「自己否定」を飲み下す ―『デート』最終話感想①―

下等遊民ねがお、最後のウンチク。

 

このドラマを未見の方は、よくわからない内容となっていると思います。ご容赦ください。

これからこのドラマを見ようと思っている方は、ネタばれ満載になっておりますので、見ないことをオススメします。

 

 

 

 

 

 

 

 

  • 劣等感と自己否定

まず、最終回の結末を踏まえて、このドラマが描いていたテーマとあらすじを、簡潔に整理してみます。

 


依子は、他人の気持ちを共感的に理解することができず、家族以外の親しい人(恋人や友人)を作ることができない自分に、劣等感を持っていた。

巧は、父を侮辱されたことに傷つき、他人が怖くなってひきこもりとなり、そんな臆病な自分に対して、劣等感を抱いていた。

 

互いの弱さ。互いのコンプレックス。このふたつが偶然、出会うことになった。

依子は、巧の繊細さと、その誠実さに魅かれた。

巧は、依子の苦悩と、その真っ直ぐさに魅かれた。

互いの「心の穴」(二村ヒトシ)に、お互いが偶然、触れてしまった。

「心の穴」に触発され、自分以外の誰かのことを想ってしまう。そんな欲望が、ふたりの間に宿っていく。

 

 

依子と巧は、互いに相手の幸せを、強く願うようになった。

しかし、依子も巧も、自分に自信を持つことができなかった。

自分がパートナーになって、相手を幸せにできるとは、とても思えなかった。

自分が相手のパートナーになろうと、一歩を踏み出す勇気も、湧いてこなかった。

その底には、ふたりとも、根深い「自己否定」があった。

 

境遇も特性も性格も全く異なるふたりだったが、唯一共通している点。

それは、心の底で、自分に自信を持つことができず、自分を愛することができない、内なる「自己否定」に囚われているところだった。

 

 

  • 間接的な「告白」と、「自己否定」の飲み下し

ふたりは、そんな互いの本心を、直接伝えあう勇気も持てず、その機会もなかった。

 

しかしまるで、できすぎのドラマのように、様々な偶然が重なって…

最終話で、追い詰められたふたりは、互いの本心を吐露せざるを得なくなる。

互いの幸せを願うからこその、ギリギリの極限で。

これが、勇気を持つことができないふたりの、間接的な「告白」となった。


最終話の冒頭に、老女から差しだされるリンゴ。

恋が「禁断の果実」であるという比喩でもあるだろうし、白雪姫の魔女が差しだす毒リンゴのことも連想してしまう。


恋とは、苦しいものである。踏み出すと、一生苦しめられる。苦しみたくないなら、決して、このリンゴを食べてはならない。


「心の穴」に触れる恋は、互いの「自己否定」を抉り合うことになる。

覚悟して、恋に踏み出そうとするならば。

苦しみながらも、内なる「自己否定」を受けとめ、飲み下そうとする、その勇気が必要となる。

 

依子は、巧の告白を聴き、やっと自らの「自己否定」=リンゴを齧り、飲み込みはじめる。

巧も、依子から差しだされたリンゴを、応じるかのように力強く齧り出す。

互いの告白とその行為に応じ合うことで、自らの「自己否定」を、お互いに、やっと飲み下すことができていく…

 

 

以上が、僕の読みとった、このドラマのストーリーでした。

第一話の依子と巧の意気投合の場面と、最終話の間接的な「告白」からリンゴを齧り合うシーンは、本当に素晴らしいと感じました。

 

 

  • 良いお客さんとしての僕

僕は、『デート』を毎週見ていて、いつも良い意味で予想を裏切られ、ずっと楽しく見ていたのですが…。

第7話や第8話くらいの頃、僕はこのドラマが「結局は、世間のフツーの恋愛を賛美するだけのものである、全くもってケシカラン!」と思い込んでしまいました。

それで僕は本当に、プンプン怒っていたのです(ツイッタ―で)。

でも、最後の最終話で、またしても僕が完全に予想を外されて、うまく騙されていたことに気づきました。

 

結果から言うと、『デート』は、フツーの恋愛をただ賛美するだけのドラマでは、全くありませんでした。

むしろ、恋愛することは苦しいし、グダグダになるし、何度も目も当てられないような失敗を繰り返すことになる…。

世間で喧伝されがちな「キラキラした恋愛」は幻想にすぎないよね、ということをはっきりと描こうとしたドラマでした。

と同時に、グダグダになりがちな、苦しく辛い多くの恋愛を、「自己否定」と向き合っていく契機として前向きに描こうとする、ラディカルで挑戦的なドラマだったと思います。


プンプン怒っていた僕は、ある意味、完全に騙されたわけで…。

思い返すと、かなり恥ずかしい。今から考えると、最後の最後にひっくり返す展開だって、当然あり得るのに…。

きっと僕は、このドラマの良いお客さんだったのでしょう。凄く楽しませてもらいました。

 

なお、僕が完全にだまされた理由として…。

基本的にこのドラマ、「展開を読ませず、最後にネタばらし」って構造を、一話完結でやってきたんですね。第7話ぐらいまでは。

それが、第8話以降では、話数をまたいで、最終回に向けた複線をはっていたんですねえ。最終話見て気づいたよ。

「一話完結でスッキリ驚かす」というクセをつけておいて、最終回にはそのクセ自体を利用して、もっとも大きな驚きを演出する…。

いや、すげえわ、作り手の人は。脱帽です。

 

 

もう少しだけ、書きながら考えたいことがあるので、続きます。

 

 

 

 

 

 

 

さいごに、こそっと余談。

 

name8nameさんのブログ、最近また新しい記事が更新されましたが、非常に面白く読んでいます。

誤解する人は、そのブログが性生活の単なる暴露のようにも見えるかもしれませんが、そうではない。

自らの性を、透徹に分析しようとする強固な意志を感じます。男性として、自らの性が持つ暴力性についても目を背けず、正面から言語化しようとしている。これって、本当に難しいことだと思います。

男性の中で、自らの性のメカニズムを、ここまで赤裸々に、ありのままに分析できる人って、滅多にいないのではないでしょうか。

僕も自らの性のメカニズムを見つめたいと思っているので、name8nameさんのブログは、本当にありがたいです。いつも、勇気をもらっています。

男性社会への抵抗と共闘 ―『問題のあるレストラン』第4話感想

ちょうどつい先ほど、ドラマ『問題のあるレストラン』第4話を見終えたところです。


とても面白く、考え込まされたので、見終えた直後の感想を書き留め、書きながら考えてみたいと思います。

 

このドラマを見たことがない方には、以下の文章を読んでも、よくわからない内容になっていると思います。不親切ですみません。


また、ネタバレばかりですので、未見の方で今後このドラマを見ようと思っている方は、以下の文章は読まないことをおススメします。

 

 


なお、『問題のあるレストラン』をまだ見ていないけど、これから見ようかどうか迷っている方は、まず第4話を見てから決めるっていう手も、あるんじゃないかなあって思いました。 


このドラマの趣旨が、象徴的に詰め込まれている回なんじゃないかなあ、第4話って。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、「喪服ちゃん」メイン回のこの第4話では、僕にカタルシスを期待させ、その期待が徹底的に破壊されてしまうポイントが、大きく言ってふたつありました。

 

 

 

  • 素朴に残酷な男性

 

ひとつめは、喪服ちゃんと良い感じになる男性、「星野」が、最初はあたかも誠実な人間であるかのように思わせる展開。


ドラマ前半の星野の、あの素朴で裏表のない感じ!


それで一瞬、星野に対して男性の暴力性を内省しようとする誠実さも期待した、僕自身の馬鹿さ加減が、ドラマを見終えた今では本当に悔しいです。バカ! ねがおのバカ!

 

 

…多分星野も、ある種のバカなのでしょう。


深くは物事を考えずに、性欲の解消や狩りの勝利感、現在の辛いことからいったん逃れられそうな快楽を、反射的に追求するタイプ。

 

 

このドラマにおける、星野という人物の描写は、見事に思えました。


若いが故に、素朴でもあり、残酷でもある。


自らの男性性の暴力を内省する気配もない、ああいう男性は、確かにいると思う。

 

 

…もちろん、他人事ではありません。

 

あの無邪気で調子の良い感じ…、僕自身の内側に、今でも巣食っているような気がする。

 

そして油断していたら、その無邪気さの延長線上で、僕もいつでも残酷な暴力を振るってしまうかもしれない。

 

 

…いや、今後の話しだけではありません。

 

すでに過去、僕も暴力を振るっていたでしょう。

 

自らの権力性に無自覚だった幼い頃の僕は、星野のようなかたちではなくとも、違うかたちで、ヘテロ男性ではない人々へと有形無形の暴力を振るっていたはずです。

 

 

ヘテロ男性である自分に無自覚に、この社会で生きることは、それがそのまま暴力へとつながる…。

 

 

 

  • 明るい未来が潰えた瞬間

 

僕のカタルシスへの期待が粉々に破壊されてしまった、第4話のもうひとつの場面。

 

それは、味のわかる客にレストランが認められ、誕生日ディナーが成功するかのように思わせていくところでした。

 


