痴漢問題に対する、今後のアプローチ方針

前記事をまとめた上で、今後の僕なりの思考の方針を、メモ的に。

 

 

僕自身が、今後集中して考えてみようかなあ、と思っているのは…

 

痴漢被害の事実を語り辛い/聞き辛い状況を改善することについて」。

 


痴漢被害のほか、幼児の性被害や、その他の性暴力被害のことを話題にすると、聞く側の人が…

 

あたかも「自分も責められている」という感覚になって…

 

まともに取り合わなかったり、激怒したり、二次被害を及ぼすような助言・発言をしたりする…

 

…どうも、そんなケースが多発しているようです。

 

 

 


周囲の人がこのような反応をしてしまうからこそ、被害に遭ったり、被害を避けるための対策を考えたいと思った人は、そのことを全く周囲に相談できなくなる。


悪循環なのは、例えば痴漢被害に遭った場合、こういう環境のせいで尚更「手間がかかる」と思ってしまう(その通りなので、責められない!)ために、周囲に被害の事実を訴えることなく、被害の事実が隠れてしまうこと。

 

すると周囲の人は、そういう事実があったことも知らず、ろくに考えることもなくて、無関心のままになる。新たな被害が次々生じても、この構図はずっと変わらない。


語りながら考えることのできる空間がどんどん縮小していき、人々は萎縮しながら不安や恐怖心ばかり煽られ、残るのは「他者への不信」ばかりです。

 

この「不信の体系」ばかりが強化されていく構造にこそ、つっこんでいきたい。

 

 

痴漢の事実が疑われたら、じっくりとその場で対応をして、そのために学校や仕事を遅れたとしても、仕方がないとする。そういう文化を、学校や職場で育むこと。

 

学校の同級生や職場の同僚、家族や友人・知人に、痴漢の被害があった事実を伝えても、過剰に受け取られず、もしくはスルーされることもなく、その事実(を知ること)によって生起した自分の心情を、言葉でアサーティブにやりとりできて、互いに理解し合えるような、そんなやりとりを関係の中で作っていくこと。

 

誰もが快適に生活するためには*1、こういったやりとりの労力が柔軟に認められるような「ゆとり」や「余白」、「穏やかさ」が、電車内は勿論、学校や職場などの空間や、家族や友人知人の関係の中で、必要な気がします

 

 


さて、僕の場合は特に、男性が性暴力関連の話題を耳にすると、「自分も責められている」という感覚になってしまう構造にこそ、分析のメスをもっといれていきたいと思います。

 

このようなアプローチの参考になるのは、例えば以下のような記事だと思います。


第1回 第三項としての「研究」■ 湯浅 誠|かんかん! -看護師のためのwebマガジン by 医学書院-

 

「責められている」と感じてしまう構造分析と同時に、このような萎縮した感性を解除して、他者へと開いていく契機についても、考えていきたいと思っています。

 

これは、田房永子さんが提起してくれた、「怒男性」(どだんせい)分析という宿題を、今後あらためて意識するということでもあります。


『膜』問題と『怒男性』⇔『ネガ男性』 - まくねがお のブログ

 

 

 

 

この宿題を考えるための素材を、最後に列挙しておきます。


痴漢被害の実感と危機意識、危機管理についてのまとめ - Togetterまとめ

 


子供の性犯罪に対する夫婦間のズレ - 田舎で底辺暮らし

 

 

 

*1:痴漢冤罪対策のためにも、ひとつひとつの事実が、焦らずゆっくりと正しく検証されるはずだという安心感こそが必要な気がします。

痴漢対策をしっかり考えるための「読み物」「アイデア」集

以前、「痴漢に関する論点」という記事をいくつか書いていましたが、まとめあげられずに中断していました。


この間、主にツイッターから痴漢対策に関する情報を集めていました。

 

そして、有益な情報が掲載されているサイト等を沢山知ることができました。


パッチワーク的に、それらの情報を以下に貼り付け、自分用のまとめとしたいと思います。

 

 

  • 入り口として


まず、柴田英里さんのこちらのコラムが、非常に読みやすくシンプルにまとめられている上、大切な内容が沢山盛り込まれています。


しつこいナンパや痴漢被害を「言えなくする」ミソジニーとミサンドリー - messy|メッシー

 


ミソジニーとは「女性憎悪」のこと。

 

ミサンドリーとは「男性憎悪」のこと。

 

これらの価値観が底にあり、痴漢その他の性的嫌がらせを、社会で「言えなく」させている、というもの。しっかりした分析の眼差しが、記述を支えています。

 


さらにこちらの記事は、語られない/語り辛い痴漢・性的嫌がらせの実例が、読みやすい形で表現されていて、一読することで沢山の示唆をいただけます。


こちらの記事の記述は、女性にとっては「あるある」と感じるようなものでしょうし…。


一部の男性にとっては、意識もしていなかった全く知らない世界に感じて、大事な発見が多いかもしれません。

 


「「匿名性」を糧にぶつけてくる性欲が一番厄介」と述べているところは、現在蔓延している痴漢被害のほか…。

 

SNS上で起きているヘイト行動の一部にも、関連する知見だと思いました。


ムシャクシャのイラだちをぶつける「はけ口」のような痴漢、性的嫌がらせ、ヘイト行動が存在していること*1

 


…まずはこのことを、しっかり押えたいです。

 

 

 

  • データから学ぶ実態と対策

 

痴漢の実態を調べたデータを学ぶことができる、ネット上の読み物を、ふたつほど列挙してみます。

 

ひとつめ、usausa1975さんによる、「痴漢に関する資料のまとめ」


痴漢に関する資料のまとめ - うさうさメモ

 

こちらは、usausa1975さんが以下の4つの調査研究を分析した結果がまとめられています。

 

  1. 「電車内の痴漢撲滅に向けた取組みに関する報告書」警視庁(2011)
    http://www.npa.go.jp/safetylife/seianki/h22_chikankenkyukai.pdf
  2. 女性専用車両の学際的研究 性暴力としての痴漢犯罪とアクセス権の保障」居永正宏ら(2008)
    http://www.hs.osakafu-u.ac.jp/page2/page22/gakusai2007light01.pdf
  3. 女性専用車両に関する一考察~痴漢被害の実態とともに~」岡部千鶴(2004)
    http://ci.nii.ac.jp/naid/110004029441
  4. 「男女間における暴力に関する調査」総理府(2000)http://www.gender.go.jp/e-vaw/chousa/08.html

 

ここでは、まとめのところだけ抜粋させていただきます。

 

 

•女性の14~49%が痴漢被害の経験がある。


•痴漢被害にあって通報するのは1割程度と考えられる。


•痴漢にあっても、3割から5割の人はそのまま我慢してしまう。


•1割程度の人が痴漢被害の目撃経験があるが、「見て見ぬふり」など何もしない人が半数程度いる。

 

•30歳代・40歳代の会社員が、通勤時間帯に、通勤で利用している路線の電車内で、偶然近くにいた被害者に目を付けて、痴漢行為に及んだ例が最も多い。電車内の発生箇所は、左右のドアとドアの間が多い。被害女性はスカートを履いていた人が多い。

 

•痴漢からの自衛策としては、女性専用車両が多くの人に利用されている。

 

•男性の約6割が痴漢に間違えられるのではないかという不安を抱いており、痴漢そのものに不安を抱いている女性の割合と同程度か、より多い。

 

 

 

痴漢被害に遭われた女性が、沢山存在していること。

 

通報できず、そのまま我慢してしまう被害者の方が大勢いること。

 

痴漢を目撃しても、見てみぬふりをする方が大勢いること*2

 

…などの実態が、データからも確認できます。

 

 

ふたつめ、usausa1975さんも分析されている上記1.警視庁の調査を分析され、まとめの中で対策まで考察されているのが、紅蓮の猫さんのこちらのツイート群。


紅蓮の猫さんによる、電車内痴漢についての実態と対策調べてみた - Togetterまとめ

 

こちらもまとめのところだけ、抜粋させていただきます。

 

 

①痴漢は誰でもあう恐れがあります。犯人は被害者を選んでません。偶然近くにいた人を襲います。


②ドア付近から離れることで、痴漢にあう確率を下げられます。特にドア付近4隅は避けましょう。


③防犯カメラの設置は今後推進されるべき有効な手立てであると考えられます。


④時間帯を避ける、痴漢被害を訴える、には、窓口の周知、体制の整備、企業や学校側の対応がまず必要です。


女性専用車両の存在は確実に被害を減らしています。


⑥車内アナウンスや警備体制の強化も今後継続して行うべき施策の一つです。

 

 

とても参考になる知見ばかり。

 

ただ、通勤や通学の場合、時間帯を簡単にズラせるものでもなく、ドア付近4隅を避けたくても、日によっては不可抗力でその位置に収まってしまう場合もありそうです。

 

紅蓮の猫さんも指摘されているように、窓口の周知や体制の整備、企業や学校側の対応が必要、とのこと*3

 

そのことを前提にした上で、それでもできる個人的な対策を考えるために、以下のようなアイデア群は参考になりそうです。

 

 

 

  • 被害に遭ったとき用の痴漢対策アイデア

 

Cookさんがツイッターにて、痴漢対策(被害時に周囲に気づいて貰うための方法)を集約して下さっています。


 Cook on Twitter

 

そこで紹介されている、被害に遭ったとき用の対策を六点、以下で列挙しておきます。

 

 

1)「アプリ」戦法。


言いたくても言えない「助けて」を鳴らす、痴漢撲滅アプリ『KOE』 | HeatApp!

