幻想で苦しんでいる人を益々苦しませるし、実際に恋愛をしている人に対しても、ふたりだけで世界を完結させてしまう。

その延長として、現代で恋愛をテーマに描くとしたら、共依存やDVの問題を、マストで念頭に置かなくてはいけないと思います。その視点も、このドラマでは弱かったように感じています。

暴力に陥らないように、ふたりだけで世界を完結させないようにするためにこそ、色んな関係の中で人は生きていくんだと思いますし。その多様な関係の中で、自らの「自己否定」と向き合うこともできるような気もするのです。

…いや、これは事実としてそうだ、と言ってるわけではありません。僕の願望が多分にこめられている。そうあってほしいと、僕は強く思っています。

 

この『デート』というドラマは、基本的にふたりだけの閉じた物語であり、ほかの登場人物は刺身のツマのようなもの。ほかの登場人物は、ふたりを劇的な場面へと連れて行くための、舞台装置にしか過ぎませんでした。

そのせいで、このドラマが、視聴者の対幻想を強化させるようなストーリーになっている点には、留意しないといけないと思います。

恋愛を全否定するつもりはありませんが、様々な関係のかたちの、そのうちのひとつにしか過ぎないはず。

そのような現実の複雑さを、複雑なまま、ドラマとして描いてくれていたら。そんなふうに思いました。

 

 

  • おわりに

…はー、面白かった。

巧がひきこもった設定には不満がある、とか、依子の自閉特性の描写はもっと正確に、とか細かいツッコミどころは感じてますけど、それらは野暮なツッコミだとも思っていますので、自重します(すでにこう書いてるので、自重できてませんが)。


…一点だけ。役者の演技が、ほぼ全員凄かったってことには、触れておきたいです。

上記では、主人公の二人以外は刺身のツマでしかない、と書きましたが、それは物語上の位置づけの話しであって、役者さんの演技に対する評価とは、また別です。

依子と巧は元より、恋敵である鷲尾と香織、依子と巧の両親、子役の依子と巧に至るまで、素晴らしい演技に感じました。

どれも、難しい役だったと思います。よくあんなふうに、コミカルでかつシリアスに演技ができるなあ。すげえ。

特に最終話は、全員の演技のテンションが異常に高かった。役者陣がこのドラマの物語に完全に憑依しているような、神がかった演技を見せてもらえたような気がしています。


…というようなことを、延々と語っていたいのですが、キリがないのでこのへんで。

ドラマ『デート』に関わった全ての関係者の方々に、感謝の気持ちを込めつつ。

続きは僕の脳内で、ひとりウンチクを繰り広げていこうと思います。

 

 

  • 追記)

2015/09/28、スペシャルドラマ『デート 2015夏 秘湯』が放映されました。

とても楽しく見せてもらいましたし、上記の「その後の共同生活が見たかった」という僕の希望も、その一部をかなえてくれるようなものでした。ふたりの共同生活後の「うまくいかなさ」を描いてくれて、とても見ごたえがありました。

ただ、僕が上記で書いた批判は、スペシャルドラマでも当てはまると思いました。むしろ、(おそらく「恋愛」要素を欲していたファンの期待に応えたせいもあって、)恋愛以外の道は許容しない空気感が、より強まったような気もしています。

楽しくは見せてもらいましたが、後半で恋愛要素が非常に強くなってきたあたりでは、若干自分の中で距離を図りながら見ている感じになりました。

「恋愛」に全て回収してほしくないな、と。そう思いながら見ていました。

 

今後、「恋愛しない自由」も描くドラマを、誰かが作ってくれないでしょうか。

視聴率を取るのは非常に難しいかもしれませんが、間違いなく「新しい」ものになると思うし、それこそ社会変革を促すものになるでしょう。恋愛至上主義に苦しんでいる多くの人に届き、元気を与えるようなものにもなり得ると思います(今回のドラマ『デート』第1話や第2話が非常に盛り上がったのは、そのような物語を欲している層が多くいることを、示しているのではないでしょうか)。

作り手のどなたかが、果敢に挑戦して下さることを希望しています。