もちろん、見ていて途中から、嫌な予感はしていました。


客が料理をしきりに褒め、タマコがそれを本当に喜んでいるシーンが、何度も何度も強調されるあたりで。「ま、まさか…」と。

 


そして、画面にケーキが出てきたあたりで、先の展開を薄っすら予想はしました。


でも、予想をしつつ、それでも「喪服ちゃん、それだけは止めてくれ…!」と心の中での悲鳴が止まらなかった。


タマコの、このレストランの、明るい未来への希望を、どうか壊さないでくれ、と。

 

 

 僕の(勝手な)期待もむなしく、遂に川奈さんへと喪服ちゃんがケーキをぶつけ、ふたりが揉み合っている様子を、テレビ越しに呆然と眺めながら…。


頭の中では色んな思いが駆け巡り、心の中で戦慄していました。


女同士で闘わされ、潰しあわされている状況の、そのあまりの壮絶さと悲惨さに。

 

 

 

  • このドラマが描いているもの

 

男性たちは、力で持って傲然と女性の前に立ちはだかり、自らの立場を内省するどころか、自らの権力性に気づく素振りも見せない。

 

あらゆる男性が、女性の目の前に立ちはだかり、力で屈服させようとし、弱そうに見える女性を利用しては、使い捨てようとする。


一見、理解者に見えそうな男ほど、あやうい。


人生の局所で、最も傷を残すようなかたちで、男性は弱味につけこんで、女性を裏切っていく。

 


あらゆる女性の闘いは、敗北を運命づけられている。


殴り返そうにも、その拳が全く男たちには届かない。


そして、やり場のない怒りが、自らの傍らで一緒に競わされている女性の方へと向かう。


近くにいて、自分よりも競争で優位にいるかのように見える女性が、あたかも最も憎むべき敵であるかのように見え、怒りの矛先がそこに向かってしまう。

 

 

この男性社会の理不尽さ。

 

その被害に見舞われ続ける受苦。

 

そこから絶え間なく生じる悲しみと怒り。

 

この噴き出してくる感情を、ぶつけずに済ませられるわけはない。でも、それをいったい、どこにぶつけたら良いのか。

 

 

…川奈さんへと怒りをぶつけた喪服ちゃんのことを責めることなど、絶対にできないと、一連のシーンを見ながら思っていました。

 

 

 

  • レストランが象徴するもの

 

タマコは、去ろうとする喪服ちゃんを呼び止め、「がんばろう!」と呼びかけます。


喪服ちゃんはしかし、レストランを去っていく。


このところは、本当に素晴らしいシーンだと思いました。

 


この挫折の経験と、先への絶望感は、喪服ちゃんの今にとって大きい。大き過ぎる。今は喪服ちゃんは、レストランにいられないだろう。


でも、タマコの呼びかける言葉を、喪服ちゃんは聴くことができた。


だから喪服ちゃんは必ずまた、このレストランに帰ってくるだろうと思いました。

 

 

前話の第3話ぐらいから、レストランの存在が、僕にはとても美しいものに見えて仕方ありません。


男性社会から排除された者たちの、連帯と共闘の場としての、「問題のあるレストラン」。


男性社会からは「問題のある」とレッテルを貼られるような、このレストラン。


そして、その存在が逆に、男性社会を「問題のある」ものとして告発し、同時に男性社会に抵抗していく拠点の象徴になっている、このレストラン。

 

 

タマコの「がんばろう!」という呼びかけは、明らかに、男性社会による被害者全員に向けてのメッセージだと感じます。


ときに、互いが敵のように見え、互いに叩き合い、大きな挫折に遭って、先があまりにも絶望的にしか思えなくても。

 

それでも、一緒にがんばろう、一緒に生きよう、と。

 

 

 

  • 抵抗しながら生きるために

 

この第4話が、本当に名作だなあと僕が思ったのは、レストランのみんなで一緒に、主題歌に合わせてリズムを取るシーンがあるからでした。


あのシーンではみんな、何だか少し必死そうで、真剣で、でもとても楽しそうです。

 

ともに生きていくことの素晴らしさを感じさせてくれるような、そんな甘美さを、あのシーンを見ていて感じました。

 


あのシーンを見ているだけで、僕は何だか元気が出てきました。

 


元気が無くなってきたときは、この『問題のあるレストラン』第4話を、もう一度見たいと思わされました。

 

 

僕は、男性社会の中で生きる、ヘテロ男性です。


加害者にも、加害者がなすべき、抵抗としての闘いがあるはず。

 

その抵抗の戦場で、自らをギリギリまで追い込もうとする、その絶え間ない闘いを、僕自身が継続していくための元気を、このドラマから今後も貰いたいと思いました。

 

 

 

  • オマケ

 

喪服ちゃんが会社の面接で、セーラームーンの緑を選んできた過去について、切々と独白するシーン。


喪服ちゃんの、あの壮絶な「素の露出」に対して、右端にいる面接官の男性が受け止めようと反応したシーンを、僕は凄く良いなあと思って見ていました。

 

 

誰にも届かなくとも、ギリギリまで追いつめられ、絶望した気持ちの中で自然に漏れてしまった、そんな喪服ちゃんの独白。

 

その言葉を聴こうとする他者がいてくれることで、喪服ちゃんの独白の言葉は独白ではなく、対話の言葉になりそうになる。

 

そして、喪服ちゃんの底に秘められていた拘りが、対話によって解きほぐれそうになる。

 


…でも、最終面接を喪服ちゃんはすっぽかし、喪服ちゃんがその会社で働いていく展開は、雲散霧消してしまいます。


切ない。あまりにも切ない。

 


あの端っこにいた面接官の男性と、喪服ちゃんとが、面接の後に再度出会い、さらに対話していく場面を、僕は見たかったです。

 

あの男性にどういう背景があり、どんな内面の変化があって、喪服ちゃんの言葉を聴きたいと感じたのか。それが明らかになる瞬間を、ぜひ見てみたかった。

依存、ひきこもり、選民意識 ― 『デート』第二話感想

 

ドラマ『デート』第二話の感想を書いていきます。ツイッターでの椿さんとのやりとりなどでも多くの刺激を受け、色々と思ったことを、ここに書き留めていきます。

 

『デート』未見者にはよくわからないような、不親切なものになっていると思います。すみません。

 

 

さて、ドラマ『デート』の第二話を見て、まずは次のことを、ハッキリと感じています。男主人公は、ドラマの第二話にして、非常に大切な批判を受けた、と。

 

 

  • 母子密着と依存

 

例えば、母を自然な感覚で食い物にし、そこを問えない感性。あそこは、男主人公が絶対に潜り抜けなければいけない批判だったと思います。

 

第二話にしてあそこまで深く抉るか、と正直ビックリでしたが(爽快な驚きでした)、大事な局部へと、素早く真っ先に男主人公を向き合わせる展開で、僕としてはとても嬉しかった。

 

第一話でも男主人公と母親の不気味な気持ち悪さが描れていましたが、第二話でも同様のシーンが散見されました。

婚約指輪を買う金を母にせびり、アッサリとその金を出す母。

その直後、母が息子のことを、小馬鹿にするかのように子ども扱いするシーンが続く。

息子のことを馬鹿にし、軽蔑つつも、甘やかしている母のあの感じ。

それに気づいてるんだか気づいてないんだか分からないけど、ズルズル同じ甘えた行動を繰り返す息子。

…本当に、何だか不気味な気持ち悪さを感じさせます。

 

男主人公と母の不気味な感じは、あのドラマでは、きっと意図的に、そこはかとなく匂わせる感じで表現していると感じました。

他のシーンでは、様々な人との関係性を、あれほど誇張して大袈裟に描いているのに…!

母子密着の、あの不気味な感じは、きっと誇張しては描けないのでしょう。誇張して描くと、あの微妙さが消されてしまうから。

 

終盤の男主人公の大演説を、女主人公は「死にかけの母に寄生して恥ずかしくないのか」と批判し、一度は奢られたランチ代金を、キッチリと割り勘分だけ、毅然として支払います。あそこは非常に痛烈なシーンとして、僕の眼には映りました。

  

知らない内に依存体質になってしまう。理屈を並べて、そこと向き合えない。

あのドラマは、ニートやひきこもり系の若者に対して、非常に強烈なメッセージを発していると感じました。

 

 

  •  ひきこもり問題とエンタメ表現

 

一方で…。

 

男主人公には、対人恐怖的な症状が出ていること(誇張して、あまり深刻ではないように表現しているところを、どう見たら良いものか…。エンタメ的な演出上、仕方がないのかもしれないけど…)。

 

「35歳まで働いたことがない人間を雇ってくれるところなんて、あるわけがないだろ!」という、男主人公の叫び。

 

母は身体が弱り始め、家に遺産はなく、今の生活を維持できなくなるタイムリミットが、刻々と迫っていること。

 

…それらの理由から、男主人公がホントになりふり構わず、パートナーシップ契約を結んでほしいと、女主人公へ「誠実に」頼み込む…。

(自分は一度も働いたことがないことを正直にありのまま告白しつつ、「家事も育児も全部する」「専業主夫として努力する」と訴える…)