 

もし、なにかあったら『KOE』を起動して、真ん中の「HELP」ボタンをタップ。


音量MAXで警告音が鳴り響き、周囲に身の危険を知らせることができる。


マナーモードにしていても自動的に音量が最大になるとのこと*4


防犯ブザーは持っていなくても、スマホなら常に持ち歩いているもの。痴漢に限らず、とっさの大声が出ない場面で力になりそうなアプリ。

 

 

2)「ハンカチ」戦法(「体調不良(のふり?)」戦法)

犬越 on Twitter

 

痴漢に接触されたら、ハンカチに口を当てて具合悪そうに振る舞う。


そのほか、具合が悪いということで、しゃがみこむ、吐きそうな素振りを見せる、という案も挙げられていました。


実際に被害に遭ったら、事実、そのように具合が悪くなるような気もする…。

 

それを行動に表すことが、更なる被害を防ぐことにつながるのかもしれません。

 

 

3)「クリアファイル」戦法

FJ ( fujimatsu ) on Twitter

FJ ( fujimatsu ) on Twitter

FJ ( fujimatsu ) on Twitter

 

「助けてください。警察にすぐ連絡してください」と書いた紙をクリアケースにいれたものを持ち歩く。


ストーカー被害に遭っていたとき、これを通りがかりの人に渡し1度連絡して貰えた、とのこと。痴漢にも応用可能かも、との提案です。


提案者の方は、警察の方から「定期サイズのカードに書いて持ち歩け」と言われたそうですが、道端で確認しづらいものを知らない人から渡されても普通は避けると思い、パッと見で困っていることがわかるようB5~A4サイズの雨にも強いクリアケースに大きく書いて入れていた、とのこと。


「刑事さんの名刺も入れておいた」というのも、非常に優れた工夫だなあ、と思いました。見た人が動きやすくなる効果がありそうです。


提案者の方曰く、

 

「変な人に絡まれやすい人は、「助けて」クリアケースとかカードを持ち歩くと良い、とっさすぎて声が出なくても、最悪そのカードを通りすがりの誰かに渡すことだけに集中する、とか周知されたら良いのではないか」

 

…とのこと。


ムシャクシャのイラだちをぶつける「はけ口」のような痴漢、性的嫌がらせは、抵抗できなそうな方を狙ってくる。しかし、悪いのは、そういう対象者を狙ってくる卑劣な加害者です。


「自分は変な人に絡まれやすいかも…」と思われた方は、お守り代わりにでも「クリアファイル」や「カード」を持つことは、良い方法かもしれません。

 

 

4)「ケータイかざし」戦法

犬越 on Twitter

 

「痴漢のいる方向にケータイをかざす(後々言いがかりを付けられないためにカメラ等は起動させない)」というものです。

 

…ちょっと勇気が必要だったり、体勢によっては難しい場合もあるかもしれませんが、提案者の方はこの戦法で一度撃退に成功しているとのこと。

 

 

5)「ちょっと!」戦法、ダメなら「周囲に場所移動を伝える」戦法

倉ロッタ on Twitter

 

きつめの怒り口調で「ちょっと!」とだけ声を上げる。


察しのいい女性が周りにいれば「痴漢?」とか「どうかしました?」と声をかけてくれます。


それでダメなら「場所を移動させてください」と周りにお願いする。


提案者の方も「この戦法は実用的だ」とオススメしていますが、僕もその通りだなあと感じました。

 

 

6)「身内いるよ」幻惑戦法

猫村222 on Twitter


痴漢に遭ったら「お兄ちゃん」や「お父さん」とボソッとつぶやく、というもの。


かなり難しいかもしれませんが、あたかも「向こうに身内の男性がいるんだ」というようかたちで、声を出してみるのは有効かも…?


(フリだとバレたときが、返って怖いかな…)

 

 

 

  • 目撃したとき用の痴漢対策アイデア

 

Cookさんの上記ツイートでは、痴漢を目撃した方が周囲にそれを気づいて貰うための方法についても、集約されています。以下、ふたつ列挙します。

 

 

1)「体調気づかい」型声かけ戦法
 犬越 on Twitter

 

「あれ、痴漢に遭ってる…?」と思えたら、被害者と見られる方に、「具合悪そうに見えますけど、大丈夫ですか?」と声をかける。


この戦法は、僕にはとても良いと思いました。冤罪のこともあり、躊躇しがちな状況の中で、この戦法は非常に有効だと思う。


痴漢対策のことを考えていて、つくづく思うのは、痴漢被害/加害者の周囲の人々が、見知らぬ人同士の閉鎖された空間の中であっても、人を人として尊重し合う姿勢を、協力して互いに作り上げていくことこそ大切だ、ということものです。


僕は、周囲の人が「あれ、痴漢かな…?」と思ったら、なるべく躊躇なく「体調気づかい」の声かけをしたら良いと思っています。こういうアクションが、人を人として尊重し合う雰囲気を作り出す。


勘違いだったら、「あ、すみません。勘違いでした」で済みますし。

 

 

2)「緊急速報メールの着信音」戦法

えぼり on Twitter

 

緊急速報メールの着信音を鳴らし、周囲の人たちがみんなごそごそスマホや携帯見だした隙に、被害に遭われている方へ合図して、自分の後ろに入らせて庇う、というもの。

 

テクニカル! すげー!


鳴らし方は、緊急速報メールの受信設定画面で受信音確認から可能、とのこと。

 

この戦法は、ウデがいるかもですね。

 

 

 

  • おわりに


…これらの対策・戦法については、読まれた方が…

 

「自分にとってはどれが一番使いやすいかな…」

 

…とあれこれ考えて、自分流にアレンジして活用するのが良いんじゃないかなあ、と思いました。

 


僕の場合は、とりあえず…


□ 被害に遭った場合は、5)「周囲に場所移動を伝える」戦法


□ 目撃した場合は、1)「体調気づかい」型声かけ戦法(被害に遭われている方が、ハンカチを当てていようがなかろうが、「あれっ」と思ったら、なるべく積極的に声をかけるイメージで)


…を使ってみたいなあと思っています。

 

 

usausa1975さんと紅蓮の猫さんの上記サイトからは、さらに考えたいと思う情報や論点が沢山掲載されていたのですが、それはとりあえず今後の宿題にしたいと思っています。

 

*1:いじめの構造とほぼ同じですね…。

*2:痴漢冤罪の恐れが、大きく関連しているようです。詳しくはusausa1975さんの元サイトを参照のこと。

*3:さらに突っ込んでいけば、自分の属する組織の中で、痴漢対策のことを話し合えるような文化があるか、というところが焦点になるだろうと思います。ここの部分を、僕はもっと深堀りしていきたい。

*4:「微妙な」痴漢被害に遭っているときは、これを押すのを躊躇するかもしれませんね…。音量MAXですから、押すことに思い切りと勇気が必要そうです…。加害者も微妙なところを狙ってきそうだし…。ただ、こういうアプリを持ってるぞ、と思えるだけで勇気が出るかもしれないですし、「使うぞ使うぞ」とうまくアピールできれば、加害者側がアプリの存在に気づき、恐れて行為を止める可能性もありそうです。

シスへテロ男性固有の困難は、どう名指せば良いのか?(もしくは、名指すべきではないのか?)

らくさんからコメントをいただき、考えこみました。

 

らくさんは、「これははてな非モテ論に触れてから、ずっと疑問に思っていたこと」だとして、次のような問いを提示してくれました。

 

 

それは「欲望されない苦しみ」が、なぜヘテロ男性固有のものとされているのかという点なのです。

 

 

 

  • 「存在そのものが世界から無視されてる感覚」

 

ここで言う「欲望されない苦しみ」とは、僕が前記事で紹介させていただいた、kiya2015さんの言葉を引用したものを指しています。

 


2014-11-28 - kiya2015だけど。

 

kiya2015さんは、「欲望されない苦しみ」のことを、例えば「何書いてもスルーされる」辛さと表現していますが。

 

これは別に、SNS上に限った話しをしているわけではないのだと、僕は思います。

 

kiya2015さんは「欲望されない苦しみ」のことを、「存在そのものが世界から無視されてる感覚」とも表現されています。

 

この「存在そのものが世界から無視されてる感覚」が、SNS以外の生活世界全般で感じられること。

 

時にその感覚は、忘れられる程度に薄れていることだって、日常の中で、もしかしたらあるのかもしれませんが…。しかしそれは一時的なものに過ぎず…。

 

環境上の複合的な要因によって、時にはその感覚が自分ひとりでは耐えられなくなるぐらい、辛く思えること。

 

ずっと自分の底にこの「存在そのものが世界から無視されてる感覚」があるような気がして、それから逃れたり、その感覚をやりすごすことができないこと。

 

このような状況に陥ってしまっていることを、kiya2015さんは「欲望されない苦しみ」の問題として捉えているのだと、僕は勝手に想像しています。

 

 

 

さらに、孤独な男性がヘイト行動へと導かれていくプロセスを、僕は「もしかしたら…」と次のようにも想像してしまいます。

 

この「存在そのものが世界から無視されてる感覚」に、意識的/無意識的にずっと苛まれていたシスへテロ男性が…。

 

何かのきっかけで、SNSというツールに出会い…。

 

ヘテロ行動が蔓延する空間へと、辿りついてしまった。

 

あとは依存症のようなもので、「存在そのものが世界から無視されてる感覚」を忘れさせてくれる、このツールを用いて、用いて、用い続け、その加害行動から逃れられなくなってしまう。

 

…ヨーゲンさんの例を想起すると、僕はこんな想像をしてしまいます。

 

 

 

  • なぜ、シスへテロ男性は「特別」苦しむのか?