 

 

これらは、ひきこもり問題の深刻なところを、こすってきたな、と感じます。

 

先にも少し触れましたが、誇張表現がその深刻さを殺いでいることについて、考え込んでいます。

ひきこもりの問題は、本当は、コミカルにはとても描けないような、深刻な問題です。

深刻なひきこもりで追い詰められての家庭内暴力事件は、表に出てこないものも含め、多々あるはず(親が子どもを殺す、もしくは子どもが親を殺す事件がときどき報道されますが、あれは間違いなく「氷山の一角」です)。

長年のひきこもりによる対人恐怖的な症状も、根性論で何とかなるようなシロモノではないケースが、多々あるはずです。

ちなみに、これは何も男性/息子だけの問題ではない。社会には、女性/娘さんが同様の状況に陥っているようなケースも、世間の目に触れないパターンも含め、沢山あるんだと思います。

ドラマでは、この深刻さを殺いでいることが、想像力の欠如したニート・ひきこもりバッシングを生んでしまうのではないか、と危惧してしまう反面…。

コミカルにデフォルメされているからこそ、月9ドラマに耐えられるエンタメ性を維持していて、多くの人に問題提起する素材になっているのかもしれません…。

 

 

男主人公が理屈を並べて演説せざるを得ないのも、それ以外に全く武器がないからです。

そのぐらい、状況は逼迫している。

男主人公のあの滑稽な必死さは、以上のように理解したいなあ、と思いました。

 

 

それにあの演説の理屈には、確実に一理あるのです。

「働けない人間に価値がないとするのは、おかしい」

僕も、全くその通りだと思う。ただ、後述の点だけが、僕にはひっかかった。

 

 

次回予告では、女主人公が男主人公に、働かないと選択をしたのはなぜなのか、と質問するシーンが映ってましたね。その理由が何なのか、僕もとても知りたいので、次回が非常に楽しみです。

 

 

  • プライドと選民意識

さて。ひとつのことが、とても気になっています。

 

それは、「男主人公は、プライドが高いのか? それともプライドを棄てているのか? 」というところです。

 

行動から見ると、プライドを棄てているようにも見えます。

自分がニートであることも包み隠さず告白。

なりふり構わぬ土下座。

専業主夫をやりますから、どうか寄生させて下さい」と、ここまで下に降りていける人も珍しい(そこにはファンタジーさを感じますね)。

  

一方で、自分は「高等遊民」であると主張し、周囲の大衆・愚民とは違うと言い張る。

この、強烈な、選民意識。

 

新たな結婚/共同生活観を創り出そうと主張する男主人公*1

 

しかしその根底には、「自分は他より優れている」と信じる強烈な自意識があり、行動を支えている。

 

世間の多数派の男性観から見ると、それとは真逆な、男らしくなく、競争する気もなく、プライドを捨て切った行動をしているようにも見える男主人公。

しかしその底には、「自分は上なんだ」と思い込む精神が潜んでいる。

こんな、捩れた構造がある。

 

 

僕は、このドラマの作り手が、この選民意識こそを批判し、そこから抜け出す道を提示しようとしているのかなあ、と思いました。

新たなジェンダーセクシャリティ観を紡いでいこうとする人が往々にして陥りがちな罠。それが、この選民意識なのではないか。

自分事として、以上のような問いが突き刺さってきました。

 

 

選民意識を底に潜ませた言葉や思考や行動では、他者/自分と向き合うことはできない。

女主人公が「(話しの内容は)理解します」と述べつつも、パートナーシップ契約の相手としては拒絶をし、男主人公の元から去っていったように。

  

男主人公は、この女主人公の行動から学び、自らの選民意識に気づき、そこと向き合って、闘わなければならない。

  

…ということで、今後の展開では、男主人公が自らの選民意識と向き合い、格闘し、それを超えていく過程が描かれていってほしいな、と勝手な期待をしています。

 

もちろん、女主人公の方も、大事な問いにぶつかり、乗り越えていくのでしょう。こちらに注目して見ていくのも非常に面白いでしょうね。

自閉特性を持っていること。

女性であること。

家族主義。

そしてやはり、内なるプライドとの格闘…。

僕がペラペラと語りながら考えても良いのですが、女主人公に関しては、どなたか別の方の感想を聞きたいなあって思っています。

というか、僕は男主人公にどうしても憑依してしまうので…。

 

…そうなのです。このようにドラマの感想をブログで一方的に書き散らかしている僕こそ、自室で小説や映画を見ては勝手に独白して過ごす男主人公の、似姿なわけですね。

全くもって、あの男主人公は、他人とは思えぬ。

 

それにしても、本当によくできたドラマだなあ。

つか、僕は普段ドラマなんて全く見てなくて、こんなふうに第一話からドラマを見るなんて、ほぼ始めてなんですが。

日本のエンタメ表現界ってマジすげえ。

 

下等遊民の僕には、来週が来るのが、とても楽しみです!

*1:恋愛観については、両主人公とも今のところ、「恋愛をしたくなくても偏見を受けない社会であれ」ということ以上の主張はしていません(「恋愛不要者」許容論?)。でも、今後の展開では、恋愛を単なる不要なものとしてだけ捉えるのではなく、「新たな恋愛観」を男主人公と女主人公が創っていこうとするのではないか、と予想しています。ドラマの題名が『デート』なのですから、きっとそうなっていくと思っているのですが…。

痴漢問題に対する、今後のアプローチ方針

前記事をまとめた上で、今後の僕なりの思考の方針を、メモ的に。

 

 

僕自身が、今後集中して考えてみようかなあ、と思っているのは…

 

痴漢被害の事実を語り辛い/聞き辛い状況を改善することについて」。

 


痴漢被害のほか、幼児の性被害や、その他の性暴力被害のことを話題にすると、聞く側の人が…

 

あたかも「自分も責められている」という感覚になって…

 

まともに取り合わなかったり、激怒したり、二次被害を及ぼすような助言・発言をしたりする…

 

…どうも、そんなケースが多発しているようです。

 

 

 


周囲の人がこのような反応をしてしまうからこそ、被害に遭ったり、被害を避けるための対策を考えたいと思った人は、そのことを全く周囲に相談できなくなる。


悪循環なのは、例えば痴漢被害に遭った場合、こういう環境のせいで尚更「手間がかかる」と思ってしまう(その通りなので、責められない!)ために、周囲に被害の事実を訴えることなく、被害の事実が隠れてしまうこと。

 

すると周囲の人は、そういう事実があったことも知らず、ろくに考えることもなくて、無関心のままになる。新たな被害が次々生じても、この構図はずっと変わらない。


語りながら考えることのできる空間がどんどん縮小していき、人々は萎縮しながら不安や恐怖心ばかり煽られ、残るのは「他者への不信」ばかりです。

 

この「不信の体系」ばかりが強化されていく構造にこそ、つっこんでいきたい。

 

 

痴漢の事実が疑われたら、じっくりとその場で対応をして、そのために学校や仕事を遅れたとしても、仕方がないとする。そういう文化を、学校や職場で育むこと。

 

学校の同級生や職場の同僚、家族や友人・知人に、痴漢の被害があった事実を伝えても、過剰に受け取られず、もしくはスルーされることもなく、その事実(を知ること)によって生起した自分の心情を、言葉でアサーティブにやりとりできて、互いに理解し合えるような、そんなやりとりを関係の中で作っていくこと。

 

誰もが快適に生活するためには*1、こういったやりとりの労力が柔軟に認められるような「ゆとり」や「余白」、「穏やかさ」が、電車内は勿論、学校や職場などの空間や、家族や友人知人の関係の中で、必要な気がします

 

 


さて、僕の場合は特に、男性が性暴力関連の話題を耳にすると、「自分も責められている」という感覚になってしまう構造にこそ、分析のメスをもっといれていきたいと思います。

 

このようなアプローチの参考になるのは、例えば以下のような記事だと思います。


第1回 第三項としての「研究」■ 湯浅 誠|かんかん! -看護師のためのwebマガジン by 医学書院-

 

「責められている」と感じてしまう構造分析と同時に、このような萎縮した感性を解除して、他者へと開いていく契機についても、考えていきたいと思っています。

 

これは、田房永子さんが提起してくれた、「怒男性」(どだんせい)分析という宿題を、今後あらためて意識するということでもあります。


『膜』問題と『怒男性』⇔『ネガ男性』 - まくねがお のブログ

 

 

 

 

この宿題を考えるための素材を、最後に列挙しておきます。


痴漢被害の実感と危機意識、危機管理についてのまとめ - Togetterまとめ

 


子供の性犯罪に対する夫婦間のズレ - 田舎で底辺暮らし

 

 

 

*1:痴漢冤罪対策のためにも、ひとつひとつの事実が、焦らずゆっくりと正しく検証されるはずだという安心感こそが必要な気がします。

痴漢対策をしっかり考えるための「読み物」「アイデア」集

以前、「痴漢に関する論点」という記事をいくつか書いていましたが、まとめあげられずに中断していました。


この間、主にツイッターから痴漢対策に関する情報を集めていました。

 

そして、有益な情報が掲載されているサイト等を沢山知ることができました。


パッチワーク的に、それらの情報を以下に貼り付け、自分用のまとめとしたいと思います。

 

 

  • 入り口として


まず、柴田英里さんのこちらのコラムが、非常に読みやすくシンプルにまとめられている上、大切な内容が沢山盛り込まれています。


しつこいナンパや痴漢被害を「言えなくする」ミソジニーとミサンドリー - messy|メッシー

 


ミソジニーとは「女性憎悪」のこと。

 

ミサンドリーとは「男性憎悪」のこと。

 

これらの価値観が底にあり、痴漢その他の性的嫌がらせを、社会で「言えなく」させている、というもの。しっかりした分析の眼差しが、記述を支えています。

 


さらにこちらの記事は、語られない/語り辛い痴漢・性的嫌がらせの実例が、読みやすい形で表現されていて、一読することで沢山の示唆をいただけます。


こちらの記事の記述は、女性にとっては「あるある」と感じるようなものでしょうし…。


一部の男性にとっては、意識もしていなかった全く知らない世界に感じて、大事な発見が多いかもしれません。

 


「「匿名性」を糧にぶつけてくる性欲が一番厄介」と述べているところは、現在蔓延している痴漢被害のほか…。

 

SNS上で起きているヘイト行動の一部にも、関連する知見だと思いました。


ムシャクシャのイラだちをぶつける「はけ口」のような痴漢、性的嫌がらせ、ヘイト行動が存在していること*1

 


…まずはこのことを、しっかり押えたいです。

 

 

 

  • データから学ぶ実態と対策

 

痴漢の実態を調べたデータを学ぶことができる、ネット上の読み物を、ふたつほど列挙してみます。

 

ひとつめ、usausa1975さんによる、「痴漢に関する資料のまとめ」


痴漢に関する資料のまとめ - うさうさメモ

 

こちらは、usausa1975さんが以下の4つの調査研究を分析した結果がまとめられています。

 

  1. 「電車内の痴漢撲滅に向けた取組みに関する報告書」警視庁(2011)
    http://www.npa.go.jp/safetylife/seianki/h22_chikankenkyukai.pdf
  2. 女性専用車両の学際的研究 性暴力としての痴漢犯罪とアクセス権の保障」居永正宏ら(2008)
    http://www.hs.osakafu-u.ac.jp/page2/page22/gakusai2007light01.pdf
  3. 女性専用車両に関する一考察~痴漢被害の実態とともに~」岡部千鶴(2004)
    http://ci.nii.ac.jp/naid/110004029441
  4. 「男女間における暴力に関する調査」総理府(2000)http://www.gender.go.jp/e-vaw/chousa/08.html

 

ここでは、まとめのところだけ抜粋させていただきます。

 

 

•女性の14~49%が痴漢被害の経験がある。


•痴漢被害にあって通報するのは1割程度と考えられる。


•痴漢にあっても、3割から5割の人はそのまま我慢してしまう。


•1割程度の人が痴漢被害の目撃経験があるが、「見て見ぬふり」など何もしない人が半数程度いる。

 

•30歳代・40歳代の会社員が、通勤時間帯に、通勤で利用している路線の電車内で、偶然近くにいた被害者に目を付けて、痴漢行為に及んだ例が最も多い。電車内の発生箇所は、左右のドアとドアの間が多い。被害女性はスカートを履いていた人が多い。

 

•痴漢からの自衛策としては、女性専用車両が多くの人に利用されている。

 

•男性の約6割が痴漢に間違えられるのではないかという不安を抱いており、痴漢そのものに不安を抱いている女性の割合と同程度か、より多い。

 

 

 

痴漢被害に遭われた女性が、沢山存在していること。

 

通報できず、そのまま我慢してしまう被害者の方が大勢いること。

 

痴漢を目撃しても、見てみぬふりをする方が大勢いること*2

 

…などの実態が、データからも確認できます。

 

 

ふたつめ、usausa1975さんも分析されている上記1.警視庁の調査を分析され、まとめの中で対策まで考察されているのが、紅蓮の猫さんのこちらのツイート群。


紅蓮の猫さんによる、電車内痴漢についての実態と対策調べてみた - Togetterまとめ

 

こちらもまとめのところだけ、抜粋させていただきます。

 

 

①痴漢は誰でもあう恐れがあります。犯人は被害者を選んでません。偶然近くにいた人を襲います。


②ドア付近から離れることで、痴漢にあう確率を下げられます。特にドア付近4隅は避けましょう。


③防犯カメラの設置は今後推進されるべき有効な手立てであると考えられます。


④時間帯を避ける、痴漢被害を訴える、には、窓口の周知、体制の整備、企業や学校側の対応がまず必要です。


女性専用車両の存在は確実に被害を減らしています。


⑥車内アナウンスや警備体制の強化も今後継続して行うべき施策の一つです。

 

 

とても参考になる知見ばかり。

 

ただ、通勤や通学の場合、時間帯を簡単にズラせるものでもなく、ドア付近4隅を避けたくても、日によっては不可抗力でその位置に収まってしまう場合もありそうです。

 

紅蓮の猫さんも指摘されているように、窓口の周知や体制の整備、企業や学校側の対応が必要、とのこと*3

 

そのことを前提にした上で、それでもできる個人的な対策を考えるために、以下のようなアイデア群は参考になりそうです。

 

 

 

  • 被害に遭ったとき用の痴漢対策アイデア

 

Cookさんがツイッターにて、痴漢対策(被害時に周囲に気づいて貰うための方法)を集約して下さっています。


 Cook on Twitter

 

そこで紹介されている、被害に遭ったとき用の対策を六点、以下で列挙しておきます。

 

 

1)「アプリ」戦法。


言いたくても言えない「助けて」を鳴らす、痴漢撲滅アプリ『KOE』 | HeatApp!

 

もし、なにかあったら『KOE』を起動して、真ん中の「HELP」ボタンをタップ。


音量MAXで警告音が鳴り響き、周囲に身の危険を知らせることができる。


マナーモードにしていても自動的に音量が最大になるとのこと*4


防犯ブザーは持っていなくても、スマホなら常に持ち歩いているもの。痴漢に限らず、とっさの大声が出ない場面で力になりそうなアプリ。

 

 

2)「ハンカチ」戦法(「体調不良(のふり?)」戦法)

犬越 on Twitter

 

痴漢に接触されたら、ハンカチに口を当てて具合悪そうに振る舞う。


そのほか、具合が悪いということで、しゃがみこむ、吐きそうな素振りを見せる、という案も挙げられていました。


実際に被害に遭ったら、事実、そのように具合が悪くなるような気もする…。

 

それを行動に表すことが、更なる被害を防ぐことにつながるのかもしれません。

 

 

3)「クリアファイル」戦法

FJ ( fujimatsu ) on Twitter

FJ ( fujimatsu ) on Twitter

FJ ( fujimatsu ) on Twitter

 

「助けてください。警察にすぐ連絡してください」と書いた紙をクリアケースにいれたものを持ち歩く。


ストーカー被害に遭っていたとき、これを通りがかりの人に渡し1度連絡して貰えた、とのこと。痴漢にも応用可能かも、との提案です。


提案者の方は、警察の方から「定期サイズのカードに書いて持ち歩け」と言われたそうですが、道端で確認しづらいものを知らない人から渡されても普通は避けると思い、パッと見で困っていることがわかるようB5~A4サイズの雨にも強いクリアケースに大きく書いて入れていた、とのこと。


「刑事さんの名刺も入れておいた」というのも、非常に優れた工夫だなあ、と思いました。見た人が動きやすくなる効果がありそうです。


提案者の方曰く、

 

「変な人に絡まれやすい人は、「助けて」クリアケースとかカードを持ち歩くと良い、とっさすぎて声が出なくても、最悪そのカードを通りすがりの誰かに渡すことだけに集中する、とか周知されたら良いのではないか」

 

…とのこと。


ムシャクシャのイラだちをぶつける「はけ口」のような痴漢、性的嫌がらせは、抵抗できなそうな方を狙ってくる。しかし、悪いのは、そういう対象者を狙ってくる卑劣な加害者です。


「自分は変な人に絡まれやすいかも…」と思われた方は、お守り代わりにでも「クリアファイル」や「カード」を持つことは、良い方法かもしれません。

 

 

4)「ケータイかざし」戦法

犬越 on Twitter

 

「痴漢のいる方向にケータイをかざす(後々言いがかりを付けられないためにカメラ等は起動させない)」というものです。

 

…ちょっと勇気が必要だったり、体勢によっては難しい場合もあるかもしれませんが、提案者の方はこの戦法で一度撃退に成功しているとのこと。

 

 

5)「ちょっと!」戦法、ダメなら「周囲に場所移動を伝える」戦法

倉ロッタ on Twitter

 

きつめの怒り口調で「ちょっと!」とだけ声を上げる。


察しのいい女性が周りにいれば「痴漢?」とか「どうかしました?」と声をかけてくれます。


それでダメなら「場所を移動させてください」と周りにお願いする。


提案者の方も「この戦法は実用的だ」とオススメしていますが、僕もその通りだなあと感じました。

 

 

6)「身内いるよ」幻惑戦法

猫村222 on Twitter


痴漢に遭ったら「お兄ちゃん」や「お父さん」とボソッとつぶやく、というもの。


かなり難しいかもしれませんが、あたかも「向こうに身内の男性がいるんだ」というようかたちで、声を出してみるのは有効かも…?