 

さて。

 

らくさんは、次のような疑問を提示してくださいました。

 

 

 

「欲望されない」という苦しみは、ヘテロ女性でも、ゲイ男性でも、属性に関係なく等しく背負っている人は背負っているものだと思います。

 

女であれば、ゲイであれば無条件に人の気をひけるわけではないです。

 

しかし、ルサンチマンに凝り固まってしまうのは、圧倒的にヘテロ男性が多いように見えます。

 

なぜヘテロ男性にその傾向が強いのか、不思議に思います。

  

ありがたい指摘です。

 

「欲望されない」こと自体は、性自認がどうであれ、おそらく誰の身にも降りかかる事実だと、僕も思いました。

 

すると問題は、「苦しみ」というところ。主観性の問題。

 

 

上記で述べてきたことにつなげて表現するなら、なぜシスへテロ男性は、「存在そのものが世界から無視されてる感覚」に至るような、そんな苦しみを感じてしまうのか、というところに問いがある。

 

非モテの問題にひきつけて考えると、「存在そのものが世界から無視されてる感覚」に至るような苦しみの原因が、なぜモテの問題=性的な問題へと収束してしまうのか。

 

シスへテロ男性の主観性が、なぜそのように収束されてしまうのか。

 

シスへテロ男性の固有の困難を名指そうとするなら、そのように問いを再設定する必要がありそうだなあと感じました。

 

 

 

  • 特権性が付与される構造が原因

 

そのように問いを再設定し、僕も考えてみたのですが…。

 

らくさんの次のような指摘は、妥当であると感じました。

 

 

私は個人的には、「女性を獲得できない」「人から注目されない」というルサンチマンは、裏返せば「本来は自分は女性を獲得できるはずだった」「本来は自分は周囲から注目を浴びるはずであった」という意識の現れではないかと思っています。

 

女性やゲイの非モテが攻撃的ではなく、諦めモードに入れるのは「本来自分はパートナーを獲得できるはずである」という前提を持っていないからじゃないかと…。

 

 

ヘテロ男性というセクシャリティを自然と受け入れることができた場合、そのままこの社会では特権性が付与される。

 

特権性が付与される構造の中で、「シスへテロ男性である自分は、本来女性を獲得できるはずだ」「本来自分は、周囲から注目を浴びる(ような社会的地位や、そのような賞賛を得られる活躍ができる機会を与えられる)はずだ」という意識を、自然と植え付けられていく。

 

そして、その「シスヘテロ男性という特権階級」の内部で、ヘテロ男性同士の熾烈な競争がある。

 

この競争の結果として、「本来得られるはず」の状態に至らないとき、意識と現実とのズレがルサンチマンとなり、「苦しさ」が生まれる。

 

女性ないしはシスへテロに違和を感じるに至った人は、特権性が付与される構造から排除されるため、このようなかたちでのルサンチマンとしては、発現しにくい。

 

 

…ということで、らくさんのコメントに異論はなく、むしろ、らくさんのコメントのおかげで、より思考がクリアになったという気がしています。

 

せっかくですので、さらに思考を進めてみたいところです。

 

シスへテロ男性が、特に「欲望されない」ことに苦しんでしまう原因が、以上のようなものだったとして、ならば彼らをいったいどうすれば良いのか?

 


…論理的に考えるなら、「ルサンチマンに絡みつかれたシスへテロ男性は、冷たく突き放されるべき」となるような気がします。

 

「シスへテロ男性は、自分の有するルサンチマンが、既存の不公正な構造から生じたものだと、とっとと理解しろ」

 

「そのことを、意識しないと分からないだろうから、とにかく滅茶苦茶に意識しろ。意識しながら、自分(たち?)で勝手に自らのルサンチマンを解消できるよう、あれこれ方法を試行錯誤し、実際に行動して失敗しながら学んでいけ」

 

…と。

 

 

 

  • 僕のゆきどまり

 

…正直に今の気持ちを書き留めます。

 

あの記事を書いてから、僕はぼんやりと、次のように思っていました。

 

シスへテロ男性に固有の困難を、そもそも名指しても良いのか、と。名指そうとする試み自体が、無意味なのではないか、と。

 

 

今振り返ると、僕は次のような論理で、前回の記事を書き進めたような気がしています。

 

  1. 孤独なシスへテロ男性は、「欲望されない苦しみ」を抱えている。
  2. どうすれば、その苦しみと向き合える(ないしはやりすごせる)のか。
  3. ひとりでは難しい。無理だ。
  4. シスへテロ男性は、それ以外の人に対して加害者の立場に置かれている。だから、その人たちと一緒に、この苦しみのことを考えることはできないだろう(とりあえず)
  5. ならば、シスへテロ男性同士で、まずは一緒に考えるしかない。


…こんな論理展開で、僕はシスへテロ男性の固有の困難を名指そうと試みた。一緒に考えるために、まずは共に向き合うべき固有の困難を言語化しようとしてみた。書きながら、いつの間にかこんな方向に辿りついた感じです。

 

 

しかし書き上げてみて思うに、孤独なシスへテロ男性同士で連帯するなんて、ほぼ不可能ではないのか。

 

まだ若い方々、これから大人になっていくシスへテロ男性の方々なら、連帯は可能かもしれません。

 

若い方々は、まだルサンチマンをこじらせていない。まだこじれが深刻ではない若い方々は、坂爪さんの『男子の貞操』を参照しながら、同/異性とピア的に話しあっていけば、男としての性に自分なりに向き合っていけるんじゃないか。率直には、そんなふうに感じるのです(そんな簡単にはいかない?)。

 

でも僕がどうしても念頭においてしまうのは、前回記事の標題にある通り、「ヘイト行動」をしてしまうような「孤独な男性」の存在です。

 

あの人たちに、「僕らには固有の困難がある」と言って、「一緒に考えよう」と呼びかけることは、とても無謀なことではないのか。

 

すでにネット上では非モテに関する論争が、これまでも山ほど積み重ねられてきたし、今でも山のように溢れている。

 

そこでは、結局は次のような見も蓋もない言葉が強いような気がするのです。「そうは言っても、モテれば解決だよね」「そうは言っても、モテなければ解消はされないよね」。

 

 

 

  • 再出発

 


僕は、このブログを、匿名で行っています。それは、普段なかなか話すことができない、性に関する対話と、それに伴う思考を、ウェブ上の匿名でならできるかもしれない、と思ったからです。

 

しかし僕は、このブログ上でも、自分のことを書きながら考えることが、なんだかうまくできなくなってきました。

 

そこには色んな理由があると思います。ただ、その中のひとつに…。

 

非モテの方が、僕の個人史的な情報を知り、「アイツは非モテじゃないからそんなことが言えるんだ」とスルーされてしまうのが怖い。

 

そんな理由が、僕の中に確実にある。そう意識できるようになってきました。

 


言葉にしたからこそ、この発想はおかしいと、ハッキリ思えます。

 

これは操作主義的な発想だ。ウェブ上で見ている人のことを馬鹿にしている(それは自分のことを馬鹿にすることだ)。うまく情報操作して、僕はウソの自分で、他者から承認してもらえる欲求を満たそうとしている。

 

僕は「まくねがお」という記号ですが、僕が誠実に自分の思考を書き留めることができず、自己をウソで塗り固めるように書き続ける記号になってしまうなら、消えた方が良い。僕自身のために、そう思います。

 

 

僕は、非モテの方々と、実のあるやりとりがしたい。そのような気持ちがあるからには、僕の中にそう思わせる何かがあるのでしょう。

 

その気持ちを大切にしつつ、まずは僕が、僕自身の個人史の振り返りから始める必要があるのかもしれません。

 

 

 

  • 原点回帰

 

最後に、僕の原点である、ふたりの方の思考の断片を書き留めて、今後の糧にしたいと思います*1

 

 

 1.上山和樹さんの『「ひきこもり」だった僕から』(2001年)より

 

P151の「性的な挫折」という節から。

 

  ひきこもりは、普通は「社会的・経済的挫折」と見なされます。それはわかりやすい話です。実際、そうですし。でも、私が思うに、ひきこもりには、もう一つ重大な挫折が秘められています。これまではあまり触れられていないんですが、「性的な挫折」です。これは、決定的です。

 特に男性に言えると思いますが、「社会的にうまくいっていない自分のような人間に、異性とつきあう資格などない」。そう思いつめて、絶望している人がどれほど多いことか。そして、これは決定的な挫折感情なのです。「もう自分には、セックスも恋愛も結婚も、一生ムリだ」これは耐えられない認識です。実は、こちらの挫折感情のほうが、傷としては根深いのではないか。

 仕事だけなら、「一生、できなくてもいい」と思えるかもしれません。しかし、性的な関係となれば……。

 ここからも窺えますが、ひきこもりの当事者は―私も含めてですが―、価値観的に非常に保守的な人が多い。むしろ「親以上に」そうかもしれません。

 親は案外「もう、ここまでこじれてしまったのだから、とにかく元気に過ごしていってくれたらいい」と思っていたりするのですが、本人が許さない。それが特に性的な局面に現れやすいのです。そして、それが特に強く本人を苦しめる。

 今回の私の体験記録を見ていただいてもおわかりだと思うのですが、性的な葛藤というのは、ひきこもり当事者の心性を強く支配し、規定していると思います。本当に、強烈な感情で、根深くこじれてしまっている。

 逆に言うと、このへんに、ひきこもり対策の一つの鍵が見えてきます。性的事柄に一番苦しむということは、逆に言えば、性的事柄で光が見えてくれば、事態は劇的に変化するかもしれない、ということです。私がそうでした。

 性的事柄といっても、ただ単にセックスをすればいいというものではなく、やはり精神―性的な関係がはじまるかどうか、ということ。「精神の肉体関係」とでもいうんでしょうか。そんなものがはじまる必要があります。

 

さらにP153から。

 

 

 私自身痛感しているのですが、実は「性的な」関係をつくろうとするときに、自分の中にインストールされてしまっていた価値観と、もっともラディカルな形で格闘する必要ができてくるのです。先ほど、「本人は、実は親以上に保守的だ」と申しました。「親への価値観的反発が問題だ」というそれ以前の記述と矛盾するようですが、実は本人自身が、自分の中に仕組まれてしまった「暗黙の強制」みたいなものに一番縛られていて、そのことでものすごく苦しんでいる。その縛りを再度問題化し、突破口に向けての自分の組み直しを促してくれるのが、「性的」執着であり、そういう相手との具体的な出会いなのだと思います。

 

 

…上山さんの「体験記録」が気になるかと思いますが、ぜひ原文に当たってみてください。

 

簡単にそのプロセスをメモするなら、上山さんの事態が劇的に変化したきっかけは、ウェブ上における、ある女性との出会いでした(P89)。

 

その女性と、いつの日か直接会いたいという動機が、前へと踏み出す行動につながっていきました(P92)。

 

さらには、年の近い男性の友達が同居を誘ってくれ、しかもその彼の決定的な言葉(P102)が、「歯車が変わりだす」ことへとつながる直接的な行動に、不可欠でした。

 

なお、そもそものきっかけだった女性との関係は、結果的に失恋に終わっています。

 

さらに言えば、上記のプロセスの間には、壮絶な葛藤(性的な問題も含めて!)が幾度もあります。P100のエピソードなどは、僕には地獄としか表現しようがなかった。


なお、現在も上山和樹さんは、ブログ『フリージングポイント』で粘り強い思考を続けています*2


Freezing Point

 

 

 

 2.杉田俊介さんの「『男性弱者』と内なるモテ幻想」(『無能力批評』所収、2008年)より

 

P304から*3

 

  生まれたこと自体を承認されていること、それは事実としてはわかっているのに、実存的には足りない。なぜなのか。やはり「自分であること」の核には―それがすべてではないが、その中の大切な部分として―、「男としての性的な弱さ」があるのではないか、そう思わざるをえなかった。「男らしさ」と「男であること」の亀裂と矛盾の中で次第に溜まっていくつらさ。痛み。いやらしさ。性的な弱さの核心を異性に承認し肯定してほしい。しかし「男」には基本的に、それを口にすることは許されていない。それこそがもっとも、男らしくないのだから。はっきりいって、この素朴な肯定欲求が正しい、人としてまっとうだ、とは今も少しも思えない。しかし、実存的にそういう欲求がある。あってしまう。それを認めざるをえない。そんな最小限の肯定感を実感できないこと、可能性としてすら体感できないことが、非モテ3なのだろう。もしあなたが、それを「男らしくない」「男のくせに」「きもちわるい」と感じたなら、まさにそれによって、非モテの人々は一層追い込まれていくのだ。

 

杉田さんは、非モテの本質が「累積し続ける」「不能感と空洞感」であり、「ルサンチマンは人を不可避に、独我論的な構成の中に追い込む。不能な気分が、《世界》の全体を覆い尽くしていくのだ」と述べています(P306)。

 

 

さらにここから杉田さんは、「非モテと性暴力が不即不離の関係にある」として、非モテと性暴力の関係について踏み込んだ考察をしていきます。

 

まず、正直に言います。杉田さんの後半の文章を、うまく理解できないと感じました。フロイトデリダの理論が僕にはわからない、というところもあるのですが、そういうことだけではないような気がします。

 

例えば、「ある種の女性や子どもたちに固有の弱者暴力(名誉男性化した女性の暴力、ではなく)を男の側から批評することすら、辞さないつもりだ」(P317)と述べるあたりが、僕にはついていけない。

 

この僕の「ついていけなさ」には、「否認」が含まれているような気もして、うまく思考を進められません。加害者である僕は、このように考えてはいけないのではないか。何だかグチャグチャした感覚が、邪魔をしています。

 

…書きながら思いますが、杉田さんはとても不穏なところに果敢に踏み出そうとしている。それをどう受け止めればよいかはまだ分かりませんが、どう捉えるにせよ、僕にとっても大事な問いが潜んでいるような気もします。もう少し考えてみます。

 

 

もう一点、僕の心理がグチャグチャする部分として。

 

杉田さんが「最後に」で、ご自分の大事な加害/被害経験を論述されているところ。

 

このところも、どう考えたら良いのかわかりません。ぼかして書いているため、よく分からない、というところもあります。ただ、何だか、僕自身も自らの大事な加害/被害経験を問い直したいという衝動に駆られる。杉田さんの文章の投げ出し方が、そのように僕を感じさせるのだと思います。

 

 

杉田俊介さんの「『男性弱者』と内なるモテ幻想」という文章は、以上の通り、僕にとってはどう読んで考えれば良いか分からない、グチャグチャしているところが含まれているのですが…。

 

杉田さんのこの文章では、新たなメンズリブに向けての考察も書き留められてもいます。

 

1990年代に本格化した「女性学を経由した男性の自己省察の学問」である男性学(P293)について、先行研究を示しつつ、整理して下さっている。

 

引き続き、僕の思考の原点として、再読しながら考えていきたいと思います。

 

*1:非モテと僕との「原点の文章」と言うなら、本当は本田透さんの『電波男』(それ以前のエヴァンゲリオン二次創作、「萌える大甲子園」など)から始めなければいけないのかもしれませんが…。後日の宿題にします。

*2: 勝手な想像ですが、現在の上山和樹さんならば以上の論点について、シスへテロ男性同士の連帯(≒メンズリブ)などという方向には行かず、「ミクロな場における主観性と関係性の技法」の問題へと、徹底的に照準を合わせていくでしょう。

 なお、上山さんの議論から三脇康生さんの文献を知って読み、ラボルド病院の実践から学びたいと思っています。多彩で無数のクラブやアトリエを創り出し続けること。スタッフが(患者も交えて?)徹底的に対話しつつ、仕事を柔軟に変化させるアクションを続け、その動きの中で自らの役割を問い直し続ける「役割分担表」。こんな手法を用いるなどして、複数的な場=制度が常に創り出され、それぞれの場=制度の異質性が維持・調整され続け、それぞれの場=制度における参入・退出の自由と、その間の移動・交通の自由が保障され続ける。そうすることで、その場=制度にいる構成員の全てが、自らが気づけなかった他者と出会い、自らの当事者性を問い直す機会を得ることができる。そこでは、スタッフと患者の線引きさえもズラされ、問い直される。そこでは、性的なことへの拘りからも解き放たれ、「そこにいても良い」という感覚を、誰もが穏やかに獲得できていく…。こんな環境整備上の努力の問題として、病院という場=制度に限らず社会のあらゆるミクロな場=制度における責任の問題として、非モテの議論も展開することはできないのでしょうか。

*3:今回、あらためて杉田さんのこの文章を読んだのですが、僕の思考は結局杉田さんの後を追っているなあ、という印象です。僕はこのブログ等で、できるだけ自分の思考の根拠となったものは明記して、その上で書きながら考えたいというスタンスを取っているのですが、気がつくと自分でも知らぬうちに杉田さんと同じようなことを書いている。ですので、気づかぬうちに杉田さんの思考を剽窃するように書いているかもしれません。気づくたびに明記して、自他の区別をつけていきたいと思います。

孤独な男性のヘイト行動と、他者に認められる欲望

kiya2015さんのハテナダイアリーを読み、考えこまされています。

 


kiya2015だけど。

 

 

 

性暴力のことをSNSで話題にする女性や、在日外国人の女性を狙い撃ちにして、いわゆる「クソリプ攻撃」を浴びせる男性たちについて。

 

kiya2015さんは「欲望されない苦しみ」に焦点を当てています。

 


2014-11-28 - kiya2015だけど。

 

 

女性に比べて自分のように男どもの言説が過激になりがちなのは、そうしなければ周囲の気を引けないからだ

 

 

この「欲望されない苦しみ」を、軽視したり、唾棄すべきものとして切り捨てたり、無いものとして扱うべきではない。

この苦しみの存在をしっかり受け止めて、それがいったいどういうものであるのかを、考える必要がある。

kiya2015さんはそのように主張されていると理解しました。

 

 

 

そしてkiya2015さんは、このような「欲望されない苦しみ」の底にルサンチマンがあると指摘します。

 


「非モテ」論が必要な理由 - kiya2015だけど。

 

彼らは「周囲が優秀なのに自分だけ落ちこぼれていた」だとか、

「弟が大スターで誰からも好かれ、自分はそのおこぼれに与るばかりだった」だとか、

出自も家庭環境も最悪で世の中を恨んでいた」だとか、

そういうルサンチマンをこじらせてしまった結果として、排外主義に傾倒していったのだ。

この逃れられないルサンチマンとどう向き合う(あるいはやり過ごす)かというのが「非モテ」論の原点である。

 

このルサンチマンと向き合うこと(もしくはやり過ごすこと)の困難さを、僕も徹底的に考え尽くしたいです。

 

 

上記記事より、sociologbookさんの11月19日のツイート。


sociologbook on Twitter: "「嫌韓嫌中の背後にあるのは、イ デオロギー的なものよりも、身近な人間関係における孤独感であるのかもしれない。」 http://t.co/1ME57Ndn31"

 

 