(フリだとバレたときが、返って怖いかな…)

 

 

 

  • 目撃したとき用の痴漢対策アイデア

 

Cookさんの上記ツイートでは、痴漢を目撃した方が周囲にそれを気づいて貰うための方法についても、集約されています。以下、ふたつ列挙します。

 

 

1)「体調気づかい」型声かけ戦法
 犬越 on Twitter

 

「あれ、痴漢に遭ってる…?」と思えたら、被害者と見られる方に、「具合悪そうに見えますけど、大丈夫ですか?」と声をかける。


この戦法は、僕にはとても良いと思いました。冤罪のこともあり、躊躇しがちな状況の中で、この戦法は非常に有効だと思う。


痴漢対策のことを考えていて、つくづく思うのは、痴漢被害/加害者の周囲の人々が、見知らぬ人同士の閉鎖された空間の中であっても、人を人として尊重し合う姿勢を、協力して互いに作り上げていくことこそ大切だ、ということものです。


僕は、周囲の人が「あれ、痴漢かな…?」と思ったら、なるべく躊躇なく「体調気づかい」の声かけをしたら良いと思っています。こういうアクションが、人を人として尊重し合う雰囲気を作り出す。


勘違いだったら、「あ、すみません。勘違いでした」で済みますし。

 

 

2)「緊急速報メールの着信音」戦法

えぼり on Twitter

 

緊急速報メールの着信音を鳴らし、周囲の人たちがみんなごそごそスマホや携帯見だした隙に、被害に遭われている方へ合図して、自分の後ろに入らせて庇う、というもの。

 

テクニカル! すげー!


鳴らし方は、緊急速報メールの受信設定画面で受信音確認から可能、とのこと。

 

この戦法は、ウデがいるかもですね。

 

 

 

  • おわりに


…これらの対策・戦法については、読まれた方が…

 

「自分にとってはどれが一番使いやすいかな…」

 

…とあれこれ考えて、自分流にアレンジして活用するのが良いんじゃないかなあ、と思いました。

 


僕の場合は、とりあえず…


□ 被害に遭った場合は、5)「周囲に場所移動を伝える」戦法


□ 目撃した場合は、1)「体調気づかい」型声かけ戦法(被害に遭われている方が、ハンカチを当てていようがなかろうが、「あれっ」と思ったら、なるべく積極的に声をかけるイメージで)


…を使ってみたいなあと思っています。

 

 

usausa1975さんと紅蓮の猫さんの上記サイトからは、さらに考えたいと思う情報や論点が沢山掲載されていたのですが、それはとりあえず今後の宿題にしたいと思っています。

 

*1:いじめの構造とほぼ同じですね…。

*2:痴漢冤罪の恐れが、大きく関連しているようです。詳しくはusausa1975さんの元サイトを参照のこと。

*3:さらに突っ込んでいけば、自分の属する組織の中で、痴漢対策のことを話し合えるような文化があるか、というところが焦点になるだろうと思います。ここの部分を、僕はもっと深堀りしていきたい。

*4:「微妙な」痴漢被害に遭っているときは、これを押すのを躊躇するかもしれませんね…。音量MAXですから、押すことに思い切りと勇気が必要そうです…。加害者も微妙なところを狙ってきそうだし…。ただ、こういうアプリを持ってるぞ、と思えるだけで勇気が出るかもしれないですし、「使うぞ使うぞ」とうまくアピールできれば、加害者側がアプリの存在に気づき、恐れて行為を止める可能性もありそうです。

シスへテロ男性固有の困難は、どう名指せば良いのか?(もしくは、名指すべきではないのか?)

らくさんからコメントをいただき、考えこみました。

 

らくさんは、「これははてな非モテ論に触れてから、ずっと疑問に思っていたこと」だとして、次のような問いを提示してくれました。

 

 

それは「欲望されない苦しみ」が、なぜヘテロ男性固有のものとされているのかという点なのです。

 

 

 

  • 「存在そのものが世界から無視されてる感覚」

 

ここで言う「欲望されない苦しみ」とは、僕が前記事で紹介させていただいた、kiya2015さんの言葉を引用したものを指しています。

 


2014-11-28 - kiya2015だけど。

 

kiya2015さんは、「欲望されない苦しみ」のことを、例えば「何書いてもスルーされる」辛さと表現していますが。

 

これは別に、SNS上に限った話しをしているわけではないのだと、僕は思います。

 

kiya2015さんは「欲望されない苦しみ」のことを、「存在そのものが世界から無視されてる感覚」とも表現されています。

 

この「存在そのものが世界から無視されてる感覚」が、SNS以外の生活世界全般で感じられること。

 

時にその感覚は、忘れられる程度に薄れていることだって、日常の中で、もしかしたらあるのかもしれませんが…。しかしそれは一時的なものに過ぎず…。

 

環境上の複合的な要因によって、時にはその感覚が自分ひとりでは耐えられなくなるぐらい、辛く思えること。

 

ずっと自分の底にこの「存在そのものが世界から無視されてる感覚」があるような気がして、それから逃れたり、その感覚をやりすごすことができないこと。

 

このような状況に陥ってしまっていることを、kiya2015さんは「欲望されない苦しみ」の問題として捉えているのだと、僕は勝手に想像しています。

 

 

 

さらに、孤独な男性がヘイト行動へと導かれていくプロセスを、僕は「もしかしたら…」と次のようにも想像してしまいます。

 

この「存在そのものが世界から無視されてる感覚」に、意識的/無意識的にずっと苛まれていたシスへテロ男性が…。

 

何かのきっかけで、SNSというツールに出会い…。

 

ヘテロ行動が蔓延する空間へと、辿りついてしまった。

 

あとは依存症のようなもので、「存在そのものが世界から無視されてる感覚」を忘れさせてくれる、このツールを用いて、用いて、用い続け、その加害行動から逃れられなくなってしまう。

 

…ヨーゲンさんの例を想起すると、僕はこんな想像をしてしまいます。

 

 

 

  • なぜ、シスへテロ男性は「特別」苦しむのか?

 

さて。

 

らくさんは、次のような疑問を提示してくださいました。

 

 

 

「欲望されない」という苦しみは、ヘテロ女性でも、ゲイ男性でも、属性に関係なく等しく背負っている人は背負っているものだと思います。

 

女であれば、ゲイであれば無条件に人の気をひけるわけではないです。

 

しかし、ルサンチマンに凝り固まってしまうのは、圧倒的にヘテロ男性が多いように見えます。

 

なぜヘテロ男性にその傾向が強いのか、不思議に思います。

  

ありがたい指摘です。

 

「欲望されない」こと自体は、性自認がどうであれ、おそらく誰の身にも降りかかる事実だと、僕も思いました。

 

すると問題は、「苦しみ」というところ。主観性の問題。

 

 

上記で述べてきたことにつなげて表現するなら、なぜシスへテロ男性は、「存在そのものが世界から無視されてる感覚」に至るような、そんな苦しみを感じてしまうのか、というところに問いがある。

 

非モテの問題にひきつけて考えると、「存在そのものが世界から無視されてる感覚」に至るような苦しみの原因が、なぜモテの問題=性的な問題へと収束してしまうのか。

 

シスへテロ男性の主観性が、なぜそのように収束されてしまうのか。

 

シスへテロ男性の固有の困難を名指そうとするなら、そのように問いを再設定する必要がありそうだなあと感じました。

 

 

 

  • 特権性が付与される構造が原因

 

そのように問いを再設定し、僕も考えてみたのですが…。

 

らくさんの次のような指摘は、妥当であると感じました。

 

 

私は個人的には、「女性を獲得できない」「人から注目されない」というルサンチマンは、裏返せば「本来は自分は女性を獲得できるはずだった」「本来は自分は周囲から注目を浴びるはずであった」という意識の現れではないかと思っています。

 

女性やゲイの非モテが攻撃的ではなく、諦めモードに入れるのは「本来自分はパートナーを獲得できるはずである」という前提を持っていないからじゃないかと…。

 

 

ヘテロ男性というセクシャリティを自然と受け入れることができた場合、そのままこの社会では特権性が付与される。

 

特権性が付与される構造の中で、「シスへテロ男性である自分は、本来女性を獲得できるはずだ」「本来自分は、周囲から注目を浴びる(ような社会的地位や、そのような賞賛を得られる活躍ができる機会を与えられる)はずだ」という意識を、自然と植え付けられていく。

 

そして、その「シスヘテロ男性という特権階級」の内部で、ヘテロ男性同士の熾烈な競争がある。

 

この競争の結果として、「本来得られるはず」の状態に至らないとき、意識と現実とのズレがルサンチマンとなり、「苦しさ」が生まれる。

 

女性ないしはシスへテロに違和を感じるに至った人は、特権性が付与される構造から排除されるため、このようなかたちでのルサンチマンとしては、発現しにくい。

 

 

…ということで、らくさんのコメントに異論はなく、むしろ、らくさんのコメントのおかげで、より思考がクリアになったという気がしています。

 

せっかくですので、さらに思考を進めてみたいところです。

 

シスへテロ男性が、特に「欲望されない」ことに苦しんでしまう原因が、以上のようなものだったとして、ならば彼らをいったいどうすれば良いのか?