「また、韓国・中国への親近感は、孤独感とは負の相関、一般的信頼とは正の相関を示している。つまり、身近な人間関係のなかで孤独を感じており、見知らぬ他者を信頼しない者ほど、韓国・中国に対して排外的な態度をとる傾向にあるということだ。」

 

 

 

「韓国・中国への親近感の低い者ほど、親しくつきあっている近所の人の数が少ない(性別・年齢・学歴でコントロールした偏相関係数で、韓 r’=-.09、中 r’=-.11、いずれも 0.1%水準で有意)。 」

 

 

 

「友人数とは無相関だが、『友達であっても、プライベートなことには深入りしたくない』という傾向も強い(韓 r’=-.09、中 r’=-.08、それぞれ 1%, 5%水準で有意)。」

 

 

身近な人間関係での孤独。

 

友人関係の中ではプライベートなことに深入りしたくないとする一方で。

SNSの世界などでは一転して、排外的だったり女性嫌悪的な言葉、すなわち他人の心を抉るような言葉を発信したくなる。

 

生きていく中で、いつしかルサンチマンをこじらせ、気がついたら孤独になっていた。

いつの間にか、「欲望されない苦しみ」から逃れることができなくなり、しかし身近な人間関係の中では、それらを解消させることができない。

かといって、その苦しみを、ひとりでやり過ごすこともできない。

 

 

他者からの承認を求めてしまうこと。それはさもしいことでもなんでもない。

むしろ、人間にとって最も基本的なものであると、三脇康生さんはジャン・ウリの言葉を借りて言っています。

 

 

フロイトは欲望とは性的なものであるとしているが、もっとも「基本的な欲望」とは何なのか、とウリは問う。そしてそれは「人に知られる欲望」であり、「他者に認められる欲望」であるとウリは書く。そこにただ人がいることに気づかれること、これこそがもっとも基本的な欲望ということになる。ウリにおける欲望は性的な範疇を超えている。とすると、欲望の発露である転移も性的な転移を超えるということになる。これは世界への転移ともいえる。この世にいてもよいという気がするという意味での転移になる。

三脇康生2008「治療概念として ウリはなぜガタリの分裂分析を拒否するのか」三脇康生他編『医療環境を変える 「制度を使った精神療法」の実践と思想』京都大学学術出版会、P274)

 

 

 

先日話題になったヘイトスピーカーのヨーゲンさんのことを、kiya2015さんは上記記事でも少しだけ触れています。


ネットでヘイトスピーチを垂れ流し続ける 中年ネトウヨ「ヨーゲン」(57歳)の哀しすぎる正体【前編】 | 現代ノンフィクション | 現代ビジネス [講談社]


ネットでヘイトスピーチを垂れ流し続ける 中年ネトウヨ「ヨーゲン」(57歳)の哀しすぎる正体【後編】 | 現代ノンフィクション | 現代ビジネス [講談社]

 

それまで自分が浴びせかけてきた匿名による暴力が、身元がバレたことで、今度は自らの身にも降りかかるかもしれない。

そう気づいてからの、ヨーゲンさんの恐怖に怯える様子。

 

プライベートでは、妻にDVをしていたこと。

 


それらの事実も重く突き刺さりましたが、僕が心の底からやるせなく思ったのは…。

裁判になり、執行猶予付きの判決を受け、帰宅を許された後…。

ヨーゲンさんが、すぐにSNSを再開したことでした。

 


暴力を振るえば振るうほど、きっと恐怖心は増していくのでしょう。でも、自分では止めることができない…。

 

この暴力の無間地獄を止めるには、いったいどうしたら良いんだろうかと、本当に考え込まされました。

ヨーゲンさんを異化して捉えずに*1、ヨーゲンさんが自らのルサンチマンと向き合う(もしくはやり過ごす)方法を見出していくためには、いったい何があれば良いのでしょう?

 

 

 

結論など出ません。ただ、もう少し考えるために、次の記事を紹介し、その感想を書き留めて終わりにしたいと思います。


中村淳彦 ネット右翼と中年童貞<ルポ中年童貞> - 幻冬舎plus

 

この記事を書いた中村淳彦さんのスタンスですが、僕には少し違和感があります。

 

「中年童貞」を見下し、嘲り面白がって消費する読者のことを意識して書いてはいないか。少し、そのように感じました(僕がちょっとナイーブすぎなのかもしれませんが)。

 

それが少し鼻につくのですが、しかしこの記事で登場する宮田氏の言葉からは、様々な示唆をもらいました。

 


特に、この記事の中で紹介されている「自分が三人の女性に同時に好きになられた」と妄想してしまったエピソードが、とても印象的でした。

 

僕にはその心理が、凄く良く分かると思いました。

 

それまで異性と話す経験が極めて乏しかった。話してみたら、とても楽しかった。気持ちが高ぶった。その気持ちが、つい行き過ぎた。まずは、それだけのことだと思います。

 

ただ、宮田氏はこのエピソードをサラリと自虐的に語っていますが、自分が「異常な妄想」状態に陥っていたと分かったときには、酷く落ち込んだろうと思います。

そんな挫折感を乗り越えて、次のように内省の言葉を述べることができる宮田氏に、僕は敬意を覚えています。

 

 

三十九歳まで本当に誰ともしゃべらないで生きてきたけど、百八十度意識が変わってしまった。人と話すのって面白いし、女性と話すのは超面白いって。参加した当初は一方的に喋って知識をひけらかすみたいな人間だったけど、だんだん人とはこうやって話せばいいんだって覚えたというか。

 

 

 


宮田氏はこの記事の最後で、他の中年童貞のことを「どうにもならない」と切り捨て、ネガティブな評価を容赦なく下しています。

僕には正直、その言葉の刃が、同族嫌悪(≒自己否定感)から来るものに感じました。


僕には、この記事の最後で宮田氏が提案する「隔離」という手法に、賛同することはできません(「ベーシックインカム」については、宮田氏と違う文脈でもう少し考える余地がありそうですから、保留します)。

 

 

僕は、まず宮田氏がここまで赤裸々に語る姿勢に、強い敬意を感じます*2

高学歴ヘテロ男性の、性に対する劣等感と、プライド。

それらを抱えた上で、他者と向き合い、自分と向き合われている。

それはきっと過酷な作業だったろうと思います。


しかし、宮田氏にはまだ、環境上の幸運があったと思うのです。

勉強会という、自分の良さが出せ、かつ他人とつながれる場所があったこと。

楽しく会話をすることのできるスキル、器用さ。

そんな条件に恵まれた宮田氏よりも、さらに困難な状況に置かれているヘテロ男性の方々は、確実にいるはずです。

 

 

僕は、僕もひとりのヘテロ男性として言いたい。

ルサンチマンをこじらせたヘテロ男性が、他者と出会っていくことの苦しさ。その途方もない困難、恐怖心。

自分のプライドやルサンチマン、自己否定感と向き合わされ、打ちのめされ、そのちっぽけさにこそ、絶望すること。

それは男性固有のもので、ひどく重く、厳しいものであると。

そんな苦しさ、困難に少しでも立ち向かい、叩き伏せられてでも生きていこうとするヘテロ男性の勇気は、称えられるべきであると。

 

ただしその賞賛を、ヘテロ男性以外の方々へ、安易に求めるわけにはいきません。許しを求めてもいけない。それは甘えになるでしょう。

ヘテロ男性以外の方々には、それぞれ固有の困難があり、とりわけ懸念しなければならないのは、僕たちがその方々の加害者となることが、往々にして(常に?)あるからです。

留意すべきは、ヘテロ男性がそのカテゴリーを自然に引き受けることができるだけで、この社会においては不当に優位な権力性を付与されてしまうということ*3

それに伴って、油断していると気がつかないうちに僕らは、ヘテロ男性以外の方々を抑圧する動きに直接的/間接的に加担することになります。

 

その点に十分自覚的でありながら、その上でなお、もし僕らが、僕らの固有の困難を他者に理解してもらいたいと願うなら。
理解してもらいたいと思う他者の、その固有の困難を、僕らがまず先に、徹底的に理解しようとする姿勢を示さなくてはならないでしょう。
そうすることでもしかしたら、僕らの固有の困難とは何かを知りたいと欲する内発的な動機が、ヘテロ男性以外の方々の内面にも生まれてくるかもしれません。

 

…ということで、僕らは他者の理解を当てにすることが、まずはできない立場にあると覚悟した方が良い。

だからこそ、僕たちは、せめて自分たちで励まし合わなければいけません。

この励まし合いは、暴力や加害の事実をずるずるべったりと許し合うような、そんな慣れ合いの関係ではありません。

むしろそれとは真逆のものです。

暴力や加害の事実を、各自自分でチェックすること。

無意識に目隠ししている自らのそれに気づこうと、みんな自分で自らへと目を凝らすこと。

ときには、僕らが互いに互いを批評し合い、その姿勢を維持し続けられるように、律し合うこと。

そして、この苦しく辛い作業を行いながらも何とか生きていく、そんなお互いの姿を、根底的に励まし合うこと。

 

 

加害や暴力は僕らの身体に絡みついて離れない。そんな中で、でき得る限りその加害の事実を受けとめ、暴力を自覚し、その加害と暴力に精一杯抗うことができるか。

 

そのように抗えたものとして、僕らは僕らの自己を、本当に受容することができるのか(到底僕には、できそうにない気がしています…)。

 

少なくとも僕は、僕の弱さを、嗤うべきではないと、嘲るべきではないと、強く思いました。

僕らの最大の敵は、内なるプライドです。高みを目指すプライドではなく、弱さを正面から受け止める勇気を。そのような勇気が、僕らの間を駆け巡りますように。

 

*1:異化して捉えないとは、彼の暴力や加害をなし崩しに許すということではありません。むしろ逆に思っています。彼の行った加害行為に対しては、彼自身が責任を取らなければなりません。ヨーゲンさん自身が、暴力の無間地獄から逃れ、「この世にいてもよい」と真に思えるようになっていくためにも、きっと自らの加害と向き合う過程が必要です

*2:右派の思想を持たれているようですので、考えは異なるかもしれません。ただ、宮田氏とは一度お会いして、ゆっくり対話してみたいなあって思います。議論は平行線になる部分があるかもしれませんが、面白い議論ができそうな方だなあと感じました。

*3:もしも仮に、その権力性による優位を、個人的には全く実感できなく、むしろ自分は権力を持っていない被害者だと、感じていたとしても…。僕たちには固有の困難があり、その重さからついつい被害者意識を感じてしまうけど…。しかしその被害者意識を、ヘテロ男性以外の方々に苛立ちとともにぶつけることは、きっと大きな誤りなのです。「弱いものがさらに弱いものを叩く」構造に巻き込まれてしまう、そんな惰性にこそ抗いたいと僕は思います

二村ヒトシを読む①

痴漢考察は、また後日に*1

 

 

ツイッターでの勢いに乗じて、以前下書きしていた分をアップしてしまいます。

 

 

 

 

以下の二つの本を読み、考えこみました。

 

『すべてはモテるためである』(文庫ぎんが堂、2012年)、以下、『モテため』とします。

 Amazon.co.jp: すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂): 二村 ヒトシ, 青木 光恵: 本

 

 

『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』(文庫ぎんが堂、2014年)、以下、『なぜ好き』とします。


Amazon.co.jp: なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか (文庫ぎんが堂): 二村ヒトシ: 本

 

 

いずれも文庫で、安く手に入ります。

 

このブログのコメント欄で、あいさんから二村ヒトシのことを教えてもらい、注文してみたのですが…。いやはや、これほど強烈な読書体験になろうとは。あいさん、ありがとうございました。

 

 

 

凄い本でした。


一ヶ月ほど前に購入し、その文章を眼で追いつつ、自分に折り返して考えようとしながら、必死に、でも夢中で読んでいきました。


読後、他の色んな文章を読んだり、他の人の話しを聞いていても、かなり頻繁に、二村さんが書いていたことを思い浮かべてしまう。


「ああ、この人も『心の穴』からこんなことを語っているのかな」


「じゃあこの人の『心の穴』って、いったいどんなもんなんだろう?」


「では、この人の言葉に触発される、僕の『心の穴』って…?」


…などと。


それぐらい、僕にとっては強烈な読書体験でした。


これから、二村さんの文章に伴走しつつ、書きながら考えていきます。


長文ですので、何回かに分けて、記事としてアップしていきます。

 

 

まずは『モテため』と『なぜ好き』が書かれた経緯を。


この二冊の本を書いた著書、二村ヒトシさんは、AV監督です。


そして、この二冊は、いずれも元になる本があり、それが時代に合わせて再出版され、そのたびに加筆修正されたものです(以下、引用は『モテため』から)。

 


最初は1998年、『すべてはモテるためである』(KKロングセラーズ、以下『1998年本』とします)が出版されます。


この頃の二村さんは、全くモテていなかった、と回想します。


この最初の本を執筆していたときは「『駆け出しのAV監督』ってかんじ」だったそうですが。


この本の出版後、二村さんは、「【女性が男性を犯したり、能動的に愛したりするセックス】や【女性と女性が愛し合うセックス】を撮影」するようになり、その道の権威として名が売れていくことになりました。


2002年、『1998年本』が文庫化されます。その際に書名が変更され、『モテるための哲学』(幻冬舎)として出版されました。


この本の内容は、非常に哲学的で、思索を深めるために非常に優れた本でした。二村さん曰く、「この本を『届くべき読者に届く本』に」するため、書名変更をしたんだそうです。

 


この2002年の出版後、「そのころから僕はモテはじめた」と二村さんは回想しています。

 

原稿を書いていたころはモテていなかった。もともと【自分がモテているから自分が「できていること」を人におすそわけする】ために書いたのではなく、自分がモテてないからモテるようになるために「するべきこと」を書いたのだった。書くために考えて、多くの人に読んでもらって、やっと身についたのだと思う。

 

 

二村さんには、モテない自分に対する自己否定感が物凄く強い。僕も『モテため』の初読時に、読み進める途中でそのことに気づきました。


『モテため』では、モテたいのにモテない、二村さん曰く「キモチワルい」男性を、徹底的に挑発していきます。


徹底的に、「モテる奴」/「モテない奴」、「キモチワルくない奴」/「キモチワルい奴」の二つに分け、その上で後者を激しく叩き潰していく。強烈な否定の言葉の数々。


2014年現在、非モテのメンタリティを持つ方が、この本を本気で読もうとすると、嫌な過去を思い出したり、深く傷ついたり、死にたくなったり、怒りで我を忘れるような感情に囚われてしまうかもしれません。


僕も、メンタルが元気な午前中に読んでいるときは良かったのですが、午後になってメンタル的に落ち込んでるときに読むと、ネガ男性が発露して発露して、もうヒドかった…。


この、人を傷つけようとする激しい言葉の数々は、いったいなんなのか。非モテ男性がそんなにキライか。そんな気持ちで読んでいたのですが…。


しかし、注意深く読み進めていくと、二村さん自身が自分のことを、モテないキモチワルい奴だと認識していることが分かってきます。P38からの、「モテてる奴」と「モテてない奴」の分類で、自分が「モテてない奴」だと位置づけているからです。


強烈な否定の言葉の数々は、二村さん自身への、自己否定の言葉だったのか。そう思って、読み進めていきました。

 

 

 

さて。


二村さんは本を書くことでモテるようになりましたが、しかし「しばらくすると【モテているのに、心が苦しい】という状態にな」り、女性に対する「【加害者意識】が、つのりはじめた」のだそうです。


2011年、『恋とセックスで幸せになる秘密』(文庫ぎんが堂、以下、『2011年本』とします)を書きます。これが『なぜ好き』の元の本になります。


『2011年本』は、基本的には、二村さんがモテたことで寄ってきた女性に対するアドバイス、というスタンスで書かれました。あくまで、2011年時点では。


その出版後、「何人かの女性から『優しい本ですね』と言ってもらったけれど、作家の中村うさぎさんからは『ここには二村さん自身が全然でてこないじゃないか』と言われた」そうです。二村さん自身も、「そういう意味では、たしかに卑怯な本だった」と述べています。


僕はここで、font-daさんの『2011年本』に対する書評を参照したいです。

 


二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密」 - キリンが逆立ちしたピアス

 

 

…と、ここまで。

 

あとはまた後日、書きながら考えたいと思います。

 

 

 

*1: name8nameさんのブログを読み、痴漢について、いや自らの性的欲望について、再び考えこんでいます。name8nameさんの論理力・内省力は本当に凄い。分析も本当に示唆に富みます。心から敬意を表します。name8nameさんが先日提示した問いは、強烈な批評点として、僕自身にも食い込むことになりました。僕も、name8nameさんと同じようなテーマを、同じような方法で書きながら考えようとしましたが、何度か頓挫しています。

 自らの内面での、「安全で安心な性的ファンタジー」の中でなら、男性の暴力性に伴う加害者的な欲望を満たしても良いのか。これは僕が、僕自身にとって向き合いたくない加害者的な性的欲望と、真正面から向き合いながら考えるべきであると思っています。

痴漢をめぐる論点(ツイッターより)⑤

前回の記事の続きです。

 

  • 痴漢被害と周囲の眼

 

痴漢被害に遭ったとき、周りに人の眼があるかどうかはとても重要です。

 

誰も見ていないところで、痴漢に対して抵抗すると、復讐されてしまうかもしれないからです。

 

紹介するのもおぞましく、恐怖をあおるようで、ここで挙げるのも若干躊躇するのですが…。1988年には、こんな事件もあったようです。

 

地下鉄御堂筋事件:

大阪府/人権学習シリーズvol.6 同じをこえて その「ちがい」は何のため? 女性専用車両で考える特別な措置/解説資料(コラム)

 

周りの人の対応がいかに重要であるのか、痛感させられる事件です。

 

なお、上記コラムの文章の内容も、示唆に富むものです。

 

「駅員(できれば女性)を増員し、女性の性暴力被害を防ぐと共に、被害があった場合は迅速な対応を行う」べしという提案は、今日でも参照されるべきではないでしょうか。

 

また…

他の関西私鉄各社にも同じ要望書を送付し、返答を求めたところ「性を前面に出したくないので、迷惑行為はやめましょうというキャンペーンにしている」などの回答が返ってきました。この回答には、実際に痴漢に苦しめられている女性が多いにも関わらず、それを見て見ぬふりをする鉄道会社の姿勢が表れていました。

…という分析や、

 

大阪府警関西鉄道協会が制作した「痴漢行為にあったら、勇気を出して大きな声を出しましょう」という趣旨のポスターは、同会の主張である「女に注意を呼びかけるのではなく、男に痴漢をやめろと呼びかけるべき」と全く相いれず、性暴力を行う男性に甘い社会を浮き彫りにしました。

という分析も、社会が示す痴漢被害への理不尽なリアクション例を、よく照らし出していると感じました。

 

 

  • 被害を見つけたら…(「あ、この人、痴漢されているのかも」と思ったら…)

さて。

 

ということで、痴漢被害は常態化しているため、電車等に乗ったときは、自分の近くでいつでも被害が生じているかもしれない。まずはそういう意識を持ちたいところです。

 