 


…論理的に考えるなら、「ルサンチマンに絡みつかれたシスへテロ男性は、冷たく突き放されるべき」となるような気がします。

 

「シスへテロ男性は、自分の有するルサンチマンが、既存の不公正な構造から生じたものだと、とっとと理解しろ」

 

「そのことを、意識しないと分からないだろうから、とにかく滅茶苦茶に意識しろ。意識しながら、自分(たち?)で勝手に自らのルサンチマンを解消できるよう、あれこれ方法を試行錯誤し、実際に行動して失敗しながら学んでいけ」

 

…と。

 

 

 

  • 僕のゆきどまり

 

…正直に今の気持ちを書き留めます。

 

あの記事を書いてから、僕はぼんやりと、次のように思っていました。

 

シスへテロ男性に固有の困難を、そもそも名指しても良いのか、と。名指そうとする試み自体が、無意味なのではないか、と。

 

 

今振り返ると、僕は次のような論理で、前回の記事を書き進めたような気がしています。

 

  1. 孤独なシスへテロ男性は、「欲望されない苦しみ」を抱えている。
  2. どうすれば、その苦しみと向き合える(ないしはやりすごせる)のか。
  3. ひとりでは難しい。無理だ。
  4. シスへテロ男性は、それ以外の人に対して加害者の立場に置かれている。だから、その人たちと一緒に、この苦しみのことを考えることはできないだろう(とりあえず)
  5. ならば、シスへテロ男性同士で、まずは一緒に考えるしかない。


…こんな論理展開で、僕はシスへテロ男性の固有の困難を名指そうと試みた。一緒に考えるために、まずは共に向き合うべき固有の困難を言語化しようとしてみた。書きながら、いつの間にかこんな方向に辿りついた感じです。

 

 

しかし書き上げてみて思うに、孤独なシスへテロ男性同士で連帯するなんて、ほぼ不可能ではないのか。

 

まだ若い方々、これから大人になっていくシスへテロ男性の方々なら、連帯は可能かもしれません。

 

若い方々は、まだルサンチマンをこじらせていない。まだこじれが深刻ではない若い方々は、坂爪さんの『男子の貞操』を参照しながら、同/異性とピア的に話しあっていけば、男としての性に自分なりに向き合っていけるんじゃないか。率直には、そんなふうに感じるのです(そんな簡単にはいかない?)。

 

でも僕がどうしても念頭においてしまうのは、前回記事の標題にある通り、「ヘイト行動」をしてしまうような「孤独な男性」の存在です。

 

あの人たちに、「僕らには固有の困難がある」と言って、「一緒に考えよう」と呼びかけることは、とても無謀なことではないのか。

 

すでにネット上では非モテに関する論争が、これまでも山ほど積み重ねられてきたし、今でも山のように溢れている。

 

そこでは、結局は次のような見も蓋もない言葉が強いような気がするのです。「そうは言っても、モテれば解決だよね」「そうは言っても、モテなければ解消はされないよね」。

 

 

 

  • 再出発

 


僕は、このブログを、匿名で行っています。それは、普段なかなか話すことができない、性に関する対話と、それに伴う思考を、ウェブ上の匿名でならできるかもしれない、と思ったからです。

 

しかし僕は、このブログ上でも、自分のことを書きながら考えることが、なんだかうまくできなくなってきました。

 

そこには色んな理由があると思います。ただ、その中のひとつに…。

 

非モテの方が、僕の個人史的な情報を知り、「アイツは非モテじゃないからそんなことが言えるんだ」とスルーされてしまうのが怖い。

 

そんな理由が、僕の中に確実にある。そう意識できるようになってきました。

 


言葉にしたからこそ、この発想はおかしいと、ハッキリ思えます。

 

これは操作主義的な発想だ。ウェブ上で見ている人のことを馬鹿にしている(それは自分のことを馬鹿にすることだ)。うまく情報操作して、僕はウソの自分で、他者から承認してもらえる欲求を満たそうとしている。

 

僕は「まくねがお」という記号ですが、僕が誠実に自分の思考を書き留めることができず、自己をウソで塗り固めるように書き続ける記号になってしまうなら、消えた方が良い。僕自身のために、そう思います。

 

 

僕は、非モテの方々と、実のあるやりとりがしたい。そのような気持ちがあるからには、僕の中にそう思わせる何かがあるのでしょう。

 

その気持ちを大切にしつつ、まずは僕が、僕自身の個人史の振り返りから始める必要があるのかもしれません。

 

 

 

  • 原点回帰

 

最後に、僕の原点である、ふたりの方の思考の断片を書き留めて、今後の糧にしたいと思います*1

 

 

 1.上山和樹さんの『「ひきこもり」だった僕から』(2001年)より

 

P151の「性的な挫折」という節から。

 

  ひきこもりは、普通は「社会的・経済的挫折」と見なされます。それはわかりやすい話です。実際、そうですし。でも、私が思うに、ひきこもりには、もう一つ重大な挫折が秘められています。これまではあまり触れられていないんですが、「性的な挫折」です。これは、決定的です。

 特に男性に言えると思いますが、「社会的にうまくいっていない自分のような人間に、異性とつきあう資格などない」。そう思いつめて、絶望している人がどれほど多いことか。そして、これは決定的な挫折感情なのです。「もう自分には、セックスも恋愛も結婚も、一生ムリだ」これは耐えられない認識です。実は、こちらの挫折感情のほうが、傷としては根深いのではないか。

 仕事だけなら、「一生、できなくてもいい」と思えるかもしれません。しかし、性的な関係となれば……。

 ここからも窺えますが、ひきこもりの当事者は―私も含めてですが―、価値観的に非常に保守的な人が多い。むしろ「親以上に」そうかもしれません。

 親は案外「もう、ここまでこじれてしまったのだから、とにかく元気に過ごしていってくれたらいい」と思っていたりするのですが、本人が許さない。それが特に性的な局面に現れやすいのです。そして、それが特に強く本人を苦しめる。

 今回の私の体験記録を見ていただいてもおわかりだと思うのですが、性的な葛藤というのは、ひきこもり当事者の心性を強く支配し、規定していると思います。本当に、強烈な感情で、根深くこじれてしまっている。

 逆に言うと、このへんに、ひきこもり対策の一つの鍵が見えてきます。性的事柄に一番苦しむということは、逆に言えば、性的事柄で光が見えてくれば、事態は劇的に変化するかもしれない、ということです。私がそうでした。

 性的事柄といっても、ただ単にセックスをすればいいというものではなく、やはり精神―性的な関係がはじまるかどうか、ということ。「精神の肉体関係」とでもいうんでしょうか。そんなものがはじまる必要があります。

 

さらにP153から。

 

 

 私自身痛感しているのですが、実は「性的な」関係をつくろうとするときに、自分の中にインストールされてしまっていた価値観と、もっともラディカルな形で格闘する必要ができてくるのです。先ほど、「本人は、実は親以上に保守的だ」と申しました。「親への価値観的反発が問題だ」というそれ以前の記述と矛盾するようですが、実は本人自身が、自分の中に仕組まれてしまった「暗黙の強制」みたいなものに一番縛られていて、そのことでものすごく苦しんでいる。その縛りを再度問題化し、突破口に向けての自分の組み直しを促してくれるのが、「性的」執着であり、そういう相手との具体的な出会いなのだと思います。

 

 

…上山さんの「体験記録」が気になるかと思いますが、ぜひ原文に当たってみてください。

 

簡単にそのプロセスをメモするなら、上山さんの事態が劇的に変化したきっかけは、ウェブ上における、ある女性との出会いでした(P89)。

 

その女性と、いつの日か直接会いたいという動機が、前へと踏み出す行動につながっていきました(P92)。

 

さらには、年の近い男性の友達が同居を誘ってくれ、しかもその彼の決定的な言葉(P102)が、「歯車が変わりだす」ことへとつながる直接的な行動に、不可欠でした。

 

なお、そもそものきっかけだった女性との関係は、結果的に失恋に終わっています。

 

さらに言えば、上記のプロセスの間には、壮絶な葛藤(性的な問題も含めて!)が幾度もあります。P100のエピソードなどは、僕には地獄としか表現しようがなかった。


なお、現在も上山和樹さんは、ブログ『フリージングポイント』で粘り強い思考を続けています*2


Freezing Point

 

 

 

 2.杉田俊介さんの「『男性弱者』と内なるモテ幻想」(『無能力批評』所収、2008年)より

 

P304から*3

 