 

 

では痴漢被害を見かけた場合ですが、まず正論として。

 

「あ、痴漢されてる!」と思ったら、周りは「おい、何してるんだ!」とすぐに声を上げるべき。

 

特に、基本的に体格差の上で優位にある男性が、それを率先して行うべき。

 

これは、まずは当然のことと思います。

 

 

 

ただここで、あえて恥を曝しますが…。

 

もし僕自身が、痴漢被害を目撃し、すぐに堂々と「何をしてるんだ!」と声を上げられるか? と問われると、少し自信がないです…。

 

なぜなら、僕はとても臆病だからです。体格も立派ではない、弱々しいメガネ男。幼い頃から、殴り合いのケンカどころか、口ゲンカもろくにしたことがない。だから多分、痴漢の加害者に僕が何か言おうとしても、震え声になるでしょう。情けないですが…。

 

また、リアルに想像すると、「本当に痴漢されてるのかな?」という迷いがあると、行動に躊躇が出るでしょう。勘違いだったら、そして勘違いなのにヘンに手を出した結果、トラブルに巻き込まれたら、どうしよう…。きっと、そんな躊躇も生まれそうです。

 

…あとは、実際にそういう場面に接してみないと、自分がどういう行動をすることができるかは、わかりません。痴漢被害者が毅然とした行動に出る必要はない(というか、そんなのは無理な場合が往々にしてある)という話しを前回はしましたが、第三者として目撃している場合は、僕自身が痴漢の被害に遭ってるんじゃないんだから、できれば「毅然と」行動したいなあ…。そういうカッコいい「人」(「男」じゃなくて!)になりたい。

 

 

 

 

なお、以前ツイッターで見かけて、気にかかっていたツイートを掘り出してきました。

犬越 on Twitter: http://t.co/kzFzd8ZAxU"

 

(1)痴漢に接触されたら、ハンカチに口を当てて具合悪そうに振る舞う

 

(2)周囲の人は、「具合悪そうに見えますけど、大丈夫ですか?」と声をかける

 

…この意見は、とても参考になるなあって思いました。

 

僕が目撃者になったときでも、毅然として声をかけることが難しかったとしても、(2)の「具合悪そうに見えますけど、大丈夫ですか?」と声をかけることなら、きっとできそうです。

 

別に被害者の方がハンカチに口を当てていなくても、「疑わしきは行動」の精神で、積極的にこのように声をかけても良いんじゃないかなあ。

 

実は勘違いで痴漢にあっていなかったとしたら、声をかけられた方はキョトンとするだけでしょうし(そしたら「ごめんなさい、勘違いでした」で済む)。

 

この方法を紹介してくれた犬越さんは、「事後対策である事や協力者が見つからなかった時の次の手がない事が気に掛かってます。なんとか発展させたいんですが… 」と言っています。うむー、確かに。

 

この方法だと、加害者を捕まえる、という方向にはあまりならないでしょう。それが問題と言えば、問題か…? 大事(オオゴト)にしたくないという、日本人の多数派が好みそうな方法であることは否めませんが…。

 

でも僕は、窮余の策としてのこの対策を積極的に支持したいです。ここまでの考察で痛感しているのは、痴漢被害に対する周囲の人の無知や無関心が、何より痴漢行為を蔓延させていると思うから。

 

自分に自信がない人であっても、自分のできる範囲で、痴漢被害の撲滅に関わっていこうと思うこと。そして、その気持ちを行動に表す人が増えることが、とても大切だと思うからです。

 

melさんも、9/4のツイートでこのようにつぶやかれています。

 

mel on Twitter:

それと、痴漢に遭ってる人に気づいたら、痴漢のことには触れずに「具合悪そうですが大丈夫ですか?」とさりげなく声をかけるというの、この前他の方もツイートしてたけど、声かけるほうもかけられるほうも抵抗なくやりやすいと思うので、こういう助け方も広まるといいと思う。

 

もちろんそれは痴漢の罪を不問にするという意味ではないのだけど、現実として痴漢に逆切れされるかもとか、まわりの他の人は協力してくれないかもという不安がある以上、そういう「痴漢のことには触れずに助ける」というやり方も必要だと思う

 

少なくとも、僕個人はこの方法を自分の頭に叩き込んでおこう。

 

多くの女性も、痴漢に遭遇したら「ハンカチで口を覆う(具合悪そうに振る舞う)」「しゃがみこむ」「吐きそうなフリをする」などの方法を頭に入れておくと、きっと良いのでしょうね。

 

こういう方法を、多くの人に周知するには、どうしたら良いのかな…。

 

今回の痴漢に関する一連の記事を書き終えたら、ここまでの考察を踏まえて、使いやすい痴漢対策(被害者用、目撃者用両方の)のまとめ記事を作ってみるとか。初見の人でも分かりやすくて、検索でも引っかかりやすいようなものになるように工夫して。

 

つか、僕が知らないだけで、そういうサイトが既にあるんでしょうかね? もしどこにもなくて、僕にやれそうだったら、やってみます。

 

 

 

なお、犬越さんは、次のようなツイートもしてくださっています。

これ何回か呟いてますが、私が電車内で遭遇して被害者(女性、しかも妊婦さん)を救出した痴漢案件は、性的接触ではなく「ゼロ距離ガン見」でした。夫婦かと思ってしばらく悩んでしまった為に声掛けが遅れたのが本当に悔やまれる…。

こんな痴漢の例もある、と…。嗜虐欲に基づく痴漢ならば、こういう例もあるような気がします(相手が逆らえないことを良いことに、不快なことをし続ける…)。

 

周囲の人が、「あれ、おかしいな」と思ったときは、すぐに行動に移せることの大切さを、痛感させられます。

 

 

さて、痴漢に関して考えたい論点として、あとは「痴漢被害を相談されたとき、どうすれば良いのか」と、「社会的な対策として、痴漢とどう向き合えばよいのか」というトピックが残っています。

 

さらに、過去のツイートを発掘していたら、紅蓮の猫さんの一連のツイートがありました。


紅蓮の猫さんによる、電車内痴漢についての実態と対策調べてみた - Togetterまとめ

 

このことについても触れた上で、金田さんのツイート(とそのやりとり)の社会的な対策に関するものも抜き出しつつ、考察を続けていきたいと思います。

 

ということで、(きっと)続きます。

痴漢をめぐる論点(ツイッターより)④

前回の記事の続きです。

 

  • 痴漢被害の実態

あと大抵の男性は、「ほとんどの女性(半数以上)が痴漢や通り魔に遭った事がある」という統計じたいを知らず、「レアケース」か「女が嘘をついてる」と思うらしいのですが、これは学校で教えるかメディアでもたびたび流して、被害が常態化してるということをまず周知してほしいと思っています。

 

大抵の男性からすると、(ポルノではなく)犯罪としての痴漢の話に接するのは、報道されたときだけだろうから、少なく思えてるというのは分かります。でもたいての男性のお母さん、姉妹、娘、女友達、女の恋人も、おそらく痴漢にあったことがあります。

 

痴漢についてのツイがけっこうRTされてありがたいです。ただそういう人たちのホームを見に行くと謎のデマもRTしてたりして悲しくなります。一年間に女性のうち1割以上が痴漢にあい、うち9割が泣き寝入りしてるという、警察の資料こちら→

 

続)「なんだ一割か」と思うかもしれませんが、この統計での尋ね方は「過去一年間で」なので、「一度でも痴漢被害にあったことがある」女性の数はぐんと増えます。統計は色々あるので図書館にある『女性のデータブック』系のものの「性暴力」「犯罪」あたりの項を読んでみてください。

 

…ということで、痴漢被害が常態化している状況を前提に、話しを進めていきます。

 

こういう話しをすると、「痴漢冤罪が…!」という反応が出てくることを、どうしても意識してしまいますが…。

 

正直な話し、痴漢冤罪の議論について、僕はあまりフォローできていません。

 

偏見かもしれませんが、僕には痴漢冤罪を撲滅しようとする議論に血道を上げ、その議論を盛り上げようとしている方の一部が、「怒男性」「ミソジニー(女性蔑視)」によって突っ走っているだけではないか、と反射的に疑ってしまい、まともに考えようとする気が、これまでは起きませんでした。

 

僕は映画『それでも僕はやってない』も見ていないぐらいですから、痴漢冤罪の問題について、まともに考えたことがありません。それは正直に述べておきます。

 

ただ、痴漢冤罪で苦しい思いをした(今もしている)被害者の方も、絶対にいるはずです。「怒男性」だからと偏見を持って、この問題を考えることを止めるのも、きっとおかしなことなのでしょう。

 

なので、「もし自分が、痴漢冤罪の被害にあったとしたら…」ということもよく想像しながら、情報を集めつつ、今後ゆっくり考えていきたいと思っています。

 

 

 

 

  • 痴漢と服装

私も若い頃は今以上にダッサダサの、髪の毛ボサボサ、ブスの、ビン底眼鏡オタクだったんですが、それですら、(むしろダッサダサで田舎くさかったからこそ)上京してすぐ、満員電車で痴漢されました、相手をほぼ特定できるぐらいだったですが、満員すぎてすぐ逃げられたのと、怖くて声が出ませんでした

 

私も上京して初の痴漢、すっぴんベリーショートメガネジーパンに膝丈のでかいコートという超モサ色気ゼロ服だったので、ショックと混乱でどうにかなりそうでした。その後派手服+金髪+眉&耳ピアスあけまくりファッションになったらその時期だけ痴漢ほぼ無かったです。

 

そうなんですよね。私、「ズボンは痴漢にあいにくい」と聞いてから、わりとずっとズボンで(動きやすいのが一番の理由だけど)、さらに「絶対に捕まえる」と身構えてる+満員電車にあまり乗らないので、痴漢にあってないのですが、ズボンでも痴漢は来る、と聞いてます。

 

服装、地味な方向に持っていくのは痴漢避けにはぜんぜんならないと思いましたね。ヒョウ柄ミニスカガーターベルトみたいなファッションより、ジーパンとかデニムロングスカートの時のほうがぜんぜん変な人寄ってきましたもん。あとバイトの制服着てるときとか。

 

ああ…私は経験ないんですが、「本屋痴漢」「本屋盗撮」多いらしいですね。昔は監視カメラとかもなかったし… RT 小柄とかロングヘアとかでも遭遇しやすいんですよね。中学のとき本屋で痴漢にあうのがイヤでばっさりショートにしたら遭わなくなりました。

 

…前回までの記事でも、僕は基本的に「嗜虐欲に基づく痴漢」に焦点を当てて考えてきています。

 

この痴漢に焦点を当てると、加害者が被害者を選ぶときのポイントは、性的な反応よりも、「こいつは支配できそうか」「こいつは大人しそうか」というところになる。

 

その結果、地味に見える、大人しそうに見える、という方が、痴漢被害に遭ってしまうという場合も、どうも実態としてありそうです。

 

以前のツイートで見て、なるほどなあと思ったイラストはこちら。

 

http://livedoor.blogimg.jp/girokerogirokero/imgs/d/8/d8005edc.jpg

 

 

 

…ただ、だからと言って、個人の対策として、「なるべく派手そうな格好をしよう」「大人しくなさそうな格好をしよう」と呼びかけるのは、とってもトンチンカンなような気がします。

 

まず、服装を選ぶ自由は、大事だと思うから。痴漢被害に遭わないために、自分の意に沿わないような服装をするのって、どう考えてもおかしい。

 

というか、それぞれの女性には現在の生活世界の中で、そこで適応するために自分の服装をチョイスしているという側面が、多くの場合であるはずです。

 

「服装を○○に変えたほうが良い」というアドバイスは、現在の生活上、そうしようにもなかなかできない人が多数いることが想像されます。

 

そもそも、話しを服装や見た目のことに持っていくことは…。

 

「男を誘うような格好をしているから悪いんだ」という自己責任論的でかつ意味不明な言い分が理不尽であるのと同じように…。

 

「地味そうに見えるから、大人しそうだから悪いんだ」ってな理不尽な言い分に、つながってしまうかもしれない。

 

これはよーく考えてみると、滅茶苦茶におかしな言い分です。こう言われた人は、きっと、ものすごーく傷つくと思います。

 

だから、痴漢対策として服装の話しを云々するのは、あまり有益でないこととして、話しを進めていきます。

 

 

  • 被害に遭いそうになったら…

 

  就活の面接向かう途中、電車で隣席座ってきたサラリーマンに股間見せられました。キレたらすぐ謝った小心者とはいえ、駅員のいる車両まで1人で連行する自信はなく周囲の助けもなく、面接遅刻して痴漢云々て嘘て思われそうとか色々あって…何も出来ませんでした。悔しい。

 

私とか鍛えてないし動けない小デブなんで、痴漢や通り魔に反撃するのは、お恥ずかしいですが「加害者が弱そうで、時間がある」時だけです。自転車通り魔に遭った時、凄い弱そうだったので「何すんじゃゴルア!!」って追いかけたら脱兎のごとく逃げていった。ただ誰にでも薦めることはできません。

 

嗜虐欲に基づく痴漢、つまり、弱そうに見えるから狙われたのだとしたら、強気に反応すれば逃げていく可能性もある。

 

ただ、上記ツイートにもあるように…

 

「反撃、復讐されたらどうしよう」

 

「遅刻するなど、時間がない」*1

 

…などの要素が絡み、実際に行うのはとても難しいことが想像されます。次の方のツイートも、とてもありがたい情報です。

 

私は痴漢や変質者を追っ払ってたわけだけど、そういうのはな、絵面で見ると毅然ととかそういうんでないぞ。叫んだり傘だの鞄だの手当たり次第にぶん回し、目撃者がいないとまずいからそれを人前でやるわけだ。完全に見た目は凶戦士だ。スカートにヒールでは無理だし

 

完全に見た目は「凶戦士」。面白い表現を選んで書いて下さっていますが、ご本人のそうしているときの心境も含め、秀逸な表現だと感じます。

 

なりふりなんか構っていられないし、普段の自分や周囲の振る舞いと思いっきり浮いたって良いわけです。もう無我夢中で暴れる。「毅然」ととか、そういうのは意識しなくて良い。

 

…と、言われたって、実際やるのはとても大変でしょうね。小中高の頃に、SSTでこういう動きをする経験の機会を用意したほうが良いんじゃないかなあ、なんて思います。

 

そして、上記ツイートで注目すべき点。

 

「目撃者がいないとまずいからそれを人前でやるわけだ」

 

と書いています。目撃者がいない、つまり他に見ている人がいないで暴れると、反撃されるかもしれない。こういう判断力が、大前提として必要なわけで…。

 

もはや、被害に遭いそうになった方の、個人的な対策を考えるということ自体も、極めて慎重にならざるを得ないのは明らかです。

 

もしできるならば、他にも人が見ていることを確認したうえで、無我夢中で暴れると良いでしょう。

 

でも、できなくても、責められることではありません。それは、とても判断力がいることですし、とびきりの勇気がいることです。そのときの服装などによる制約もあるわけで、そういう行動に出ることができるような条件にあること自体、限定的であると見なければなりません。ですので、反撃の行動に出ることができなかったとしても、その人を責めないようにしなければならないでしょう。

 

 

軽くネットサーフィンした程度ですが、こちらのサイトは、対策としてシンプルで分かりやすく整理されていました。

 


電車の痴漢犯罪対策室

 

 

 

  • 痴漢を見かけたら…(痴漢かも、と思ったら…)

こ…怖い!! 私、だいたい満員電車で痴漢に遭ってて、「空いててもにじりよってくる、逃げても追ってくる」タイプには遭ったことないのですが、(どちらがより怖いとかじゃないですけど)本当に逃れようがない…どう見ても困ってるのに、誰も助けてくれないなんて…。 

 

上記で見てきたように、痴漢被害に遭いそうなとき、周囲に人の眼があることが、とても大切です。ですので、今度は「あ、この人、痴漢されている(かも…?)」と思うような、痴漢被害者の周囲にいる人の立場に立って、考えてみます。

 

上記のツイートにもあるように、「誰も助けてくれない」と思われるような、周囲の反応もあり得るわけで…。こういうことがないように、電車に乗っているときなどは、僕たちはどうあれば良いのでしょうか?

 

 

 

 

…というところで、ちょっと一区切りします。以前ツイッターで、この問題を考えるのに良いつぶやきをリツイートした記憶があるので、それを探しに行ってくる。

 

最近の一連の記事は、書きながら考えているので、冗長だったり話しが飛んだりしていると思います。

 

次回かその次あたりにラストになると思うのですが、一通り書いたら、まとめとして、もう少し分かりやすいかたちで、自分の考えたものをあらためて整理しようかなあ、なんて妄想しています。

 

つか、僕の冗長な考察を混ぜるより、一連のツイートをカテゴリーに整理して載せることに集中した方が良いのかな? などと思ったり。

 

 

とりあえず、下記に、参考にしたい金田さん(とそのやりとり)のツイートの残りを、列挙させていただきます。

 

ということで、(たぶん)続きます。

 

 

 

 

 

  • 痴漢被害の相談に乗るときは…

あと痴漢はまだしも「露出魔」に関しては個人によって、被害の感覚が全然違う人が居て、「むしろ見て辱めてやればいいじゃん」「お前も大人なんだからビシッと『短小!』とか言ってやればいいじゃん」など、また頓珍漢な、他人事なアドバイスをする人がいます。それが出来たら相談してねーんだよ。

 

そうなんだよなー。「痴漢とか通り魔とか、被害者がしゃきっとしろ!」系の物言いありますけど(自分も言ってしまったことあり)、まず急いでるとき用事を後回しにしてまで、全力で逃げようとする加害者を駅員や交番まで連れていくのは本当に難しい。あと報復が怖いというのもありますよね。

 

 

 

 

 

 

  • 社会は、痴漢加害/被害対策をどう講ずるべきか

本屋・図書館は多いと聞きますね。それである図書館が苦肉の策で(ホームレス問題も加味して)女性専用席を設けたみたいで賛否両論ですが、そもそも性犯罪者をどうにかできないものか…と悩みますね。職員の巡回を増やすのは一手ですが、人件費に響きますしね。  

 

この「車に乗ってやってくる勃起男」のこと思い出すと、「大人が子どもに声かけするのを禁止する条例」「声かけられても返事しちゃいけない」とか(はじめはちょっと大げさかなと思ったけど)そこまでしなければ子どもを守れないと思った地域の人たちの気持ちもわかるんですよね。 

 

 

*1:前回、「痴漢被害が相談できない」状況について書きました。この状況が、通勤中などに痴漢被害に遭ったとき、悔しいけれど被害の事実をスルーしてそのまま我慢したり、他の人にもそのまま相談せずに放置させてしまう環境をもたらしています。現在よりもさらにさらに、痴漢被害にあったことをしっかりと周囲に喋れる環境さえあれば、痴漢被害に遭ったときも、様々な対策が打てる時間的・精神的なゆとりが得られることになるでしょう。