  生まれたこと自体を承認されていること、それは事実としてはわかっているのに、実存的には足りない。なぜなのか。やはり「自分であること」の核には―それがすべてではないが、その中の大切な部分として―、「男としての性的な弱さ」があるのではないか、そう思わざるをえなかった。「男らしさ」と「男であること」の亀裂と矛盾の中で次第に溜まっていくつらさ。痛み。いやらしさ。性的な弱さの核心を異性に承認し肯定してほしい。しかし「男」には基本的に、それを口にすることは許されていない。それこそがもっとも、男らしくないのだから。はっきりいって、この素朴な肯定欲求が正しい、人としてまっとうだ、とは今も少しも思えない。しかし、実存的にそういう欲求がある。あってしまう。それを認めざるをえない。そんな最小限の肯定感を実感できないこと、可能性としてすら体感できないことが、非モテ3なのだろう。もしあなたが、それを「男らしくない」「男のくせに」「きもちわるい」と感じたなら、まさにそれによって、非モテの人々は一層追い込まれていくのだ。

 

杉田さんは、非モテの本質が「累積し続ける」「不能感と空洞感」であり、「ルサンチマンは人を不可避に、独我論的な構成の中に追い込む。不能な気分が、《世界》の全体を覆い尽くしていくのだ」と述べています(P306)。

 

 

さらにここから杉田さんは、「非モテと性暴力が不即不離の関係にある」として、非モテと性暴力の関係について踏み込んだ考察をしていきます。

 

まず、正直に言います。杉田さんの後半の文章を、うまく理解できないと感じました。フロイトデリダの理論が僕にはわからない、というところもあるのですが、そういうことだけではないような気がします。

 

例えば、「ある種の女性や子どもたちに固有の弱者暴力(名誉男性化した女性の暴力、ではなく)を男の側から批評することすら、辞さないつもりだ」(P317)と述べるあたりが、僕にはついていけない。

 

この僕の「ついていけなさ」には、「否認」が含まれているような気もして、うまく思考を進められません。加害者である僕は、このように考えてはいけないのではないか。何だかグチャグチャした感覚が、邪魔をしています。

 

…書きながら思いますが、杉田さんはとても不穏なところに果敢に踏み出そうとしている。それをどう受け止めればよいかはまだ分かりませんが、どう捉えるにせよ、僕にとっても大事な問いが潜んでいるような気もします。もう少し考えてみます。

 

 

もう一点、僕の心理がグチャグチャする部分として。

 

杉田さんが「最後に」で、ご自分の大事な加害/被害経験を論述されているところ。

 

このところも、どう考えたら良いのかわかりません。ぼかして書いているため、よく分からない、というところもあります。ただ、何だか、僕自身も自らの大事な加害/被害経験を問い直したいという衝動に駆られる。杉田さんの文章の投げ出し方が、そのように僕を感じさせるのだと思います。

 

 

杉田俊介さんの「『男性弱者』と内なるモテ幻想」という文章は、以上の通り、僕にとってはどう読んで考えれば良いか分からない、グチャグチャしているところが含まれているのですが…。

 

杉田さんのこの文章では、新たなメンズリブに向けての考察も書き留められてもいます。

 

1990年代に本格化した「女性学を経由した男性の自己省察の学問」である男性学(P293)について、先行研究を示しつつ、整理して下さっている。

 

引き続き、僕の思考の原点として、再読しながら考えていきたいと思います。

 

*1:非モテと僕との「原点の文章」と言うなら、本当は本田透さんの『電波男』(それ以前のエヴァンゲリオン二次創作、「萌える大甲子園」など)から始めなければいけないのかもしれませんが…。後日の宿題にします。

*2: 勝手な想像ですが、現在の上山和樹さんならば以上の論点について、シスへテロ男性同士の連帯(≒メンズリブ)などという方向には行かず、「ミクロな場における主観性と関係性の技法」の問題へと、徹底的に照準を合わせていくでしょう。

 なお、上山さんの議論から三脇康生さんの文献を知って読み、ラボルド病院の実践から学びたいと思っています。多彩で無数のクラブやアトリエを創り出し続けること。スタッフが(患者も交えて?)徹底的に対話しつつ、仕事を柔軟に変化させるアクションを続け、その動きの中で自らの役割を問い直し続ける「役割分担表」。こんな手法を用いるなどして、複数的な場=制度が常に創り出され、それぞれの場=制度の異質性が維持・調整され続け、それぞれの場=制度における参入・退出の自由と、その間の移動・交通の自由が保障され続ける。そうすることで、その場=制度にいる構成員の全てが、自らが気づけなかった他者と出会い、自らの当事者性を問い直す機会を得ることができる。そこでは、スタッフと患者の線引きさえもズラされ、問い直される。そこでは、性的なことへの拘りからも解き放たれ、「そこにいても良い」という感覚を、誰もが穏やかに獲得できていく…。こんな環境整備上の努力の問題として、病院という場=制度に限らず社会のあらゆるミクロな場=制度における責任の問題として、非モテの議論も展開することはできないのでしょうか。

*3:今回、あらためて杉田さんのこの文章を読んだのですが、僕の思考は結局杉田さんの後を追っているなあ、という印象です。僕はこのブログ等で、できるだけ自分の思考の根拠となったものは明記して、その上で書きながら考えたいというスタンスを取っているのですが、気がつくと自分でも知らぬうちに杉田さんと同じようなことを書いている。ですので、気づかぬうちに杉田さんの思考を剽窃するように書いているかもしれません。気づくたびに明記して、自他の区別をつけていきたいと思います。

孤独な男性のヘイト行動と、他者に認められる欲望

kiya2015さんのハテナダイアリーを読み、考えこまされています。

 


kiya2015だけど。

 

 

 

性暴力のことをSNSで話題にする女性や、在日外国人の女性を狙い撃ちにして、いわゆる「クソリプ攻撃」を浴びせる男性たちについて。

 

kiya2015さんは「欲望されない苦しみ」に焦点を当てています。

 


2014-11-28 - kiya2015だけど。

 

 

女性に比べて自分のように男どもの言説が過激になりがちなのは、そうしなければ周囲の気を引けないからだ

 

 

この「欲望されない苦しみ」を、軽視したり、唾棄すべきものとして切り捨てたり、無いものとして扱うべきではない。

この苦しみの存在をしっかり受け止めて、それがいったいどういうものであるのかを、考える必要がある。

kiya2015さんはそのように主張されていると理解しました。

 

 

 

そしてkiya2015さんは、このような「欲望されない苦しみ」の底にルサンチマンがあると指摘します。

 


「非モテ」論が必要な理由 - kiya2015だけど。

 

彼らは「周囲が優秀なのに自分だけ落ちこぼれていた」だとか、

「弟が大スターで誰からも好かれ、自分はそのおこぼれに与るばかりだった」だとか、

出自も家庭環境も最悪で世の中を恨んでいた」だとか、

そういうルサンチマンをこじらせてしまった結果として、排外主義に傾倒していったのだ。

この逃れられないルサンチマンとどう向き合う(あるいはやり過ごす)かというのが「非モテ」論の原点である。

 

このルサンチマンと向き合うこと(もしくはやり過ごすこと)の困難さを、僕も徹底的に考え尽くしたいです。

 

 

上記記事より、sociologbookさんの11月19日のツイート。


sociologbook on Twitter: "「嫌韓嫌中の背後にあるのは、イ デオロギー的なものよりも、身近な人間関係における孤独感であるのかもしれない。」 http://t.co/1ME57Ndn31"

 

 

「また、韓国・中国への親近感は、孤独感とは負の相関、一般的信頼とは正の相関を示している。つまり、身近な人間関係のなかで孤独を感じており、見知らぬ他者を信頼しない者ほど、韓国・中国に対して排外的な態度をとる傾向にあるということだ。」

 

 

 

「韓国・中国への親近感の低い者ほど、親しくつきあっている近所の人の数が少ない(性別・年齢・学歴でコントロールした偏相関係数で、韓 r’=-.09、中 r’=-.11、いずれも 0.1%水準で有意)。 」

 

 

 

「友人数とは無相関だが、『友達であっても、プライベートなことには深入りしたくない』という傾向も強い(韓 r’=-.09、中 r’=-.08、それぞれ 1%, 5%水準で有意)。」

 

 

身近な人間関係での孤独。

 

友人関係の中ではプライベートなことに深入りしたくないとする一方で。

SNSの世界などでは一転して、排外的だったり女性嫌悪的な言葉、すなわち他人の心を抉るような言葉を発信したくなる。

 

生きていく中で、いつしかルサンチマンをこじらせ、気がついたら孤独になっていた。

いつの間にか、「欲望されない苦しみ」から逃れることができなくなり、しかし身近な人間関係の中では、それらを解消させることができない。

かといって、その苦しみを、ひとりでやり過ごすこともできない。

 

 

他者からの承認を求めてしまうこと。それはさもしいことでもなんでもない。

むしろ、人間にとって最も基本的なものであると、三脇康生さんはジャン・ウリの言葉を借りて言っています。

 

 

フロイトは欲望とは性的なものであるとしているが、もっとも「基本的な欲望」とは何なのか、とウリは問う。そしてそれは「人に知られる欲望」であり、「他者に認められる欲望」であるとウリは書く。そこにただ人がいることに気づかれること、これこそがもっとも基本的な欲望ということになる。ウリにおける欲望は性的な範疇を超えている。とすると、欲望の発露である転移も性的な転移を超えるということになる。これは世界への転移ともいえる。この世にいてもよいという気がするという意味での転移になる。

三脇康生2008「治療概念として ウリはなぜガタリの分裂分析を拒否するのか」三脇康生他編『医療環境を変える 「制度を使った精神療法」の実践と思想』京都大学学術出版会、P274)

 

 

 

先日話題になったヘイトスピーカーのヨーゲンさんのことを、kiya2015さんは上記記事でも少しだけ触れています。


ネットでヘイトスピーチを垂れ流し続ける 中年ネトウヨ「ヨーゲン」(57歳)の哀しすぎる正体【前編】 | 現代ノンフィクション | 現代ビジネス [講談社]


ネットでヘイトスピーチを垂れ流し続ける 中年ネトウヨ「ヨーゲン」(57歳)の哀しすぎる正体【後編】 | 現代ノンフィクション | 現代ビジネス [講談社]

 

それまで自分が浴びせかけてきた匿名による暴力が、身元がバレたことで、今度は自らの身にも降りかかるかもしれない。

そう気づいてからの、ヨーゲンさんの恐怖に怯える様子。

 

プライベートでは、妻にDVをしていたこと。

 


それらの事実も重く突き刺さりましたが、僕が心の底からやるせなく思ったのは…。

裁判になり、執行猶予付きの判決を受け、帰宅を許された後…。

ヨーゲンさんが、すぐにSNSを再開したことでした。

 


暴力を振るえば振るうほど、きっと恐怖心は増していくのでしょう。でも、自分では止めることができない…。

 

この暴力の無間地獄を止めるには、いったいどうしたら良いんだろうかと、本当に考え込まされました。

ヨーゲンさんを異化して捉えずに*1、ヨーゲンさんが自らのルサンチマンと向き合う(もしくはやり過ごす)方法を見出していくためには、いったい何があれば良いのでしょう?

 

 

 

結論など出ません。ただ、もう少し考えるために、次の記事を紹介し、その感想を書き留めて終わりにしたいと思います。


中村淳彦 ネット右翼と中年童貞<ルポ中年童貞> - 幻冬舎plus

 

この記事を書いた中村淳彦さんのスタンスですが、僕には少し違和感があります。

 

「中年童貞」を見下し、嘲り面白がって消費する読者のことを意識して書いてはいないか。少し、そのように感じました(僕がちょっとナイーブすぎなのかもしれませんが)。

 

それが少し鼻につくのですが、しかしこの記事で登場する宮田氏の言葉からは、様々な示唆をもらいました。

 


特に、この記事の中で紹介されている「自分が三人の女性に同時に好きになられた」と妄想してしまったエピソードが、とても印象的でした。

 

僕にはその心理が、凄く良く分かると思いました。

 

それまで異性と話す経験が極めて乏しかった。話してみたら、とても楽しかった。気持ちが高ぶった。その気持ちが、つい行き過ぎた。まずは、それだけのことだと思います。

 

ただ、宮田氏はこのエピソードをサラリと自虐的に語っていますが、自分が「異常な妄想」状態に陥っていたと分かったときには、酷く落ち込んだろうと思います。

そんな挫折感を乗り越えて、次のように内省の言葉を述べることができる宮田氏に、僕は敬意を覚えています。

 

 

三十九歳まで本当に誰ともしゃべらないで生きてきたけど、百八十度意識が変わってしまった。人と話すのって面白いし、女性と話すのは超面白いって。参加した当初は一方的に喋って知識をひけらかすみたいな人間だったけど、だんだん人とはこうやって話せばいいんだって覚えたというか。

 

 

 


宮田氏はこの記事の最後で、他の中年童貞のことを「どうにもならない」と切り捨て、ネガティブな評価を容赦なく下しています。

僕には正直、その言葉の刃が、同族嫌悪(≒自己否定感)から来るものに感じました。


僕には、この記事の最後で宮田氏が提案する「隔離」という手法に、賛同することはできません(「ベーシックインカム」については、宮田氏と違う文脈でもう少し考える余地がありそうですから、保留します)。

 

 

僕は、まず宮田氏がここまで赤裸々に語る姿勢に、強い敬意を感じます*2

高学歴ヘテロ男性の、性に対する劣等感と、プライド。

それらを抱えた上で、他者と向き合い、自分と向き合われている。

それはきっと過酷な作業だったろうと思います。


しかし、宮田氏にはまだ、環境上の幸運があったと思うのです。

勉強会という、自分の良さが出せ、かつ他人とつながれる場所があったこと。

楽しく会話をすることのできるスキル、器用さ。

そんな条件に恵まれた宮田氏よりも、さらに困難な状況に置かれているヘテロ男性の方々は、確実にいるはずです。

 

 

僕は、僕もひとりのヘテロ男性として言いたい。

ルサンチマンをこじらせたヘテロ男性が、他者と出会っていくことの苦しさ。その途方もない困難、恐怖心。

自分のプライドやルサンチマン、自己否定感と向き合わされ、打ちのめされ、そのちっぽけさにこそ、絶望すること。

それは男性固有のもので、ひどく重く、厳しいものであると。

そんな苦しさ、困難に少しでも立ち向かい、叩き伏せられてでも生きていこうとするヘテロ男性の勇気は、称えられるべきであると。

 

ただしその賞賛を、ヘテロ男性以外の方々へ、安易に求めるわけにはいきません。許しを求めてもいけない。それは甘えになるでしょう。

ヘテロ男性以外の方々には、それぞれ固有の困難があり、とりわけ懸念しなければならないのは、僕たちがその方々の加害者となることが、往々にして(常に?)あるからです。

留意すべきは、ヘテロ男性がそのカテゴリーを自然に引き受けることができるだけで、この社会においては不当に優位な権力性を付与されてしまうということ*3

それに伴って、油断していると気がつかないうちに僕らは、ヘテロ男性以外の方々を抑圧する動きに直接的/間接的に加担することになります。

 

その点に十分自覚的でありながら、その上でなお、もし僕らが、僕らの固有の困難を他者に理解してもらいたいと願うなら。
理解してもらいたいと思う他者の、その固有の困難を、僕らがまず先に、徹底的に理解しようとする姿勢を示さなくてはならないでしょう。
そうすることでもしかしたら、僕らの固有の困難とは何かを知りたいと欲する内発的な動機が、ヘテロ男性以外の方々の内面にも生まれてくるかもしれません。

 

…ということで、僕らは他者の理解を当てにすることが、まずはできない立場にあると覚悟した方が良い。

だからこそ、僕たちは、せめて自分たちで励まし合わなければいけません。

この励まし合いは、暴力や加害の事実をずるずるべったりと許し合うような、そんな慣れ合いの関係ではありません。

むしろそれとは真逆のものです。

暴力や加害の事実を、各自自分でチェックすること。

無意識に目隠ししている自らのそれに気づこうと、みんな自分で自らへと目を凝らすこと。

ときには、僕らが互いに互いを批評し合い、その姿勢を維持し続けられるように、律し合うこと。

そして、この苦しく辛い作業を行いながらも何とか生きていく、そんなお互いの姿を、根底的に励まし合うこと。

 

 

加害や暴力は僕らの身体に絡みついて離れない。そんな中で、でき得る限りその加害の事実を受けとめ、暴力を自覚し、その加害と暴力に精一杯抗うことができるか。

 

そのように抗えたものとして、僕らは僕らの自己を、本当に受容することができるのか(到底僕には、できそうにない気がしています…)。

 

少なくとも僕は、僕の弱さを、嗤うべきではないと、嘲るべきではないと、強く思いました。

僕らの最大の敵は、内なるプライドです。高みを目指すプライドではなく、弱さを正面から受け止める勇気を。そのような勇気が、僕らの間を駆け巡りますように。

 

*1:異化して捉えないとは、彼の暴力や加害をなし崩しに許すということではありません。むしろ逆に思っています。彼の行った加害行為に対しては、彼自身が責任を取らなければなりません。ヨーゲンさん自身が、暴力の無間地獄から逃れ、「この世にいてもよい」と真に思えるようになっていくためにも、きっと自らの加害と向き合う過程が必要です

*2:右派の思想を持たれているようですので、考えは異なるかもしれません。ただ、宮田氏とは一度お会いして、ゆっくり対話してみたいなあって思います。議論は平行線になる部分があるかもしれませんが、面白い議論ができそうな方だなあと感じました。

*3:もしも仮に、その権力性による優位を、個人的には全く実感できなく、むしろ自分は権力を持っていない被害者だと、感じていたとしても…。僕たちには固有の困難があり、その重さからついつい被害者意識を感じてしまうけど…。しかしその被害者意識を、ヘテロ男性以外の方々に苛立ちとともにぶつけることは、きっと大きな誤りなのです。「弱いものがさらに弱いものを叩く」構造に巻き込まれてしまう、そんな惰性にこそ抗いたいと僕は思います